家守さんが高次さんに寄り掛かり、高次さんが家守さんに寄り掛かっているように、栞さんも僕に寄り掛かっている部分があります。普段ならば「そんなことないですよ」とでも言っている場面かもしれませんが、しかし今この場では、そんな言い回しは不要なのでしょう。
「危うく振られかけましたからね、告白した時は」
少々意地悪かもしれませんが、そんな返事をしてみました。もちろんこの話の流れですから、振られかけたというのは、いま栞さんが言った「事情」に起因しています。
「そりゃだって、今みたいになるなんて想像もできなかったもん。初めからこうなるって知ってたら、もちろん喜んで受け入れてたよ?」
「まあ、僕だって初めからこうなるって思ってたわけじゃないですけどね」
そもそも、告白した時点では栞さんの事情なんて全く知らないも同然だったわけですし。
どうしようもないこととは言え、何も知らないまま栞さんを好きになっていたというのは、今から考えると冷や汗ものだったりするのかもしれません。
しかしそれはともかく、そして栞さんの「事情」がどういうものかというのも今更なのでともかくとして、
「あー……えっと、すっかり私とこうくんの話になっちゃったけど」
少しだけ困った顔になる栞さんのそんな話に乗ることにしました。
続けて栞さん、「自分達のことを例にしたのが駄目だったかな」と呟くようにこぼすのですが、さてそれはどこまで遡った話だったか――ああそうそう、「お互いに寄り掛かるのは家守さんと高次さんに限った話じゃない」ってところですね。
「何が言いたかったかっていうとね、誰でも恋人に寄り掛かってるんだったら、その恋人と別れるっていうのは、ただ単に恋人がいなくなるってだけじゃなく大変なことなんじゃないかなって」
ここで別れの話が出てきたのは、唐突と言えば唐突なのかもしれません。けれど、そういう話が出てくる原因は即座に思い当たったので、不意を突かれてしまうようなことはありませんでした。
ではその原因が何かと言えば、
「まあこれ、諸見谷さんの話からそう思ったんだけどね」
ということで、諸見谷さんの話です。今付き合っている一貴さんの前にも彼氏がいたという、話したい衝動に負けて本人のいないところで話してしまった、そんな話。その辺りについての反省は、無礼ながら後回しにさせてもらいますけど。
「寄り掛かってるところがいきなりなくなっちゃったら、転んじゃいますもんねえ」
「転ぶところまでいかなくても、バランスを崩すくらいはするだろうね。そこはさっきも言ってた、寄り掛かる程度の話になるんだろうけど」
その比喩が的を射ていたのかどうかは疑問の余地ありですが、少なくとも見当外れということはないでしょう。栞さんも乗ってくれたことですし。
ところで本題である「ただ単に恋人がいなくなるってだけじゃなく大変なことなんじゃないかな」ですが、言われてみればそりゃあそうなのでしょう。そう言えば家守さんと高次さんも、相手に寄り掛かることについて、「恋人とか夫婦とか、そういうのとは別のところで」なんて言ってましたしね。
「例えばその寄り掛かる程度が低い僕なんかでも、もし栞さんと別れるようなことになったとしたら、同じように大変なんだと思いますよ。ただその、具体的にどうだっていうのは、すぐに思い付けませんけど」
なんせ程度が低いもんで、なんて頭の中では言い訳がましく言っていたりするのですが、しかしそれを口にするまでもなく、栞さんに不快感を得たような装いはまるでないのでした。
「無理に考えなくてもいいよ? 高次さんも言ってたしね。不安を予想するのはいいけど、それで本当に不安になるのはよくないって。こうくん、不安になっちゃうでしょ? 思い付いちゃったら」
「面目ないです」
「『大変なことになる』って思ってもらえるだけで充分だよ。――その点、私のほうは分かりやすいんじゃないかな? なんせ程度が高いもんで」
僕と同じような、しかしその正反対な台詞を、栞さんは頭の中だけでなくしっかり声に出すのでした。どうしてこういう差が出たのかといえば、それが言い訳ではないからなのでしょう。
「……別の男の人にまた胸の傷跡のことを話すのは、ちょっと無理かなあ。もう消しちゃってるってことを抜きにしても」
とのことなので、しばしそれについて考えを巡らせます。
で。
「うーん、光栄に思うべきか不安に思うべきか、自分の中で意見が纏まらないです」
「あはは。私も、どっちに思ってもらいたいか分かってないんだけどね」
これでも今の台詞はそれなりにハラハラしながら口にしたもので、けれどもそんなところへ栞さんは「自分も同じだ」と笑ってくれたので、ならばそれなり以上の安心がふっと胸の中に湧いてきます。
するとそんな時、栞さんは「そういえば」と。
「たった今、同じ寄り掛かり方をする気満々な話をしたけど――別の男の人と付き合い始めた時って、寄り掛かる部分はどうなるんだろう。違う人に同じ寄り掛かり方ができるものなのかな」
「胸の傷跡の話ができるかできないか以前に、もしかしたら別のところで寄り掛かることになるかもしれないってことですか?」
「まあ、うん、そういう感じ。だって、誰にでも同じものを求めるって、ちょっと無理があるでしょ? 違う人なんだもん」
言われてみれば単純明快な話で、違う人物を相手に全く同じやり方で接していくというのは、そりゃあ無理があるでしょう。
もちろん寄り掛かりの話についてだけでなく、その他全ての状況での付き合い方にも言えることでしょうけどね。女性全員が料理の経験がなく、でも味噌汁だけは初めから美味しく作れる、なんてことはないんですし、だったら相手に応じて対応の仕方も変わろうというものです。
