人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(演出メモ編) ホセ・クーラ プッチーニのトゥーランドットを演出・舞台デザイン・出演 / Jose Cura / Turandot in Liege / Puccini

2016-09-26 | 演出―トゥーランドット



ホセ・クーラが演出、舞台デザイン、そしてカラフを歌う、リエージュのワロン王立歌劇場のシーズンオープニング公演、プッチーニのトゥーランドット。
ついに9月23日から始まりました。
カーテンコールの画像やレビューなども出始めています。いまのところレビューも好評で、ネットにも観客からの感動の声がいくつかアップされています。いずれまた公演の模様や、放送予定などが公表されたら、まとめて投稿したいと思います。
*リハーサルなどを様子を紹介した「告知編」もあります。

今回は、初日に先立って、クーラがフェイスブックに公開したトゥーランドットの演出メモを紹介したいと思います。
ベルギーのリエージュの劇場用パンフレットに掲載するため、原文がフランス語です。しかもクーラは、この物語を、起源に遡るとともに、現代までの流れをたどって解明しています。そのため私自身の理解が追いつかない部分もあり、誤訳や事実誤認が多いかと思いますが、例によって、クーラの熱意と大意をくみとっていただければということで、どうか、ご容赦ください。

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劇場のフェイスブックに掲載された予告編
Turandot (Puccini) - La Bande Annonce



≪ホセ・クーラの演出ノート≫

●起源

どれほど多くの作品が、構想から後世に伝わる最終的な形までのトゥーランドットの起源をふまえていただろうか。AD633年、トゥーランドット(Turandokht)は――ササン朝(224~651年)最後の皇帝ホスロー2世パルヴィーズの娘であり、アーザルミードゥクト(Azarmidokht)とボーラーン(Purandokht)の妹で、ササン朝王朝のこの歴史的な期間における3人のペルシャの王女のなかで最も美しい1人――彼女の系統の気高さと政治的地位の真の典型となっていた。トゥーランドット(Turandokht)の名前が意味するのは、文字通り、「トゥーラーンの娘」であり、 "Dokht"(ドゥクト)は ペルシャ語で"dokhtar"(ミス=Miss)の短縮形。トゥーラーン人の起源は、BC1700年まで遡り、『アヴェスタ』に登場する主にイラン系民族からなる人々である。東方の精神世界における『アヴェスタ』の重要性はきわめて大きく、 アヴェスター語で書かれたゾロアスター教の根本教典として、大きく貢献した。伝説の王女である歴史上の人物に触発され、13世紀のペルシャの叙事詩文学の最も偉大な詩人の1人、ニザーミーは、1200年頃の彼の本『七王妃物語』の中で、一連の謎を解いた者に自身を与えると約束する王女の変遷を伝えている。ほぼ5世紀後、1700年に、プリンセス・トゥーランドット(Turandokht)の物語は、東洋学者フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロアによって、東方民族の民間伝承にもとづく物語集(『千一夜物語』)のなかに再構成された。

しかしフランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワは、ペルシャのニザーミーの仕事に触発されたが、恐らく商業的目的によって(当時、中国の異国情緒が流行していた)、出来事を中国に置き換え、ここで、 「トゥーラーンの娘」は「プリンセス・トゥーランドット」となった。カルロ・ゴッツィが1762年に寓話トゥーランドットを書いたのは、この物語からであり、オリジナルのペルシャ語のテキストからではない。有名なベネチアの劇作家のバージョンは、1801年、当時、悲劇としてワイマールで上演され、フリードリヒ・フォン・シラーでさえ熱狂するほど非常に成功した...。




