(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十四章 途上 二

2010-04-21 20:47:39 | 新転地はお化け屋敷
 その案に反対する理由が特にあるわけでもなく、なので早速家電店へ。
「あら、いらっしゃいませ」
「いや、お客として対応されちゃうと、ちょっと胸が痛いんですけど……」
「買い物をする予定はないのね? うふふ」
 明美さん、即いました。探すまでもなく――というか、レジの明美さん以外、店内に誰もいなかったのです。客どころか、他の店員さんまでも。人が少ないと分かり切ってる時間帯は、やっぱりこんな感じになってしまうものなのでしょう。
「でも大丈夫。こんなおばちゃんを若者二人がわざわざ訪ねてくれるなんて、単にお客が来るのよりはよっぽど嬉しいから」
 明美さんはそう仰いますが、会いに来ているほうとしては「こんなおばちゃん」で済ませられる人物ではなかったりします。こうして会いに来ていること自体、その現れということになるでしょうし。
 おばちゃんであることはまあ、中学生になる一児の母ということを考えれば納得できるにしても、「こんな」というのはどうにも――なんてことはもちろん、口にしたりしませんけどね。褒めに回るのが照れ臭いというだけでなく、「おばちゃん」を肯定してしまう気まずさもあって。
 しかしはてさてそれはともかく、明美さん、僕と栞さんの持ち物をそれぞれ一瞥してから言いました。
「二人してぬいぐるみを買ってるって、随分とまあ。大丈夫なのかしらね? そんな流れで来られちゃって、私」
 ……言われてみれば、結構恥ずかしいかもしれません。いや、そうは言っても、栞さんが見える明美さんだからこそ栞さんの持ち物も見えている、ということではあるんですけど。
「あはは、でも、今日の本来の目的はこっちなんです」
 僕と同じく照れ笑いなのか、それとも通常の笑いなのかは分かりませんが、栞さんが笑顔になりながら僕のもう一方の持ち物を指差しました。ビニール袋に収められながらもその長さゆえに収まりきっていない、布団叩きです。
「あら、そうなの? 私はてっきり、デート目的が先にあるんだと思ったけど」
 まあ、殆どの人はそう思うんじゃないでしょうか。僕ですら実際はそんな気分ですし。
 しかしせっかく説明するとなれば、もう少し訂正を入れるべき点が。
「でも、このぬいぐるみもデート云々の買い物じゃないんですよ。僕の部屋の机、置くものがなくてスッカスカで、だから何か置けるものを探してみようってことなんです」
「孝一くんを見てたら、私も欲しくなっちゃったんですよねえ」
 ということはつまり、ぬいぐるみを買ったのは栞さんとどうのこうのというわけでなく単純に僕の趣味ということになり、そこで再び「男の一人部屋にぬいぐるみ」に関連した不安が浮かばないでもなかったのですが――明美さん、やや下を向き、何やら考え込むような表情に。
「机、ねえ」
 はて、ちょっとぐらいからかわれるかもしれないとは思いましたが、こういう反応は想定外です。
「清明の机、今はどうなってるのかしら。まじまじと眺めたりはしないものねえ」
 なるほど。僕なんかよりはそっちが気になって当然ですよね、そりゃ。
「今はって清明くん、そんなに頻繁に机の模様替えをしてるんですか?」
 栞さんのそんな質問に、明美さんはぱっと顔を上げました。
「ああ、そういうことじゃないんだけどね。私が覚えてる様子から何も変わってないってことも、充分にあり得るし」
 要するに、最近は清明くんの机を意識して見るようなことがない、ということなのでしょう。と思ったら明美さん、まるで僕の考えが通じたかのように、「むしろ意識して見ないようにしてるところはあるわね」と。