「それで思い出しましたけど、そういえば諸見谷さんがこう言ってましたよ」
また諸見谷さんか、と自分で自分に突っ込みを入れたい気分ですが、なんせ他に「付き合う相手を変えた」という人の「付き合う相手を変えたことについての話」を聞いた覚えがないので、つまり、参考になり過ぎるのです。……ごめんなさい諸見谷さん。
「別れた男の人と今付き合ってる一貴さんは、結構共通するところがあるって」
「うーん、そうなるものなのかな。どんな人を好きになるかって、完全に自分の好みの問題なんだもんね、考えてみたら」
「だから諸見谷さん、『別れはしたけどその人の好きな部分は好きなままだ』とも言ってましたよ。栞さんは――えーと、栞さんがもし、『胸の傷跡のことを話せる』って点について、僕を好きでいてくれてるんなら――」
「次に好きになるのも、そういう人なんだろうね」
……言いたいことが伝わってすっきり、という気分よりも、何を自分から誘導してまで言わせてるんだ、という恥ずかしさのほうが強かったりします。
「でも、こうくん」
けれども一方の栞さん、柔らかい表情ではありますが、その向こう側からは真剣さがひしひしと伝わってきます。勝手に照れていられる雰囲気ではありません。
「さっきも言ったけど、私はもう別の男の人にその話はできないと思う。もしこうくんが、というか諸見谷さんが言った通り、胸の傷跡のことを話せそうな人を好きになったとしても」
「……そうですか」
「ごめんね、不安にさせてばっかりで」
そこで「そんなことないですよ」と言うのは簡単だったでしょうし、そう言うべきだったのでしょう。けれど僕は、頭に浮かんだその返事にどうしても自信が持てず、しかしだからといって他の返事を思い付けるわけでもなかったので――。
「栞さん」
「ん?」
キスを、しました。
あまりに唐突なタイミングだったのは自覚するところですが、でも栞さんは、驚いた様子もなくそれを受け入れてくれました。
「…………こっちこそすいません、気の利いたことも言えなくて」
「ううん。何も言えなかったみたいだけど、気が利いてることは分かったから」
そりゃあもちろん気は常に利かせているつもりですが、行動が伴わないんじゃあ。
そんな自己批判も、取り敢えずは止めておくことにしました。
「ナタリーにも言われたもんね。たくさんキスしてずっと仲良しでいてくださいねって」
「あ、や、そういえばそんなことも……」
すっかり忘れていたことが丸出しな反応をしてしまいましたが、ということで、もちろんナタリーさんの台詞に掛けた行動だったりはしません。
ちなみに、一回だけのキスを「たくさん」とは表現しないわけですが、だったら今から……いや、いろいろぶち壊しになってしまいそうなので、それも止めておきましょう。機会があれば、ということで。
「そういえばさあ」
機会があれば、と浮かんだ欲望を先延ばしにした僕ですが、栞さんはそもそもそんなことを考えすらしていないようで、さらりと話を続ける体勢。
それはそれで素敵です。自分と対比すると余計に。
「自分が別の男の人と付き合うことばっかり考えてたけど、逆だとどうだろうね? 付き合うことになった人が以前に別の人と付き合ってたっていう」
言われてみれば、どうなんでしょう。もちろんそれくらいのことで気分を損ねたりはしないつもりですが、でもだからといって、何も変わらないということはないでしょうし。例えば――その「別の人」の話を積極的にするか否か、とか。
しかしそんなことを考えてみたところ、ある人物が頭に浮かびました。今回は、諸見谷さんでなく。
「大吾が、そのまんまその状況ですよね」
「ああ、そういえばそうだね」
成美さんと付き合っている、というか結ばれている大吾。でもその成美さんは以前、別の男性と結ばれていました。その男性というのは、最近ちょくちょくここを訪れるようになった猫さんです。
「……なんですぐに大吾くんのことを思い付かなかったんだろう? 本当に、そのまんま過ぎるくらいそのまんまなのに」
言われてみればそれもそうです。大吾のことを口にしたのが自分だとはいえ、僕も即座に思い付いたわけでないというのは同じですし。
「うーん、成美さんと猫さんがいわゆる『別れた』っていう状態じゃないから、でしょうか?」
「ああ、そっか。それだね、多分」
成美さんと猫さんは、成美さんが人間の姿になり大吾を愛するようになった今でも、しっかりと愛し合っています。諸見谷さんの言っていた「別れたけど好きなところは好きなまま」という意味でなく、死別を挟んでも気持ちの通い合った夫婦として。
二つ隣の部屋へ想いを馳せ、なのでその間黙りこくってしまいましたが、しかしどうやらそれは栞さんも同じだったようで、室内がしんと静まります。
そしてその静けさを先に打ち破ったのは、栞さんでした。
「初めに想定してたのとはちょっと違う状況だけど、それを差し引いても、やっぱり大吾くんは凄いと思う」
「凄い、ですか」
何もその意見に疑問を持ったというわけではないのですが、つい訊き返してしまいました。詳細を知りたかったのでしょう、きっと。
「うん。そりゃあ、前に別の人と付き合ってたっていうのを悪く思ったりは私だってしないだろうけど、大吾くんほど完全に受け入れられるかって言われたら、そこまでの自信はないもん」
「ですよねえ」
尋ね返した割に、僕はあっさりと頷きました。ということは、僕も初めから同じような意見だったのでしょう。その意見を頭の中ではっきりと認識する前に栞さんの話が進んでしまった、というだけで。
