「りょ、料理習ったりとか、面白いですよね楓さん」
しかし突然自分の話が出てきてしまって慌てた栞さんが、話を逸らすためにまた次の話題を持ち出す。逸らし切れてなさそうな気もするけど、まあともかくそうやって話はぐいぐいとずれていき、結局また暫らくは本筋から離れた展開へ。
どうにもこうにも、ちょっとばかしアンニュイな表現ではあるけど――グダグダだ。と言って、明美さんの言った「楽しそう」という言葉はそこを指しているような気もしないではない。だけどやっぱり、ねえ?
まあ、それが駄目だと言いたいわけでもないけど。
「じゃあ、これからは二人とも仲良くね」
と、明美さん。
「は、はあ」
「そのつもりではいるのだが……」
と、これまでは仲良くなかったらしい二人。
そこだけしか聞かなかったとしても話の内容が分かってしまいそうだから、なんとも単純なペアだ。いやそりゃ、ただ好き合ってる男女って括りで考えたら単純も複雑もないんだろうけど。
「それでこっちは……ぱっと見、普段から仲良さそうな感じかな?」
「ふぇ」
栞さんが、背筋をピンと張りながら妙な声を出した。僕は逆に声は出ず、背筋は「ついに来たか」と丸くなった。
「ですねー。しぃちゃんはいつも通りとして、こっちのこーちゃんも見た目のまんまのほほんな人柄ですから」
「そ、そんな事ないです! 孝一くん、時々わーってなっちゃったりしますし!」
わー?
『わー?』
僕の心の声を、家守さんと明美さんが揃って復唱。どうにも間抜けた響きだった。
……もちろん栞さんの言いたい事は分かるんですが、恥ずかしいからって何でも否定すればいいってもんでもないと思いますよ、栞さん。
「あー、いいねえそういう『他の人には見せない意外な一面』って。……正直よく分かんないけど、そういう事だよね? しぃちゃん」
「え、あ、えっと……」
墓穴を掘ったような気がしないでもない展開に、栞さんは困ったような眼差しをこちらに向けてきた。そしてそのまま二、三秒。
「そう――だと、思います」
顔を眺めて何が分かったのかは全然分からないけど、そして栞さん本人も分かってなさそうだったそうで、なんとも自信無さげにゆるゆると頷いたのでした。
「日向さんはどうです? 喜坂さんの普段とはちょっと違う一面とかそういった事、見付けました?」
うわあ、来たよ。来るとは思ってたけどやっぱり来たよ。そんな事言われても正直僕、栞さんと知り合ったのがそもそも最近だし……
と、隣で小さくなってる栞さんを眺めながら、初体面からこれまでを振り返ってみる。
今自分で愚痴を垂れたように、付き合っているとは言え僕達は最近知り合ったばかり。なので、昔の事過ぎて思い出せないなんて事もなく。
思えば、付き合い始める前も今も、そんなに変わらないかな? 初めて会った、箒を携えて出迎えてくれた時の第一印象からして既に「優しそうな人」だったし、知り合ってみればその印象のままの人で、優しくしてくれるのはもちろん一緒にいて楽しい人だし。それに付き合い始めてからあまり変わらないというのも別に悪い印象なわけではなくて、むしろその裏表が無いところが栞さんのいいところだと思うし……
ああ、でもだからと言ってここで「あんまり普段と違うところっていうのは無いですね」なんて答えるのもなんだか癪だ。あんな調子とは言え、栞さんだって僕の「普段と違うところ」を言ってくれたんだし。ここはどうにか、具体的な答えを出したいところだ。
と、ここまで長々と考えるのに要した時間は数秒ほど。焦っている時の脳の回転速度は、その精密ささえ考慮しなければ結構馬鹿にできないなあ、とこれまたどうでもいい事を考えてしまったりしつつ、
「あっ」
ついに、「栞さんの普段と違うところ」が頭をかすめた。しかしそれは本当にかすめただけで、それが何なのかははっきりしない。ので、今度はその答えを引っ張り出してみる。そこまでしてようやくそれが何なのかを理解し、僕は、
「思いつかない……ですねぇ。栞さんはその、いつもこんな感じですから」
と答え、軽く笑って見せた。
「そう? うふふ、それもまた可愛らしくていいですね」
「キシシ、しぃちゃんらしいねえ」
栞さんの、普段と違うところ。
それは時々、泣いてしまう事。
僕はその原因を知っているし、僕がその原因でもある。
「すいません栞さん、お恥ずかしい限りと言うかなんと言うか」
「う、ううん。別にそんな」
……笑い話でほいほい出すような事じゃ、ないよね。
「初めてああなった時は何事かと思ったけど、今年でもう中学生ですからねえ」
明美さんが頬に手を当てながら、隣の清さんへしみじみと話し掛ける。
「清明が感じる痛みは変わりませんが、それでも私達が安心して暮らせるのは家守さんのおかげです。今更になりますが、ありがとうございます」
一方清さんは元から正座だったところへ更にきちんと姿勢を正し、眼前のテーブルに額がついてしまいそうなくらいに深々と頭を下げた。そして、明美さんもそれに倣う。
「いえいえ、アタシがしたのなんてただ教えたってだけですから。清明くんとは面識自体殆ど無いわけですし、あの子が元気なのならそれはせーさんと明美さんのおかげですよ」
相手に明美さんを含むからか、それとも場面を考慮してか、いつもの清さんに対する口調とは違った話し方の家守さん。すると清さんは、いつものように笑う。
「んっふっふ。妻はともかく、私はここでのんびり暮らしてるだけですからねえ」
「またあなたはそんな事言って……」
対する明美さんは、呆れていた。そして家守さん、それに応じる。嬉しそうに。
「そうそう。せーさんが直接清明くんに会う事はなくても、明美さんが頑張れるのはせーさんのおかげって部分もあるんだろうしさ」