「だってほら、中学生って言ったらいろいろありそうな時季でしょ? はっきりと、だけど小声で言っちゃうと、エッチな本とか」
「どうでしょうか孝一くん」
「なんで僕に振るんですか。――いや、僕しかいませんけど」
 実際に手を出すのがいつ頃であるにせよ、まあそういう品物に興味が湧く頃ではありましょう。なんて、話を振られたからには真面目に考えてみますが、さてそんな反応は期待されているのでしょうか。微妙なところです。
「一番下の引き出しの裏側とか、覗いてみたくなる魔力があるわよねえ」
「魔力って、親視点だとそこまでですか」
 背筋が冷える思いでしたが、しかしその内訳までは皆まで言わないことにしましょう。親でなくとも、栞さんがすぐ隣にいるわけですし。
「もちろん、ついつい覗いてしまわないようには気をつけるんですけどね。親がそういうことを把握すべきかすべきでないかっていうのは人によって意見が分かれるんだろうけど、私は把握する必要がないって考えですねえ。例えば『そういった発見』をしたとして、じゃあそれについて清明と話をするかって言ったら、しませんものねやっぱり」
 いきなり話が真面目なものになってしまいましたが、しかし恐らく、明美さんとしては初めから真面目な話のつもりだったのでしょう。なんせさっきも言った通り、息子さんがお年頃なんですし。
「そうですねえ。見付けられたってだけで話までされるとなると、そうなり得たかも知れない身としては窮屈ですし――ああいえ、そりゃあもともとからして窮屈であるべきなんですけど。だから隠すんですし」
 時々、「別に隠さないで普通に本棚に並べてるけど」と言う人もいました。それはそれで別にいいんでしょうけど、僕はどうしても真似できません。大学生になった今でもちょっと厳しいくらいです。
 僕の返答にうんうんと頷いた明美さんでしたが、すると今度はその視線を栞さんへ。
「喜坂さん。例えばだけど、もしも日向さんがそういう本とかを持ってたとしたら、どう思う?」
「えっ、ど、どうって言われても……持ってるの? 孝一くん」
「そこで事実確認をするっていうのは反則なんじゃないでしょうか」
 というか、こういう反応をしてくる時点で持ってちゃいけない雰囲気だったりするような気が。駄目ですか、栞さん。いや、僕が本当に持ってるかどうかはあくまで謎のままですけど。
 ともかく、「それもそうだね」と不自然なほど強張った様子で頷く栞さん。
「持ってて欲しいって思うわけじゃないけど、持ってたからってどうだっていうのは――ない、と、思いたいです」
 栞さん、何故だかガチガチなのでした。
 一方の明美さんですが、こちらはとても楽しそうです。
「うふふ、理屈と感情がぶつかってるって感じねえ」
 そういう言い方をするとなんだか格好良さげですが、エロ本がどうだの下世話な話なんですよねこれ。
「ありがたがるべきなんでしょうか、僕としては」
「そうなんじゃないですか? 何とも思わないっていうのはちょっと難しいですもの、やっぱり」
 とのことなので、
「ありがとうございます、栞さん」
「これでお礼を言われるって、なんだか気持ち悪いなあ」
 まあまあそう言わず。
 複雑そうな顔になってしまう栞さんでしたが、すると明美さん、「さて、その話はここまでにしておいて」と話題に区切りを付けました。そういえば、あんまりそういう話で盛り上がっていい場所じゃないんですしね、ここって。
「これだけは置いてあるって確信できるものがあるんですよ、清明の机」
 いきなり謎かけのような話になってしまいましたが、さてそれは何なのでしょう?