「むしろ別れたっていうのよりも凄いんでしょうしね、その人のことを今でも好きなままだっていうのを受け入れるのは」
「そうなんだろうねえ、やっぱり」
好きな人なんだからそんなのは関係ないだろう、と考えたくなってしまうところですが、でもやっぱり実践しているところを日常的に見ていると、感心させられざるを得ません。もちろん、常日頃からそんなことを考えているというわけではなく、こういう話をしている時限定なんですけど。
――ところで、そんなことと一緒にものすっごく冷めた意見も思い付いてしまいました。
「まあ、こういう話で大吾に感心するのって、もう何度目かになってるような気もしますけどね」
「あはは、確かにね」
まあ、数回に渡って感心できるほど凄いことなんだということで。
そしてそういう話になれば、大吾から話題を離してみようかな、なんて思ったりもするわけです。そんなふうに言われたわけでないのは、そりゃそうなんですけど。
「諸見谷さんの逆の立場の話なんだから当たり前と言えば当たり前ですけど、一貴さんも同じ立場ですよね。付き合ってる人が以前に別の人と付き合ってたっていう」
当たり前と自分で言うだけあって、栞さんもこくりと頷きます。が、しかしそこで思い付くことが一つ。
「そういえば、一貴さんだけは知らないんですよね。今の恋人以前に女の人と付き合った経験があるのかどうかって」
「あ、そうなんだ?」
とはいえ、諸見谷さんがあれだけ喋ってたんですから、一貴さんも何かあるなら話していてもおかしくはなかったでしょう。ならまあ、諸見谷さん以前には特に付き合った人がいるわけではない、と考えるほうが自然なのでしょう。
「その場で気付いてたとしても、なかなか訊き辛いことではありますけどね」
「まあ、そうだよね」
それに、無理をして訊いてみたところで、諸見谷さんから「こんなオカマに惚れる女が私以外にいてたまるか」とかそんな感じのことを言われるだけのような気もしますし。――えー、勝手な想像でごめんなさい、一貴さん。
「えーと、一貴さんがどれくらい女の人と付き合った経験があるかは分からないにしても」
栞さんが話を続けます。となれば、勝手な想像もここまでにしておきましょう。
「諸見谷さん、一貴さんの前で話してたんだよね? 今日出てきたいろいろな話」
「そりゃまあ、みんなでラーメン食べながらでしたし」
ラーメンの丼を抱えたまま一貴さんだけ移動するというようなこともあるわけがなく、ならば当たり前に仰る通りです。
「ということは、諸見谷さんは一貴さんの前でそういう話をしても大丈夫だと思ってるし、一貴さんも何とも思ってないってことだよね?」
これまた、そりゃそうでしょう。と言っても、そんなふうに納得できるのは僕が諸見谷さんが話している最中の諸見谷さんと一貴さんの様子を知っているから、ということなんでしょうけど。しかしともかく、「そんな感じでしたよ」と頷いておきます。
すると栞さん、表情がほっこりと。
「素敵だよね、そういうのって」
……そりゃあ、素敵ではあるんでしょう。そうは思いながら、でも僕は違和感を禁じ得ませんでした。
その違和感がどこから来ているかというと、何も諸見谷さんと一貴さんの時に改めて言わずとも、さっきの大吾と成美さんの話に同じことが内包されていたと思ったからです。
それにもう一つ、こっちはちょっと身を切るような話になってしまいますが、
「僕が言えたことじゃないかもしれませんけど、栞さんだってそうじゃないですか。その……僕が前に、音無さんのことで怒られてしまったことがありますし」
「ん? ああ、うん、確かにそれも同じような話ではあるんだろうけどね」
付き合ったというわけではないですが、僕は高校時代、音無さんのことが好きでした。そして偶然にもその音無さんと同じ大学に通うこととなり、今でも友人として顔を合わせる機会を得られています。
しかし一時、僕はそのことで栞さんに激怒されてしまいました。
何を思ったか「音無さんを好きだった思い出」を無かったことにしようとした僕に対し、栞さんは、「どうしてそんなことをするのか」と声を荒げたのです。
「でもこうくん、一個だけ忘れてることがあるんじゃないかな?」
栞さんの口調は、仲の良い者同士でクイズを出す時のそれでした。
忘れてることがあるんじゃないかということは、僕は何か間違っているのでしょう。となれば以前の不興を買った記憶も相まり、気持ちに焦りが生じます。
……しかし残念ながら、栞さんが自分から正解を発表するまで、僕には自分の間違いを思い付くことができませんでした。
「あの時私がああいうふうに怒ることになった原因って、私が幽霊だから、だったんだよ」
「……!」
そうでした。あの時栞さんは、「幽霊は殆どの場合に思い出としてしか人の記憶に残れない」と言っていました。だから、その思い出を無下に扱おうとした僕に対して、あそこまで怒りを露わにしたのでした。
――そうか、だから大吾でなく、諸見谷さんと一貴さんの話の時に切り出したのか。
「私にとってはそういう思い出話って大切なものだし、そう思うようになった原因が自分が幽霊だってことだからさ。じゃあ幽霊じゃなくても同じように思ってる人っていうのは、少なくとも私からすれば、素敵だなあって」
「すいません、一番肝心なところを忘れちゃうなんて」
栞さんがせっかく説明してくれているわけですが、その初めから僕には謝りたい気持ちしかありませんでした。
なので説明が終わると即座に頭を下げたわけですが、栞さんはそれを謝罪だと思っていないかのように、引き続き明るい声で言いました。
