「えっへっへー。うん、じゃあ、甘えるのはこれくらいにして」
唇を離すと、再度前を向き直りながらそう言って仕切り直しを図る栞なのでした。甘えるのはこれくらいに、なんて言いつつも足の間から出ようとはしない辺り、これはもう甘えるとかそういう扱いですらないようです。
「おでこが赤くなってたことについてのお話をしてもらおうかなあ」
「え、まだ赤い?」
「んー、ふふ、さすがにもう引いてたけどね」
そりゃよかった、とは思いますが、あそこまでの痛みを伴うものであった以上、もう少ししたら今度は青じんで来たりするのかもしれません。見た目はともかく触ったら痛いという意味で、油断は禁物でしょう。
「まあ、デコピンされたんだよね。同森さんに」
「ああ、間違いなく痛かったんだろうねえ」
「そりゃね。普通の人にグーで殴られるのと大して変わらないんじゃないかなあれは」
そんな話を聞いて栞は笑うわけですが、こちらとしては笑いごとではなかったりします。何も誇張しているわけではなく、本気でそう感じたのですから。
「で、なんでそうなったかなんだけど」
「音無さんに告白したからじゃないの?」
「違ったんだよね。大元がそれなの話かだけど、もうちょっと細かい話になるっていうか」
もしそうだったとしても文句はない、どころか同様に有難がって痛い目に遭っていたのでしょうし、それを抜きにしても細かい話であるなら細かい違いでしかないのですが、しかしだからといって「じゃあ大体同じなんだし別にいいか」とはならないのでした。栞にはそんな細かいところまで知ってもらいたいですし、だからこそこんな姿勢になってまで話を聞いてもらっているわけですしね。
「その話をしたのは何のためだって聞かれたんだよ。で、栞と僕のためって言ったんだけど、そしたらデコピンってことになって」
「お気に召されなかった?」
「ううん、お気に召された結果ってことだったよ。どっちか片方だけだったら平手だったって言ってたし」
「ふふ、孝さんじゃあ紙みたいに飛ばされちゃいそうだねえ」
「さらっと怖いこと言うね……」
というのはもちろん、容易にその光景が想像できるからなのですが。平手なんて単純に腕の振りだけでなく上半身の捻りなんかも力に加えられるわけで、ならば指の力だけであの激痛を引き起こせる同森さんがそんなことをしてしまったらどうなるかなんて、容易に想像できるにしたってあまり想像したくはありませんでした。事件になりかねません。
「でも孝さん、お気に召して何もなし、ならともかくお気に召してデコピンっていうのは、じゃあやっぱり?」
背後で顔を引きつらせている僕に構うことなく尋ねてくる栞でしたが、しかしその結びは「なんで?」ではなく「じゃあやっぱり?」なのでした。
何か罰が欲しい。僕がそんなふうに考えることくらい、初めから分かっていたのでしょう。どの時点を「初め」とするかは――もしかしたら、音無さんのことで激怒させてしまったあの日から。
「想像してる通りだと思うよ。ただ、自分から言い出したんじゃなくて同森さんに見抜かれたんだけどね。何もせずに解散じゃあ据わりが悪いだろうって」
「よかったねえ。ふふ、他の人にも出てくる発想だったんだね、孝さんのそれ」
「その喜ばれ方は想定外だったけどね」
嬉しい、というのとはちょっと違いますが、別に少数派を気取りたいわけでもなし、ほっとさせられるところはあるのでした。とはいえ一番理解して欲しい人には既にされているので、どのみち些事でしかなくはあるんですけどね。
「ああそれと、本筋からはちょっと離れるかもしれないけど、面白いこと聞けたよ」
「ん?」
「鍛えてたおかげでデコピンなんかで済んだって。そうじゃなかったら、罰ってことだしそれこそ平手ぐらいしてなきゃ駄目だったろうけど、そんなことするほど怒ったわけでもなかったしって」
「あー、なるほどねえ」
酔った頭でさらりと理解できるというのは中々見上げたものだったりするかもしれません、なんて言ってみたところで酔った経験がない僕の言葉じゃあ説得力の欠片もありはしないわけですが、まあいいじゃないですか。誰かを説得するための言葉でもないんですし。
と誰にともなく、というか自分に向けてそう思っていたところ、さらりと理解した栞の話はまだ続くようで、
「じゃあ次に会った時には私からもお礼言わないとねえ。デコピンで済ませてあげてくれてありがとうございますって」
とのことでした。
が、それについては待ったを掛けさせてもらいます。
「栞から礼を言うようなことかなあ。いや、程度じゃなくて中身の話なんだけど、栞が話に入ってくるっていうのはそれこそ気分が良くないんじゃない? 同森さん」
僕が音無さんを好きになったのは栞と出会うよりもっと前の話で、ならば僕が音無さんを好きだったという話それ自体には栞は関係が無いわけです。そりゃあ今こうして報告をしていたりはするのですが、それは告白の結果がどうだったという話でしかなく、なのでそれを考えてみてもやはり、僕が受けた罰に対して栞が頭を下げるというのは、どうにもちぐはぐだと思うのです。
すると栞は特に動かず前を向いたまま、けれどまるでその視線の先に僕がいるかのようにぴんと筋が通ったような声で、こんなふうに。
「言ってることは分かるけど、でも孝さん、良いか悪いかは別にして、そもそも孝さんにその話を引きずらせてたのって私なんだよね。何のためにっていう話だって、だから『私と孝さんのために』だったんでしょ?」
「それは、まあ」
僕がこのことを忘れてしまおうとしたところを、激怒してそれを引き留めた栞。激怒したということは忘れてしまわないよう強く望んだということになるわけで、忘れてしまわないよう強く望んだというのなら、そこには強く欲する「忘れてしまわないことで得られる何か」があった筈なのです。
とはいえもちろん、実際に何かを得るのは栞ではありません。なんせ僕の過去の想いについての話です、何かを得るのは当然僕であって、栞が欲しているのはそこから副次的に得られる別の何か、なのです。