 考えてみようとはしたのですが、明美さんがあっさりと答えを言ってしまったので、自力で正解に辿り着くのは叶いませんでした。
「家族三人で写ってる写真です」
 ……さらっと言いますね明美さん。いや、僕と栞さんがさらっと言ってしまえる相手だってことなんでしょうけど。だとすれば、光栄なことですけど。
「変わりありませんか? うちの遊び人は」
「確認しようにも本人が出掛けてて確認できないくらい、変わりないですよ」
「うふふ。そうですか、それは何よりで。まあ、前に会ってからそう日が経ったってわけでもないんですけどね」
 明美さんの旦那さんであり、清明くんの父親であり、僕達の隣人である清さん。部屋を訪ねて確認したわけじゃないですけど、今日もどこかに出掛けているのでしょう。本当なら、一番行きたい場所は清明くんの傍なんでしょうけど――。
「清明、霊障のほうは変わりないんですけど、旦那についての気持ちの整理が付いてきてるみたいなんです」
「そうなんですか?」
 栞さんが即座に反応し、すると明美さん、元から微笑んでいた表情を更に微笑ませます。
「ええ。多分だけど、庄子ちゃんと会ったのが切っ掛けだと思うわ。……もしかしたら、『会った』よりも『会うようになった』というほうが正しいのかもしれないけど。会ってるのかしらねえ? 学校とかで」
 清明くんと、庄子ちゃん。もう見るからにお互いを意識し合っている二人なんですけど、当の庄子ちゃんは「好きなのかどうかはまだ分からない」と言っていたりもします。となれば清明くんの話も聞いてみたいところなのですが、なんせあの霊障のことがあるので、あまくに荘の住人としてはそう滅多に会うことができません。
 しかしそういう気になる事情があるにしても、今の主題はそこではないのでしょう。
「庄子ちゃんと会ったのが切っ掛けになったっていうのは、やっぱり大吾のことがあって……?」
「多分に多分を重ねることになるけど、そうなんでしょうね」
 頷くには確証が足りないと思っているらしい明美さんでしたが、しかしはっきりと頷きました。他に理由が思い浮かばないというのも、あるんでしょう。
 清明くんが父親を亡くしてしまったように、庄子ちゃんは兄を亡くしました。庄子ちゃんが亡くなった後も兄と会い続けているのは最早確認するまでもないことなのですが、しかし清明くんにはそのことを知らせていません。霊障のことを考えると、知らせるわけにはいかない、というほうが正しいんでしょうけど。
 ともかく清明くんは庄子ちゃんが今でも兄と会っていること、ひいては幽霊の存在そのものを知らないので、ならば清明くんの認識としては、庄子ちゃんは自分と同じ立場だ、ということになるのでしょう。だから、切っ掛けなのです。
「もし庄子ちゃんと会うことがあったら、お礼を伝えてもらってもいいでしょうか?」
 そう来ると思っていたわけではありませんが、しかしそう来られても全く意外だとは思いませんでした。明美さんにとって庄子ちゃんの働きがそれに値するというのは、明白だからです。
 もちろん僕はそれを引き受けますが、その引き受けの返事を聞いてから、明美さんは小さく溜息をつき、頬に手を当てました。
「本当なら、親の役目なんでしょうけどね」
 そちらについては、返事ができませんでした。肯定も否定も、どちらでもない半端なものですらも。

 さて、買い物を済ませた帰り道。もちろん、栞さんと自転車の二人乗りです。
 他の荷物もあるので食材はそうたくさん買うのを控えざるを得ませんでしたが、それについてはもともと「ついで」なので、まあそう問題ではありません。冷蔵庫の中身にもまだいくらかの余裕はありますし。
 で、それ以外の買い物ですが。
「帰ったら、私にも読ませてもらっていい?」
「いいですよ。勉強熱心なのは大歓迎です」