「本当、そうですよ。こっちは頼りにしてるって言うのに卑下されてばかりじゃあ、困ってしまうわ」
「そうは言われてもねえ……」
女性二人に突っつかれて、やっぱり笑った顔のまま困り果てる清さん。器用なんだか不器用なんだかよく分からないけど、やり込められる清さんというのも珍しい。
「清一郎さん、清明くんの事大好きでしょ?」
顎に手を当て明美さんと家守さんを交互に見遣る清さんへ、不意にサンデーがそう尋ねた。
「ん? ええ、それはもちろんです」
答える清さんのみならず、家守さんと明美さんもサンデーへ顔を向ける。もちろん僕と、サンデーを膝に乗せる栞さんも。
「明美さんの事も大好きでしょ?」
「ええ」
「あらやだ」
続く質問にも清さんは顔色一つ変えずにあっさりと答え、明美さんも口に手を当てて多少身をくねらせはするものの、言うほどまでには動揺を見せない。これが僕達や大吾達だったらと考えてみれば、こうはいかないだろうというのはすぐに想像できた。
きっぱり「はい」と言い切る清さん格好良い! な按配で、サンデーの話の続きを。
「ボクね、誰かに好きでいてもらったらそれだけで凄く嬉しいよ。だから清一郎さんが好きな人はそれだけで嬉しいと思う。清一郎さんはここでのんびりしてるだけって言うけど、それでも清明くんと明美さんを元気にしてあげられると思うよ?」
サンデーの言いたい事も凄く分かる。だけど、そもそも清明くんは清さんの存在自体すら――
「サンデーくんの言う通りよ」
とても負な考えが頭を巡ってしまったその時、明美さんがうんうんと頭を上下させた。
「そうじゃなかったら四年前、ほっぺた引っぱたいてまであなたを引き留めてませんもの。……あ、思い出したら腹立ってきたわ」
「いやちょっと、今ここでそんな話は」
それは、僕が知っている話だ。僕が知っているんだから、他のみんなも漏れなく知っているんだろう。だけど清さんは、明美さんを止めようとした。
やっぱり、場によってはして欲しくない話に分類されるんだろう。例えその場のみんなが知っている事だとしても。
――しかし、明美さんは止まらなかった。
「大体あなたはいっつもそうなのよ。他人の事は立てるくせに自分の事となると途端にへなへなしちゃって。それでも他人にもっともらしい事とか言っちゃうから、自信も無いのに頼りにされちゃって。……あなたが自信を持って行動できるのなんて、遊んでる時だけなのにね」
途中までは責めるような口調で。そして最後の一文だけとても愛しそうな、具体的に口にせずとも「明美さんは清さんのそんなところを魅力的に思ってるんだな」と僕に思わせてしまうような口調で。
「……いやはや、なんとも酷い言われようで」
清さんは嬉しそうだった。いつもと変わらない表情でむしろ悲しむべき台詞を口にしているにも拘らず、それでもどこか、なんとなくだけど、嬉しそうだった。
しかしそれはともかくとして、
「清さんが自分に自身が無いって、そうなんですか? あんまりそんなふうには……」
栞さんが小首を傾げた。
それは確かに、僕も疑問に思う。そんな事を思わせないくらいいつも楽しそうにしてるし、困った時には相談に乗ってもらったりとか……例を挙げてみれば明美さんの話に符合してはいるんだけど、それでも納得がいかない。
「あらそう? 変ねえ、みんなくらい一緒にいればちょっとくらいは……………あ」
顎に人差し指を当てて可愛らしく悩む素振りを見せた明美さんは、その逡巡の結果「あらやだ」と声を上げながら両の頬を両の手でぺたんと抑える。どうやら都合の悪い、しかも恥ずかしい事実にぶち当たってしまったらしい。それが何かは分からないけど。
「どうかしたんですか?」
僕と同じでやっぱり分からないらしく、明美さんをそうさせる質問した本人であるという流れからも、栞さんが尋ねた。すると明美さん、頬の手をゆっくりと降ろす。
「だって、ねえ。偉そうに自分で言っておいてこんな、ねえ」
なんともむず痒そうな面持ちだった。
――偉そうに? 自分で言っておいて? というのは、清さんの話の辺りだろうか。
「あ、なあるほど」
真っ先に気付いたのは、そう言ってタバコっぽいあれの二本目を取り出す家守さんでした。そう言えば一本目はいつの間に姿を消していたんだろうとか、そもそもあれは二本目で済むのだろうかとかいうのはまあいいとして――
「ワウ?」
何なんだろうね、ジョン。
「できれば言わないであげて欲しいですねえ。と言うか、言わないで欲しいですねえ。んっふっふっふ」
清さんはその答えに気付いているようで、どうにも落ち着かない明美さんを隣にんっふっふっふ。
「と言われれば気になってしまうのが心情というものだぞ、楽」
「ボクも気になるな。教えてよ家守さん。ねえジョン、そっちに行っていい?」
「ワウ」
「行ってらっしゃい、サンデー」
話の大筋には関係無く栞さんの膝から滑り降りたサンデーは、大吾によって梳きたてふさふさのジョンの下へてこてこ進む。真後ろから眺めるその姿は、やっぱり話の大筋とは関係無しにお尻を振り振り無意味にキュート。
「もこもこだー」
「ワフッ」
で、結局のところ話の大筋とは関係無いので次行きましょう次。
「じゃ、ヒントだけね」
待ってました家守さん。
「こーちゃんが『わー』ってなるのはしぃちゃんだけが知ってたよね? それと同じだよ」
「家守さん、それ殆ど答えじゃないですか。うふふ、いやだわ」
……なるほど。
「さてさて、また話が逸れてますね。私の話ではなくて清明の話でしょう?」
ヒントとは言えいくら何でも分かりやす過ぎたそれに部屋中が「はぁー」とか「ほぉー」とかいった納得の溜息でいっぱいになると、清さんがそれを嫌うように話題を元に戻す。