「忘れたんじゃなくて、当たり前のことだから意識に上らなかったって感じなんじゃない?」
当たり前。確かに栞さんが幽霊だというのは、当たり前過ぎて当たり前だとすら思わないほどのことです。何も彼女という間柄に限った話でなく、家族や友人を含めて、「ああ、この人は日本人だな」なんてわざわざ思わないのと同じことです。まあ、今では国籍どころかそもそも人間でない友人もいたりしますけど。
……しかし、ともかく。それにしたってやっぱり申し訳ありません。
「ずっと意識してて欲しいなんて無茶なことは言わないし、意識するべきところではしてくれるし、それに意識しなくても優しいから問題ないよ。こうくんなら」
「そんなふうに言われちゃうと、反省する余裕がなくなっちゃうんですけど……」
「大丈夫。反省してもらいたい時は、それこそあの時みたいにめいっぱい怒るから」
それは嫌がるべき話なんでしょうし、僕だって別に進んで怒られたいと思うわけではありません。が、それでも、聞いていてついつい頬が緩んでしまうのでした。
「だから、こうくんからもお願いね? まあ、わざわざ頼むまでもないんだろうけど」
「そうですね。誇れるようなことじゃないですけど」
というのも、そこまで強く言いたいわけではないのについつい、という面がないわけではないのです。それが毎度いい結果に結びついているにせよ。
けれども、栞さんは腰に手を当て、胸を逸らし、ふんっと鼻を鳴らして言いました。
「私が誇ってるから大丈夫」
「頼もしい限りです」
本当に。
僕とほぼ同じ身長、そして女性故に男の僕より線が細い体付きの栞さんですが、逸らされたその胸がとても広く見えるのでした。それと同時に、決していやらしい意味でなく――全くないとまでは言いませんが、少なくともそれが主題ではなく、その広い胸に飛び込みたくなってしまいます。
そうしてしまって不都合が発生するというわけではないんでしょう。なんせ栞さんとは、そういうことをしても不自然ではない間柄です。けれどもしかし、それは控えておくことにしました。今はこの雰囲気のまま、会話をしていたいのです。
「えーと、栞さん」
「ん?」
「今日はいろいろと、付き合う相手を変えた場合の話をしたじゃないですか。実際にそうした人達のこととか、自分だったらどうだろうかとか」
「うん」
「で、実際にそうした人達を指して『凄いな』ってことになったじゃないですか。全体の流れとしては」
「そうだね」
「もちろん僕は栞さんと別れたりするつもりなんて全然全くこれっぽっちもないわけですけど、でも、『凄いなー』と思った部分は、見習っていけたらなあ、と思います。心構えというか器の広さというか――あー、あはは、今のところは正確にはどう表したらいいのかすらハッキリさせられてないみたいですけど」
言ってる最中に自分で答えを出してしまいましたが、どうしようもない自滅でした。
というかそもそもいきなりこんな話を切りだすこと自体が妙なわけで、まあつまり、「会話をしていたい」なんて無意味に意気込んでしまった結果なのでしょう。
栞さんも同じように思っているのでしょう。単に微笑むというだけでなく、声に出してくすくすと、笑っているのでした。
で、抑え込むようにしてその笑いを中断させると、
「でも、私だってそれはそうだよ、やっぱり。『凄いなー』と思ったんならやっぱり自分もそうありたいと思うし、それに……ほら、昨日のお願いもあるし」
「お願い? 昨日の……」
即座には思い付けませんでしたが、でも栞さんが口を開く直前になって、これだというものが思い浮かびました。まあ、それを口に出すよりも前に栞さんが言ってしまうわけですけど。
「私のこと、ずっと好きでいてくださいって。だったらこっちからも、好きでいてもらえるように努力はするべきだしね」
それはただ前向きというだけのものではなく、胸を痛めるような事情や決断もあっての願いでした。それから丸一日が経っているわけですが、たったそれだけの時間で治まってしまうような種類の痛みでないことは、考える時間をとるまでもなく理解できます。
しかしそれでも、目の前の栞さんは笑顔でした。
その話を持ち出した以上、胸が痛まないわけがないのに。
――僕は今度こそ、栞さんの胸に飛び込みました。笑顔の裏にある心情が表れているのか、ついさっき同じことを考えた時よりはちょっとだけ狭くなったようにも見えた、その胸へ。
「努力するっていうのは嬉しいですけど、少なくとも今は、そんなことしなくても充分なくらいに大好きです」
「……ありがとう」
男性に女性が抱き付くならともかく、その逆であるこの体勢は、客観的に見れば極めて格好の悪いものなのでしょう。ですが当人である僕にとっては、そして恐らく栞さんからしても、今のこの体勢のほうがむしろ自然に感じられました。
僕が栞さんを好きなのは、単純に好きになったからです。
栞さんが僕を好きになったのは、栞さんが抱える事情もあってのことです。
恋人という関係になった以上、相手に寄り掛かっているのはお互い様です。しかしその比率となると、事情がある分栞さんのほうが大きいのでしょう。僕は、どちらかと言えば寄り掛かられる側であるわけです。
けれど、蓋を開けてみればこの通り。抱き付いているのは栞さんでなく、僕なのです。そして、それを自然だと感じているのです。
このお互いの立場と実際の行動の差を見るに、つまりは僕にもまだまだ努力が必要だということなのでしょう。だからこそさっき、自滅に近い意気込みを語るに至ったわけですし。
――でも、問題はありません。
僕にとって栞さんは、そんな努力に価値を見出せる女性なんですから。
