「はい」
「うん」
「ニャ」
問題が無かったのはもう確定したようなものだけど、背中を見送った側としてはその報告を聞く義務があるだろう。という事なのかどうかは知らないけど、三者それぞれ姿勢を正す。
それを確認したのか、一度全員に目配せしてから、チューズデーさんの報告が始まった。
「まず一番問題とされていた部分についてだが、向こうにいたのはあの金髪君ではなかったよ。良かったね、栞君」
「あはは、そうだねー。また走り回ったり足引っ掛けたりするの嫌だし」
軽口を交えて二人が微笑み合っている間に、その外で僕は考える。
特に僕を意識して言ってる訳でもなさそうだからただの考え過ぎなんだろうけど、どうにも「お前がなんとかしとけよ」的な当て付けに聞こえてしまうなあ。それは他人の声に乗っかった自分の声だったりするんだろうけど………まあ実際、そこまで上手くはいかないもので。
小学生くらいの時、どこそこで不審者が出たというニュースを見てこうは思わなかっただろうか? 「自分だったら金玉蹴り上げてやっつけちゃうよ!」と。
多分、大体の人はそんなふうに考えたと思う。実際担任の先生から「隣の校区で不審なおじさんが出たそうです。みんなも気をつけてね」と聞かされた時の我がクラス、二の一では、男子からそういう声がいくつか上がった。若い―――と言うか、幼い故に怖いもの知らずだったってところだろう。無論、そんな事ができる筈は無いんだけどね。今ですら同年代くらいのお兄さんから全力で逃げる有様なんだし。
「それでだね、向こう側では男が携帯電話を使用中だったよ。着メロ……と言ったか? わたし達が聞いたのは恐らくそれだろうね」
口だけでも格好つけられる分、今の僕よりは昔の僕のほうが外面は良かったのかなー、なんて思ってる間に、チューズデーさんの報告が再会された。ふむ、やっぱり携帯でしたか。
改めてその音が聞こえた方向を見てみたところ、植え込みの向こうに人がいると確定したせいか、今になってその様子が思い描かれる。その人は地べたにでも座り込んでいたんだろうか、と。植え込みは腰ぐらいまでの高さしかないのに、その人の姿はこっちからじゃあ全く見えてなかったし。
まあ地べたに座り込むくらいはこんな広い公園じゃあ、それ程おかしな行動でもないとは思う。でも、ちょっと前にもあったよね? こんな事。あの時ほど至近距離じゃないけど―――真っ黒さんの時も、こうだったよね?
「えーと、あー、そこのお兄さん?」
栞さんでもチューズデーさんでも、もちろんクロでもない声が、その反対方向から聞こえた。
この近辺に、「そこのお兄さん」という呼称が当てはまる人物は僕しか存在していない。他三人はいずれも「お兄さん」ではないし、植え込みの向こうの人は「そこの」と言うにはちょっと遠いし。
よって「そこのお兄さん」とは自分の事であると判断し、声がしたほうを振り返る。するとそこには、
「あ、さっきの」
インパクトのある出で立ちに思わず声が出る。
「あれ? この人―――あっ」
後ろの栞さんも同じく声を出してしまい、その声を慌てたように途切れさせる。が、目の前の二人は特に反応無し。万一、二人揃って聞き逃したのでなければ、どうやら聞こえてはいないようだ。
「さっきは……失礼しました……」
噂をすればなんとやら。ロングおかっぱ、もしくは目隠しおかっぱとでも言うべきヘアースタイルの、真っ黒さん再登場であります。前回と同じくちょっと季節外れ感のあるその黒いコートの袖からは、手が出ていませんでした。遠目で見たときに手袋をしているんじゃないかと思ったのは、どうやらこれだったようで。
そしてその隣には、若干緊張気味のような女性が。笑っているようでもあり引きつっているようでもあるその半開きな口元を見る限り、僕に「お兄さん」と声を掛けたのは、こちらのおでこ丸出しなオールバックの女性なのだろう。……見事なおでこだけど、どこかで見た事があるような? しかも極々最近だったような―――ま、いいか。知らない人には変わりないし。
「二度ある事は三度ある」とはよく言ったもので、知らない人に声を掛けられるのはこれで本日三度目だ。一度目はそこの真っ黒さんで、二度目は全速力で追いかけてきたプリン頭のお兄さんで、三度目はこのおで子さん。
しかしその通り三度目である上に、これまでの二人に比べてインパクトが無いので、無意識の内に「拍子抜け」という言葉が頭をよぎってしまうのでした。
「それで、僕に何か?」
普通は突然知らない人に声を掛けられたら、ちょっとくらい警戒心も生まれるんだろう。だけど、頭が冷めてしまっているので、とてもそんなふうには思考が働いてくれなかった。まあさすがに女性が襲い掛かってくる事は無いだろうから、警戒したところで杞憂に終わりそうな気もするけど。
「あ、あのー、あたしは別に怪しい者じゃなくて」
訊いてませんが、そうですか。怪しい者じゃないんですか。それは良かったです。
下は右膝の部分が擦れて横糸が露出してしまっているジーパン、上は横縞模様の長袖シャツにベストという装いなその怪しくないおで子さんの自己紹介は、まずそこから入った。
普通に考えるなら、「『怪しい者じゃない』と名乗る人物が怪しくない事などあるのだろうか?」ってところでしょうか?