「じゃあお礼くらいはね」
そんなふうに考えてしまうともう、それくらいならいいか、と思わざるを得ないのでした。
「大丈夫、孝さんと違って謝りまではしないから」
「それを言われちゃうとねえ」
何をどう思おうが思うまいが、ぐうの音も出なくなってしまうわけです。そこまで追い込む必要はなかったんですけどね、今の話については。
「じゃあそれについては私の圧勝ということで別の話に移るけど」
「圧勝って、まあそりゃそうなんだろうけどさ」
「徹底的に叩き潰しておかないと、もしかしたら勝ちに来ちゃうかもしれないんだもん孝さんって」
「その目があるならそりゃそうするけど」
夫に対してとんでもない言い草ではあるのでしょうが、身に覚えがある以上はそれにけちを付けられるわけもなく。それにしたって圧勝宣言をされるまでもなく潰されに潰され切ってはいたわけですが。
「で、別の話なんだけど」
「どうぞ」
「あの話ってしたの? なんで音無さんに話したのがあのタイミングだったかっていう」
「…………」
どうしてあのタイミングだったか、というのはもちろん一つの要素だけから成り立っているわけでもなくいろいろなものが重なっての判断ではあったのですが、しかし栞がそのうちの何について尋ねてきているかは、そのにやけた顔からさらっと推理できてしまうのでした。
酔ってるんだから元々にやけてるんじゃあ、という話ではあるんでしょうけど、ぶっちゃけたところそろそろ覚めてきてるんでしょうしね。僕に完敗を認めさせた語り口にしたってそうですが、口を開く度に出てきていた小さな笑いがなくなりつつあったりもするみたいですし。
「ふふ、さすがに無理かあ。真面目な告白の後にそんな、ねえ?」
「その時が来たらもしかしたら語るまでもなく察してもらえるかもしれないけどね……」
察してもらえる、と体面上そう言いはしましたが、察される、と言ったほうが意味のうえでは相応しかったりもするのでした。
だって裸見た後に告白とか最悪じゃないですか。
なんて、そりゃあ音無さん本人はもとより、同森さんにだって言えませんともそんなこと。
「部屋でゆっくりしてる間に思ったんだけどよ」
時が来ました。などと深刻ぶるのもそれはそれでどうかという話ではあるのですが、ともあれ時が来ました。何ってそりゃあ、夕食も食べ終わった後じゃあ残るイベントなんて一つしかないわけで。
混浴です。
で、その混浴入りに際して、まだ女性陣と合流してはいない脱衣場で、大吾が誰にともなく言いました。
「他の客が来てなかったらタオル巻いて入っちまえ、みたいな話だったけど、晩飯ん時にあんだけ人いたんだし、じゃあついでに風呂も入ってくって人は結構いるんじゃねえかなって」
なんで部屋でゆっくりしてる時にそんなこと考えてんだ、とはしかし、同じ男である以上言えはしませんとも。全く気にしないほうが変ですって、やっぱり。
しかしそこへ、異原さんとのあれやこれやと変わらない調子の平坦さで口宮さんがこんなふうに。
「まあここまで来たらもう棚の使用率から分かっちまうんだけどな。他の客がどれくらいいるかってのは」
そうなんですよね。ちょこちょこ衣服が収められてるんですよね、棚。
「しかしまあその全員が混浴に向かうってわけでもないじゃろうしの。満員ならともかく、これくらいなら悲観するほどでもないじゃろう」
という同森さんの言い分も、それはまあ確かにその通りなのでしょう。男湯と混浴でどっちの使用率が上かと考えたら、そりゃまあやっぱり男湯なんでしょうし。……そんなもんですって、実際。
などと自分に言い聞かせるように、かつ言い訳のようにそんなふうに考えていたところ、
「そもそも悲観するようなことなのでありますか?」
と、大吾の足元辺りから。もちろんのことその言葉の主はウェンズデーなわけですが、それはともかくその内容には目を覚まさせられたというか痛いところを突かれたというか。
「さすがにもう、恥ずかしいとか気を遣ってしまうとか、人間のそういうところはある程度の理解があるつもりではあるでありますが、それでも、というかだからこそ、見られるのは嬉しいことなのでは?」
その言い方からして、見たいものが見られて嬉しい、という単純な話をしているわけではないのでしょう。だからといって複雑な話というわけでもなくて、ぐだぐだ言っても結局は見たい、というそれはそれで単純に話ではあったりするんですけどね。
「究極的にはまあそうなるんだけどな」
こんな話に究極なんて単語を持ち出すのはどうかと思いましたが、けれどもしかし大吾の言う通りではあるのでしょう。なんの躊躇いもなく「見たい」と言える男がいたとしたら、それはいろいろと極まっちゃってるんでしょうしね。
「自分の彼女だけならもっと話は簡単なんだろうけどね」
「『それ以外の女の人』だけならまだしも、ここにいるそれぞれの彼女でもあるわけじゃしな」
そう、そんな非常にややこしい状況なのです。相手の女の人に気を遣う、というだけであるなら数はどうあれ気遣いの種類は一つで済むわけですが、その女の人の彼氏であるところの誰それにも気を遣わざるを得ないわけです。
だったら無理して全員で来なくても、という話になってしまうのかもしれませんが、それはいろんな意味で野暮ってもんでしょう。ここでの「いろんな意味」というのはもちろんやらしい意味だけを指したものではなく、またやらしい意味を除外したものでもなく、ということではあるのですが。
「よしお前ら、ちょっと円陣組もうぜ」
とここで、唐突にまったく想定外の提案をしてきたのは口宮さんでした。
ここは脱衣場であって、ならば僕達だってまったく立ち尽くしたまま話をしていたというわけではなくて、人によって半裸だったり全裸だったり――というか元が浴衣姿ですから下着を履いてるか履いてないかでしかないのですが――する中、円陣を組もうと。
一応、タオルを腰に巻く僕なのでした。
「なんじゃ急に」
「ここであーだこーだ言っててもなっていう」