最終的に、ほとんど忘れられたペルシャの詩人の作品のうえに、4つの異なるペンを経た後、脚本家ジュゼッペ・アダミとレナート・シモーニは、観客の心を以前のバージョンよりもつかむ、今日、我々が知っているバージョンを作成した。こうしてジャコモ・プッチーニの同名作品の脚本(そして遺作)は誕生した。ルッカの天才は、1921年、トゥーランドットの音楽の作曲を始めた。しかし、1924年10月10日、彼が咽喉癌と診断されたとき、仕事は未完成だった。 なんという運命のいたずらだろう、永遠に世界を歌い、歌い続けるだろう人にとって!彼はブリュッセルの診療所で数週間後に死亡した。師匠の願いの実現のため、作品の草案(36ページ)が作業を完了するために作曲リッカルド・ザンドナーイに提出されたが、しかしジャコモの息子であるトニオ・プッチーニが反対し、父の仕事の後継者にフランコアルファーノを推した。アルファーノは多くの批判にさらされ、加えて、自分の方がより優れていると信じる人々によって、特有の皮肉とともに、その努力を嘲笑されさえした。 ザンドナーイがやれたかもしれないこと、プッチーニについてはいうまでもないが、それを我々は決して知ることができないのは明白だ。しかし、作品を完成させるために、巨大な歴史的責任を取らなければならなかった気の毒なアルファーノ、師匠の死にあたり目に涙をためた彼が何をしたのか、我々は知っている。

また 現代作曲家ルチアーノ・ベリオが、新たな部分を書き込むことによって、補作しようとしたことを思い出してほしい。最終的には、プッチーニだけが――自明の理だが!――私たちが願うように最後を書き上げることができたのかもしれない。たぶん...しかし彼はそれを行うことができなかったため、その議論を停止し、ジャコモ・プッチーニの執筆の途中において後戻りすることのない革命であったであろう、この未完成で達成不可能な作品を、深く掘ろうと試みる時が来た。 彼がどこまで飽くなき音楽的好奇心を進めたでだろうか、私たちは決して知ることはできない。
しかし、トゥーランドットにおいて、人は、来たるべきプッチーニの多くを推測することができる――とどまることのない作曲家、それが発展してきた方向にかかわらず、決してメロディーをあきらめなかっただろう。 最終的に今日、14世紀余り前に実在した "トゥーランの娘"、オリジナルの詩が書かれてから8世紀以上がたち、数多くの人の手を経たにもかかわらず、プリンセス・トゥーランドットの運命は、私たちを魅了し続けている。




●ステージング
――動機


このリリースにあたって、劇場の芸術監督は、トスカニーニが初演の際にやったように、リューの死とともに、描写を終了することを私に依頼した。
私は、国際的なキャリアの初めから、多くの感情を私に提供してくれたジャコモ・プッチーニに対する私の「別れ」を表明する舞台をつくる機会を与えてくれた決定である、という意味において、非常に喜んだ。私は、1995年、トッレ・デル・ラーゴでのトスカでのデビューの際に、「プッチーニの家」に個人的に旅行した時、彼の棺に触れて子どものように泣き出したことを昨日のように覚えている。

ラストのデュエットにおける性的で音楽的な混乱がない、「トスカニーニ風」トゥーランドットは、ニザーミーの詩的精神、そしてカルロ・ゴッツィの悲喜劇など、作品の「素晴らしい」起源をたどる機会を提供する。すなわち、物語、寓話、そしてリューの教訓を広げるモラルに立ち戻る。 「誰がお前の心にそれほどの力を?」、王女は尋ね、「愛!」と奴隷は答える。






スペイン王立アカデミーの辞書には、寓話とは、「短い架空の物語であり、散文や詩において、教訓的な意図を持ち、多くの場合、最終的にはモラルを表わす」とされている。従って、寓話の大部分における心理的暴力にもかかわらず、罪のない性別や年齢の間の不可解な接続を作成し、幼児教育へ、この文学ジャンルが頻繁に関連付けられる。 これは、ステージングが寓話を表すことを意図されているためであり、そして私は、ステージ上の子どもの存在のための完璧な口実を見つけた。現代の子どもたちが、教師に伴われ、レゴの城を作って、クラスのなかで学んだことを実践すると、そこに隠れていた教授の衣装、中国の役人、またその他のアイディアが舞台上で実体化され、ファンタジーが現実の男たちになる。この点で、「語り手」としての中国人の教師、コメディア・デラルテ(仮面即興劇)における寓話で大事なピン、パン、ポンの役割を強調することが重要だ。ゴッツィが残した扉、そして子どもたちとの遊びの風景の前で、3人の仮面は、仮面即興劇の3つの象徴的なキャラクター、パンタローネ(老人)、アレッキーノ(従者・道化)、ドットーレ(知識人)の役割を物語るために教師に雇われた俳優であり、彼らは空想のなかで、伝統的な衣装を、中国の衣装へ変え、難問の儀式に参加する。