この先ずっと好きでいられると、迷いなく言い切れる女性なんですから。
「危うく振られかけましたからね、告白した時は」
少々意地悪かもしれませんが、そんな返事をしてみました。もちろんこの話の流れですから、振られかけたというのは、いま栞さんが言った「事情」に起因しています。
「そりゃだって、今みたいになるなんて想像もできなかったもん。初めからこうなるって知ってたら、もちろん喜んで受け入れてたよ?」
「まあ、僕だって初めからこうなるって思ってたわけじゃないですけどね」
そもそも、告白した時点では栞さんの事情なんて全く知らないも同然だったわけですし。
どうしようもないこととは言え、何も知らないまま栞さんを好きになっていたというのは、今から考えると冷や汗ものだったりするのかもしれません。
しかしそれはともかく、そして栞さんの「事情」がどういうものかというのも今更なのでともかくとして、
「あー……えっと、すっかり私とこうくんの話になっちゃったけど」
少しだけ困った顔になる栞さんのそんな話に乗ることにしました。
続けて栞さん、「自分達のことを例にしたのが駄目だったかな」と呟くようにこぼすのですが、さてそれはどこまで遡った話だったか――ああそうそう、「お互いに寄り掛かるのは家守さんと高次さんに限った話じゃない」ってところですね。
「何が言いたかったかっていうとね、誰でも恋人に寄り掛かってるんだったら、その恋人と別れるっていうのは、ただ単に恋人がいなくなるってだけじゃなく大変なことなんじゃないかなって」
ここで別れの話が出てきたのは、唐突と言えば唐突なのかもしれません。けれど、そういう話が出てくる原因は即座に思い当たったので、不意を突かれてしまうようなことはありませんでした。
ではその原因が何かと言えば、
「まあこれ、諸見谷さんの話からそう思ったんだけどね」
ということで、諸見谷さんの話です。今付き合っている一貴さんの前にも彼氏がいたという、話したい衝動に負けて本人のいないところで話してしまった、そんな話。その辺りについての反省は、無礼ながら後回しにさせてもらいますけど。
「寄り掛かってるところがいきなりなくなっちゃったら、転んじゃいますもんねえ」
「転ぶところまでいかなくても、バランスを崩すくらいはするだろうね。そこはさっきも言ってた、寄り掛かる程度の話になるんだろうけど」
その比喩が的を射ていたのかどうかは疑問の余地ありですが、少なくとも見当外れということはないでしょう。栞さんも乗ってくれたことですし。
ところで本題である「ただ単に恋人がいなくなるってだけじゃなく大変なことなんじゃないかな」ですが、言われてみればそりゃあそうなのでしょう。そう言えば家守さんと高次さんも、相手に寄り掛かることについて、「恋人とか夫婦とか、そういうのとは別のところで」なんて言ってましたしね。
「例えばその寄り掛かる程度が低い僕なんかでも、もし栞さんと別れるようなことになったとしたら、同じように大変なんだと思いますよ。ただその、具体的にどうだっていうのは、すぐに思い付けませんけど」
なんせ程度が低いもんで、なんて頭の中では言い訳がましく言っていたりするのですが、しかしそれを口にするまでもなく、栞さんに不快感を得たような装いはまるでないのでした。
「無理に考えなくてもいいよ? 高次さんも言ってたしね。不安を予想するのはいいけど、それで本当に不安になるのはよくないって。こうくん、不安になっちゃうでしょ? 思い付いちゃったら」
「面目ないです」
「『大変なことになる』って思ってもらえるだけで充分だよ。――その点、私のほうは分かりやすいんじゃないかな? なんせ程度が高いもんで」
僕と同じような、しかしその正反対な台詞を、栞さんは頭の中だけでなくしっかり声に出すのでした。どうしてこういう差が出たのかといえば、それが言い訳ではないからなのでしょう。
「……別の男の人にまた胸の傷跡のことを話すのは、ちょっと無理かなあ。もう消しちゃってるってことを抜きにしても」
とのことなので、しばしそれについて考えを巡らせます。
で。
「うーん、光栄に思うべきか不安に思うべきか、自分の中で意見が纏まらないです」
「あはは。私も、どっちに思ってもらいたいか分かってないんだけどね」
これでも今の台詞はそれなりにハラハラしながら口にしたもので、けれどもそんなところへ栞さんは「自分も同じだ」と笑ってくれたので、ならばそれなり以上の安心がふっと胸の中に湧いてきます。
するとそんな時、栞さんは「そういえば」と。
「たった今、同じ寄り掛かり方をする気満々な話をしたけど――別の男の人と付き合い始めた時って、寄り掛かる部分はどうなるんだろう。違う人に同じ寄り掛かり方ができるものなのかな」
「胸の傷跡の話ができるかできないか以前に、もしかしたら別のところで寄り掛かることになるかもしれないってことですか?」
「まあ、うん、そういう感じ。だって、誰にでも同じものを求めるって、ちょっと無理があるでしょ? 違う人なんだもん」
言われてみれば単純明快な話で、違う人物を相手に全く同じやり方で接していくというのは、そりゃあ無理があるでしょう。
もちろん寄り掛かりの話についてだけでなく、その他全ての状況での付き合い方にも言えることでしょうけどね。女性全員が料理の経験がなく、でも味噌汁だけは初めから美味しく作れる、なんてことはないんですし、だったら相手に応じて対応の仕方も変わろうというものです。
「それで思い出しましたけど、そういえば諸見谷さんがこう言ってましたよ」
