(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十九章 希望と予定 一

2011-01-02 20:52:58 | 新転地はお化け屋敷
 おはようございます。204号室住人、日向孝一です。
 昨日はいろいろありました――というわけではなく、起こったこと自体は一つだったのですが、その一つが大きかったといいますか。詳細は思い返すのみに留めておきますが、ともかく僕と栞さんは昨晩、一緒になると決めました。
 それに際しては僕の親とも話をしなければならず、だったらもちろん今すぐにとはいかないんですけど、少なくとも僕と栞さんの間だけでなら決定したわけです。
 で。
「おはよう、こうくん」
「おはようございます」
 僕と栞さんの間だけでなら決定したということは、今のように僕と栞さんだけの状況だと、「一緒になった」も同然なのではないでしょうか。もちろん身の上の話ではなく、気持ちだけの問題ではあるんですけど。
「ええと……」
「ん? どうかした?」
 寝転んだまま小首を傾げる栞さんはとても可愛らしいのですが、そういう話ではなく。
「いやその、ただ挨拶するってだけじゃなくてもうちょっと何かすべきなんだろうか、なんて。昨日の話もありますし」
 昨日の話もある、ではなく実際にはそれこそが、それのみこそがそう思った動機なのですが、まあ細かい話はいいとしましょう。
「うーん、何もしなくたって結構なことだと思うけどね。同じお布団で寝てて、しかも抱き合ってるし」
 言われてみればそりゃそうでした。同じ布団で寝ているというのはいいにしても、抱き合っているのは目が覚めてから自発的にとった行動でしたし。ドラマなんかのように抱き合ったまま寝て起きるまでそのまま、というのはなかなか難しいものですね。寝相が悪いというだけの話なんでしょうけど。
 いや、だからってそこまで酷いってわけでもないんですけどね? 寝相。
 ともかく、今のままで既に「何かしている」状態だというのは理解しました。ならば、
「じゃあ、もう少しこうしててもいいですか?」
「言われなくてもそうしてたと思うよ。時間がないとか、そういうことにならない限りは」
 まだまだ時間に余裕があるのは目が覚めた時に確認していたので、だったらこのままということで。
 ……単に栞さんが温かいとか柔らかいとかそういうことだけでなく、やっぱりそこに好きだとか愛してるだとかの感情も交えて抱き合っていたいと思ったということは、照れ臭いので言いはしないでおきました。言うまでもないことでもあるんでしょうしね。
 もちろん、照れ臭くて言えなかったことへの言い訳とかではありません。

『いただきます』
 朝ご飯。ここにいるからには一緒に食べてもらいます、なんて台詞を最近の栞さんと朝食を共にする際によく言っていた気がしますが――家族になったらそんなこと言う必要はないんだよなあ、なんて焼いた食パンにジャムを塗りながらしみじみと。
「機嫌良さそうだね、こうくん。食べる前からにこにこしてるけど」
「そうですか? でもまあ、だとしてもお互い様ですけど」
「あれ」
 栞さんは既に味噌汁に手を付けていましたが、僕と同じくにこにこしていらっしゃいました。味噌汁が美味しいから、ということではないのでしょう。なんとなく、これまでの流れ的に。
「んー、やっぱりちょっとやそっとじゃ治まらないってことなのかな」
「かもしれませんね」
 この表情の原因、つまりは嬉しさとか喜びとかそういったものの原因となれば、それはやっぱり昨晩の話です。さっき起きた直後の話でもその話が出てきたのですが、ともなるとまだ暫く、僕と栞さんはこの感情を引きずることになるのでしょう。
「ただ栞さん、だからってのんびりはしてられませんよ」
「うん。まあそれもお互い様なんだけどね」
 いつもならこの後は大学へ行くわけですが、今日はその前に一つ、別の予定が。
 土曜か日曜、栞さんに僕の両親と会ってもらうと決めたならば、そこに立ち会ってもらう人達にもその話をしなければならないわけです。別に「その話は朝にしなければならない」なんてこともないんですけど、土曜にせよ日曜にせよあちらの仕事の予定を崩すことになるわけですから、少しでも早いほうがいいんだろうということで。
 その人達というのはもちろん、101号室のお二人です。
『ごちそうさまでした』
 食べる前に行けばいいのに、とは自分でも思ったんですけどね。ただその、できればこの雰囲気のままで朝食を摂りたかったというか。
「じゃあ早速ですけど行きましょうか」
「うん」
 帰ってきて時間があれば、味噌汁をもう一杯啜ることにしよう。そんな呑気といえば呑気なことを考えながら、僕と栞さんは部屋を出ることにしました。