この近代の教育寓話について、トゥーランドットのそれは、最も冷厳な現代性を持っている。――王女は、肉体的な愛を恐れていた― それを表す、すべてのことを―その結果、男性の官能的な衝動におびえ震える。それは、彼女の祖先の1人が受けたレイプのせいである―千年以上前の‥!男性を嫌ういいわけとして。これは彼女の求婚者を、このような潜在的な「レイプ犯」として、生きた存在につなげる。「一体誰が、女性を守る偽の治安部隊を突破するのか?」、プッチーニと彼の脚本家たちは、近代的で敏感な男性であり、そのコンセプトを完全に理解し、女性が独立性を失い、男性に降伏して生きることを余儀なくされた時、女性が被る傷として、彼らの仕事の中において表示した。このように、自分の空想のために男性の候補者を殺すことに躊躇しなかった王女は、皮肉にも、別の「女性らしさ」の犠牲を必要する。リューは、彼女が拒否する両方の部分を受け入れて実現するために。この部分で、カラフは、トゥーランドットと恋に落ちたのではないが、しかし彼女に「大いに喜んで」、彼の全ての官能的、性的な魅力を交渉のために使う――彼の欲望=彼の王子としての地位を復活させる王国=のために。この意味において、アリア「誰も寝てはならぬ」"Nessun dorma,"は、愛の歌ではなく、戦闘で敗北して誇りを傷つけられ、奪還計画により、夜明けに勝利の到来を待つ、戦士の叫びである、「私は勝つ!」――。






私には、トゥーランドットは、フロイトの豊かなピッチとともに――知識の道具として、現代的な精神分析が現れた20世紀において、その物語は決定的な力を持ったということを無視できない――常に女性の世界に対して非常に敏感だったプッチーニにとっての、「ラクダの背中を壊す一本のわら」(1本のわらでも、たくさん集まればラクダをつぶしてしまうというフランスの格言)だった。なぜ彼が最後まで完了できなかったのか、理由は彼の病気以上に、男女関係の清算にあたっての、非常に個人的な不安の感覚のためであり、それがトゥーランドットの結末を示している、ということは可能だろうか。それを知ることはできない。
私たちはまた、プッチーニが住んでいた「現実の街」トッレ・デル・ラーゴの人々と、「幻想的な北京」の住人、トゥーランドットの関連が、どのくらい本当に真実なのか、知りえない。1909年、プッチーニ家の使用人、ドーリア・マンフレーディが人生を終える。人々の想像力は、夫と若い娘の不倫を非難していた作曲家の妻、エルヴィーラ・プッチーニの迫害とこの悲しい結末を関連づける。伝承によれば、ジャコモは、この不必要な死の不公平さによる苦痛から回復することができず、このことが、彼の人生における大きな幻滅の始まりとなった。それは彼の手紙で明らかだ。これらの事実に基づき、多くの人は、リューをドーリア・マンフレーディの犠牲へのオマージュを見ている。
この曖昧な歴史をふまえ、私は、最終的に、第3幕に、シンボリックな形で、リューのハイライトを上演した。「私を縛って、私を切り裂いて」と小さく叫び、「何でもない。私の愛は純粋だから、彼が私に、あなたに立ち向かう力をくれる」――その言葉は、もし歴史が本当にそうであれば、ドーリア・マンフレーディの心の中にあるべきものだろう。とにかく、ゴシップは別として、パオロ・ベンヴェヌーティの長編映画「プッチーニの愛人」の実現につながった最近の研究に照らすならば、誰も決定的な真実を確立することはできない。





 
個人的には、私は、年老いたティムールの最後の曲のなかの、「ピッコラ(かわいい子)」リューへの悲しい別れを、カラフの父の声を借りた作曲家自身の告訴として、彼の創造した者たち(そして私たちに対しても)への別れを込めたものと考えたい。「明けることのない夜に、お前の横に立って行こう」、年老いた男は言う。そして、私のロマンチックな想像力は、私にこう信じさせる。喪失の痛みによって破壊されたバスの声は、恐らく、死につつあるプッチーニの唇からの声、喉頭がんによるしわがれ声に最も近いだろう。もし、彼が、彼の驚くべき人生の最後の時間に、音を発することができたならば。この理由から、ジャコモは、ステージの上でティムールに置き換わり、彼の創造した者たちに別れを告げたのち、彼のすべてのキャラクターが動き出し、彼を称えるために一緒に来る間に、安らかに亡くなる。