ええ、僕だってぶっちゃけそう思います。怪しくないならそんな台詞、言わなくてもいい訳でして。もしそうでなかったとしたら、全ての人が、誰かと話を始める際は必ず「自分は怪しい者じゃない」と言わなければなりませんからね。
「憶えて―――ない、かな? あたし、今日、大学ですれ違ったんだけど。正門から、ちょっと入った辺りで」
おなかの前辺りで右手と左手の指をいじいじと絡み合わせ、緊張のあまり軽く過呼吸になっているのか、言葉を短く切りながら………大学? 正門の前辺りで―――ああ、あの人だったのか。明くんがチャイムを一つ間違えた時に、それを笑ってた女の人。
「ああ、はいはい! 覚えてます覚えてます」
いやあこんなに特徴的なおでこを忘れるとは。やっぱり自分に何の関係もない人の印象っていうのは、驚いてしまうくらいにズガンとこないと残らないものなんですね。事実、真っ黒さんは覚えてたし。
で、僕に用があるのなら、どうして真っ黒さんはあの時何も言わずにいなくなってしまったんだろう? あれから時間も随分経ってるし。
しかしそんな疑問をぶつけようにも、「家庭科の調理実習にわくわくしながら臨んでみたのは良いものの、料理の経験が皆無なので、いざ包丁を握ったらどうしていいか全く分からずにオロオロしてしまう人」ライクなもどかしさを帯びる女性が相手では、正直気が引けた。だからまあその、落ち着いて用件をどうぞ。
「そ、そう。良かった………あ、いや、まあ、忘れられてても全然構わないんだけどさ」
やっぱり話の内容には入ってくれない。と思ったら、おで子さん、ここで大きく深呼吸。お腹の前でもじもじしていた手も離れ、腰の両サイドへと移動。傍目からも分かるようにそうして気を取り直すと、
「大学ですれ違った時、足止めてあなたの事振り返ってたでしょ? その事でちょっと話があるの」
「何でしょうか?」
語調が整えられ、話もついに本題へ差し掛かる。
―――筈、だったんだろうけど。
「おいおい、ワシは放っとかれたままなのかの? あそこで待っとるように言ったのはお前じゃろうに」
視界外から年寄り臭い口調の若々しい声が。一体どっちなんだと振り返ってみればもちろん若者で、そこには少々小柄なスポーツ刈りの男性。小柄とは言ってもそれは身長だけを見た場合の話で、半袖の白シャツから覗く腕は、ぱっと見ただけでも筋肉質だった。そして下はジャージ、腰にはそのジャージの上着部分を結び付けているという格好からして、まず間違い無く何かスポーツをしている人なのだろう。ちょっと肌寒そうだけど。
そんな彼は呆れた表情をおで子さんに向けつつ、力を入れなくてもカチコチそうな腕を振ってこちらへ歩み寄ってくる。
幽霊さんも猫も含め、その場の全員がその男性に視線を集めると、
「む。先程電話をしていた彼だね」
チューズデーさんが、恐らくは僕と栞さんとクロの三人に向けて、そう小声で呟いた。
この人達、知り合い? ……なのは、一目瞭然だね。
「ああっ! 今本題に入ろうとしたのにやっとだったのに! なんであんたそんなタイミングで入ってくるわけ!? 盗み聞きしてたんだったら察しなさいよ空気読みなさいよ!」
ここで突然、おで子さんの態度が急変。まさに急変。何がそんなに彼女の逆鱗に触れたんだろうかと思わざるを得ないほどに、語調が猛る。が、そんな厳しい態度にも拘わらず、スポーツ刈りさんは涼しい顔。
「相変わらずの内弁慶ぶりじゃのう。……ところで、口宮はどうした? 三人揃っとったんじゃろ?」
「あ……邪魔になるとかで……由依さんが置いてきちゃいました……」
口宮という人を捜しているのか辺りを窺うジャージさんに、真っ黒さんがゆったりと答える。それによれば、おで子さんは由依という名前らしい。
「あいつが顔出したら話がややこしくなるでしょうからね」
「ふむ。妥当な判断じゃの」
腰に手を当てふんっと鼻を鳴らすおで子さんに対し、ジャージさんは腕を組みつつ頷いて見せた。どうやら口宮さん、厄介な人だそうで。
「あー、だりーな畜生。いざ兄ちゃんに会うとなったらここで待ってろって、どーいうこったよ? あんだけ走り回った挙句にこんな扱いってあるか? ……はぁ、もうあいつら放っといて帰ろうかな俺。どーせ、あいつらが出てくるのはもう全部終わってからだろーしな。あんだけしんどい思いして鼻血噴いて、最後がこんなんじゃあ―――そもそも……そうだ、そもそもあの兄ちゃんが逃げるからこんな目に会ってんじゃねーのか!? なんだ!? なんで逃げられた俺!? 染めてるからか!? いや! んなもん今日び珍しいもんでもねえ! 顔面ピアスだらけとか超コワモテで眉毛も髪も全剃りとかならまだしも、ただ髪が黒じゃねえってだけで逃げられるのはどう考えてもおかしい! つまりおかしいのは俺じゃなくて、あの兄ちゃん―――」
「ねーねーおかーさん。あのお兄ちゃん、一人で何言ってるの?」
「―――んむ!?」
「あ、だ、だめよ薫(かおる)ちゃん。人様に指向けちゃ………ああ、すいませんうちの子が」
「あ、いや、別に……」
「本当にすいませんでした。ほら薫ちゃん、あっちの広場にカラスさんがいるかもしれないから、行ってみよう?」
「本当!? カラスさんがいるの!? どれくらい!? たくさん!?」
「たくさん―――かどうかは分からないけど、いるといいね。でも薫ちゃん、どうしてそんなにカラスさんが好きなの?」
「可愛いし、格好いいし、優しそうだから!」
「優しそう? うーん……お母さんにはちょっと分からないかなあ………」
「えー、なんでー? -――あ! それよりおかーさん、走ろ!」
「え、走るの? お母さんちょっと疲れちゃいそうだなー……」
「速く速くー! 急がないとカラスさん、飛んでいっちゃう! いなくなっちゃうよ!?」
「ああ……分かった分かった。じゃあ走ろっか」
「……帰りてえなあ………」
「それでえっと、本題なんだけど」
内輪の話が終わると、ふんっと鼻を鳴らしてからこちらへ向き直すおで子さん。今見せた高圧的な態度を引きずってか、さっきまでの自信無さげな表情よりは、若干凛々しくなっていた。
が、それも一瞬の間だけ。次に口を開く頃には、既に元通り。そしてその開かれた口によると、
「学校であなたとすれ違った時、その……、自分でもよく分からないんだけど、何かを感じたのよ。首筋がちりちりするって言うか」
との事です。
……え? で? だから? もしかして、それだけですか? 何かって何ですか? よく分からないものを感じたとか言われても、僕はそれにどう答えたらいいんですか?