「いらっしゃーい」
 快く出迎えてくれた家守さん。そんなふうに思うべきではないんでしょうけど、朝早くから訪問するということへの後ろめたさが薄れてしまうのでした。
「昨日の今日だし、どんな話かはある程度想像つくけど――まあ、上がって上がって」
『お邪魔します』
 朝早く、しかも仕事に出掛ける直前ということで、本当にお邪魔なんですよねこれが。
 でも、中に入ると。
「いらっしゃい」
 今度は高次さんから、再び快く迎えてもらうのでした。まあなんだかんだと卑屈になりはしても結局、こういう対応をされると分かっているから朝一番から事前連絡もなしに訪問することができるんですけどね。
「んで、早速だけどご用件は?」
「あ、はい」
 高次さんと並ぶようにして座った家守さん、即座に本題を持ち出してきました。時間がある時なら進んで雑談を交えてくる人ですが、今回はそうでないということで。
「今度の土曜日か日曜日、栞さんを親に紹介しようと思いまして。それで、できれば家守さんと高次さんに立ち会ってもらいたいんですけど……」
「あはは、やっぱり昨日の今日な話だったね。もちろん引き受けさせてもらうよ、そういうことなら」
 という返事をされることもこれまでの僕達に対する対応と同様、確信していました。
 しかし今度のことについては、それをそのまま受け入れられはしません。追加の注文というか、まあ、そんな感じのものを前々から考えていたのです。
「家守さん」
「ん?」
「変な提案ではあるんですけど、お金、払わせてください。霊能者に対する正式な依頼料ということで」
「お願いします」
 僕が頭を下げ、続いて栞さんも。
 これまでは霊能者として相談に乗ってもらった場合でもお金のやり取りはなかったわけですが――というか、なしということにしてもらっていた、というほうが正確ではありますけど――今回ばかりは、それだと落ち着かないだろうという話になったのです。無論、栞さんとの話の中で。
 それを聞いた家守さん、ふうむと一息。それから数瞬の間を置いてから、こう切り出してきました。
「高いよ? かなり。需要と供給のバランスが取れてない職業だもんで」
 どうしてそういう話になったのかというような経緯についての話はばっさり省略され、金額の話に。つまりは、経緯については言わなくても察してくれた、ということなのでしょう。
「一度で払えなかったら、何回かに分けてでも払わせてください。その分をバイト代から引くとか、そういうふうにしてもらっても構いません」
 僕がこう言うなら、それは当然栞さんにも当て嵌まる話。もう一度「お願いします」と頭を下げた栞さんの目は、一度目の時より険しさを増していました。僕もそうだったらいいのですが、どうなんでしょうね。
「高次さん、何かある?」
「いや、ないよ」
 そんな二人の短い遣り取りも、どこか険しい口調に感じられました。実際にそうなのではなく僕の気分がそう聞こえさせている、というだけかもしれませんが。
「分かりました。このご依頼、引き受けさせて頂きます」
 丁寧な、というよりは事務的な口調で、家守さんはそう言いました。それは僕達が望んだも同然のことだったので、だからどうだと言うつもりはありませんが。
 家守さんはまた息を吐いて数瞬の時間を置き、そしてその後はもう、いつもの口調に戻っていました。
「都合はいくらでも付けられるから、まあ今すぐ決めて欲しいってわけじゃないんだけどさ。土曜か日曜って話、どっちになりそうとかある?」
「あ……あの、すいません。今はまだどっちとも」
「そっか。決まったら教えてね、いつでもいいから」
 いつでもいいと言われはしても、やはり自分の不覚を恥じ入らずにはいられません。というのも僕はまだ、肝心の自宅に連絡をしていないのです。土曜と日曜の予定がどうのという話以前に、今回の「栞さんを紹介する」という件そのものについてすら。
 僕の両親はどうせ土曜も日曜も暇だろうとか、僕と栞さんや僕の両親より家守さんと高次さんが一番予定が立てこんでいるだろうとか、一応はそういう考えもあって家への連絡を後回しにしたわけですが――でも、やっぱり。
「キシシ、固い顔はよくないよこーちゃん。必要以上に警戒させちゃうからね、ご両親をさ。ただでさえアタシら、とんでもなく怪しい二人組なんだし」
「そうなったら俺らの仕事もやり辛くなっちゃうしね。単に日向くんが心配ってだけの話じゃなく」
 ……なるほど、それはごもっとも。僕自身はもちろんそんなこと微塵も思っちゃいませんが、世間的には霊能者ってやっぱりそういう扱いですもんね。
 だったら僕はむしろ、警戒心を解く方向で動くべきなのでしょう。下手に特別なことをしようとすると失敗するかもしれませんが、息子からごく普通に紹介されたとなれば、それだけでも親の心証は良くなるでしょうし。多分。