黙っていた僕と大吾はもとより口に出して訝しんだ同森さんですら、思うところあったということなのでしょう、それ以上何か言うでもないまま円を描くポジションにつくのでした。
四人なので円というよりは四角でしたが。
あと、なぜか真ん中にウェンズデーとジョンが位置していましたが。
ともあれ僕達は肩を組み合い、円陣を組んだわけです。半裸もしくは全裸の男四人による円陣って、なんか外から見たらものすごい絵面になってそうですが。
「見たいか見たくないかって言われたらどっちだお前ら」
円陣を組んだのであればそりゃあそうなるのでしょう、音頭を取り始める口宮さんなのでした。そしてこれが音頭取りであるなら、返答の仕方は初めから定まっているようなものでして、
『見たい』
見事に一致する男心なのでした。
「ここまで来て彼氏がどうとか気にしてても仕方ねえよな」
『仕方ねえ』
「恨みっこなしだよな」
『恨みっこなし!』
「よっしゃあじゃあ行くぞドスケベども!」
『おう!』
ここでお互いの肩をぐっと押さえ付け合い、そして反動で弾けるかのように円陣が解消されるわけです。ううむ、打合せも何もなしにこうも綺麗に纏まるとは。
……もちろんのこと、周囲に他のお客さんがいないと確認してのうえで行ったことではあったんですけどね?
「な、なな、なんだか怖かったであります」
「ワウゥ」
ごめんね二人とも、なんだか思ったよりハッスルしちゃって。
というわけで僕と大吾の二人がウェンズデーとジョンを撫でたりなんだりして慰めていたところ、「今の円陣の話もあるけど」と口宮さん。
「ぶっちゃけ、俺ら男より女側のほうがよっぽどキツいだろっていうのもあってな」
「あー、異原は特にそうじゃろうしなあ」
「だろ?」
というわけで、そりゃ確かにその通りなんだろうなと。異原さんのことについても。
もちろん女性でない僕達のそんな考えなんて偏見でしかなかったりするのかもしれませんが、それならそれで問題が一つ減るだけですしね。
といったところで。
いざ。
「そりゃ男のほうが早いよね」
かなりの覚悟、もしくは意気込みとともに入場した僕達ドスケベ一向ではありましたが、どうやら女性側はまだ脱衣場から出てきていないようでした。というのは「女性の着替えは時間が掛かる」という当然――と言ってしまうといい顔はされないのかもしれませんが――の事象から導き出された結果であって、となればそれに気付けなかったことも含め、肩透かし感はかなりのものなのでした。
ちなみにどうでもいい補足として、今回は僕に限らず全員が腰にタオルを巻いての入場となったのでした。
「言いたいことは分かるけどよ兄ちゃん」
といったところで、口宮さん。
「私服ならともかく浴衣脱ぐだけじゃあ男も女も変わらねえだろうし、それに俺ら円陣組んだりして余計な時間使ってんだぞ? ここは『遅い』と見ていいんじゃねーか?」
「あ」
そうでした。思い返してみるだけでもかなり間抜けな話ですが、僕達は脱衣場で随分とゆっくりしていたのでした。というのは時間的な話であって、内面についてはゆっくりするどころの騒ぎではなかったわけですが。本当に騒いでたわけですが。
そんなことにすら気付けなかった自分の発奮ぶりはなんとも恥ずかしかったりするわけですが、しかし口宮さん、そこに言及することなく視線を逸らします。
そして逸らした視線が女性用の脱衣場へ繋がる引き戸へ向けられたところで、
「あいつなんかゴネてんのかなあ」
と。なるほど、だから真っ先に遅いと言ってきたのが口宮さんだったわけか――というのはただの偶然なのかもしれませんけどね。
「なんにせよここで突っ立ってても仕方ないじゃろう」
言って、すたすたと流し場に向けて歩き始めたのは同森さん。そりゃ確かにそうなのでしょう。し、女性陣が入ってきた時、出入り口のすぐ傍で固まってる男どもを見てどう思うって話でもあるんでしょうしね。
ちなみに他のお客さんですが、やはり混浴のほうにも若干名ながら入っていたのでした。とはいえ、景色を見ているということなのでしょう、広い湯船の一番奥側に入っていたりするのでした。ならば確認するにしても遠目がちになり、そのせいかそちらにはあまりどぎまぎさせられはしなかったりも。そんなもんなんでしょうね、意外と。
と、それはともかく男性一向、同森さんに倣って従ってぞろぞろと洗い場へ。
「ウェンズデーとジョンはどうする? もっかい身体洗うか?」
「お願いしたいであります!」
「ワフッ」
「つーわけで孝一も手伝え」
「分かった」
変に昂った気分を紛らわせるためにも、ということで、何の気なしな返事をしておきながらも内心では有難く引き受けさせて頂く所存なのでした。
ところで、それとはまたちょっと別の話なのですが。
「他のお客さんいるけど、ウェンズデー普通に喋っちゃって大丈夫かな。ナタリーさんもだけど」
気にするのであれば「犬はともかくペンギンがこんな所に存在する」という点から既に気にすべきなのでしょうが、しかしそれについてはまあ目を瞑っておくとしましょう。今更そこを問題にするのはさすがに酷い話ですしね。
で、早くも液体石鹸を手で泡立たせ始めている大吾の返事ですが、
「ここの人にしてもらったって言えば大丈夫だろ多分。オレら以外の客だって、ここが旅館以外に何やってる所か知らずに来てるってことはねえんだろうし」
とのことでした。
「かな、やっぱり」
別に秘密にしてるわけでなし、というか、本業を秘密にしちゃったら色々成り立たないでしょうというか。思えば四方院家が僕達以外のお客さんにどんなふうに接しているか見たことはありませんが、そんな注意点があるとしたら真っ先に言われてるんでしょうしね。そしてそれどころか、ジョン達が風呂場に入ることを了承されてすらいるわけで。
「困るのであれば黙っておくでありますが……」
「気にすんなって。んなことされたほうが困る」
洗う面積的に大変そうな方を引き受けてくれたということなのでしょう、大吾はジョンを足の間に座らせていたのですが、しかしウェンズデーとのそんな遣り取りに乗っかって大吾の手はウェンズデーへ。しかもそのまま身体を洗い始めまでしてしまって、ということはつまり、ジョンは僕の担当ということになったようなのでした。