……そう。さっきから全然進んでないんだよね、清明くんの話って。
「そうねえ。このままだと私、ここへ何しに来たのか分からないし」
「でも楽しそうだったよ? あったかいな、ジョンの体」
「ワウゥ……」
その声に後ろを振り返ってみると、ジョンはいつの間にか眠る時の体勢になり、サンデーを自分の体と尻尾で囲むように丸くなっていました。返事をしたところを見るに寝てはいないようですが、その返事の内容からして、もう暫らくすれば本当に寝てしまいそうなのでした。
そんな犬とニワトリの交流に頬を緩ませながら、
「ええ、もちろん楽しいわ。おかげで時間を忘れちゃいそう」
と訊かれた事には答える明美さん。それを尋ねたサンデーからすれば、既に話題はジョンのぽかぽかさに移ってるんだろうけど。
「うん」と頷いたサンデーは、頷いた流れのままジョンと同じく楽な体勢になり、もそもそとジョンに身体をうずめ始めた。どうやらこのままジョンと一緒にお昼寝に入るらしい。昼寝と言っても、まだ昼まではもうちょっとあるけど。
「ふふ。――えー、おっほん」
とてもわざとらしく、と言うかもう音じゃなくて口で言っちゃってますが、明美さんが口に拳を当てて咳払い。そして、
「どこから話せばいいんだったかしら?」
とあんまりさっきの咳払いに意味がなくなってしまいそうな展開に。
そんな事訊かれましても、正直誰にも分からないと思いますよ? ――と思ったらそれは見事に的中していて、答えられる確率が幾らか高そうな清さんすらもが、サタデーがよくやる「やれやれ」もしくは「お手上げ」のジェスチャーを見せた。
「くー」
現在お昼寝中のサンデーの中で、サタデーはやっぱりあの動きをしているのだろうか。
それを思うと、「やれやれだゼ」なんて声が脳内で自動再生されるのでした。
「うーん……困ったわねえ。自然に出るんじゃなくて考えて話題を出すのって、案外難しいわあ」
明美さん、困窮。話をぶつ切りにし続けてきたつけがここで出てきてしまったらしく、「それでは新しく話を始めよう」と意気込んでみれば逆にこの通り。
「話題自体は山ほどある筈なんだけど……」
はてさて、意外にも難航しそうな「清明くんについての話」。始まってしまえばそれはやっぱり「清明くんについての話」以外の何ものでもないんだろうけど、そこまでの道のりは一体どうなる事やら。
――ま、どの道。なるようになるとしか言えないんですけどね。
「――あれ? あの人って……」
「まあとにかく、この人はそんななのよ」
その「とにかく」に、明美さんにとってはちょっと恥ずかしいさっきの出来事が含まれているのは、はにかんだようなその口元と含み笑いから微かに震える声のおかげで、よーく伝わってきた。
しかしそんな表情が表に出ていたのは短い時間の事で、
「あの子の気が弱いのもこの人に似たのかしらねえ?」
今度は明美さん、清さんへなじるような流し目。その態度の真逆っぷりに「恥ずかしさを紛らわそうとしてるんだろうか」と邪推してしまうも、そう考えると何故だか可愛らしく見えてしまうのでした。
「うーん、そこまで言われるほどかなあ」
しかしそんな表情を向けられた清さんは、とてもそうは思えないんだろう。やっぱりいつもの顔のままだけど、困ったような声を出しながら困ったように顎をさすっていました。
「そう言や、ジョンの事も怖がってましたよ」
大吾がそう言うと、お昼寝中のジョンは耳だけぴくりと動かした。だけど動いたのは結局それだけで、起きる事はなし。そんなジョンにくるまれているサンデーに至っては、全く無反応。羽を休めて首を垂らすとそれはもうただの真っ白い塊で、大きい団子のようでした。
「ほほう、ジョンをですか。まあ大きいですからねえ。あの子は……サンデーくらいの大きさでも、厳しいかもしれませんねえ」
団子と言えば、買ってきた団子はまだ食べないかな? ――と、ちょっと卑しい考えが頭を巡ってしまったりしている間に、清さんがジョンに目を遣り楽しそうな声で。
そうですか。サンデーでもまだ駄目そうですか。
「少し離れた所から眺める分には好きそうだったんですけどねえ。動物園とかに連れて行ったら、それなりに楽しそうでしたし」
「鳴き声が上がると、怖がってしがみ付いてきたけどね。んっふっふっふ」
「私とあなた、どっちにしがみ付くかで競ったりもしましたねえ。うふふ」
――と言うのは当然、清さんがまだ幽霊じゃなかった頃の話なんだろう。だけど「その辺り」に気を取られるような事もなく、楽さん夫婦はその名の通り、楽しそうに思い出話をし始めた。
今の動物園の話から遊園地の話に移れば「どれも怖くて乗れるものが殆ど無かった」だとか「メリーゴーランドに確か五回は乗った」だとか。もっと進めば「家族に対してすら引っ込み思案だから心配だったけど、学校や幼稚園のクラスには馴染めたようでホッとした」などなど、気苦労についての話なんかも。
その間、聞き手側の僕達は「へえ」とか「そうなんですか」とかいった相槌程度しか口にはできなかったけど、多分それなりに楽しかったと思う。「多分」というのは、話が頭にすんなり入り過ぎて自分の感想を気にする暇が無かったからだ。ほんの少し会っただけとは言え清明くんのあの様子だと想像が容易と言うか、そもそも「親と子」なんて関係は誰でも経験してるものだから、共感できると言うか。……もちろん、親側としてはまだ経験してないけどね。もちろん僕に限らず、聞き手側のみんながそうなんだろうけど――
「ふむ、分かるぞ。我が子というものは……何と言うか、気を揉まされるよな。色々と」
と、成美さん。…………ほえ!?