『お邪魔しました』
 いつもは軽く首を下げるだけか、下手したら動作無しで言葉だけなその挨拶も、今回はしっかり腰から曲げて。そのくらいはするべきなんでしょうしね、そりゃあ。
 でも家守さんと高次さんは、いつもと変わらない調子でした。
「お困り事があったらまたいつでもどうぞ」
「このあと大学だよね? まあ俺らのほうが先に出るんだろうけど、行ってらっしゃい」
 こういう人達だからこそ、まずは客の不信感を解くところから入らなきゃならない霊能者という職業をやっていけてるんだろうな、なんて。もちろん素人の下手な考えではあるんですけど、単に仲のいいご近所さんとしてだけでなく客の一人として、そう思いました。
「行ってきます」
 僕が高次ぐさんへの返事としてそう言うと、
「何かあったら、また宜しくお願いします」
 栞さんは家守さんへの返事として、そう言いました。
「キシシ、行ったり来たりだね」
 そんな家守さんのまとめに四人で軽く笑ってから、でも客として接した直後なのにまた気軽に来れる気がするって割と凄いことなんじゃないだろうか、とも。それが何度目かだったりするならともかく、今回が初めてなわけですし。

 204号室へ戻る際、栞さんは僕の手を握ってきました。いつもならそれは栞さんが僕に、もしくは僕が栞さんに触れたいと思ってすることなのですが、しかし今回は違うような気がしました。胸の内で大きく膨らんだ温かさを放出するところが欲しかったというか、恐らくはそういう感じなのでしょう。手を繋いだ時、僕自身そんな考えが頭をよぎりましたし。
 ――ということがあった短い帰り道を経て、204号室。普段はあまり使われていない携帯電話以上に使われていない室内電話に、僕は手を伸ばしました。
「お家?」
「はい」
 見事に栞さんが尋ねてきた通りでしたが、ここまでにあったことを考えればそれしか可能性がないということなのでしょう。今回の件についての連絡と、土曜と日曜のどちらにするかを決めるために、僕は自宅の電話番号を一つ一つ押していきました。
 緊張は、ありました。やっぱり。
「――あ、お母さん? 僕だけど。孝一」
 久しぶりに聞いた声でしたが、「どしたのこんな朝っぱらから」と感動もへったくれもない返事をされてしまいました。しかしまあ、そういうものなのでしょう。僕だって別に感動してるってわけじゃないですし。
「土曜か日曜、帰っても大丈夫かな。ちょっと話があって、だからお父さんもいてくれたほうがいいんだけど。――いや、電話で済ますのはちょっとアレな話だからさ」
 なんてことを言ったら「アレってどれよ」と返されてしまうわけですが、緊張もあってか、なかなか筋立てて話すことができません。
 でもまあ、問われたことに答えるくらいはそりゃできます。
「……今、付き合ってる人がいてさ。会ってもらいたくて」
 言いながら背後に座っている栞さんのほうを見てみたところ、その瞬間に背筋をピンとしておられました。なにも受話器越しにお母さんに見られてるわけじゃないんですからって話ではありますが、気持ちは分かります。
「急なのは分かってるよ。初めて報告していきなり会ってくれって言うのも、そりゃあ……。でも、事情があってさ。それにその事情を抜きにしても、本気、だからさ」
 少し間がありました。
 そして、あちらから質問が一つ。
「それも考えてるよ。真剣に」
 また少し間があって――溜息が聞こえたような気もしたけど――「土曜でも日曜でも、好きな日に来ていいよ。時間のほうも、いつでも大丈夫だからね」という返事が。
 いつでも大丈夫。思った通りではあったけど、それを当たり前のこととして受け取ってはいけないんだろう。
「分かった、ありがとう。じゃあ土曜日に帰るね。時間も決まったら連絡するから。ああそうそう、さっき言った事情ってのについても、会った時に話すから」
 それに対しては短い返事があって、
「それじゃあ」
 僕は受話器を置きました。
 ゆっくりと栞さんを振り返り、「どうだった?」と心配そうに見上げてくる栞さんを視界に捉えたところで、
「ふへぇぇぇ」
 僕はへなへなと座り込み、視線の高さを栞さんと同じくしました。
「お疲れ様」
 どうだった、という質問への返事はまだだというのに、労いの言葉を掛けてくれる栞さん。なんせ本当に疲れたので、その気遣いが胸に沁み渡る思いです。
