人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラとディミトリー・ホロストフスキー Jose Cura & Dmitri Hvorostovsky

2016-02-20 | 同僚とともに


今年のザルツブルク復活祭音楽祭2016は、ヨハン・ボータの病気によるキャンセルで、ホセ・クーラがヴェルディのオテロに出演することが決まりました。イアーゴは、当初、ディミトリー・ホロストフスキーがキャスティングされており、2013年のウィーン国立歌劇場以来、2度目の、クーラとホロストフスキーのオテロが実現するかと思われました。
しかしその後、残念ながらホロストフスキーは病気治療のため降板し、イアーゴはカルロス・アルヴァレスとなることがアナウンスされています。
 *追記 ホロストフスキーはその後、2/18のカーネギーホールのリサイタルで無事復帰、大成功だったそうです。
 *2017/11/22 つい先ほど非常に残念なニュースが入りました。ホロストフスキーが亡くなったそうです。ご冥福をお祈りいたします。
  公式発表 → ホロストフスキーFB


今回のザルツブルクでは実現なりませんでしたが、ぜひとも、また、この2人でオテロとイアーゴを歌ってほしいと思います。何といっても、舞台上の存在感、演技、声、歌唱、容姿、エネルギー、さまざまな面で、オテロとイアーゴの魅力的なぶつかり合いが観られそうだからです。できれば、DVD等で発売してほしいものです。

そんなきっかけから、クーラとホロストフスキーについて調べてみました。共通点と違いがそれぞれ興味深いです。ツイッターの投稿をもとにまとめました。

●生まれ
意外(?)なことにこの2人は同い年。
クーラは1962年12月5日、アルゼンチンのロサリオで生まれました。
ホロストフスキーは同年10月16日、旧ソ連のシベリア・クラスノヤースク生まれ。
2か月違いの同級生でした。

 左がクーラ            右がホロストフスキー
 

●音楽との出合い
南米アルゼンチンと北のシベリア、地球の反対で、同時期に生まれた2人。ともに、幼い頃から音楽に親しんだようです。
7歳から子ども音楽学校でピアノを学んだホロストフスキー。クラスノヤースク教育学校、クラスノヤースク美術学校と順調に学んでいったようです。
一方クーラは、ピアノを習い始めたものの、レッスンが嫌で、教師からはなんと、「才能がないから他の習い事をしてはどうか」と宣言されたそうです。ピアノより、サッカーやラグビーなど、スポーツに夢中だったとか。

 

●青年期
ホロストフスキーは卒業後、オペラのソリストとして活躍、1987年グリンカ国際コンクール、1988年トゥルーズ歌唱大会、1989年BBCカーディフ国際声楽コンクールなど、つぎつぎに優勝して注目されるようになったそうです。
 *ホロストフスキーのファンのSyaraさんから教えていただきました。→素晴らしいファンサイト
クーラはもともと作曲家・指揮者志望で、大学で指揮と作曲を学びました。しかし当時のアルゼンチンは軍政が終わった後の経済難で、とても若い音楽家志望が食べていける条件はなく、生活のためテアトロ・コロンのコーラス隊に所属しました。オーディションもいくつか受けたようですが、残念ながら認められなかったようです。

 80年代後半の2人
 

●国際的な舞台へ
国際舞台での活躍は、ホロストフスキーがだいぶ早いようです。すでに1990年には初アルバムを出し、その後もつぎつぎにリリースされていったようです。
一方のクーラは、周囲のすすめにより、88年から本格的に歌唱技術の研究を開始、そして91年にイタリアに移住しました。94年にオペラリアで優勝、その前後から注目されはじめ、初のアリア集「Puccini Arias」のリリースは97年でした。(オペラ全曲盤は1994年「Le Villi」、1996年「Iris」)

 

●初共演
2人の初共演は、2002年、ロンドン・ロイヤルオペラでのヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」ではないかと思います。
冒頭の2人の迫力ある決闘シーンが魅力的でした。ルーナ伯爵役のホロストフスキーは、高貴な容姿、見せ場も多く、たいへん人気を集めたと思います。
クーラはチェ・ゲバラ風(同じアルゼンチン出身)で、野性的な風貌がぴったりでした。