しかしまあ、気を紛らわせるという観点で考えれば大変なほうこそ有難くもあるわけで。
ならばよし、どんとこいジョン。
気を紛らわせるという名目で始めたこのジョンの身体を洗うという作業ですがしかし、そもそもからしてふわふわと心地良い触り心地のジョンのこと、水に濡れてふわふわ感が失われても尚その指通りは上質と言わざるを得ず、ならばこの作業は気を紛らわせるどころかいっそ夢中になれるほどのものなのでした。
「まあまあ、そうは言ってもそりゃあ栞の髪には敵わないかなあ」
なんて、むしろ夢中になり過ぎないために栞の名前を出してみたりすら。
だからと言って口に出しまではしなくてよかったのかもしれませんが、ともあれそんなことを口走っていたところ、するとジョンが低く喉を鳴らします。
「おっ。ジョン、ここ気持ちいい?」
「ワフッ」
ブラッシングの時もそうですが、ジョンが気持ち良さそうにする箇所、というのはやはり探すべきなのでしょう。特に今回、身体を洗うのは前回の入浴時に既に終えているわけで、ならばどちらかといえばジョンを喜ばせてあげるのがメインでもあるんでしょうしね。
というわけで、それから暫くはその気持ちいいポイントをぐりぐりと。引き続き低く喉を鳴らしはしながら、けれど身動き一つせずこちらのなすがままにさせてくれているジョンは、そりゃもう愛い奴にも程があるのでした。
しかしもちろんその一か所だけをずっとぐりぐりしているというわけでもなく、メインではないにしてもやはり身体は一通り洗い終えなくてはなりませんし、それに際して他の気持ちいいポイントを探したりもするわけです。
なんせジョンはデカく、なのでやりごたえはかなりのものです。そういえばいつの間にか隣でウェンズデーを洗っていた大吾がそのウェンズデーごといなくなっていたりしますが、つまりはそれほど、こちらのほうが時間が掛かるということなのでしょう。
「おお。ふっふっふ、ここもかジョン」
「ワウゥ」
ここまでやったからには乾燥後のもふもふ一番乗りはこの僕が頂かねばなるまい――などと別の楽しみまで湧いてきたところ、するとその時でした。
「そいやっ」
という声とともに、これまで存在していなかった様々な感覚が身体を駆け巡ります。もちろんのことそれはジョンではなく、僕の話として。
重さ。
温かさ。
柔らかさ。
覚えのある声。
ジョンのものではない匂い。
これは――。
「栞!?」
「だよ。私じゃなかったら大変だし」
そりゃそうですよね!
ということで一応ながら何が起こったか説明しますと、後ろから抱き付かれました。というか、現在進行形で抱き付かれている真っ最中ですが。
こうなるまで背後の栞の存在、並びに遅くなっていたとはいえ女性陣が入ってきておかしくないほど時間が経過していることにまるで気付かなかった時点で、ジョンの身体を洗うことに夢中になり過ぎたということにもはや弁解の余地はないでしょう。
が、そもそも誰も弁解を求めていません。
問題は栞です。栞というか、背中を襲った感触に栞以外のものが交じっていないことというか。
「栞」
「ん?」
「タオルは?」
「両手で抱き付いてるのにタオルで前隠すの維持したままっていうのは難しいかなあ。うん、だから、足元に落ちてるね今」
足元、というのはもちろん僕のではなく栞のであって、ならば僕の視界には入ってこないわけですが、それはともかくならばつまりどういうことかというのは、しかし敢えて語るまでもないでしょう。
手が駄目なら顎で挟めば、なんて思わなくもなかったのですが、そこまでするんだったらいっそ抱き付かなきゃいいんじゃ、という話にもなるわけで、ならばこれが、これこそが我が愛しの妻である栞の、栞らしい所業ということになるのでしょう。
「異原さんに爪の赤を煎じて飲ませてあげればいいんじゃないかな、栞は」
「それ、どっちかっていうと飲む側を小馬鹿にする時の言い方じゃなかった?」
「ニュアンスが伝わってくれればそれでいいよ。……それで、今その異原さん、というか他の人達は?」
いくら抱き付かれているとはいえ自分で後ろを振り向いて確認することぐらいはできるのですが、しかしここはそうすることなく栞に尋ねる僕なのでした。
栞に抱き付かれるのはまあ平気であるにしても、他の女性陣がいきなり視界に飛び込んでくるというのは、やはり気を揉むところではあるわけです。
「大吾くん達と顔合わせ中。私だけ相手がいないんだもん、そりゃ抜け出てもくるよ」
「ごめん。……じゃ、なくて」
「宜しい。ふふ、まあジョンを放り出してこっちに来るよりはずっといいしね」
すると栞、僕の肩越しに手を伸ばしてジョンの頭を撫でるのでした。
「気持ち良かった? ジョン」
「ワフッ」
「ふふっ、よかったねえ」
唇を離すと、再度前を向き直りながらそう言って仕切り直しを図る栞なのでした。甘えるのはこれくらいに、なんて言いつつも足の間から出ようとはしない辺り、これはもう甘えるとかそういう扱いですらないようです。
「おでこが赤くなってたことについてのお話をしてもらおうかなあ」
「え、まだ赤い?」
「んー、ふふ、さすがにもう引いてたけどね」
そりゃよかった、とは思いますが、あそこまでの痛みを伴うものであった以上、もう少ししたら今度は青じんで来たりするのかもしれません。見た目はともかく触ったら痛いという意味で、油断は禁物でしょう。
「まあ、デコピンされたんだよね。同森さんに」
「ああ、間違いなく痛かったんだろうねえ」
「そりゃね。普通の人にグーで殴られるのと大して変わらないんじゃないかなあれは」
そんな話を聞いて栞は笑うわけですが、こちらとしては笑いごとではなかったりします。何も誇張しているわけではなく、本気でそう感じたのですから。
「で、なんでそうなったかなんだけど」
「音無さんに告白したからじゃないの?」
「違ったんだよね。大元がそれなの話かだけど、もうちょっと細かい話になるっていうか」