「どうした日向? 何だその目玉が飛び出しそうな顔は」
「い、いいいいえ、多分僕の早とちりだと思うんで気にしないでください」
「だから何がだ? 気にするなと言うのならせめて冷静な顔で言え。それでも気になるから結局言ってはもらうがな」
えぇー……っと、いいのかなこんな事訊いちゃって。
「成美さんって、実はお子さんが……?」
「わたしは天寿を全うするまで生きたのだぞ? 実はも何も、当然だろうが」
「そう言や孝一の前ではしてなかったっけか、そんな話は」
……………ほほう。
「えぇーーーーーーー!?」
「うわっ。な、何? ……今の、日向さん? あれ、下の部屋にいるのかな。って事はもしかして、みんなも?」
「……………」
「分からないではないけど、驚き過ぎだよこーちゃん」
「だだ、だって! そりゃ成美さんが猫としては大人なのは知ってましたけど、普段これですし!」
「……やや失礼な言い回しに取れるのは、わたしの耳が悪いのか?」
「仕方ないと思うよ成美ちゃん。栞だって、初めて聞いた時はびっくりしたもん」
思いもよらないところから湧き出た思いもよらない話に驚いたのは僕だけで、ここのみんなはともかく明美さんまでが、慌てる僕を見てくすくす笑う側なのでした。
ここへ来てからそろそろ一月。まだまだ知らない事はあるもんだなあ、やっぱり。
――と、なんとなく締め括りのような感想を思い描いた、その時だった。
「おや? まだ誰か来ますか?」
家守さんが来て、明美さんが来て、これ以上の来訪者予定はなかった102号室の呼び鈴が、それでもいつも通りの音を立てた。
当然、これまでの二回と同じように清さんが出る。居間からはちょっと見えづらい玄関口へ行き、ドアが開く音がして、
「――おお、これはこれは。んっふっふっふ、どうぞお上がりください、みんな集まっていますよ」
清さんがそう言い終えるまで、相手側の声は聞こえてこなかった。つまりその相手とは、顔だけ見て部屋の中に入れられる人、という事になる。
しかしその人は、招かれてすんなりと入ってくるというわけではなかった。
「あの、家守さんか日向さん、いますか?」
どういうわけだか僕と家守さんがご指名を賜る。でもそれはともかく、その声には聞き覚えがあった。そしてやや渋くなる大吾の顔を見るに、その記憶は間違ってはいないらしい。
「今の声は、庄子だな」
実は母親の経験があった成美さんは、清さんと対面しているであろう人物の名前をズバリと言い当てた。さすが母親。全然関係無いけど。
「庄子ちゃん? って確か、怒橋君の妹さんだったかしら。あらあ、初めて会うわ。うふふ」
「なんか知らねーけど、ヤモリか孝一か呼んでんだろ? ……だったら早く行ってやれよ」
非常に嬉しそうに大吾を眺める明美さんと、それからわざとらしく目を逸らしてふてくされるようにしている大吾は、まるで正反対。
「どうやら、聞こえたようですね」と清さんの声が届いてくる中、聞こえたからこそその話は続く。
「キシシ、だいちゃんも来たらいいじゃん。自分が呼ばれなかったからってそんな拗ねなくても」
とは、家守さんの弁。しかし大吾は不服な様子で、
「そんなんじゃねーっての。いくら何でも来過ぎだってんだよ」
木曜日、金曜日、土曜を飛ばして日曜日。それまで月に一回しか来てなかったっていうんだから、四日で三回はやっぱり多いらしい。僕は月に一回っていうのを経験してないから、何とも思わないけど。
「だったらほらほら、それを伝えるためにも」
立ち上がった家守さんは口に咥えたタバコもどきを処理するためにゴミ箱へと向かいつつ、大吾に「ほら立って立って」と上向きにくいくいさせる手で誘いをかけた。
「……はあ、分かったよ。行きゃいいんだろ行きゃ」
「くくく。待っているのが庄子となれば、家守の誘いにでもあっさり乗るか」
実は母親の経験があった成美さんはそう笑って肩を揺らし、立ち上がりつつある大吾を見上げた。
「関係ねーだろ!?」
見下ろすお兄ちゃんは声を張り上げた。多分図星なんだと思う。
「こーちゃんもおいでよ。どっちか一人じゃないと駄目ってわけでもないだろうしさ」
「そうですか? じゃあ、僕も」
わざわざ呼ばれているのに顔を出さない理由もないので、お言葉に甘えてご一緒する事に。
そうして立ち上がる時、隣に座る栞さんが「庄子ちゃん、どうしたんだろうね?」とこちらを見上げてきたけど、分からないので「さあ」とだけ返しておいた。まあ、行けば分かるよね。
「いよっ。こんにちは、しょーちゃん」
「あ、家守さん……に、日向さんも。こんにちは」
清さんがいる玄関へ行き、開いたドアの向こうに困った顔をして立っていた庄子ちゃんに家守さんが片手を挙げて気さくな挨拶をすると、やっぱりちょっと困った様子で返事をする庄子ちゃん。その挨拶に合わせてお辞儀をし、そのお辞儀に合わせてトレードマークである二つのおさげが揺れた。
「オレもいるぞ」
「呼んでないよ」
「……………」
こちらは相変わらず。
「んで、アタシかこーちゃんに用って何かな? 結局二人とも……って言うか、だいちゃんまで来ちゃったけど」
「えっとですね……」
尋ねられた庄子ちゃんは、あさっての方向――もとい、あまくに荘正面入口のほうへ顔を向けた。釣られて僕と家守さんも玄関から顔だけ出し、そちらのほうを覗いてみると、
「あの人が、ここの人に合わせて欲しいって」
男の子が立っていた。ここからだとそこそこに距離があって分かり辛いけど、それでも読み取れるあの申し訳無さそうな顔は、間違いない。
「おいおい、ありゃあ……」
「ありゃあ、噂をすればなんとやらってやつ?」
清明くんだった。
「ですねえ。んっふっふっふ」
先に確認していたのか、清さんは外を見ないでそう笑った。
「ここに来たらあの人がまた立ってて、無視して中に入ろうとしたら声掛けられて、それで……」
すれ違った程度とは言え以前にも清明くんに会った事がある庄子ちゃんは、言いながらとても不安そうな顔をする。
しかし突然自分の話が出てきてしまって慌てた栞さんが、話を逸らすためにまた次の話題を持ち出す。逸らし切れてなさそうな気もするけど、まあともかくそうやって話はぐいぐいとずれていき、結局また暫らくは本筋から離れた展開へ。
どうにもこうにも、ちょっとばかしアンニュイな表現ではあるけど――グダグダだ。と言って、明美さんの言った「楽しそう」という言葉はそこを指しているような気もしないではない。だけどやっぱり、ねえ?