小馬鹿にしてるとかではなくて、真剣にそう思った。思わざるを得なかった。情報不足にも程がある。
「これ、昔からずっとでね。いつもは誰もいない所でいきなり来たりするんだけど、今日はそんなだったから………」
そこで「感じる」という事だろうか、おで子さんは首の裏に手を当てながらほんの僅かに俯き、目を細めてそう言う。
そしてその手を下ろし、再び正常に開かれた目でこちらを真っ直ぐに見据えると、
「あなたに話を聞けば、あたしのこれが何なのか分かるかと思って。それであたしの講義が全部終わるまでこの二人と――今ここにはいないけど、もう一人にあなたを追いかけてもらったのよ。話は自分でしたかったから」
納得していいのやら悪いのやらな話が飛び出した。
「学校で会った時にそのまま話し掛けてくれれば良かったんじゃないですか? そうすれば、こんな所まで来てもらわなくてもよかったと思うんですけど」
そちらから見れば白猫をお供にした一人散歩なのかもしれないですけど、これでも一応初デート中なんですよね。それを大学からずっと見られてたっていうのは、やっぱり気分がよろしくないです。
って言うか、恥ずかしい上に怖いです。だって、そちらからしたら独り言バリバリだったでしょ? もしも「これはエアデートだ」とか言い訳したとしても、余計におかしな人扱いされそうだし。あのプリン頭さん以上に関わりたくないですよそんな人。自分で言うのもなんですけど。
「あ、ご、ごめん……な、さい。本当はそうしたほうが良かったんだろうけど、話し掛けようかどうか迷ってる間にあなたがどこかに行っちゃって………」
そんなに怖がられるような顔をしたつもりはなかったけど、それでもそんな僕の胸中を察したらいしい。前髪に隠れてない分他の人のそれより目立つ眉毛を、もし言葉がなかったとしてもその謝意が容易く読み取れそうなくらいに垂れ下げさせるおで子さん。
本当にさっきのジャージさんとの会話とじゃあ全然イメージが違うなあ。いくら会ったばかりの他人相手とは言えここまで、物腰どころか人格そのものが違ってそうなくらいに変わるものなんだろうか?
と、ここで思い出されるのはジャージさんの何気ない一言。
内弁慶、ね。なるほど確かに。
「いえいえ、別に気にしてませんから」
本当は少なからず気にしてるんだけど、彼女を責めるつもりはないので不自然じゃないように微笑んでみせる。話を進めたいのです。
「―――それで、ですね。僕にもその『何か』っていうのは分からないです。残念ながら」
こちらの微笑に釣られてくれたのか、少々強張り気味だったおで子さんの表情から、ふと余分な力が抜ける。
「あ、そうなんだ……」
僕の言葉に残念がり、そして、
「でも、うん。ありがとう。こんなヘンテコな話、真面目に聞いてもらえただけでも―――」
栞さんがすぐ隣に座ってる状況で何ですけど、やっぱり女の人はそうやって薄~く笑ってる時が一番可愛いと思いますよ。もちろん自分の彼女が一番なんですけどね。
「って、あれ?」
なぁんて口にする事は一生あり得なさそうな事を思いふけっていると、最後の最後で笑みが消え去り、口をぽかんと開けたまま目を丸くするおで子さん。まあ見たまんま驚いているんでしょうけど、今の会話でそんな素っ頓狂な声を上げるような箇所ってありましたっけ?
「あ、あの、あのさ、もしかして信じてくれちゃったわけ? こんな怪しすぎる話。自分自身でもかなりイタイな~とか思っちゃってるんだけど」
「まあ、物好きなやつなんですよ僕は」
正体不明の何か、なんてあやふやな話だけで腰が引けるほどノーマルな生活は送れてませんのでね。幸か不幸か。ご近所さんは幽霊と霊能者とお利口なペットで、しかも幽霊さんのうちの一人とお付き合いをしていて、更には知り合いの彼女さんが人間じゃない、などという全くもってとんでもない交友関係を持っちゃってますから。しかもここ最近で一気に。
驚かない自分への皮肉も多少交えつつ手短に答えると、小さく息を吐いて柔らかい表情になるおで子さん。
そんな彼女へちらっとだけ目をやったジャージさんは、ピーマンを突きつけられた野菜嫌いの子どものように眉をひそめた。何だろう、おで子さんがこういう顔をするのは余程珍しいって事だろうか? 内弁慶なんて言われちゃうくらいだし。
一方の真っ黒さんは、前方―――つまりこちらを向いたままだったけど、その鼻辺りで横一文字に切り揃えられた前髪によって目線が遮られ、実際にどこを向いているのかは分からなかった。
「それで、その僕に感じた何かっていうのは今でも?」
分からないからといって分かるまで睨みつけてても変なので、真っ黒さんからおで子さんへと視線を移して話も移す。
「あ、うん。今でも感じてる―――んだけど」
僕の声が耳に届いた途端、素の顔に戻って、しかも含みのある言い方。
話が接続詞で途切れた以上、続きはあるんだろうと身構える。が、その発言主は肩をいからせ「む~」と唸りながらこちらをきつく睨むばかりで、続きをなかなか言いだしてくれなかった。
発言からやや間を置いてようやくおで子さんの肩から力が抜けると、
「やっぱり、今はなんだか……二つあるような気がするのよね。『何か』が。学校の時は一つだけだったんだけど………」
何かの正体に迫るヒントらしき発言が出てきた。
しかし、ヒントらしいと言ってもそれは飽くまで「らしい」であって、正直何の事やらサッパリです。学校では一つで今は二つ? あの時の僕と今の僕の明確な違いと言ったらカバンの有る無しぐらいしか思いつきませんけど、それならなんで今は二つなんでしょうか?
