ルーツを求めて

神社・磐座・歴史・音楽など気になっていることを気ままに載せていきます

大和神社の大和はなぜ「おおやまと」と読むのか

2012-03-17 14:22:39 | 日記
 大和神社はなぜ「おおやまとじんじゃ」と読むのでしょうか。普通に考えれば「やまとじんじゃ」と読むべきなのに。以前からそう疑問に思っていました。
 今のところはこのように考えています。大和神社はもとは大倭神社と書かれていた(今でも大倭とも書かれるそうです)。倭一字で「やまと」と読むので「おおやまとじんじゃ」と呼ばれていた。やがて「倭」のかわりに「和」があてられることが多くなったが、「おおやまと」という呼び方はそのまま残ったのだと。
 この「倭」という字は『魏志倭人伝』に出てくる邪馬台国の倭人の「倭」と同じ字であり、そういう意味では大倭神社とも書かれる大和神社は、邪馬台国から大和朝廷へと移っていく過程を調べたり考えたりするときに、何らかの手がかりを与えれくれるのではないか、そんな気がします。

兵主神が徐福によって日本に持ち込まれたと考えられるわけ

2012-03-17 13:44:49 | 日記
 兵主神が徐福によって日本に持ち込まれたと考える理由を述べることにします。ただし、徐福集団が紀元前3世紀に2度にわたって日本列島に渡来しており、1度目に渡来した場所は若狭湾であるという前提に立ってのことです。

 ①兵主神社が分布している地域が若狭湾から遠くないこと

 ②兵主神は中国の山東地方で祀られていた神であるが、徐福も山東半島を含む東シナ海沿岸に広がる斉という国の出身であること

 ③海部氏は徐福とともに渡来したと考えられるが、海部氏の同族が奉斎していた大和神社と、兵主神を祀る穴師神社とは、ともに橘紋を使用することからわかるとおり関わりが深いと考えられること

以上が理由です。この推論が正しいのかどうか、これからも検証していきたいと思います。

兵主神は徐福集団によって日本に持ち込まれたのではないか

2012-02-23 20:29:50 | 日記
 穴師神社は「穴師坐兵主神社」「穴師大兵主神社」「巻向坐若御魂神社」の三社を合祀したものです。兵主神は但馬地方に多く分布しています。但馬は天日矛の本拠地だったことからもわかるように、兵主神と天日矛との結びつきは強いようです。穴師神社も実は天日矛を祀っていると宮司自身が打ち明けた、という話をこのブログでも紹介しました。ただ、兵主神=天日矛というわけではないようです。とりあえず、兵主神の由来について見てみましょう。
 『日本の神々7山陰』(白水社)の「大生部兵主神社」の項には次のような説明が載っています。

 兵主は中国の山東地方に祀られていた天主・地主など八神のひとつで、武を司る神であり、貝塚茂樹氏によれば蚩尤(しゆう)とも称し、鉄を常食とする神であった。風を支配した彼はまた「ふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物でもあった」(『中国神話の起源』)という。このように、兵主は元来は金属の鋳造や精錬にかかわりの深い神だったとみられる。

 また『史記』には秦の始皇帝が斉の国のある山東地方を旅行し、山東地方で祀られていた天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主の八神を祀ったことが記されているそうです。
 ところで、『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』(飛鳥昭雄・三神たける著、学研)は、天皇の背後で神道を取り仕切る秘密組織「八咫烏」による証言として、物部氏が秦の始皇帝に仕えた方士、徐福とともに渡来したことを紹介しています。さらに、その証言の中には、渡来は2度あったこと、1度目の渡来地は若狭湾、2度目の渡来地は九州北部であったことも含まれていたそうです。
 そこで私は、兵主神は徐福集団の1度目の渡来によって日本に持ち込まれたのではないかと考えています。兵主神は山東地方で祀られていた神だということですが、徐福も『史記』によれば斉の国、山東半島周辺の生まれです。
 『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』でも述べられているように、若狭湾の近くには丹後の一宮、籠神社があります。この神社の宮司を代々務める海部氏は物部氏だと考えれていますが、現宮司は「物部氏と海部氏では格が違います。ひとつの大きなグループを形成していましたが、中核を担っていたのは海部氏です」(月刊『ムー』2009年7月号)と述べています。つまり、海部氏も物部氏と同じく徐福とともに渡来したものの、渡来時期と場所は異なり、海部氏のほうは1度目にやってきた集団に含まれていたと考えられるのです。この1度目に渡来してきた集団の中に、兵主神を祀る人々もいたのではないでしょうか。そう考えると、海部氏の子孫が倭大国魂神を祀る大和(大倭)神社と、兵主神を祀る穴師神社がともに橘紋を使用するのもうなずけます。
 さきほど取り上げた『ムー』の記事によれば、飛鳥氏が籠神社の宮司に「ずばり聞きます。物部氏の正体は徐福集団ではないのですか」と尋ねると、宮司は「…さあ、それはどうでしょうな。ただ『古事記』には、不老不死の非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を求めた田道間守の話があります」と答えたそうです。この田道間守が常世の国から持ち帰ったとされるものこそ橘なのです。
 

大和神社と籠神社

2012-02-18 15:42:18 | 日記

 さて、大和神社は、以前このブログでも取り上げた籠神社と深い関わりがあることがわかりました。
 籠神社の境内には上のような像が設置されています。この像の人物について籠神社社務所発行の『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』では次のように説明しています。(上の写真もその本に掲載されているものをスキャンしました。)

倭宿禰命
別名 珍彦・椎根津彦・神知津彦
籠宮主祭神天孫彦火明命第四代
海部宮司家四代目の祖
神武東遷の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現われ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰の称号を賜る。
外に大倭国造、倭直とも云う。
尚、古代に大和の国(奈良県)で倭大国魂神(今の大和神社)を祭り、又播磨の国で明石国造を累代名乗ったのも、倭宿禰の子孫同族であった。
大倭(おおやまと・だいわ)の字音は、後の大和(やまと)の国号に深い関係があると云われる。
亀に乗ったお姿は、応神朝の海部直の賜姓以前、海人族の始原の一面を語り、又海氏と天系との同一出自の可能性をも示唆するようである。

 つまり、かつての倭大国魂神(現在の大和神社)の祭主は籠神社の宮司家海部氏と同族だったのです。その大和神社が橘紋で穴師神社とつながっているということは、籠神社と穴師神社とも関係があることになります。
 ちなみに、大和神社の境内の森を橘森というのだそうです。また、社名の「大和」は「大倭」とも書きます。

穴師神社と天日矛

2012-02-18 12:26:11 | 日記
 さらに穴師神社と天日矛について。吉田大洋著『謎の出雲帝国』(徳間書店)によると、著者が穴師神社の社殿の前の解説板には祭神がミケツ神、ワカミタマ、天ノウズメノ命となっているのを不審に思い、神主に「当社には、天ノヒボコが祀られているはずなんですが…」と話を持ちかけたところ、神主は「当社のご神体は、日矛と鈴の矛です。兵頭(兵主)の名前は、ここから生まれたものと考えられます。主祭神はあなたの言われるように天ノヒボコで、現在でも左殿に祀られています。これを天ノウズメに変えたのは明治維新以後、国粋主義が盛んになり、朝鮮の神が圧迫されたためです。」と語ったそうです。
 なお、穴師神社の境内社橘神社の祭神はやはり田道間守のようです。