 料理の本を買いました。いくら料理が得意だと自認しているにしても、知らない料理は作りようがありません。そしてこの世の中、どんなに数を覚えようとも、知らない料理なんて山ほどあるのです。なんせどこぞの一般主婦の方のオリジナル料理とかでも、料理は料理なんですから。そうでなくとも、同じ料理でも作り方が違ったりもしますし。
 ――なんて言いながら、本当の目的は料理に紛れてちょっとだけ載ってるお菓子類のレシピなんですけどね。そっちは経験がないんで、まあ、栞さんと一緒に食べたりできたらいいなあ、なんて。……いいじゃないですか、男がそういうこと考えたって。
 ともかく、買ったのは一冊だけなので、本棚を埋めるという目的については達成できたとは到底言えませんが、いい買い物なのは間違いないでしょう。
 考え事は長くなったものの、短い遣り取りの後。少しだけ間を置いてから、栞さんが再び話しかけてきました。
「清明くん、良かったね。良かったっていうか、良くなってる途中なんだろうけど」
「そうですね」
 なまじどれだけ清さんのことを気に掛けていたかを、外から見て把握できる分だけとはいえ知っているので、尚更に気分が晴れやかです。
「でもそうなると、熱があるのを圧してまであまくに荘に来るなんてこと、もうないんでしょうねえ」
「あはは、あっちゃ駄目だと思うよ、それは」
「そうなんでしょうけどねえ」
 けれども清明くんは霊障がある限りあまくに荘には近付けないわけで、となるともう、僕は滅多なことでは清明くんと顔を合わせることがないわけです。
 なりたて大学生となりたて中学生。それなりに年が離れてはいますが、しかし清明くんが好ましい人物であることに変わりはなく、なので少々、寂しい気分にも。
 なんてことを考えている間に、その清明くんが近付くことのできないあまくに荘はすぐそこです。
「ああそうそう、全然関係ない話なんだけど」
「何ですか?」
「部屋に戻ってもエッチな本を探したりはしないから、そこは心配しないでね? ほらその、持ってるかどうか訊いちゃったりしたから」
「……はい、心配しないでおきます」
 いや、それはそれで安心したんですけどね。冗談とかじゃなく。
 そしてもちろん、僕がエロ本を持っているかどうかは依然として謎のままです。

「お帰り、二人とも」
 自転車の音か、もしくは話し声を聞き付けたんでしょうか。202号室の前を通りかかった時、成美さんが台所の網戸の向こうから声を掛けてきました。たまたまタイミング良くそこに立っていただけかもしれませんが、まあそれはいいでしょう。
 小さい体だったので、廊下側から覗いただけでは何とか顔が見えるくらいでしかなかったのですが、まあそれもいいでしょう。
「ただいま、成美ちゃん」
「買い物か? ガサガサ音もするし」
 成美さんが聞き付けたその音は、ビニール袋が擦れる音です。
 買い物であったことを誤魔化す必要なんてもちろんないわけですが、しかし以前、「仕事なんだからできれば買い物の時は呼んで欲しい」と言われたことを思い出すと、素直にはいとは言い辛いかったりも。
「うん」
 一方、栞さんは躊躇いませんでした。
「今日はお料理の材料だけじゃなくて、お料理の本とぬいぐるみも買ってきたよ」
 布団叩きを忘れてますよ栞さん。……いや、忘れてなくてもわざわざ言いませんねこれは。
「料理の本はわたしが読んでもさっぱりだろうが、ぬいぐるみか。見せてもらってもいいか?」
 頷いた栞さんが象のぬいぐるみを取り出し、それに続いて僕もキリンのぬいぐるみを取り出して、網戸越しながら成美さんにお披露目です。この際、男のくせにぬいぐるみかよとかそういうことは抜きにしましょう。
 小さい時の成美さんには似合うんだろうなあ、なんて失礼に該当するかもしれないようなことを考えてしまいますが、どうなんでしょう? わざわざ見せてくれと頼んできたってことは、それなりに興味があったりするんでしょうか?