まあ、それが駄目だと言いたいわけでもないけど。
「じゃあ、これからは二人とも仲良くね」
と、明美さん。
「は、はあ」
「そのつもりではいるのだが……」
と、これまでは仲良くなかったらしい二人。
そこだけしか聞かなかったとしても話の内容が分かってしまいそうだから、なんとも単純なペアだ。いやそりゃ、ただ好き合ってる男女って括りで考えたら単純も複雑もないんだろうけど。
「それでこっちは……ぱっと見、普段から仲良さそうな感じかな?」
「ふぇ」
栞さんが、背筋をピンと張りながら妙な声を出した。僕は逆に声は出ず、背筋は「ついに来たか」と丸くなった。
「ですねー。しぃちゃんはいつも通りとして、こっちのこーちゃんも見た目のまんまのほほんな人柄ですから」
「そ、そんな事ないです! 孝一くん、時々わーってなっちゃったりしますし!」
わー?
『わー?』
僕の心の声を、家守さんと明美さんが揃って復唱。どうにも間抜けた響きだった。
……もちろん栞さんの言いたい事は分かるんですが、恥ずかしいからって何でも否定すればいいってもんでもないと思いますよ、栞さん。
「あー、いいねえそういう『他の人には見せない意外な一面』って。……正直よく分かんないけど、そういう事だよね? しぃちゃん」
「え、あ、えっと……」
墓穴を掘ったような気がしないでもない展開に、栞さんは困ったような眼差しをこちらに向けてきた。そしてそのまま二、三秒。
「そう――だと、思います」
顔を眺めて何が分かったのかは全然分からないけど、そして栞さん本人も分かってなさそうだったそうで、なんとも自信無さげにゆるゆると頷いたのでした。
「日向さんはどうです? 喜坂さんの普段とはちょっと違う一面とかそういった事、見付けました?」
うわあ、来たよ。来るとは思ってたけどやっぱり来たよ。そんな事言われても正直僕、栞さんと知り合ったのがそもそも最近だし……
と、隣で小さくなってる栞さんを眺めながら、初体面からこれまでを振り返ってみる。
今自分で愚痴を垂れたように、付き合っているとは言え僕達は最近知り合ったばかり。なので、昔の事過ぎて思い出せないなんて事もなく。
思えば、付き合い始める前も今も、そんなに変わらないかな? 初めて会った、箒を携えて出迎えてくれた時の第一印象からして既に「優しそうな人」だったし、知り合ってみればその印象のままの人で、優しくしてくれるのはもちろん一緒にいて楽しい人だし。それに付き合い始めてからあまり変わらないというのも別に悪い印象なわけではなくて、むしろその裏表が無いところが栞さんのいいところだと思うし……
ああ、でもだからと言ってここで「あんまり普段と違うところっていうのは無いですね」なんて答えるのもなんだか癪だ。あんな調子とは言え、栞さんだって僕の「普段と違うところ」を言ってくれたんだし。ここはどうにか、具体的な答えを出したいところだ。
と、ここまで長々と考えるのに要した時間は数秒ほど。焦っている時の脳の回転速度は、その精密ささえ考慮しなければ結構馬鹿にできないなあ、とこれまたどうでもいい事を考えてしまったりしつつ、
「あっ」
ついに、「栞さんの普段と違うところ」が頭をかすめた。しかしそれは本当にかすめただけで、それが何なのかははっきりしない。ので、今度はその答えを引っ張り出してみる。そこまでしてようやくそれが何なのかを理解し、僕は、
「思いつかない……ですねぇ。栞さんはその、いつもこんな感じですから」
と答え、軽く笑って見せた。
「そう? うふふ、それもまた可愛らしくていいですね」
「キシシ、しぃちゃんらしいねえ」
栞さんの、普段と違うところ。
それは時々、泣いてしまう事。
僕はその原因を知っているし、僕がその原因でもある。
「すいません栞さん、お恥ずかしい限りと言うかなんと言うか」
「う、ううん。別にそんな」
……笑い話でほいほい出すような事じゃ、ないよね。
「初めてああなった時は何事かと思ったけど、今年でもう中学生ですからねえ」
明美さんが頬に手を当てながら、隣の清さんへしみじみと話し掛ける。
「清明が感じる痛みは変わりませんが、それでも私達が安心して暮らせるのは家守さんのおかげです。今更になりますが、ありがとうございます」
一方清さんは元から正座だったところへ更にきちんと姿勢を正し、眼前のテーブルに額がついてしまいそうなくらいに深々と頭を下げた。そして、明美さんもそれに倣う。
「いえいえ、アタシがしたのなんてただ教えたってだけですから。清明くんとは面識自体殆ど無いわけですし、あの子が元気なのならそれはせーさんと明美さんのおかげですよ」
相手に明美さんを含むからか、それとも場面を考慮してか、いつもの清さんに対する口調とは違った話し方の家守さん。すると清さんは、いつものように笑う。
「んっふっふ。妻はともかく、私はここでのんびり暮らしてるだけですからねえ」
「またあなたはそんな事言って……」
対する明美さんは、呆れていた。そして家守さん、それに応じる。嬉しそうに。
「そうそう。せーさんが直接清明くんに会う事はなくても、明美さんが頑張れるのはせーさんのおかげって部分もあるんだろうしさ」
「本当、そうですよ。こっちは頼りにしてるって言うのに卑下されてばかりじゃあ、困ってしまうわ」
「そうは言われてもねえ……」
女性二人に突っつかれて、やっぱり笑った顔のまま困り果てる清さん。器用なんだか不器用なんだかよく分からないけど、やり込められる清さんというのも珍しい。