もしそうだったとしても文句はない、どころか同様に有難がって痛い目に遭っていたのでしょうし、それを抜きにしても細かい話であるなら細かい違いでしかないのですが、しかしだからといって「じゃあ大体同じなんだし別にいいか」とはならないのでした。栞にはそんな細かいところまで知ってもらいたいですし、だからこそこんな姿勢になってまで話を聞いてもらっているわけですしね。
「その話をしたのは何のためだって聞かれたんだよ。で、栞と僕のためって言ったんだけど、そしたらデコピンってことになって」
「お気に召されなかった?」
「ううん、お気に召された結果ってことだったよ。どっちか片方だけだったら平手だったって言ってたし」
「ふふ、孝さんじゃあ紙みたいに飛ばされちゃいそうだねえ」
「さらっと怖いこと言うね……」
というのはもちろん、容易にその光景が想像できるからなのですが。平手なんて単純に腕の振りだけでなく上半身の捻りなんかも力に加えられるわけで、ならば指の力だけであの激痛を引き起こせる同森さんがそんなことをしてしまったらどうなるかなんて、容易に想像できるにしたってあまり想像したくはありませんでした。事件になりかねません。
「でも孝さん、お気に召して何もなし、ならともかくお気に召してデコピンっていうのは、じゃあやっぱり?」
背後で顔を引きつらせている僕に構うことなく尋ねてくる栞でしたが、しかしその結びは「なんで?」ではなく「じゃあやっぱり?」なのでした。
何か罰が欲しい。僕がそんなふうに考えることくらい、初めから分かっていたのでしょう。どの時点を「初め」とするかは――もしかしたら、音無さんのことで激怒させてしまったあの日から。
「想像してる通りだと思うよ。ただ、自分から言い出したんじゃなくて同森さんに見抜かれたんだけどね。何もせずに解散じゃあ据わりが悪いだろうって」
「よかったねえ。ふふ、他の人にも出てくる発想だったんだね、孝さんのそれ」
「その喜ばれ方は想定外だったけどね」
嬉しい、というのとはちょっと違いますが、別に少数派を気取りたいわけでもなし、ほっとさせられるところはあるのでした。とはいえ一番理解して欲しい人には既にされているので、どのみち些事でしかなくはあるんですけどね。
「ああそれと、本筋からはちょっと離れるかもしれないけど、面白いこと聞けたよ」
「ん?」
「鍛えてたおかげでデコピンなんかで済んだって。そうじゃなかったら、罰ってことだしそれこそ平手ぐらいしてなきゃ駄目だったろうけど、そんなことするほど怒ったわけでもなかったしって」
「あー、なるほどねえ」
酔った頭でさらりと理解できるというのは中々見上げたものだったりするかもしれません、なんて言ってみたところで酔った経験がない僕の言葉じゃあ説得力の欠片もありはしないわけですが、まあいいじゃないですか。誰かを説得するための言葉でもないんですし。
と誰にともなく、というか自分に向けてそう思っていたところ、さらりと理解した栞の話はまだ続くようで、
「じゃあ次に会った時には私からもお礼言わないとねえ。デコピンで済ませてあげてくれてありがとうございますって」
とのことでした。
が、それについては待ったを掛けさせてもらいます。
「栞から礼を言うようなことかなあ。いや、程度じゃなくて中身の話なんだけど、栞が話に入ってくるっていうのはそれこそ気分が良くないんじゃない? 同森さん」
僕が音無さんを好きになったのは栞と出会うよりもっと前の話で、ならば僕が音無さんを好きだったという話それ自体には栞は関係が無いわけです。そりゃあ今こうして報告をしていたりはするのですが、それは告白の結果がどうだったという話でしかなく、なのでそれを考えてみてもやはり、僕が受けた罰に対して栞が頭を下げるというのは、どうにもちぐはぐだと思うのです。
すると栞は特に動かず前を向いたまま、けれどまるでその視線の先に僕がいるかのようにぴんと筋が通ったような声で、こんなふうに。
「言ってることは分かるけど、でも孝さん、良いか悪いかは別にして、そもそも孝さんにその話を引きずらせてたのって私なんだよね。何のためにっていう話だって、だから『私と孝さんのために』だったんでしょ?」
「それは、まあ」
僕がこのことを忘れてしまおうとしたところを、激怒してそれを引き留めた栞。激怒したということは忘れてしまわないよう強く望んだということになるわけで、忘れてしまわないよう強く望んだというのなら、そこには強く欲する「忘れてしまわないことで得られる何か」があった筈なのです。
とはいえもちろん、実際に何かを得るのは栞ではありません。なんせ僕の過去の想いについての話です、何かを得るのは当然僕であって、栞が欲しているのはそこから副次的に得られる別の何か、なのです。
「じゃあお礼くらいはね」
そんなふうに考えてしまうともう、それくらいならいいか、と思わざるを得ないのでした。
「大丈夫、孝さんと違って謝りまではしないから」
「それを言われちゃうとねえ」
何をどう思おうが思うまいが、ぐうの音も出なくなってしまうわけです。そこまで追い込む必要はなかったんですけどね、今の話については。
「じゃあそれについては私の圧勝ということで別の話に移るけど」
「圧勝って、まあそりゃそうなんだろうけどさ」
「徹底的に叩き潰しておかないと、もしかしたら勝ちに来ちゃうかもしれないんだもん孝さんって」
「その目があるならそりゃそうするけど」
夫に対してとんでもない言い草ではあるのでしょうが、身に覚えがある以上はそれにけちを付けられるわけもなく。それにしたって圧勝宣言をされるまでもなく潰されに潰され切ってはいたわけですが。
「で、別の話なんだけど」
「どうぞ」
「あの話ってしたの? なんで音無さんに話したのがあのタイミングだったかっていう」
「…………」
どうしてあのタイミングだったか、というのはもちろん一つの要素だけから成り立っているわけでもなくいろいろなものが重なっての判断ではあったのですが、しかし栞がそのうちの何について尋ねてきているかは、そのにやけた顔からさらっと推理できてしまうのでした。