また諸見谷さんか、と自分で自分に突っ込みを入れたい気分ですが、なんせ他に「付き合う相手を変えた」という人の「付き合う相手を変えたことについての話」を聞いた覚えがないので、つまり、参考になり過ぎるのです。……ごめんなさい諸見谷さん。
「別れた男の人と今付き合ってる一貴さんは、結構共通するところがあるって」
「うーん、そうなるものなのかな。どんな人を好きになるかって、完全に自分の好みの問題なんだもんね、考えてみたら」
「だから諸見谷さん、『別れはしたけどその人の好きな部分は好きなままだ』とも言ってましたよ。栞さんは――えーと、栞さんがもし、『胸の傷跡のことを話せる』って点について、僕を好きでいてくれてるんなら――」
「次に好きになるのも、そういう人なんだろうね」
……言いたいことが伝わってすっきり、という気分よりも、何を自分から誘導してまで言わせてるんだ、という恥ずかしさのほうが強かったりします。
「でも、こうくん」
けれども一方の栞さん、柔らかい表情ではありますが、その向こう側からは真剣さがひしひしと伝わってきます。勝手に照れていられる雰囲気ではありません。
「さっきも言ったけど、私はもう別の男の人にその話はできないと思う。もしこうくんが、というか諸見谷さんが言った通り、胸の傷跡のことを話せそうな人を好きになったとしても」
「……そうですか」
「ごめんね、不安にさせてばっかりで」
そこで「そんなことないですよ」と言うのは簡単だったでしょうし、そう言うべきだったのでしょう。けれど僕は、頭に浮かんだその返事にどうしても自信が持てず、しかしだからといって他の返事を思い付けるわけでもなかったので――。
「栞さん」
「ん?」
キスを、しました。
あまりに唐突なタイミングだったのは自覚するところですが、でも栞さんは、驚いた様子もなくそれを受け入れてくれました。
「…………こっちこそすいません、気の利いたことも言えなくて」
「ううん。何も言えなかったみたいだけど、気が利いてることは分かったから」
そりゃあもちろん気は常に利かせているつもりですが、行動が伴わないんじゃあ。
そんな自己批判も、取り敢えずは止めておくことにしました。
「ナタリーにも言われたもんね。たくさんキスしてずっと仲良しでいてくださいねって」
「あ、や、そういえばそんなことも……」
すっかり忘れていたことが丸出しな反応をしてしまいましたが、ということで、もちろんナタリーさんの台詞に掛けた行動だったりはしません。
ちなみに、一回だけのキスを「たくさん」とは表現しないわけですが、だったら今から……いや、いろいろぶち壊しになってしまいそうなので、それも止めておきましょう。機会があれば、ということで。
「そういえばさあ」
機会があれば、と浮かんだ欲望を先延ばしにした僕ですが、栞さんはそもそもそんなことを考えすらしていないようで、さらりと話を続ける体勢。
それはそれで素敵です。自分と対比すると余計に。
「自分が別の男の人と付き合うことばっかり考えてたけど、逆だとどうだろうね? 付き合うことになった人が以前に別の人と付き合ってたっていう」
言われてみれば、どうなんでしょう。もちろんそれくらいのことで気分を損ねたりはしないつもりですが、でもだからといって、何も変わらないということはないでしょうし。例えば――その「別の人」の話を積極的にするか否か、とか。
しかしそんなことを考えてみたところ、ある人物が頭に浮かびました。今回は、諸見谷さんでなく。
「大吾が、そのまんまその状況ですよね」
「ああ、そういえばそうだね」
成美さんと付き合っている、というか結ばれている大吾。でもその成美さんは以前、別の男性と結ばれていました。その男性というのは、最近ちょくちょくここを訪れるようになった猫さんです。
「……なんですぐに大吾くんのことを思い付かなかったんだろう? 本当に、そのまんま過ぎるくらいそのまんまなのに」
言われてみればそれもそうです。大吾のことを口にしたのが自分だとはいえ、僕も即座に思い付いたわけでないというのは同じですし。
「うーん、成美さんと猫さんがいわゆる『別れた』っていう状態じゃないから、でしょうか?」
「ああ、そっか。それだね、多分」
成美さんと猫さんは、成美さんが人間の姿になり大吾を愛するようになった今でも、しっかりと愛し合っています。諸見谷さんの言っていた「別れたけど好きなところは好きなまま」という意味でなく、死別を挟んでも気持ちの通い合った夫婦として。
二つ隣の部屋へ想いを馳せ、なのでその間黙りこくってしまいましたが、しかしどうやらそれは栞さんも同じだったようで、室内がしんと静まります。
そしてその静けさを先に打ち破ったのは、栞さんでした。
「初めに想定してたのとはちょっと違う状況だけど、それを差し引いても、やっぱり大吾くんは凄いと思う」
「凄い、ですか」
何もその意見に疑問を持ったというわけではないのですが、つい訊き返してしまいました。詳細を知りたかったのでしょう、きっと。
「うん。そりゃあ、前に別の人と付き合ってたっていうのを悪く思ったりは私だってしないだろうけど、大吾くんほど完全に受け入れられるかって言われたら、そこまでの自信はないもん」
「ですよねえ」
尋ね返した割に、僕はあっさりと頷きました。ということは、僕も初めから同じような意見だったのでしょう。その意見を頭の中ではっきりと認識する前に栞さんの話が進んでしまった、というだけで。
「むしろ別れたっていうのよりも凄いんでしょうしね、その人のことを今でも好きなままだっていうのを受け入れるのは」
「そうなんだろうねえ、やっぱり」