「清一郎さん、清明くんの事大好きでしょ?」
顎に手を当て明美さんと家守さんを交互に見遣る清さんへ、不意にサンデーがそう尋ねた。
「ん? ええ、それはもちろんです」
答える清さんのみならず、家守さんと明美さんもサンデーへ顔を向ける。もちろん僕と、サンデーを膝に乗せる栞さんも。
「明美さんの事も大好きでしょ?」
「ええ」
「あらやだ」
続く質問にも清さんは顔色一つ変えずにあっさりと答え、明美さんも口に手を当てて多少身をくねらせはするものの、言うほどまでには動揺を見せない。これが僕達や大吾達だったらと考えてみれば、こうはいかないだろうというのはすぐに想像できた。
きっぱり「はい」と言い切る清さん格好良い! な按配で、サンデーの話の続きを。
「ボクね、誰かに好きでいてもらったらそれだけで凄く嬉しいよ。だから清一郎さんが好きな人はそれだけで嬉しいと思う。清一郎さんはここでのんびりしてるだけって言うけど、それでも清明くんと明美さんを元気にしてあげられると思うよ?」
サンデーの言いたい事も凄く分かる。だけど、そもそも清明くんは清さんの存在自体すら――
「サンデーくんの言う通りよ」
とても負な考えが頭を巡ってしまったその時、明美さんがうんうんと頭を上下させた。
「そうじゃなかったら四年前、ほっぺた引っぱたいてまであなたを引き留めてませんもの。……あ、思い出したら腹立ってきたわ」
「いやちょっと、今ここでそんな話は」
それは、僕が知っている話だ。僕が知っているんだから、他のみんなも漏れなく知っているんだろう。だけど清さんは、明美さんを止めようとした。
やっぱり、場によってはして欲しくない話に分類されるんだろう。例えその場のみんなが知っている事だとしても。
――しかし、明美さんは止まらなかった。
「大体あなたはいっつもそうなのよ。他人の事は立てるくせに自分の事となると途端にへなへなしちゃって。それでも他人にもっともらしい事とか言っちゃうから、自信も無いのに頼りにされちゃって。……あなたが自信を持って行動できるのなんて、遊んでる時だけなのにね」
途中までは責めるような口調で。そして最後の一文だけとても愛しそうな、具体的に口にせずとも「明美さんは清さんのそんなところを魅力的に思ってるんだな」と僕に思わせてしまうような口調で。
「……いやはや、なんとも酷い言われようで」
清さんは嬉しそうだった。いつもと変わらない表情でむしろ悲しむべき台詞を口にしているにも拘らず、それでもどこか、なんとなくだけど、嬉しそうだった。
しかしそれはともかくとして、
「清さんが自分に自身が無いって、そうなんですか? あんまりそんなふうには……」
栞さんが小首を傾げた。
それは確かに、僕も疑問に思う。そんな事を思わせないくらいいつも楽しそうにしてるし、困った時には相談に乗ってもらったりとか……例を挙げてみれば明美さんの話に符合してはいるんだけど、それでも納得がいかない。
「あらそう? 変ねえ、みんなくらい一緒にいればちょっとくらいは……………あ」
顎に人差し指を当てて可愛らしく悩む素振りを見せた明美さんは、その逡巡の結果「あらやだ」と声を上げながら両の頬を両の手でぺたんと抑える。どうやら都合の悪い、しかも恥ずかしい事実にぶち当たってしまったらしい。それが何かは分からないけど。
「どうかしたんですか?」
僕と同じでやっぱり分からないらしく、明美さんをそうさせる質問した本人であるという流れからも、栞さんが尋ねた。すると明美さん、頬の手をゆっくりと降ろす。
「だって、ねえ。偉そうに自分で言っておいてこんな、ねえ」
なんともむず痒そうな面持ちだった。
――偉そうに? 自分で言っておいて? というのは、清さんの話の辺りだろうか。
「あ、なあるほど」
真っ先に気付いたのは、そう言ってタバコっぽいあれの二本目を取り出す家守さんでした。そう言えば一本目はいつの間に姿を消していたんだろうとか、そもそもあれは二本目で済むのだろうかとかいうのはまあいいとして――
「ワウ?」
何なんだろうね、ジョン。
「できれば言わないであげて欲しいですねえ。と言うか、言わないで欲しいですねえ。んっふっふっふ」
清さんはその答えに気付いているようで、どうにも落ち着かない明美さんを隣にんっふっふっふ。
「と言われれば気になってしまうのが心情というものだぞ、楽」
「ボクも気になるな。教えてよ家守さん。ねえジョン、そっちに行っていい?」
「ワウ」
「行ってらっしゃい、サンデー」
話の大筋には関係無く栞さんの膝から滑り降りたサンデーは、大吾によって梳きたてふさふさのジョンの下へてこてこ進む。真後ろから眺めるその姿は、やっぱり話の大筋とは関係無しにお尻を振り振り無意味にキュート。
「もこもこだー」
「ワフッ」
で、結局のところ話の大筋とは関係無いので次行きましょう次。
「じゃ、ヒントだけね」
待ってました家守さん。
「こーちゃんが『わー』ってなるのはしぃちゃんだけが知ってたよね? それと同じだよ」
「家守さん、それ殆ど答えじゃないですか。うふふ、いやだわ」
……なるほど。
「さてさて、また話が逸れてますね。私の話ではなくて清明の話でしょう?」
ヒントとは言えいくら何でも分かりやす過ぎたそれに部屋中が「はぁー」とか「ほぉー」とかいった納得の溜息でいっぱいになると、清さんがそれを嫌うように話題を元に戻す。
……そう。さっきから全然進んでないんだよね、清明くんの話って。
「そうねえ。このままだと私、ここへ何しに来たのか分からないし」