 

YouTubeから、マンリーコとルーナ伯爵の決闘シーンを。
Battle scene: Jose Cura vs Dmitri Hvorostovsky (Il trovatore)


しかしオペラで歌いながら激しく動く決闘シーンは、とりわけ高音をだすテノールにとっては、きびしいものだったようです。DVDの特典映像のなかのインタビューで、クーラは、運動の時の肺呼吸と歌唱のための腹式呼吸の違いを説明したうえで、その両方を同時にやらないとならず、それを自然に見せるのは大変だったと言っています。そのうえ何キロもある重い剣を振り回すために、強靭な体をもつさすがのクーラも、「この場面は怖かった」と回想しています。

     

一方のホロストフスキーは、「バリトンに決闘はつきものだが、高い声を出すテノールには難しい」「ホセには驚いた。彼の勇気と身体の強さを尊敬する」と語っています。同僚へのリスペクトを忘れない姿勢が素敵です。

   

ロンドンのトロヴァトーレの映像から、クーラの“Ah, si ben mio... Di quella pira”を。美しい2重唱から、勇壮な場面へ。
Ah, si ben mio... Di quella pira - Jose Cura (Il trovatore)


同じく、ホロストフスキーの美しく存在感があるルーナ伯爵のアリア「君の微笑み(Il balen del suo sorriso)」 を。
Il balen del suo sorriso - Dmitri Hvorostovsky (Il trovatore)


特典映像には、主な出演者のインタビューとともに、リハーサルの楽しそうな様子も収録されていました。
 

特典映像もYoutubeにあがっていました。
Il trovatore 2002 london interview


DVD クーラHPの紹介ページ


●2013年ウィーンのオテロ

2度目の共演は2013年のウィーン国立歌劇場のオテロでしょうか?
意外に共演は少ないのです。端正で美しい声のホロストフスキーのイアーゴは、観客からもレビューでも高い評価を得ましたが、クーラのドラマティックで激しい歌唱は、いつものように賛否両論で、批判も多かったようです。

 
 

2013年ウィーンのオテロはホロストフスキーのイアーゴデビューだったようです。残念ながら正規の映像はありません。YouTubeにある2幕の2重唱“Si pel ciel”(音声のみ) を。
Dmitri Hvorostovsky - José Cura - Era la notte ... Si pel ciel marmoreo giuro - LIVE


●現在~

歌とともに、徐々に指揮や演出に比重を移しつつあるクーラ。
脳腫瘍とたたかいながら、精力的に舞台にたつホロストフスキー。
私生活では、クーラは15歳からつき合ってきた妻シルヴィアさんとの間に3人の子どもをもっています。長男ベンは俳優で、昨年映画監督でもデビューしました。
ホロストフスキーは再婚したフローレンスさんと、まだ幼いお子さんが2人いるそうです。
家族に支えられ、第一線で活躍してきた2人。共に53歳。
それぞれ個性は違いますが、同じアーティスト、音楽・芸術の道を歩むプロフェッショナルとして、さらなる高みが期待できることと思います。

*追記 2016年12月、ホロストフスキーは、病気療養のため、当分の間、オペラ出演は控えることを発表しました。
コンサートやレコーディングは継続するとのことです。療養後、また再び、彼の素晴らしい存在感が光るオペラの舞台が観られることを願うばかりです。クーラとの火花が散るようなオテロとイアーゴの再演をぜひ。

*追記 2017年11月、ホロストフスキーの死去で、今後の共演の可能性は絶たれました。55歳、バリトンとしての絶頂期の闘病、死去。最後までエネルギーを振り絞って、舞台に立ち、コンサートやレコーディングに執念を燃やしていただけに、本当に残念です。残されたお子さんもまだ小さく、ご家族の悲しみはいかばかりかと胸が痛みます。
しかしクーラとの共演をふくめ、彼の素晴らしい歌唱、演技、存在感、誠実な人柄は、多くの人々の胸に残り続けることと思います。ご冥福を・・。




写真はホロストフスキーとクーラのHPなどからお借りしました。

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