 料理の本にももうちょっと興味を持ってもらえたら嬉しいんですけど、というようなことはともかく、「ふーむ……私も、そういうものを買ったほうがいいのだろうか」と成美さん。
「いや、前までは気にならなかったんだが、大吾と一緒に暮らし始めてみると、部屋に物がないのは寂しいだろうかなと思うようになってな」
 おや、そういうものなのでしょうか? むしろ逆で、大吾と一緒なら周囲がどうあれ寂しいなんて思わないんじゃないかと――まあ、所詮は経験無しの勝手な想像なんですけど。
 ともあれ、ぬいぐるみを引っ込めまして。
「買ってみたらいいんじゃないですか? 大吾からしたって、別に文句を言うようなことじゃないんですし」
 成美さんも僕の机事情と同じようなこと考えてたんだなあ、なんて無駄な親近感を感じつつ、そんなふうに言ってみます。買うものがぬいぐるみであると決まっているわけではないですが、まあ何にせよ大吾が容認しないというようなことはないでしょうし。
「やはり、そういうことになるんだろうな。うむ、勝手に二の足を踏んでいても仕方がない。近いうちにわたしも何か、そういうものを買いに行こう。――あ、いや待て、しかし」
「どうかしましたか?」
「もしも大吾が猫のぬいぐるみを買ったりしたら、それは浮気ということになるんだろうか?」
「……いや、ならないと思いますよ」
「そうか」
 なぜかホッとしたような表情になる成美さんですが、浮気と取られるほど猫のぬいぐるみを溺愛している大吾というものを想像すると、気持ち悪いというか、即座にそのぬいぐるみを奪い取って往復ビンタでもしてやりたくなりました。目を覚まさないとえらいことです。
「――ああいや、浮気になったとしても、だからどうだというわけではないんだぞ? 猫は、複数の相手と付き合うのが当たり前なわけだし」
 ピントがずれているような気がしないでもない成美さんの弁明でしたが、するとその時背後から、
「昼にもなってねえのになんつう話してんだよ」
 呆れ顔の大吾が現れました。
 成美さん、後ろを振り返るまでもなく硬直してしまいます。
「おはよう、大吾くん」
「おう。どっか行ってたのか? 大学は確か、昼からだったよな」
 どうやら、成美さんと僕達の話を初めから聞いていたというわけではないようです。
 そして僕と成美さんは、もう一度買い物に行ったことを説明することになりました。
 で。
「で、何がどうなって浮気がどうとかの話になったんだ?」
「これ」
 栞さんは再度象のぬいぐるみを取り出したのですが、
「いや、意味わかんねえ」
 そりゃそうだよね。
「へ、変な話をして悪かった。悪かったから、聞き出すのは勘弁してくれないか?」
 ここで成美さんが弱々しい声で大吾にそう頼むと、
「……まあ、いいか。気にしたってしゃあねえだろうし」
 もちろんそれだけで言い切れるようなことではないのですが、「ああ、浮気なんて絶対ないだろうなこりゃ」なんて思わされてしまいます。浮つかせるほど気に余裕なんかないでしょうしね、成美さんと幸せそうにしてる限りは。
「そんでオマエ等、今日は散歩どうする? 一緒に来るか?」
 現在の時刻ですが、十一時少し前というところ。午後の講義があるにしても、まだまだ充分のんびりしていられます。ということで、
「うん。時間には余裕あるし」
「昨日も一昨日も不参加だったしね」
 僕の返事に続いた栞さんのその言葉に、そういえば三日ぶりの散歩になりますっけ、と。まあ、だからって気合いを入れるようなことでもないんですけどね。

 僕と栞さんの参加表明に、そういうことなら、と大吾は即座に行く気になり、なので買ってきた品々を部屋に片付けてすぐ、散歩へ行くことになりました。買ったばかりの本を読むのは、後々の楽しみということにしておきましょう。
「やあ、おはようおはよう、皆の衆。今日も実にいい天気だねえ」
 102号室からナタリーさんと一緒に出てきたのは、セミの抜け殻であるフライデーさん。今日も体を全く動かさず、しかしみんなの顔ぐらいの高さでふよふよと、空中に浮かんでいます。