 沁み渡った気遣いでちょっぴり元気になったところで、問われたことに応えましょう。
「会いに行くの、大丈夫だそうです。ただ、幽霊云々についてはまだ言ってませんけどね。その時に伝えるってことで」
「うん、言ってたね」
 そりゃあお母さんの声は聞こえずとも僕の声は聞こえてたわけですから、言われなくたってそれくらいは把握しているでしょう。でも僕は、栞さんのその返答に少々困惑することになりました。
 改めて言うまでもなく把握しているであろうことをなぜ伝えたかというと、「どうして?」と聞き返して欲しかったからなのです。つまり、前振りってやつです。……しかし栞さんは、特に疑問を抱いていない様子で頷いただけ。はて、僕はどうしたらいいでしょうか。
「ええとですね」
 言われなかった「どうして?」を諦めて、自分から説明に入ることにしました。どうして僕は今、お母さんに幽霊のことを伝えなかったのか。
「情けない話ですけど、幽霊のことについては下手に手を出すより家守さんと高次さんに任せてしまったほうがいいんじゃないか、と思ったんです。もちろん何から何までなんてことは言いませんけど、その、まあ、そういうことで……」
「ん? いや、私もそれは分かってるよ? おんなじふうに思ってるし」
 あれ。
 そうでしたか、と照れ臭い思いをしていると栞さん、何やら考え事をしているような気難しい顔に。その考え事が何なのかは残念ながらさっぱり分かりませんが、単純な思い違いで済む話ではないということなんでしょうか?
「こうくん」
「はい」
 顔を上げてこちらを向いた栞さん。考えている最中に難しい顔だったならば、その答えが出た今の顔は比例して真剣そのもので、若干ながら気圧されてしまいます。
 しかしそれはともかく、話の内容ですが。
「一応言っておくけど、こうくんが一人で頑張るんじゃないんだよ? 私だって頑張るし――というか、頑張らなきゃならない立場なんだよ?『息子さんとお付き合いをさせてもらってる』ってことを考えたら、むしろこうくん以上に頑張るべきだとも思うしさ」
 口調はギリギリ「柔らかい」の範疇に収まるものでしたが、しかしその表情とこの状況からして、僕は自分が怒られていると認識すべきなのでしょう。
 僕はもちろん今回の件を真剣に考えていますが、一方で栞さんだって当然、真剣なのです。僕がどうしてお母さんに幽霊のことを言わなかったかということぐらい、真剣なんだから説明なんかされなくたって察せられる。栞さんは、そう訴えているんでしょう。
 ただ、怒っていながら柔らかい口調であることを考えると、ここで謝ってしまうのは違うような気がします。そうして欲しくないから、栞さんは口調を作っているんでしょうし。
「それに、もう一つ」
 もちろんそんなことはないのですが、栞さん、僕の思考を読んだかのようなタイミングで付け加えました。ただしこちらは、口調に加えて表情も柔らかく。
「こうくんのお母さんがなんて言ったのかは聞こえなかったけど、何か言われて『それも考えてるよ、真剣に』って答えたところがあったよね?」
「あ、はい。あれは」
「結婚も考えてるのかとか、そんな感じじゃない? 話の流れ的に」
「……その通りです」
「そんなこと言われちゃったらさ、さっき言ったような立場がどうのとか関係無しに、『頑張らなきゃ』って思っちゃうよ。こうくんからすれば訊かれたことを答えただけなんだろうけど、すっごい嬉しかったんだよ? 私」
 僕の言葉から、僕がどうして幽霊のことを伝えなかったかを察した栞さん。対して僕は、自分の言葉を栞さんがどう受け止めるかを察せられませんでした。
「すいません」
 僕はここでようやく、頭を下げました。ただし、胸の内はむしろすっとしていましたが。
「分かればよろしい」
 栞さんは、引き続き嬉しそうでした。
 怒られてしまったという事実は覆しようがありませんが、ともかく一件落着です。
「さあこうくん、そろそろ大学に行く時間じゃないかな」
「うおっ」
 驚いて時計を振り返ってみましたが、慌てるような時間ではありませんでした。
「……驚かさないでくださいよ」
「まあまあ」
 怒らせてしまったことへの、ちょっとした仕返しだったのかもしれません。だとしても可愛いものですし、もちろん僕の思い過ごしの可能性のほうが上なんでしょうけどね。