僕を除いたこちら側の三名も、おで子さんを除いたあちら側の二名も、誰一人話に加わろうとしてこない。なので、僕とおで子さんが言葉に詰まってしまえばとても静かだ。
クロはともかくこちら側の幽霊さん二名が黙っているのはまあ仕方が無いとして、あちらのお二方が黙ったままなのはやっぱり、おで子さんの意向なんだろうか? 『話は自分でしたかったから』ってさっき言ってたし。
それで誰も口を挟まないんだとしたら、それはとてもいい事だと思います。友達思いと言うかなんと言うか。でもですね、そうやって静かな中で返事を待たれる身としましては、焦っちゃうんですよ。答えを急かされてるみたいで。しかも全く答えなんか見つかる気配も無いですし。
「う~ん……」
一応時間稼ぎに、腕を組んで悩んでますよアピール。もちろん本気で悩んでるんですけどね。
本当に何なんですか学校で一つで今は二つって。
「あの……ちょっといいですか……?」
誰も救いの手を差し伸べてくれない中でのあまりの難問に、腕を組むどころか頭を抱えたくなっていると、ここで以外にも真っ黒さんが割り込んできた。それで問題が解決する訳では決してないんだけど、幾らかは救われた気がする。ありがとう真っ黒さん。それで、
「なんですか?」
「どしたの?」
頭部の向き的に真っ黒さんは僕に話し掛けたんだろう。だけどその唐突っぷりに、おで子さんも反応。ほぼ前髪に隠れている真っ黒さんの顔を覗き込む。
そしてその顔のパーツの中で唯一前髪に隠れていない口がゆるりと開かれると、
「その猫……逃げちゃいませんか……?」
―――チューズデーさんは見えてない筈だから、その猫というのはクロの事だろう。
そうですよね首輪してますもんね。僕の猫だと思いますよね普通は。
「ああいえ、僕の猫じゃないんですよ。知り合いが飼ってる猫なんですけど、どういう訳かこの公園で見つけまして。だからこの公園のどこかにその知り合いがいるんじゃないかと捜してた最中だったんです。逃げはしないですから大丈夫ですよ」
と言ったらクロが僕に慣れてるって事になりそうだけど、本当は今日初めて会ったばかりなんだよね。逃げずにずっとそばで大人しくしてくれてるのは、チューズデーさんがいるおかげなんだろう。
「あ、そ、そうだったんだ。ごめんね邪魔しちゃって」
「いえいえ。どうせその知り合いがどこにいるのか全然分かりませんし、それなら探し回ってもじっとしてても同じようなものですから」
それにしても赤ん坊に気を取られ、プリン頭さんに追いかけられ、ここでこうしてお喋り中という事を省みれば、全然その「クロの飼い主捜し」は遂行できてない気がする。ぶっちゃけ、今自分でそう言うまで忘れてたし。
「あ……こ、こっち来てる……」
そんな結構無責任っぽい事を考えていると、真っ黒さんが小さく声を上げ、そして同時に鈴の音。自分の話をされた事を察して興味が沸きでもしたのか、クロが噴水の縁から飛び降りて真っ黒さんに一歩一歩、歩み寄っていたのだ。
それでも真っ黒さんは声色からして困った様子だったので、後ろからクロを引っ張り上げようかとも考えた。だけどそう思った僕が手を伸ばすより早く、チューズデーさんがクロに駆け寄る。足音などが一切しないのは、さすが猫さんと言ったところでしょうか。
「あれ? こっち来た?」
すると今度はおで子さん、真っ黒さんより数テンポ遅れてクロが近付いた事に驚く。クロが動いたの、見えてなかったんでしょうか?
そんな事は無視してクロの前に回り込み、立ち塞がる―――もとい、座り塞がるチューズデーさん。
「ニャウ……」
その鋭い緑の眼光に、尻尾と髭を垂らしてすごすごと引き返してくるクロ。子どもが苦手とは言ってたけど、基本人懐っこいらしい。それを思うと、ちょっと気の毒。
それにしても、だ。今更ではあるけど、声を掛ければ一瞬で事が済んだって言うのに、不用意に喋れないというのはもどかしいだろうなあ。ここで真っ黒さんが再登場した時、栞さんが声を出してしまったから、あとはあの時この場にいなかったジャージさんが聞こえる人なのかどうかって事になるんだけど………
「あ……戻っちゃった……」
真っ黒さんは困ったような声を出した割には残念そうに。
「うーん、戻ったわねぇ。何だったのかしら?」
おで子さんは何がそんなに不思議なのか、首を捻って腕を組む。
「猫ってのは気まぐれの代表格みたいに言われとるからの。まあワシゃあ動物を飼った試しはないんじゃが」
ジャージさんは分からないでもないけど失礼な発言を平然と。
自分達から遠ざかる白い背中に、それぞれ声を掛ける三人。その背中の持ち主は名残惜しそうに一度彼等を振り返り、すぐ背後にいる黒猫さんににっこりと首を傾げられ、諦めてすごすご僕と栞さんの間へ戻ってきた。
ゆっくりと丸くなるその姿に哀愁を誘われたので、背中を撫でてやる。返事は尻尾の横一振りだった。
「うー……その猫? って事なのかしら………?」
チューズデーさんがクロの隣へ腰掛けると、シャーペンの芯くらいなら挟めそうなほどしわを眉間に寄せるおで子さん。さっきから随分クロに対して意味ありげな反応してますけど、この名前と毛色のギャップ以外はなんの変哲も無い白猫がどうかしましたか?