酔ってるんだから元々にやけてるんじゃあ、という話ではあるんでしょうけど、ぶっちゃけたところそろそろ覚めてきてるんでしょうしね。僕に完敗を認めさせた語り口にしたってそうですが、口を開く度に出てきていた小さな笑いがなくなりつつあったりもするみたいですし。
「ふふ、さすがに無理かあ。真面目な告白の後にそんな、ねえ?」
「その時が来たらもしかしたら語るまでもなく察してもらえるかもしれないけどね……」
察してもらえる、と体面上そう言いはしましたが、察される、と言ったほうが意味のうえでは相応しかったりもするのでした。
だって裸見た後に告白とか最悪じゃないですか。
なんて、そりゃあ音無さん本人はもとより、同森さんにだって言えませんともそんなこと。
「部屋でゆっくりしてる間に思ったんだけどよ」
時が来ました。などと深刻ぶるのもそれはそれでどうかという話ではあるのですが、ともあれ時が来ました。何ってそりゃあ、夕食も食べ終わった後じゃあ残るイベントなんて一つしかないわけで。
混浴です。
で、その混浴入りに際して、まだ女性陣と合流してはいない脱衣場で、大吾が誰にともなく言いました。
「他の客が来てなかったらタオル巻いて入っちまえ、みたいな話だったけど、晩飯ん時にあんだけ人いたんだし、じゃあついでに風呂も入ってくって人は結構いるんじゃねえかなって」
なんで部屋でゆっくりしてる時にそんなこと考えてんだ、とはしかし、同じ男である以上言えはしませんとも。全く気にしないほうが変ですって、やっぱり。
しかしそこへ、異原さんとのあれやこれやと変わらない調子の平坦さで口宮さんがこんなふうに。
「まあここまで来たらもう棚の使用率から分かっちまうんだけどな。他の客がどれくらいいるかってのは」
そうなんですよね。ちょこちょこ衣服が収められてるんですよね、棚。
「しかしまあその全員が混浴に向かうってわけでもないじゃろうしの。満員ならともかく、これくらいなら悲観するほどでもないじゃろう」
という同森さんの言い分も、それはまあ確かにその通りなのでしょう。男湯と混浴でどっちの使用率が上かと考えたら、そりゃまあやっぱり男湯なんでしょうし。……そんなもんですって、実際。
などと自分に言い聞かせるように、かつ言い訳のようにそんなふうに考えていたところ、
「そもそも悲観するようなことなのでありますか?」
と、大吾の足元辺りから。もちろんのことその言葉の主はウェンズデーなわけですが、それはともかくその内容には目を覚まさせられたというか痛いところを突かれたというか。
「さすがにもう、恥ずかしいとか気を遣ってしまうとか、人間のそういうところはある程度の理解があるつもりではあるでありますが、それでも、というかだからこそ、見られるのは嬉しいことなのでは?」
その言い方からして、見たいものが見られて嬉しい、という単純な話をしているわけではないのでしょう。だからといって複雑な話というわけでもなくて、ぐだぐだ言っても結局は見たい、というそれはそれで単純に話ではあったりするんですけどね。
「究極的にはまあそうなるんだけどな」
こんな話に究極なんて単語を持ち出すのはどうかと思いましたが、けれどもしかし大吾の言う通りではあるのでしょう。なんの躊躇いもなく「見たい」と言える男がいたとしたら、それはいろいろと極まっちゃってるんでしょうしね。
「自分の彼女だけならもっと話は簡単なんだろうけどね」
「『それ以外の女の人』だけならまだしも、ここにいるそれぞれの彼女でもあるわけじゃしな」
そう、そんな非常にややこしい状況なのです。相手の女の人に気を遣う、というだけであるなら数はどうあれ気遣いの種類は一つで済むわけですが、その女の人の彼氏であるところの誰それにも気を遣わざるを得ないわけです。
だったら無理して全員で来なくても、という話になってしまうのかもしれませんが、それはいろんな意味で野暮ってもんでしょう。ここでの「いろんな意味」というのはもちろんやらしい意味だけを指したものではなく、またやらしい意味を除外したものでもなく、ということではあるのですが。
「よしお前ら、ちょっと円陣組もうぜ」
とここで、唐突にまったく想定外の提案をしてきたのは口宮さんでした。
ここは脱衣場であって、ならば僕達だってまったく立ち尽くしたまま話をしていたというわけではなくて、人によって半裸だったり全裸だったり――というか元が浴衣姿ですから下着を履いてるか履いてないかでしかないのですが――する中、円陣を組もうと。
一応、タオルを腰に巻く僕なのでした。
「なんじゃ急に」
「ここであーだこーだ言っててもなっていう」
黙っていた僕と大吾はもとより口に出して訝しんだ同森さんですら、思うところあったということなのでしょう、それ以上何か言うでもないまま円を描くポジションにつくのでした。
四人なので円というよりは四角でしたが。
あと、なぜか真ん中にウェンズデーとジョンが位置していましたが。
ともあれ僕達は肩を組み合い、円陣を組んだわけです。半裸もしくは全裸の男四人による円陣って、なんか外から見たらものすごい絵面になってそうですが。
「見たいか見たくないかって言われたらどっちだお前ら」
円陣を組んだのであればそりゃあそうなるのでしょう、音頭を取り始める口宮さんなのでした。そしてこれが音頭取りであるなら、返答の仕方は初めから定まっているようなものでして、
『見たい』
見事に一致する男心なのでした。
「ここまで来て彼氏がどうとか気にしてても仕方ねえよな」
『仕方ねえ』
「恨みっこなしだよな」
『恨みっこなし!』
「よっしゃあじゃあ行くぞドスケベども!」
『おう!』
ここでお互いの肩をぐっと押さえ付け合い、そして反動で弾けるかのように円陣が解消されるわけです。ううむ、打合せも何もなしにこうも綺麗に纏まるとは。
……もちろんのこと、周囲に他のお客さんがいないと確認してのうえで行ったことではあったんですけどね?