「さあ楓、そろそろ行くか」
「……高次さん」
「ん?」
「ちょっとだけ、ごめん」
「おおっ? こらこら、そろそろ行くって言ってるのに抱き合ってる暇なんてないぞ」
「そんなんじゃないよ、そんなんじゃなくてさあ――」
「……はは、分かってるよ。楓のことだから、こんなことだろうとは思ってた。よく我慢したな」
「続かない我慢だけどね。こーちゃんとしぃちゃんが帰っちゃったら、この有様だよ。……ごめん。少しだけ、慰めてもらう時間が欲しい」
「この時間が取れなかったら俺の存在意義が殆どなくなっちゃうしな。落ち着くまで、いくらでも」
「存在意義がって、いくらなんでもそんなことはないけど――」
「大丈夫。日向くんも喜坂さんだって、なにもすっかり変わっちゃうわけじゃないんだから。今回限りだよ、『お客さん』なのは」
「あはは、分かってるけど頭が言うこと聞いてくれなくてさ。分かってるのに、怖くてさ。……『お隣さん』でいたいよ、アタシ」
「うん」
「お金を払うっていうのはけじめをつけるためだけだって、頭ではそれくらいのこと、分かってるのに。情けないね、アタシ」
「だから俺がいるんだよ、ここに。情けないのは間違いないけど、それを直せなんてことは言わんさ。俺がここにいるだけで済むことなんだからさ」
「……うん。ありがとう高次さん、落ち着いてきた」
「おや、今回は随分と早かったな」
「情けないやつは情けないなりに、自分の情けなさに慣れてくるものなんだよ」
「そっか」
「もちろん、慣れるような余裕があるのも高次さんのおかげだけどさ」
「はっは、そりゃよかった」
「……上手くいったらいいね、こーちゃんとしぃちゃん」
「ああ、そうだな。だから俺らも頑張ろう」
「うん。いつもの元気に加えて、お金まで貰うんだしね」

 栞さんから時刻のことで脅かされたそのすぐ後、家守さんもしくは高次さんが運転する車の発信音が聞こえてきました。よくよく考えれば時間的にはあちらが先に出発するのが通例なので、ならばその音を聞く前に僕達の出発時間が来るということはなく、だったらそれを意識に上らせていれば栞さんの言葉に驚くこともなかったんですけどね。まあ、迂闊でしたということで。
「じゃあ、今度こそ行こうか」
「はい」
 今度はお互いに時計を確認してからの出発の合図。というわけで今度こそ、きちんと出発の時間です。
 ところで栞さん、そう声を掛けてきた時点でこちらへ手を差し出してきたのですが、これはあれでしょうか。座った姿勢から立ち上がる手助けではなく、いつもなら少し外を歩いた辺りで出てくるあれでしょうか。
 手を取ってみるとやはりその通りだったようで、その手に引かれるようにして僕が立ち上がった後も、繋いだ手が離れることはありませんでした。
「変かな?」
「あ、いえいえ」
 その繋いだ手をぼけーっと見詰めていたからでしょうか、何も言っていないのに栞さんからそんなことを言われてしまいました。
「どっちかといえば、僕も今はこんな気分です」
 繋いだ手を軽く持ち上げながらそう言ってみると、栞さんは「よかった」と微笑むのでした。
 実を言うとそう思ったのは手を繋いだ後のことなのですが、手を繋いでいるという状態が今の気分にしっくりきているのは、嘘偽りのないことでした。
「少し浮かれるくらいのことがあっても、バチは当たらないよね?」
「さすがにそこまで厳しく面倒見てられないでしょう、バチを当てる係りの神様も」
「あはは、だよね」
 それどころか、この手を繋いでいることについて「バチ」という言葉が出てくる栞さんこそ自分に厳し過ぎやしないか、とすら。
 ただまあ、それを悪いとは言いませんけどね。そういう人だというのは前々から知っていますし、そこが好きな要因の一つだったりもするもんで。

「できれば今日はずっと一緒にいたいけど――ここばっかりは、仕方ないね」
「ですね、ここばっかりは」
 というわけで、大学。ここまで手を繋いだままやってきた僕と栞さんはしかし、この狭い教室では一緒にいられないので、一旦ながら別れることになります。
「まあ、大袈裟に言ってても仕方ないか。じゃあこうくん、また後でね」
「はい。また後で」
 間を空ければ、再開した時の喜びも大きくなるでしょうしね。と、これはこれでまた大袈裟なものいいってことになるんでしょうけど。
 ともかく僕は目の前の狭い教室に入り、いつもの席へ。そこへ座り、まだ来ていなかった明くんを待つことにしました。教室から出るわけにはいかない以上、待つことにしなくたって待つしかないんですけどね。


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