彼女の不可解なお悩みに、その場の一同から視線が集められる。それに気付いたおで子さんは首を回してその視線の元を一つずつ確かめ、最後に僕のほうを見据えて、また眉をひそめる。
「あの、今ね、その猫がこっちに来た時に、二つあった反応の内の一つが、一緒にこっちに来たんだけど……」
―――という事は? 僕に「何か」が二つあったんじゃなくて、僕とクロが一つずつその「何か」を持ってたって事かな? それなら「何か」が学校では一つだったって事も理屈に合うけど……結構、アバウトな探知能力なんですね。近くにいるだけで持ち主を混同してしまうなんて。
「うん」
「ニャ」
問題が無かったのはもう確定したようなものだけど、背中を見送った側としてはその報告を聞く義務があるだろう。という事なのかどうかは知らないけど、三者それぞれ姿勢を正す。
それを確認したのか、一度全員に目配せしてから、チューズデーさんの報告が始まった。
「まず一番問題とされていた部分についてだが、向こうにいたのはあの金髪君ではなかったよ。良かったね、栞君」
「あはは、そうだねー。また走り回ったり足引っ掛けたりするの嫌だし」
軽口を交えて二人が微笑み合っている間に、その外で僕は考える。
特に僕を意識して言ってる訳でもなさそうだからただの考え過ぎなんだろうけど、どうにも「お前がなんとかしとけよ」的な当て付けに聞こえてしまうなあ。それは他人の声に乗っかった自分の声だったりするんだろうけど………まあ実際、そこまで上手くはいかないもので。
小学生くらいの時、どこそこで不審者が出たというニュースを見てこうは思わなかっただろうか? 「自分だったら金玉蹴り上げてやっつけちゃうよ!」と。
多分、大体の人はそんなふうに考えたと思う。実際担任の先生から「隣の校区で不審なおじさんが出たそうです。みんなも気をつけてね」と聞かされた時の我がクラス、二の一では、男子からそういう声がいくつか上がった。若い―――と言うか、幼い故に怖いもの知らずだったってところだろう。無論、そんな事ができる筈は無いんだけどね。今ですら同年代くらいのお兄さんから全力で逃げる有様なんだし。
「それでだね、向こう側では男が携帯電話を使用中だったよ。着メロ……と言ったか? わたし達が聞いたのは恐らくそれだろうね」
口だけでも格好つけられる分、今の僕よりは昔の僕のほうが外面は良かったのかなー、なんて思ってる間に、チューズデーさんの報告が再会された。ふむ、やっぱり携帯でしたか。
改めてその音が聞こえた方向を見てみたところ、植え込みの向こうに人がいると確定したせいか、今になってその様子が思い描かれる。その人は地べたにでも座り込んでいたんだろうか、と。植え込みは腰ぐらいまでの高さしかないのに、その人の姿はこっちからじゃあ全く見えてなかったし。
まあ地べたに座り込むくらいはこんな広い公園じゃあ、それ程おかしな行動でもないとは思う。でも、ちょっと前にもあったよね? こんな事。あの時ほど至近距離じゃないけど―――真っ黒さんの時も、こうだったよね?
「えーと、あー、そこのお兄さん?」
栞さんでもチューズデーさんでも、もちろんクロでもない声が、その反対方向から聞こえた。
この近辺に、「そこのお兄さん」という呼称が当てはまる人物は僕しか存在していない。他三人はいずれも「お兄さん」ではないし、植え込みの向こうの人は「そこの」と言うにはちょっと遠いし。
よって「そこのお兄さん」とは自分の事であると判断し、声がしたほうを振り返る。するとそこには、
「あ、さっきの」
インパクトのある出で立ちに思わず声が出る。
「あれ? この人―――あっ」
後ろの栞さんも同じく声を出してしまい、その声を慌てたように途切れさせる。が、目の前の二人は特に反応無し。万一、二人揃って聞き逃したのでなければ、どうやら聞こえてはいないようだ。
「さっきは……失礼しました……」
噂をすればなんとやら。ロングおかっぱ、もしくは目隠しおかっぱとでも言うべきヘアースタイルの、真っ黒さん再登場であります。前回と同じくちょっと季節外れ感のあるその黒いコートの袖からは、手が出ていませんでした。遠目で見たときに手袋をしているんじゃないかと思ったのは、どうやらこれだったようで。
そしてその隣には、若干緊張気味のような女性が。笑っているようでもあり引きつっているようでもあるその半開きな口元を見る限り、僕に「お兄さん」と声を掛けたのは、こちらのおでこ丸出しなオールバックの女性なのだろう。……見事なおでこだけど、どこかで見た事があるような? しかも極々最近だったような―――ま、いいか。知らない人には変わりないし。
「二度ある事は三度ある」とはよく言ったもので、知らない人に声を掛けられるのはこれで本日三度目だ。一度目はそこの真っ黒さんで、二度目は全速力で追いかけてきたプリン頭のお兄さんで、三度目はこのおで子さん。
しかしその通り三度目である上に、これまでの二人に比べてインパクトが無いので、無意識の内に「拍子抜け」という言葉が頭をよぎってしまうのでした。
「それで、僕に何か?」
普通は突然知らない人に声を掛けられたら、ちょっとくらい警戒心も生まれるんだろう。だけど、頭が冷めてしまっているので、とてもそんなふうには思考が働いてくれなかった。まあさすがに女性が襲い掛かってくる事は無いだろうから、警戒したところで杞憂に終わりそうな気もするけど。
「あ、あのー、あたしは別に怪しい者じゃなくて」
訊いてませんが、そうですか。怪しい者じゃないんですか。それは良かったです。
下は右膝の部分が擦れて横糸が露出してしまっているジーパン、上は横縞模様の長袖シャツにベストという装いなその怪しくないおで子さんの自己紹介は、まずそこから入った。
普通に考えるなら、「『怪しい者じゃない』と名乗る人物が怪しくない事などあるのだろうか?」ってところでしょうか?