「な、なな、なんだか怖かったであります」
「ワウゥ」
ごめんね二人とも、なんだか思ったよりハッスルしちゃって。
というわけで僕と大吾の二人がウェンズデーとジョンを撫でたりなんだりして慰めていたところ、「今の円陣の話もあるけど」と口宮さん。
「ぶっちゃけ、俺ら男より女側のほうがよっぽどキツいだろっていうのもあってな」
「あー、異原は特にそうじゃろうしなあ」
「だろ?」
というわけで、そりゃ確かにその通りなんだろうなと。異原さんのことについても。
もちろん女性でない僕達のそんな考えなんて偏見でしかなかったりするのかもしれませんが、それならそれで問題が一つ減るだけですしね。
といったところで。
いざ。
「そりゃ男のほうが早いよね」
かなりの覚悟、もしくは意気込みとともに入場した僕達ドスケベ一向ではありましたが、どうやら女性側はまだ脱衣場から出てきていないようでした。というのは「女性の着替えは時間が掛かる」という当然――と言ってしまうといい顔はされないのかもしれませんが――の事象から導き出された結果であって、となればそれに気付けなかったことも含め、肩透かし感はかなりのものなのでした。
ちなみにどうでもいい補足として、今回は僕に限らず全員が腰にタオルを巻いての入場となったのでした。
「言いたいことは分かるけどよ兄ちゃん」
といったところで、口宮さん。
「私服ならともかく浴衣脱ぐだけじゃあ男も女も変わらねえだろうし、それに俺ら円陣組んだりして余計な時間使ってんだぞ? ここは『遅い』と見ていいんじゃねーか?」
「あ」
そうでした。思い返してみるだけでもかなり間抜けな話ですが、僕達は脱衣場で随分とゆっくりしていたのでした。というのは時間的な話であって、内面についてはゆっくりするどころの騒ぎではなかったわけですが。本当に騒いでたわけですが。
そんなことにすら気付けなかった自分の発奮ぶりはなんとも恥ずかしかったりするわけですが、しかし口宮さん、そこに言及することなく視線を逸らします。
そして逸らした視線が女性用の脱衣場へ繋がる引き戸へ向けられたところで、
「あいつなんかゴネてんのかなあ」
と。なるほど、だから真っ先に遅いと言ってきたのが口宮さんだったわけか――というのはただの偶然なのかもしれませんけどね。
「なんにせよここで突っ立ってても仕方ないじゃろう」
言って、すたすたと流し場に向けて歩き始めたのは同森さん。そりゃ確かにそうなのでしょう。し、女性陣が入ってきた時、出入り口のすぐ傍で固まってる男どもを見てどう思うって話でもあるんでしょうしね。
ちなみに他のお客さんですが、やはり混浴のほうにも若干名ながら入っていたのでした。とはいえ、景色を見ているということなのでしょう、広い湯船の一番奥側に入っていたりするのでした。ならば確認するにしても遠目がちになり、そのせいかそちらにはあまりどぎまぎさせられはしなかったりも。そんなもんなんでしょうね、意外と。
と、それはともかく男性一向、同森さんに倣って従ってぞろぞろと洗い場へ。
「ウェンズデーとジョンはどうする? もっかい身体洗うか?」
「お願いしたいであります!」
「ワフッ」
「つーわけで孝一も手伝え」
「分かった」
変に昂った気分を紛らわせるためにも、ということで、何の気なしな返事をしておきながらも内心では有難く引き受けさせて頂く所存なのでした。
ところで、それとはまたちょっと別の話なのですが。
「他のお客さんいるけど、ウェンズデー普通に喋っちゃって大丈夫かな。ナタリーさんもだけど」
気にするのであれば「犬はともかくペンギンがこんな所に存在する」という点から既に気にすべきなのでしょうが、しかしそれについてはまあ目を瞑っておくとしましょう。今更そこを問題にするのはさすがに酷い話ですしね。
で、早くも液体石鹸を手で泡立たせ始めている大吾の返事ですが、
「ここの人にしてもらったって言えば大丈夫だろ多分。オレら以外の客だって、ここが旅館以外に何やってる所か知らずに来てるってことはねえんだろうし」
とのことでした。
「かな、やっぱり」
別に秘密にしてるわけでなし、というか、本業を秘密にしちゃったら色々成り立たないでしょうというか。思えば四方院家が僕達以外のお客さんにどんなふうに接しているか見たことはありませんが、そんな注意点があるとしたら真っ先に言われてるんでしょうしね。そしてそれどころか、ジョン達が風呂場に入ることを了承されてすらいるわけで。
「困るのであれば黙っておくでありますが……」
「気にすんなって。んなことされたほうが困る」
洗う面積的に大変そうな方を引き受けてくれたということなのでしょう、大吾はジョンを足の間に座らせていたのですが、しかしウェンズデーとのそんな遣り取りに乗っかって大吾の手はウェンズデーへ。しかもそのまま身体を洗い始めまでしてしまって、ということはつまり、ジョンは僕の担当ということになったようなのでした。