――装飾について

ステージ装置は、子どもたちの想像力によって支配されている。これは、北京の紫禁城の南門をレゴ・レゴバージョンで自由に再現している。経験の「温かさ」を奪われた、非常にきれいな作図線を使うことによって、有名なゲームの冷たいプラスティックな部品のなかにそれらを巻き込む。別の楽しいステージアクションは、子どもの想像力によって、それぞれの課題に合わせた色のランタンの使用――希望のための緑、血のための赤、ロイヤリティ/トゥーランドットのための金――そして難問が解かれると重さを失って飛ぶ、または色についた球をボールプールのように使い、それは貴重な石、宮殿の壁からの滝を示す。






登場人物と子どもたちとの間の相互作用は、仮想の線をめぐって構築され、前景とを分離する境界線となる。自由に往復できる3人の仮面の人物を除き、子どもたちだけが持つ権限と関わることはできない。彼らは、実際には物語の一部ではなく、演技のために雇われた俳優だ。同様に、トゥーランドットは、子どもたちとランタンの助けを借りて、境界線を通過させる道を管理する。最後に、教授と子どもたちは、カラフの勝利の熱意に気を取られ、またこの魔法のラインを通過し、学校に戻ることができる。
このアイディアは、フェルナンド・ルイスがデザインした、コーラスを含めたキャラクターの衣装に影響を与え、きれいなライン、シノワズリ(中国趣味)を最小限に抑える。






――合唱団の役割

3人の仮面が、死刑執行の閣僚として彼らの職務を訴え、中国についての予言をする彼らの個人的な話を私たちに語る親密なシーンを除いて、トゥーランドットは大規模なオープンシーンがあり人口密度の高い「叙事詩」的なオペラである。プッチーニは、トゥーランドットを、多くのグループに分けた合唱のために設計しており、彼らは一緒に歌わず、個々の人格であるかのように、彼ら自身の介在する独自のポイントをもっている。マエストロの手紙による指示に従うならば、それは150人のアーティストが必要だろう、最小でも...。これは、トゥーランドットが、巨大な野外公演を好む曲の一つであるためではない。確かに、循環させるたくさんのスペースを必要とする。私はこのリエージュのプロダクションにおいて、宮殿の中心の周りのギャラリーにコーラスを配置することによって、「ギリシャ悲劇」の合唱隊のスタイルを用いることにした。この壮大なオペラにおいてプッチーニが夢見た、大規模かつ壮大なサウンドを得るために、下方のセットは巨大なサウンドボックスを作成するように設計された。





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私がこれを書いている時、20年以上にわたって友人であり同僚であったダニエラ・デッシーの死を知った。ダニー、友人はそう呼ぶが、彼女は私のリューではなかったけれど、コンサートや貴重な録音のパートナーであった以上に、私の最も偉大なデズデモーナであり、トスカ、マッダレーナ、マノン、イリスの1人だった。
私は彼女の思い出にこのプロダクションを捧げる。

   ホセ・クーラ 2016年8月21日 マドリードにて

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今回の演出は、トスカニーニが指揮をしたオペラ初演の際と同様に、リューの死で、物語を終わるということです。クーラは、これまでの自分の解釈をふまえるとともに、最後の、トゥーランドットとカラフの直接対決、キスや性的な行為を象徴するシーンがないことによって、よりこのドラマの本質的な部分を強調できると考えたようです。

最後のシーンには、クーラの工夫で作者のプッチーニも登場するらしいですね。実際に見てみたいし、見てみないと、どんな舞台に仕上がったのか、わかりませんね。放送されるという話をクーラがFBでしていたので、それを楽しみに待ちたいです。 

ワロン王立劇場での公演は、来月まで続きます。







*画像は、ホセ・クーラのFB,リエージュのワロン王立劇場のFB,HPよりお借りしました。

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