「でも楽しそうだったよ? あったかいな、ジョンの体」
「ワウゥ……」
その声に後ろを振り返ってみると、ジョンはいつの間にか眠る時の体勢になり、サンデーを自分の体と尻尾で囲むように丸くなっていました。返事をしたところを見るに寝てはいないようですが、その返事の内容からして、もう暫らくすれば本当に寝てしまいそうなのでした。
そんな犬とニワトリの交流に頬を緩ませながら、
「ええ、もちろん楽しいわ。おかげで時間を忘れちゃいそう」
と訊かれた事には答える明美さん。それを尋ねたサンデーからすれば、既に話題はジョンのぽかぽかさに移ってるんだろうけど。
「うん」と頷いたサンデーは、頷いた流れのままジョンと同じく楽な体勢になり、もそもそとジョンに身体をうずめ始めた。どうやらこのままジョンと一緒にお昼寝に入るらしい。昼寝と言っても、まだ昼まではもうちょっとあるけど。
「ふふ。――えー、おっほん」
とてもわざとらしく、と言うかもう音じゃなくて口で言っちゃってますが、明美さんが口に拳を当てて咳払い。そして、
「どこから話せばいいんだったかしら?」
とあんまりさっきの咳払いに意味がなくなってしまいそうな展開に。
そんな事訊かれましても、正直誰にも分からないと思いますよ? ――と思ったらそれは見事に的中していて、答えられる確率が幾らか高そうな清さんすらもが、サタデーがよくやる「やれやれ」もしくは「お手上げ」のジェスチャーを見せた。
「くー」
現在お昼寝中のサンデーの中で、サタデーはやっぱりあの動きをしているのだろうか。
それを思うと、「やれやれだゼ」なんて声が脳内で自動再生されるのでした。
「うーん……困ったわねえ。自然に出るんじゃなくて考えて話題を出すのって、案外難しいわあ」
明美さん、困窮。話をぶつ切りにし続けてきたつけがここで出てきてしまったらしく、「それでは新しく話を始めよう」と意気込んでみれば逆にこの通り。
「話題自体は山ほどある筈なんだけど……」
はてさて、意外にも難航しそうな「清明くんについての話」。始まってしまえばそれはやっぱり「清明くんについての話」以外の何ものでもないんだろうけど、そこまでの道のりは一体どうなる事やら。
――ま、どの道。なるようになるとしか言えないんですけどね。
「――あれ? あの人って……」
「まあとにかく、この人はそんななのよ」
その「とにかく」に、明美さんにとってはちょっと恥ずかしいさっきの出来事が含まれているのは、はにかんだようなその口元と含み笑いから微かに震える声のおかげで、よーく伝わってきた。
しかしそんな表情が表に出ていたのは短い時間の事で、
「あの子の気が弱いのもこの人に似たのかしらねえ?」
今度は明美さん、清さんへなじるような流し目。その態度の真逆っぷりに「恥ずかしさを紛らわそうとしてるんだろうか」と邪推してしまうも、そう考えると何故だか可愛らしく見えてしまうのでした。
「うーん、そこまで言われるほどかなあ」
しかしそんな表情を向けられた清さんは、とてもそうは思えないんだろう。やっぱりいつもの顔のままだけど、困ったような声を出しながら困ったように顎をさすっていました。
「そう言や、ジョンの事も怖がってましたよ」
大吾がそう言うと、お昼寝中のジョンは耳だけぴくりと動かした。だけど動いたのは結局それだけで、起きる事はなし。そんなジョンにくるまれているサンデーに至っては、全く無反応。羽を休めて首を垂らすとそれはもうただの真っ白い塊で、大きい団子のようでした。
「ほほう、ジョンをですか。まあ大きいですからねえ。あの子は……サンデーくらいの大きさでも、厳しいかもしれませんねえ」
団子と言えば、買ってきた団子はまだ食べないかな? ――と、ちょっと卑しい考えが頭を巡ってしまったりしている間に、清さんがジョンに目を遣り楽しそうな声で。
そうですか。サンデーでもまだ駄目そうですか。
「少し離れた所から眺める分には好きそうだったんですけどねえ。動物園とかに連れて行ったら、それなりに楽しそうでしたし」
「鳴き声が上がると、怖がってしがみ付いてきたけどね。んっふっふっふ」
「私とあなた、どっちにしがみ付くかで競ったりもしましたねえ。うふふ」
――と言うのは当然、清さんがまだ幽霊じゃなかった頃の話なんだろう。だけど「その辺り」に気を取られるような事もなく、楽さん夫婦はその名の通り、楽しそうに思い出話をし始めた。
今の動物園の話から遊園地の話に移れば「どれも怖くて乗れるものが殆ど無かった」だとか「メリーゴーランドに確か五回は乗った」だとか。もっと進めば「家族に対してすら引っ込み思案だから心配だったけど、学校や幼稚園のクラスには馴染めたようでホッとした」などなど、気苦労についての話なんかも。
その間、聞き手側の僕達は「へえ」とか「そうなんですか」とかいった相槌程度しか口にはできなかったけど、多分それなりに楽しかったと思う。「多分」というのは、話が頭にすんなり入り過ぎて自分の感想を気にする暇が無かったからだ。ほんの少し会っただけとは言え清明くんのあの様子だと想像が容易と言うか、そもそも「親と子」なんて関係は誰でも経験してるものだから、共感できると言うか。……もちろん、親側としてはまだ経験してないけどね。もちろん僕に限らず、聞き手側のみんながそうなんだろうけど――
「ふむ、分かるぞ。我が子というものは……何と言うか、気を揉まされるよな。色々と」
と、成美さん。…………ほえ!?