ええ、僕だってぶっちゃけそう思います。怪しくないならそんな台詞、言わなくてもいい訳でして。もしそうでなかったとしたら、全ての人が、誰かと話を始める際は必ず「自分は怪しい者じゃない」と言わなければなりませんからね。
「憶えて―――ない、かな? あたし、今日、大学ですれ違ったんだけど。正門から、ちょっと入った辺りで」
おなかの前辺りで右手と左手の指をいじいじと絡み合わせ、緊張のあまり軽く過呼吸になっているのか、言葉を短く切りながら………大学? 正門の前辺りで―――ああ、あの人だったのか。明くんがチャイムを一つ間違えた時に、それを笑ってた女の人。
「ああ、はいはい! 覚えてます覚えてます」
いやあこんなに特徴的なおでこを忘れるとは。やっぱり自分に何の関係もない人の印象っていうのは、驚いてしまうくらいにズガンとこないと残らないものなんですね。事実、真っ黒さんは覚えてたし。
で、僕に用があるのなら、どうして真っ黒さんはあの時何も言わずにいなくなってしまったんだろう? あれから時間も随分経ってるし。
しかしそんな疑問をぶつけようにも、「家庭科の調理実習にわくわくしながら臨んでみたのは良いものの、料理の経験が皆無なので、いざ包丁を握ったらどうしていいか全く分からずにオロオロしてしまう人」ライクなもどかしさを帯びる女性が相手では、正直気が引けた。だからまあその、落ち着いて用件をどうぞ。
「そ、そう。良かった………あ、いや、まあ、忘れられてても全然構わないんだけどさ」
やっぱり話の内容には入ってくれない。と思ったら、おで子さん、ここで大きく深呼吸。お腹の前でもじもじしていた手も離れ、腰の両サイドへと移動。傍目からも分かるようにそうして気を取り直すと、
「大学ですれ違った時、足止めてあなたの事振り返ってたでしょ? その事でちょっと話があるの」
「何でしょうか?」
語調が整えられ、話もついに本題へ差し掛かる。
―――筈、だったんだろうけど。
「おいおい、ワシは放っとかれたままなのかの? あそこで待っとるように言ったのはお前じゃろうに」
視界外から年寄り臭い口調の若々しい声が。一体どっちなんだと振り返ってみればもちろん若者で、そこには少々小柄なスポーツ刈りの男性。小柄とは言ってもそれは身長だけを見た場合の話で、半袖の白シャツから覗く腕は、ぱっと見ただけでも筋肉質だった。そして下はジャージ、腰にはそのジャージの上着部分を結び付けているという格好からして、まず間違い無く何かスポーツをしている人なのだろう。ちょっと肌寒そうだけど。
そんな彼は呆れた表情をおで子さんに向けつつ、力を入れなくてもカチコチそうな腕を振ってこちらへ歩み寄ってくる。
幽霊さんも猫も含め、その場の全員がその男性に視線を集めると、
「む。先程電話をしていた彼だね」
チューズデーさんが、恐らくは僕と栞さんとクロの三人に向けて、そう小声で呟いた。
この人達、知り合い? ……なのは、一目瞭然だね。
「ああっ! 今本題に入ろうとしたのにやっとだったのに! なんであんたそんなタイミングで入ってくるわけ!? 盗み聞きしてたんだったら察しなさいよ空気読みなさいよ!」
ここで突然、おで子さんの態度が急変。まさに急変。何がそんなに彼女の逆鱗に触れたんだろうかと思わざるを得ないほどに、語調が猛る。が、そんな厳しい態度にも拘わらず、スポーツ刈りさんは涼しい顔。
「相変わらずの内弁慶ぶりじゃのう。……ところで、口宮はどうした? 三人揃っとったんじゃろ?」
「あ……邪魔になるとかで……由依さんが置いてきちゃいました……」
口宮という人を捜しているのか辺りを窺うジャージさんに、真っ黒さんがゆったりと答える。それによれば、おで子さんは由依という名前らしい。
「あいつが顔出したら話がややこしくなるでしょうからね」
「ふむ。妥当な判断じゃの」
腰に手を当てふんっと鼻を鳴らすおで子さんに対し、ジャージさんは腕を組みつつ頷いて見せた。どうやら口宮さん、厄介な人だそうで。
「あー、だりーな畜生。いざ兄ちゃんに会うとなったらここで待ってろって、どーいうこったよ? あんだけ走り回った挙句にこんな扱いってあるか? ……はぁ、もうあいつら放っといて帰ろうかな俺。どーせ、あいつらが出てくるのはもう全部終わってからだろーしな。あんだけしんどい思いして鼻血噴いて、最後がこんなんじゃあ―――そもそも……そうだ、そもそもあの兄ちゃんが逃げるからこんな目に会ってんじゃねーのか!? なんだ!? なんで逃げられた俺!? 染めてるからか!? いや! んなもん今日び珍しいもんでもねえ! 顔面ピアスだらけとか超コワモテで眉毛も髪も全剃りとかならまだしも、ただ髪が黒じゃねえってだけで逃げられるのはどう考えてもおかしい! つまりおかしいのは俺じゃなくて、あの兄ちゃん―――」
「ねーねーおかーさん。あのお兄ちゃん、一人で何言ってるの?」
「―――んむ!?」
「あ、だ、だめよ薫(かおる)ちゃん。人様に指向けちゃ………ああ、すいませんうちの子が」
「あ、いや、別に……」
「本当にすいませんでした。ほら薫ちゃん、あっちの広場にカラスさんがいるかもしれないから、行ってみよう?」
「本当!? カラスさんがいるの!? どれくらい!? たくさん!?」
「たくさん―――かどうかは分からないけど、いるといいね。でも薫ちゃん、どうしてそんなにカラスさんが好きなの?」
「可愛いし、格好いいし、優しそうだから!」
「優しそう? うーん……お母さんにはちょっと分からないかなあ………」
「えー、なんでー? -――あ! それよりおかーさん、走ろ!」
「え、走るの? お母さんちょっと疲れちゃいそうだなー……」
「速く速くー! 急がないとカラスさん、飛んでいっちゃう! いなくなっちゃうよ!?」
「ああ……分かった分かった。じゃあ走ろっか」
「……帰りてえなあ………」
「それでえっと、本題なんだけど」
内輪の話が終わると、ふんっと鼻を鳴らしてからこちらへ向き直すおで子さん。今見せた高圧的な態度を引きずってか、さっきまでの自信無さげな表情よりは、若干凛々しくなっていた。
が、それも一瞬の間だけ。次に口を開く頃には、既に元通り。そしてその開かれた口によると、
「学校であなたとすれ違った時、その……、自分でもよく分からないんだけど、何かを感じたのよ。首筋がちりちりするって言うか」
との事です。
……え? で? だから? もしかして、それだけですか? 何かって何ですか? よく分からないものを感じたとか言われても、僕はそれにどう答えたらいいんですか?