しかしまあ、気を紛らわせるという観点で考えれば大変なほうこそ有難くもあるわけで。
ならばよし、どんとこいジョン。
気を紛らわせるという名目で始めたこのジョンの身体を洗うという作業ですがしかし、そもそもからしてふわふわと心地良い触り心地のジョンのこと、水に濡れてふわふわ感が失われても尚その指通りは上質と言わざるを得ず、ならばこの作業は気を紛らわせるどころかいっそ夢中になれるほどのものなのでした。
「まあまあ、そうは言ってもそりゃあ栞の髪には敵わないかなあ」
なんて、むしろ夢中になり過ぎないために栞の名前を出してみたりすら。
だからと言って口に出しまではしなくてよかったのかもしれませんが、ともあれそんなことを口走っていたところ、するとジョンが低く喉を鳴らします。
「おっ。ジョン、ここ気持ちいい?」
「ワフッ」
ブラッシングの時もそうですが、ジョンが気持ち良さそうにする箇所、というのはやはり探すべきなのでしょう。特に今回、身体を洗うのは前回の入浴時に既に終えているわけで、ならばどちらかといえばジョンを喜ばせてあげるのがメインでもあるんでしょうしね。
というわけで、それから暫くはその気持ちいいポイントをぐりぐりと。引き続き低く喉を鳴らしはしながら、けれど身動き一つせずこちらのなすがままにさせてくれているジョンは、そりゃもう愛い奴にも程があるのでした。
しかしもちろんその一か所だけをずっとぐりぐりしているというわけでもなく、メインではないにしてもやはり身体は一通り洗い終えなくてはなりませんし、それに際して他の気持ちいいポイントを探したりもするわけです。
なんせジョンはデカく、なのでやりごたえはかなりのものです。そういえばいつの間にか隣でウェンズデーを洗っていた大吾がそのウェンズデーごといなくなっていたりしますが、つまりはそれほど、こちらのほうが時間が掛かるということなのでしょう。
「おお。ふっふっふ、ここもかジョン」
「ワウゥ」
ここまでやったからには乾燥後のもふもふ一番乗りはこの僕が頂かねばなるまい――などと別の楽しみまで湧いてきたところ、するとその時でした。
「そいやっ」
という声とともに、これまで存在していなかった様々な感覚が身体を駆け巡ります。もちろんのことそれはジョンではなく、僕の話として。
重さ。
温かさ。
柔らかさ。
覚えのある声。
ジョンのものではない匂い。
これは――。
「栞!?」
「だよ。私じゃなかったら大変だし」
そりゃそうですよね!
ということで一応ながら何が起こったか説明しますと、後ろから抱き付かれました。というか、現在進行形で抱き付かれている真っ最中ですが。
こうなるまで背後の栞の存在、並びに遅くなっていたとはいえ女性陣が入ってきておかしくないほど時間が経過していることにまるで気付かなかった時点で、ジョンの身体を洗うことに夢中になり過ぎたということにもはや弁解の余地はないでしょう。
が、そもそも誰も弁解を求めていません。
問題は栞です。栞というか、背中を襲った感触に栞以外のものが交じっていないことというか。
「栞」
「ん?」
「タオルは?」
「両手で抱き付いてるのにタオルで前隠すの維持したままっていうのは難しいかなあ。うん、だから、足元に落ちてるね今」
足元、というのはもちろん僕のではなく栞のであって、ならば僕の視界には入ってこないわけですが、それはともかくならばつまりどういうことかというのは、しかし敢えて語るまでもないでしょう。
手が駄目なら顎で挟めば、なんて思わなくもなかったのですが、そこまでするんだったらいっそ抱き付かなきゃいいんじゃ、という話にもなるわけで、ならばこれが、これこそが我が愛しの妻である栞の、栞らしい所業ということになるのでしょう。
「異原さんに爪の赤を煎じて飲ませてあげればいいんじゃないかな、栞は」
「それ、どっちかっていうと飲む側を小馬鹿にする時の言い方じゃなかった?」
「ニュアンスが伝わってくれればそれでいいよ。……それで、今その異原さん、というか他の人達は?」
いくら抱き付かれているとはいえ自分で後ろを振り向いて確認することぐらいはできるのですが、しかしここはそうすることなく栞に尋ねる僕なのでした。
栞に抱き付かれるのはまあ平気であるにしても、他の女性陣がいきなり視界に飛び込んでくるというのは、やはり気を揉むところではあるわけです。
「大吾くん達と顔合わせ中。私だけ相手がいないんだもん、そりゃ抜け出てもくるよ」
「ごめん。……じゃ、なくて」
「宜しい。ふふ、まあジョンを放り出してこっちに来るよりはずっといいしね」
すると栞、僕の肩越しに手を伸ばしてジョンの頭を撫でるのでした。
「気持ち良かった? ジョン」
「ワフッ」
「ふふっ、よかったねえ」
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