 まあそれはいいとして、確かに今日はいい天気です。なんせそのおかげで布団を干そうと思い立たされ、その流れで布団叩きを買いに出掛けることになったんですし。
 しかしそれもいいとして、挨拶をされたからにはこちらも挨拶を――と思ったら、何やら大吾がフライデーさんに顔を近付けました。
「いい天気過ぎて殻の向こうが透けて見えるな」
「いやん、大吾君のエッチ」
「何がだよ。殻の向こうに何が見えたらそうなるんだよ」
「冴えないおっさんのピュアハートとか?」
「ピュアになってから言えよ、大前提として」
 見えたからってやっぱりエッチではないようなとか、そもそも見えるものじゃないという部分は、突っ込む気も起きなかったってことなんでしょうね。
「まあまあ、そう気にすることはないよ。私のピュアな部分は、見付けるまでもなく大吾君ががっちり掴んじゃってるからさ」
 何言ってるかさっぱりですよフライデーさん。
「そうですね。私も、怒橋さんのことは好きですし」
 そこで本物のピュアハートを持ち込みますかナタリーさん。
「アホなこと言ってんなよ。――ちょっと待ってろ、ジョン連れてくっから」
 ナタリーさんまで纏めてアホ呼ばわりはちょっとひどいんじゃないかと思いましたが、そんな僕の考えはフライデーさんにひどいです。口にする前に気付けて良かった。
 というわけで大吾はいったん裏庭へ行ってしまったわけですが、
「のっけからそう虐めてやらなくてもいいだろう? 嬉しいのを抑え込んでる時の顔だったぞ、今」
 成美さんがフライデーさんを、えー、たしなめた、ということでいいんでしょうかこれは。成美さん、面白いものを見たって顔しちゃってますけど。
「そうは言ってもねえ、成美君。出来る暇がある時に虐めておかないと、最近の大吾君は君と二人だけでいることが多くなってきたからねえ」
「む。それはまあ、認めざるを得ないな。はは、すまん」
 とはいえそれは、仕方のないことではあるんでしょう。なんせ新婚さんなんですから。人気者は辛い、ということですね。
「こうなったら、孝一君に代役を頼もうかな? ずっと付き纏って栞君とのあれこれを根掘り葉掘り聞き出そうとしてみるとか」
「勘弁してください」
 なんでそうなるんですかとかの前に、まず謝ってしまいます。想像しただけで頭が下がってしまうほどのうっとおしさを、フライデーさんのその言葉は秘めているのでした。
「うーん、でも、根掘り葉掘りとまでは言いませんけど、少しだけは聞かせて欲しいですねえ。日向さんと喜坂さんのお話。もちろん、怒橋さんと哀沢さんのお話もですけど」
 なぜにそうフライデーさんと妙なところで息が合うんですかナタリーさん。言葉の背景にあるものは真逆なんでしょうに。
「あはは、心配しなくても、ナタリーにお願いされたらみんなちゃんと話してくれると思うよ。もちろん、私もね」
 栞さんはそんなふうに返しましたが、するとそこへフライデーさんは、
「ナタリー君にお願いされたらってわざわざ言うのは、私からお願いしても駄目だって暗に言ってるんだね? 私は悲しいよ栞君、君は誰にでも優しいと思ってたのに」
「フライデーにだって、お願いされたら話すけどね? でも、お願いじゃなくて意地悪されてるだけってなると、ちょっとなあ。……あとね」
 笑顔のまま栞さんはそう返し、けれどもその次の言葉を発する際には、ほんのちょっぴりだけ笑顔以外のものが感じ取れました。
「誰にでも優しくありたいとは、そりゃあここのみんなは友達だからそう思うけど、でもそれって、どんな時でも優しくするって意味じゃないからね?」
「すみませんでした」
 そんな栞さんに、フライデーさんの謝罪は素早いのでした。もちろん、空中に浮いている体は微動だにしないんですけど。
 ――いや、もちろん両者ともに冗談ではあるんでしょうけどね。
「ワンッ!」
「おーし行くぞオマエ等」
 さてさて、大吾がジョンを連れて戻ってきたところで、ならば早速出発です。


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