小馬鹿にしてるとかではなくて、真剣にそう思った。思わざるを得なかった。情報不足にも程がある。
「これ、昔からずっとでね。いつもは誰もいない所でいきなり来たりするんだけど、今日はそんなだったから………」
そこで「感じる」という事だろうか、おで子さんは首の裏に手を当てながらほんの僅かに俯き、目を細めてそう言う。
そしてその手を下ろし、再び正常に開かれた目でこちらを真っ直ぐに見据えると、
「あなたに話を聞けば、あたしのこれが何なのか分かるかと思って。それであたしの講義が全部終わるまでこの二人と――今ここにはいないけど、もう一人にあなたを追いかけてもらったのよ。話は自分でしたかったから」
納得していいのやら悪いのやらな話が飛び出した。
「学校で会った時にそのまま話し掛けてくれれば良かったんじゃないですか? そうすれば、こんな所まで来てもらわなくてもよかったと思うんですけど」
そちらから見れば白猫をお供にした一人散歩なのかもしれないですけど、これでも一応初デート中なんですよね。それを大学からずっと見られてたっていうのは、やっぱり気分がよろしくないです。
って言うか、恥ずかしい上に怖いです。だって、そちらからしたら独り言バリバリだったでしょ? もしも「これはエアデートだ」とか言い訳したとしても、余計におかしな人扱いされそうだし。あのプリン頭さん以上に関わりたくないですよそんな人。自分で言うのもなんですけど。
「あ、ご、ごめん……な、さい。本当はそうしたほうが良かったんだろうけど、話し掛けようかどうか迷ってる間にあなたがどこかに行っちゃって………」
そんなに怖がられるような顔をしたつもりはなかったけど、それでもそんな僕の胸中を察したらいしい。前髪に隠れてない分他の人のそれより目立つ眉毛を、もし言葉がなかったとしてもその謝意が容易く読み取れそうなくらいに垂れ下げさせるおで子さん。
本当にさっきのジャージさんとの会話とじゃあ全然イメージが違うなあ。いくら会ったばかりの他人相手とは言えここまで、物腰どころか人格そのものが違ってそうなくらいに変わるものなんだろうか?
と、ここで思い出されるのはジャージさんの何気ない一言。
内弁慶、ね。なるほど確かに。
「いえいえ、別に気にしてませんから」
本当は少なからず気にしてるんだけど、彼女を責めるつもりはないので不自然じゃないように微笑んでみせる。話を進めたいのです。
「―――それで、ですね。僕にもその『何か』っていうのは分からないです。残念ながら」
こちらの微笑に釣られてくれたのか、少々強張り気味だったおで子さんの表情から、ふと余分な力が抜ける。
「あ、そうなんだ……」
僕の言葉に残念がり、そして、
「でも、うん。ありがとう。こんなヘンテコな話、真面目に聞いてもらえただけでも―――」
栞さんがすぐ隣に座ってる状況で何ですけど、やっぱり女の人はそうやって薄~く笑ってる時が一番可愛いと思いますよ。もちろん自分の彼女が一番なんですけどね。
「って、あれ?」
なぁんて口にする事は一生あり得なさそうな事を思いふけっていると、最後の最後で笑みが消え去り、口をぽかんと開けたまま目を丸くするおで子さん。まあ見たまんま驚いているんでしょうけど、今の会話でそんな素っ頓狂な声を上げるような箇所ってありましたっけ?
「あ、あの、あのさ、もしかして信じてくれちゃったわけ? こんな怪しすぎる話。自分自身でもかなりイタイな~とか思っちゃってるんだけど」
「まあ、物好きなやつなんですよ僕は」
正体不明の何か、なんてあやふやな話だけで腰が引けるほどノーマルな生活は送れてませんのでね。幸か不幸か。ご近所さんは幽霊と霊能者とお利口なペットで、しかも幽霊さんのうちの一人とお付き合いをしていて、更には知り合いの彼女さんが人間じゃない、などという全くもってとんでもない交友関係を持っちゃってますから。しかもここ最近で一気に。
驚かない自分への皮肉も多少交えつつ手短に答えると、小さく息を吐いて柔らかい表情になるおで子さん。
そんな彼女へちらっとだけ目をやったジャージさんは、ピーマンを突きつけられた野菜嫌いの子どものように眉をひそめた。何だろう、おで子さんがこういう顔をするのは余程珍しいって事だろうか? 内弁慶なんて言われちゃうくらいだし。
一方の真っ黒さんは、前方―――つまりこちらを向いたままだったけど、その鼻辺りで横一文字に切り揃えられた前髪によって目線が遮られ、実際にどこを向いているのかは分からなかった。
「それで、その僕に感じた何かっていうのは今でも?」
分からないからといって分かるまで睨みつけてても変なので、真っ黒さんからおで子さんへと視線を移して話も移す。
「あ、うん。今でも感じてる―――んだけど」
僕の声が耳に届いた途端、素の顔に戻って、しかも含みのある言い方。
話が接続詞で途切れた以上、続きはあるんだろうと身構える。が、その発言主は肩をいからせ「む~」と唸りながらこちらをきつく睨むばかりで、続きをなかなか言いだしてくれなかった。
発言からやや間を置いてようやくおで子さんの肩から力が抜けると、
「やっぱり、今はなんだか……二つあるような気がするのよね。『何か』が。学校の時は一つだけだったんだけど………」
何かの正体に迫るヒントらしき発言が出てきた。
しかし、ヒントらしいと言ってもそれは飽くまで「らしい」であって、正直何の事やらサッパリです。学校では一つで今は二つ? あの時の僕と今の僕の明確な違いと言ったらカバンの有る無しぐらいしか思いつきませんけど、それならなんで今は二つなんでしょうか?