好きな人なんだからそんなのは関係ないだろう、と考えたくなってしまうところですが、でもやっぱり実践しているところを日常的に見ていると、感心させられざるを得ません。もちろん、常日頃からそんなことを考えているというわけではなく、こういう話をしている時限定なんですけど。
――ところで、そんなことと一緒にものすっごく冷めた意見も思い付いてしまいました。
「まあ、こういう話で大吾に感心するのって、もう何度目かになってるような気もしますけどね」
「あはは、確かにね」
まあ、数回に渡って感心できるほど凄いことなんだということで。
そしてそういう話になれば、大吾から話題を離してみようかな、なんて思ったりもするわけです。そんなふうに言われたわけでないのは、そりゃそうなんですけど。
「諸見谷さんの逆の立場の話なんだから当たり前と言えば当たり前ですけど、一貴さんも同じ立場ですよね。付き合ってる人が以前に別の人と付き合ってたっていう」
当たり前と自分で言うだけあって、栞さんもこくりと頷きます。が、しかしそこで思い付くことが一つ。
「そういえば、一貴さんだけは知らないんですよね。今の恋人以前に女の人と付き合った経験があるのかどうかって」
「あ、そうなんだ?」
とはいえ、諸見谷さんがあれだけ喋ってたんですから、一貴さんも何かあるなら話していてもおかしくはなかったでしょう。ならまあ、諸見谷さん以前には特に付き合った人がいるわけではない、と考えるほうが自然なのでしょう。
「その場で気付いてたとしても、なかなか訊き辛いことではありますけどね」
「まあ、そうだよね」
それに、無理をして訊いてみたところで、諸見谷さんから「こんなオカマに惚れる女が私以外にいてたまるか」とかそんな感じのことを言われるだけのような気もしますし。――えー、勝手な想像でごめんなさい、一貴さん。
「えーと、一貴さんがどれくらい女の人と付き合った経験があるかは分からないにしても」
栞さんが話を続けます。となれば、勝手な想像もここまでにしておきましょう。
「諸見谷さん、一貴さんの前で話してたんだよね? 今日出てきたいろいろな話」
「そりゃまあ、みんなでラーメン食べながらでしたし」
ラーメンの丼を抱えたまま一貴さんだけ移動するというようなこともあるわけがなく、ならば当たり前に仰る通りです。
「ということは、諸見谷さんは一貴さんの前でそういう話をしても大丈夫だと思ってるし、一貴さんも何とも思ってないってことだよね?」
これまた、そりゃそうでしょう。と言っても、そんなふうに納得できるのは僕が諸見谷さんが話している最中の諸見谷さんと一貴さんの様子を知っているから、ということなんでしょうけど。しかしともかく、「そんな感じでしたよ」と頷いておきます。
すると栞さん、表情がほっこりと。
「素敵だよね、そういうのって」
……そりゃあ、素敵ではあるんでしょう。そうは思いながら、でも僕は違和感を禁じ得ませんでした。
その違和感がどこから来ているかというと、何も諸見谷さんと一貴さんの時に改めて言わずとも、さっきの大吾と成美さんの話に同じことが内包されていたと思ったからです。
それにもう一つ、こっちはちょっと身を切るような話になってしまいますが、
「僕が言えたことじゃないかもしれませんけど、栞さんだってそうじゃないですか。その……僕が前に、音無さんのことで怒られてしまったことがありますし」
「ん? ああ、うん、確かにそれも同じような話ではあるんだろうけどね」
付き合ったというわけではないですが、僕は高校時代、音無さんのことが好きでした。そして偶然にもその音無さんと同じ大学に通うこととなり、今でも友人として顔を合わせる機会を得られています。
しかし一時、僕はそのことで栞さんに激怒されてしまいました。
何を思ったか「音無さんを好きだった思い出」を無かったことにしようとした僕に対し、栞さんは、「どうしてそんなことをするのか」と声を荒げたのです。
「でもこうくん、一個だけ忘れてることがあるんじゃないかな?」
栞さんの口調は、仲の良い者同士でクイズを出す時のそれでした。
忘れてることがあるんじゃないかということは、僕は何か間違っているのでしょう。となれば以前の不興を買った記憶も相まり、気持ちに焦りが生じます。
……しかし残念ながら、栞さんが自分から正解を発表するまで、僕には自分の間違いを思い付くことができませんでした。
「あの時私がああいうふうに怒ることになった原因って、私が幽霊だから、だったんだよ」
「……!」
そうでした。あの時栞さんは、「幽霊は殆どの場合に思い出としてしか人の記憶に残れない」と言っていました。だから、その思い出を無下に扱おうとした僕に対して、あそこまで怒りを露わにしたのでした。
――そうか、だから大吾でなく、諸見谷さんと一貴さんの話の時に切り出したのか。
「私にとってはそういう思い出話って大切なものだし、そう思うようになった原因が自分が幽霊だってことだからさ。じゃあ幽霊じゃなくても同じように思ってる人っていうのは、少なくとも私からすれば、素敵だなあって」
「すいません、一番肝心なところを忘れちゃうなんて」
栞さんがせっかく説明してくれているわけですが、その初めから僕には謝りたい気持ちしかありませんでした。
なので説明が終わると即座に頭を下げたわけですが、栞さんはそれを謝罪だと思っていないかのように、引き続き明るい声で言いました。
「忘れたんじゃなくて、当たり前のことだから意識に上らなかったって感じなんじゃない?」
