LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

デタラメとデタラメのワルツ

2014-10-21 07:01:54 | サイキックの眼

     

デタラメとデタラメのワルツ


苦悩って、デタラメというシロモノに苦しめられるトコロが殆ど。

デタラメのシガラミが苦しいうちはまだ努力のしようがあるが・・・。
デタラメの苦痛から逃れる為に、更にデタラメを求め重ねてゆくと・・もぅおかしくなって、デタラメとデタラメがワルツを奏で踊り出す。
そしてそのリズムが心地よく?、なにがなんだかわからなくなって、なにもかもがケセラセラ♪で、ただ笑うしかなくなる。
そして・・そのうち笑えないような歪みが現れてきたりする。

これが苦悩の流れでしょう。

デタラメ=出鱈目とは、サイコロをふって出た目のままに決めたりすることのたとえからデタラメというそうで、根拠がなく、首尾一貫しないことと辞書には記されている。

では簡単に超端的にいうなれば、
人生においての苦悩を解消する方法をとり結ぶには、
「無根拠(デタラメ)ではなく根拠を持つ」ということです。

しかし色々あります、
一筋縄ではいきません。
根拠無き?デタラメと、根拠が在る状態との違い。
何が根拠で?何が無根拠?なのか。

僕は《サイキック=透視》する日常で、これを見極めている。
カウンセリングのご依頼でもここを重要視するのです。
なぜなら無根拠は何も残らないからです。
首尾一貫が無いと言うか、頭も尻尾も無い状態に何か答えらしきモノが人生の中に現れ得るコトはないでしょう。
頭とシッポ、言い換えれば・・過去がデタラメなら現在も未来もデタラメとなる。
そしてデタラメは永遠にデタラメと出逢い、デタラメとデタラメがワルツを奏で続けるのです。
これが苦悩の法則の中のヒトツ。

『誰だって「産まれてきた」という根拠があります』

誰から?
親から

ハイハイッ!もぅ大変ですよ
問題のスケールが膨大過ぎて話しが尽きまへん!。
んぅ・・・・・。
そりゃあそうなんよ。
だってさ
『あなたのご両親は「根拠」があってあなたを産んだんですよね?そうですよね?おめでとう!』
こんなコトをもし言われたら・・無性になぜかカチンとくるやら・・笑ってごまかす?やら、なぜか失礼で無礼やら。

なにが言いたいのかといいますと。
「根拠」とは、ドコかで拾えるモノでなく、誰かからコピー出来るモノでもありません。
「根拠」は、自分自身の想いと意思です。
それは、怒りであっても恨みであっても憎しみであっても、その想いと意思はその人の「根拠」となるのです。
夢も、意志という根拠。
愛情も、根拠。
ただなんとなく結婚した、というモノも曖昧な根拠。
そんな曖昧が長く続くと・・ゆくゆくはデタラメが板につくでしょう。

親として子供に対し、産んだ想いと意思の根拠を伝えられますか?。
それが解らず・・堂々と答えられず苦悩となっている方は多いのではないでしょうか。
お金などで埋め合わせたり、なにかしら宗教的な教えを根拠にすり替えたり。
子供が一番欲しいのは、宗教的?な教えやコントロールでもなく・・親の愚痴でもなく、親の正直な子供に対する本当の気持ちです。
ダイレクトな信頼という根拠が欲しい。
もちろん子供に限らず、我々オトナも同様です。
その信頼という根拠はデタラメではありません。

根拠が在る、ということは信頼が在るということです。
根拠らしきモノを買ってきた、というのは信頼には繋がらず、デタラメの疑いがついてまわります。
自分自身の意思と思いからカタチ造られたモノは、根拠でありデタラメではありません。
例えば、宗教が疑わしいと思ってしまうのは、自分の意思と想いが無く、誰かの受け売りだらけだからです。

デタラメには責任がありません。
そのかわり、信頼もありません。

根拠には、自己に責任が存在しています。
そのぶん信頼が存在しているのです。

なので・・デタラメは気分が楽なのでしょう。
そのかわりに説得力は皆無です。
例えば政治の世界には不可欠なのがコレです。
デタラメにはデタラメのネタを重ねていかないと大変なのです。
意志も無く+責任も無く=デタラメ×デタラメ
これで、どれだけの人々が苦悩の生活を強いられるか。
宗教戦争も、政治戦争も、個人の意思が無く、根拠無きデタラメからおこるモノで、悲惨と破綻だけで、説得力も無く・・なにも残りません

デタラメとデタラメがワルツを踏み・・デタラメとデタラメがロンドしているように、子供の頃から僕の眼にはそう視えてしまう。
それで将来も未来も生きていけるのだろうか?と、不思議で恐くもあった。
そう思って視てきたデタラメ達は、案の定・・歪みと憤りから・・苦悩と破綻の一途。

自分の持つ意思ほど、強く信頼できるモノはありません。
どんなに良い本や、著名な人の言葉も、他人に渡ったトコロからデタラメとなるのです。
それは参考までにして、自分がいま思っている事実に気持ちをむけることです。
感情は正直に事実を示してくれます。

事実から目をそむけて、安易なカバーを上掛けして見て見ぬふりをするのはデタラメの始まりです。そしてそのデタラメを維持し続けるには、新たなデタラメを求め・・デタラメの仲間を増やす必要が出てくる。

ヒトツでいい、自分の意思を持って欲しいと思う。
デタラメの多層で出来た社会の中で、自分の意思を持つことは。それじたいも苦悩でしょう。
しかし、同じ苦悩をし生きるのなら、デタラメで苦悩するよりもずっと良いはずです。

デタラメの末の苦悩は、根拠が無く・・虚無感しか残りません。
自分の意思を持ち続ける苦悩は、必ず根拠が残り、土台となるのです。

人の間でデタラメが膨れ上がっていく仕組みは、真実という意思が難しく、何より危険が伴っているからなのです。
自然の動植物のすべてはこの危険と共に生きる意志を持っています。なのでデタラメの自然生物は・・一個たりとも居ないでしょう。
一個人サイズから見れば、自然も宇宙も本来は恐怖だらけです。
その恐怖の巨大スケールの中で生きているのです。
ロマンも膨大なら・・恐怖も膨大です。

そんな中で、根拠無き無責任な情報を信じて、私達は作り笑顔でワルツを踊っているのです。

自分を信じることは恐怖です。
なぜなら、巨大なスケールと共に生きている実感が伴うからです。
それが怖いので、デタラメは中毒となってしまうようです。
 


サイキックの眼  ヤマモト・コージ