僕を除いたこちら側の三名も、おで子さんを除いたあちら側の二名も、誰一人話に加わろうとしてこない。なので、僕とおで子さんが言葉に詰まってしまえばとても静かだ。
クロはともかくこちら側の幽霊さん二名が黙っているのはまあ仕方が無いとして、あちらのお二方が黙ったままなのはやっぱり、おで子さんの意向なんだろうか? 『話は自分でしたかったから』ってさっき言ってたし。
それで誰も口を挟まないんだとしたら、それはとてもいい事だと思います。友達思いと言うかなんと言うか。でもですね、そうやって静かな中で返事を待たれる身としましては、焦っちゃうんですよ。答えを急かされてるみたいで。しかも全く答えなんか見つかる気配も無いですし。
「う~ん……」
一応時間稼ぎに、腕を組んで悩んでますよアピール。もちろん本気で悩んでるんですけどね。
本当に何なんですか学校で一つで今は二つって。
「あの……ちょっといいですか……?」
誰も救いの手を差し伸べてくれない中でのあまりの難問に、腕を組むどころか頭を抱えたくなっていると、ここで以外にも真っ黒さんが割り込んできた。それで問題が解決する訳では決してないんだけど、幾らかは救われた気がする。ありがとう真っ黒さん。それで、
「なんですか?」
「どしたの?」
頭部の向き的に真っ黒さんは僕に話し掛けたんだろう。だけどその唐突っぷりに、おで子さんも反応。ほぼ前髪に隠れている真っ黒さんの顔を覗き込む。
そしてその顔のパーツの中で唯一前髪に隠れていない口がゆるりと開かれると、
「その猫……逃げちゃいませんか……?」
―――チューズデーさんは見えてない筈だから、その猫というのはクロの事だろう。
そうですよね首輪してますもんね。僕の猫だと思いますよね普通は。
「ああいえ、僕の猫じゃないんですよ。知り合いが飼ってる猫なんですけど、どういう訳かこの公園で見つけまして。だからこの公園のどこかにその知り合いがいるんじゃないかと捜してた最中だったんです。逃げはしないですから大丈夫ですよ」
と言ったらクロが僕に慣れてるって事になりそうだけど、本当は今日初めて会ったばかりなんだよね。逃げずにずっとそばで大人しくしてくれてるのは、チューズデーさんがいるおかげなんだろう。
「あ、そ、そうだったんだ。ごめんね邪魔しちゃって」
「いえいえ。どうせその知り合いがどこにいるのか全然分かりませんし、それなら探し回ってもじっとしてても同じようなものですから」
それにしても赤ん坊に気を取られ、プリン頭さんに追いかけられ、ここでこうしてお喋り中という事を省みれば、全然その「クロの飼い主捜し」は遂行できてない気がする。ぶっちゃけ、今自分でそう言うまで忘れてたし。
「あ……こ、こっち来てる……」
そんな結構無責任っぽい事を考えていると、真っ黒さんが小さく声を上げ、そして同時に鈴の音。自分の話をされた事を察して興味が沸きでもしたのか、クロが噴水の縁から飛び降りて真っ黒さんに一歩一歩、歩み寄っていたのだ。
それでも真っ黒さんは声色からして困った様子だったので、後ろからクロを引っ張り上げようかとも考えた。だけどそう思った僕が手を伸ばすより早く、チューズデーさんがクロに駆け寄る。足音などが一切しないのは、さすが猫さんと言ったところでしょうか。
「あれ? こっち来た?」
すると今度はおで子さん、真っ黒さんより数テンポ遅れてクロが近付いた事に驚く。クロが動いたの、見えてなかったんでしょうか?
そんな事は無視してクロの前に回り込み、立ち塞がる―――もとい、座り塞がるチューズデーさん。
「ニャウ……」
その鋭い緑の眼光に、尻尾と髭を垂らしてすごすごと引き返してくるクロ。子どもが苦手とは言ってたけど、基本人懐っこいらしい。それを思うと、ちょっと気の毒。
それにしても、だ。今更ではあるけど、声を掛ければ一瞬で事が済んだって言うのに、不用意に喋れないというのはもどかしいだろうなあ。ここで真っ黒さんが再登場した時、栞さんが声を出してしまったから、あとはあの時この場にいなかったジャージさんが聞こえる人なのかどうかって事になるんだけど………
「あ……戻っちゃった……」
真っ黒さんは困ったような声を出した割には残念そうに。
「うーん、戻ったわねぇ。何だったのかしら?」
おで子さんは何がそんなに不思議なのか、首を捻って腕を組む。
「猫ってのは気まぐれの代表格みたいに言われとるからの。まあワシゃあ動物を飼った試しはないんじゃが」
ジャージさんは分からないでもないけど失礼な発言を平然と。
自分達から遠ざかる白い背中に、それぞれ声を掛ける三人。その背中の持ち主は名残惜しそうに一度彼等を振り返り、すぐ背後にいる黒猫さんににっこりと首を傾げられ、諦めてすごすご僕と栞さんの間へ戻ってきた。
ゆっくりと丸くなるその姿に哀愁を誘われたので、背中を撫でてやる。返事は尻尾の横一振りだった。
「うー……その猫? って事なのかしら………?」
チューズデーさんがクロの隣へ腰掛けると、シャーペンの芯くらいなら挟めそうなほどしわを眉間に寄せるおで子さん。さっきから随分クロに対して意味ありげな反応してますけど、この名前と毛色のギャップ以外はなんの変哲も無い白猫がどうかしましたか?
彼女の不可解なお悩みに、その場の一同から視線が集められる。それに気付いたおで子さんは首を回してその視線の元を一つずつ確かめ、最後に僕のほうを見据えて、また眉をひそめる。
「あの、今ね、その猫がこっちに来た時に、二つあった反応の内の一つが、一緒にこっちに来たんだけど……」
―――という事は? 僕に「何か」が二つあったんじゃなくて、僕とクロが一つずつその「何か」を持ってたって事かな? それなら「何か」が学校では一つだったって事も理屈に合うけど……結構、アバウトな探知能力なんですね。近くにいるだけで持ち主を混同してしまうなんて。
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