「どうした日向? 何だその目玉が飛び出しそうな顔は」
「い、いいいいえ、多分僕の早とちりだと思うんで気にしないでください」
「だから何がだ? 気にするなと言うのならせめて冷静な顔で言え。それでも気になるから結局言ってはもらうがな」
えぇー……っと、いいのかなこんな事訊いちゃって。
「成美さんって、実はお子さんが……?」
「わたしは天寿を全うするまで生きたのだぞ? 実はも何も、当然だろうが」
「そう言や孝一の前ではしてなかったっけか、そんな話は」
……………ほほう。
「えぇーーーーーーー!?」
「うわっ。な、何? ……今の、日向さん? あれ、下の部屋にいるのかな。って事はもしかして、みんなも?」
「……………」
「分からないではないけど、驚き過ぎだよこーちゃん」
「だだ、だって! そりゃ成美さんが猫としては大人なのは知ってましたけど、普段これですし!」
「……やや失礼な言い回しに取れるのは、わたしの耳が悪いのか?」
「仕方ないと思うよ成美ちゃん。栞だって、初めて聞いた時はびっくりしたもん」
思いもよらないところから湧き出た思いもよらない話に驚いたのは僕だけで、ここのみんなはともかく明美さんまでが、慌てる僕を見てくすくす笑う側なのでした。
ここへ来てからそろそろ一月。まだまだ知らない事はあるもんだなあ、やっぱり。
――と、なんとなく締め括りのような感想を思い描いた、その時だった。
「おや? まだ誰か来ますか?」
家守さんが来て、明美さんが来て、これ以上の来訪者予定はなかった102号室の呼び鈴が、それでもいつも通りの音を立てた。
当然、これまでの二回と同じように清さんが出る。居間からはちょっと見えづらい玄関口へ行き、ドアが開く音がして、
「――おお、これはこれは。んっふっふっふ、どうぞお上がりください、みんな集まっていますよ」
清さんがそう言い終えるまで、相手側の声は聞こえてこなかった。つまりその相手とは、顔だけ見て部屋の中に入れられる人、という事になる。
しかしその人は、招かれてすんなりと入ってくるというわけではなかった。
「あの、家守さんか日向さん、いますか?」
どういうわけだか僕と家守さんがご指名を賜る。でもそれはともかく、その声には聞き覚えがあった。そしてやや渋くなる大吾の顔を見るに、その記憶は間違ってはいないらしい。
「今の声は、庄子だな」
実は母親の経験があった成美さんは、清さんと対面しているであろう人物の名前をズバリと言い当てた。さすが母親。全然関係無いけど。
「庄子ちゃん? って確か、怒橋君の妹さんだったかしら。あらあ、初めて会うわ。うふふ」
「なんか知らねーけど、ヤモリか孝一か呼んでんだろ? ……だったら早く行ってやれよ」
非常に嬉しそうに大吾を眺める明美さんと、それからわざとらしく目を逸らしてふてくされるようにしている大吾は、まるで正反対。
「どうやら、聞こえたようですね」と清さんの声が届いてくる中、聞こえたからこそその話は続く。
「キシシ、だいちゃんも来たらいいじゃん。自分が呼ばれなかったからってそんな拗ねなくても」
とは、家守さんの弁。しかし大吾は不服な様子で、
「そんなんじゃねーっての。いくら何でも来過ぎだってんだよ」
木曜日、金曜日、土曜を飛ばして日曜日。それまで月に一回しか来てなかったっていうんだから、四日で三回はやっぱり多いらしい。僕は月に一回っていうのを経験してないから、何とも思わないけど。
「だったらほらほら、それを伝えるためにも」
立ち上がった家守さんは口に咥えたタバコもどきを処理するためにゴミ箱へと向かいつつ、大吾に「ほら立って立って」と上向きにくいくいさせる手で誘いをかけた。
「……はあ、分かったよ。行きゃいいんだろ行きゃ」
「くくく。待っているのが庄子となれば、家守の誘いにでもあっさり乗るか」
実は母親の経験があった成美さんはそう笑って肩を揺らし、立ち上がりつつある大吾を見上げた。
「関係ねーだろ!?」
見下ろすお兄ちゃんは声を張り上げた。多分図星なんだと思う。
「こーちゃんもおいでよ。どっちか一人じゃないと駄目ってわけでもないだろうしさ」
「そうですか? じゃあ、僕も」
わざわざ呼ばれているのに顔を出さない理由もないので、お言葉に甘えてご一緒する事に。
そうして立ち上がる時、隣に座る栞さんが「庄子ちゃん、どうしたんだろうね?」とこちらを見上げてきたけど、分からないので「さあ」とだけ返しておいた。まあ、行けば分かるよね。
「いよっ。こんにちは、しょーちゃん」
「あ、家守さん……に、日向さんも。こんにちは」
清さんがいる玄関へ行き、開いたドアの向こうに困った顔をして立っていた庄子ちゃんに家守さんが片手を挙げて気さくな挨拶をすると、やっぱりちょっと困った様子で返事をする庄子ちゃん。その挨拶に合わせてお辞儀をし、そのお辞儀に合わせてトレードマークである二つのおさげが揺れた。
「オレもいるぞ」
「呼んでないよ」
「……………」
こちらは相変わらず。
「んで、アタシかこーちゃんに用って何かな? 結局二人とも……って言うか、だいちゃんまで来ちゃったけど」
「えっとですね……」
尋ねられた庄子ちゃんは、あさっての方向――もとい、あまくに荘正面入口のほうへ顔を向けた。釣られて僕と家守さんも玄関から顔だけ出し、そちらのほうを覗いてみると、
「あの人が、ここの人に合わせて欲しいって」
男の子が立っていた。ここからだとそこそこに距離があって分かり辛いけど、それでも読み取れるあの申し訳無さそうな顔は、間違いない。
「おいおい、ありゃあ……」
「ありゃあ、噂をすればなんとやらってやつ?」
清明くんだった。
「ですねえ。んっふっふっふ」
先に確認していたのか、清さんは外を見ないでそう笑った。
「ここに来たらあの人がまた立ってて、無視して中に入ろうとしたら声掛けられて、それで……」
すれ違った程度とは言え以前にも清明くんに会った事がある庄子ちゃんは、言いながらとても不安そうな顔をする。
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