当たり前。確かに栞さんが幽霊だというのは、当たり前過ぎて当たり前だとすら思わないほどのことです。何も彼女という間柄に限った話でなく、家族や友人を含めて、「ああ、この人は日本人だな」なんてわざわざ思わないのと同じことです。まあ、今では国籍どころかそもそも人間でない友人もいたりしますけど。
……しかし、ともかく。それにしたってやっぱり申し訳ありません。
「ずっと意識してて欲しいなんて無茶なことは言わないし、意識するべきところではしてくれるし、それに意識しなくても優しいから問題ないよ。こうくんなら」
「そんなふうに言われちゃうと、反省する余裕がなくなっちゃうんですけど……」
「大丈夫。反省してもらいたい時は、それこそあの時みたいにめいっぱい怒るから」
それは嫌がるべき話なんでしょうし、僕だって別に進んで怒られたいと思うわけではありません。が、それでも、聞いていてついつい頬が緩んでしまうのでした。
「だから、こうくんからもお願いね? まあ、わざわざ頼むまでもないんだろうけど」
「そうですね。誇れるようなことじゃないですけど」
というのも、そこまで強く言いたいわけではないのについつい、という面がないわけではないのです。それが毎度いい結果に結びついているにせよ。
けれども、栞さんは腰に手を当て、胸を逸らし、ふんっと鼻を鳴らして言いました。
「私が誇ってるから大丈夫」
「頼もしい限りです」
本当に。
僕とほぼ同じ身長、そして女性故に男の僕より線が細い体付きの栞さんですが、逸らされたその胸がとても広く見えるのでした。それと同時に、決していやらしい意味でなく――全くないとまでは言いませんが、少なくともそれが主題ではなく、その広い胸に飛び込みたくなってしまいます。
そうしてしまって不都合が発生するというわけではないんでしょう。なんせ栞さんとは、そういうことをしても不自然ではない間柄です。けれどもしかし、それは控えておくことにしました。今はこの雰囲気のまま、会話をしていたいのです。
「えーと、栞さん」
「ん?」
「今日はいろいろと、付き合う相手を変えた場合の話をしたじゃないですか。実際にそうした人達のこととか、自分だったらどうだろうかとか」
「うん」
「で、実際にそうした人達を指して『凄いな』ってことになったじゃないですか。全体の流れとしては」
「そうだね」
「もちろん僕は栞さんと別れたりするつもりなんて全然全くこれっぽっちもないわけですけど、でも、『凄いなー』と思った部分は、見習っていけたらなあ、と思います。心構えというか器の広さというか――あー、あはは、今のところは正確にはどう表したらいいのかすらハッキリさせられてないみたいですけど」
言ってる最中に自分で答えを出してしまいましたが、どうしようもない自滅でした。
というかそもそもいきなりこんな話を切りだすこと自体が妙なわけで、まあつまり、「会話をしていたい」なんて無意味に意気込んでしまった結果なのでしょう。
栞さんも同じように思っているのでしょう。単に微笑むというだけでなく、声に出してくすくすと、笑っているのでした。
で、抑え込むようにしてその笑いを中断させると、
「でも、私だってそれはそうだよ、やっぱり。『凄いなー』と思ったんならやっぱり自分もそうありたいと思うし、それに……ほら、昨日のお願いもあるし」
「お願い? 昨日の……」
即座には思い付けませんでしたが、でも栞さんが口を開く直前になって、これだというものが思い浮かびました。まあ、それを口に出すよりも前に栞さんが言ってしまうわけですけど。
「私のこと、ずっと好きでいてくださいって。だったらこっちからも、好きでいてもらえるように努力はするべきだしね」
それはただ前向きというだけのものではなく、胸を痛めるような事情や決断もあっての願いでした。それから丸一日が経っているわけですが、たったそれだけの時間で治まってしまうような種類の痛みでないことは、考える時間をとるまでもなく理解できます。
しかしそれでも、目の前の栞さんは笑顔でした。
その話を持ち出した以上、胸が痛まないわけがないのに。
――僕は今度こそ、栞さんの胸に飛び込みました。笑顔の裏にある心情が表れているのか、ついさっき同じことを考えた時よりはちょっとだけ狭くなったようにも見えた、その胸へ。
「努力するっていうのは嬉しいですけど、少なくとも今は、そんなことしなくても充分なくらいに大好きです」
「……ありがとう」
男性に女性が抱き付くならともかく、その逆であるこの体勢は、客観的に見れば極めて格好の悪いものなのでしょう。ですが当人である僕にとっては、そして恐らく栞さんからしても、今のこの体勢のほうがむしろ自然に感じられました。
僕が栞さんを好きなのは、単純に好きになったからです。
栞さんが僕を好きになったのは、栞さんが抱える事情もあってのことです。
恋人という関係になった以上、相手に寄り掛かっているのはお互い様です。しかしその比率となると、事情がある分栞さんのほうが大きいのでしょう。僕は、どちらかと言えば寄り掛かられる側であるわけです。
けれど、蓋を開けてみればこの通り。抱き付いているのは栞さんでなく、僕なのです。そして、それを自然だと感じているのです。
このお互いの立場と実際の行動の差を見るに、つまりは僕にもまだまだ努力が必要だということなのでしょう。だからこそさっき、自滅に近い意気込みを語るに至ったわけですし。
――でも、問題はありません。
僕にとって栞さんは、そんな努力に価値を見出せる女性なんですから。
この先ずっと好きでいられると、迷いなく言い切れる女性なんですから。
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