楽健法セラピスト第8期講座レポート

楽健法セラピスト養成講座第8期の記録と報告です。

第5回 8月2日(1日目 その1)

2008-08-04 19:00:00 | 楽健法セラピスト養成講座第8期記録
「今晩見る映画について」


みなさんに見ていただきたい映画が何本かあるんですけど、1つは最近ニューヨークから友達に買ってきてもらったんです。ニコライ・レイリッヒの美術館の中で売っている“Message of Beauty”(メッセージ・オブ・ビューティー)です。ニコライ・レイリッヒの絵を解説しながら伝記を解説する映像なんです。短いものですが、今まであまりニコライ・レイリッヒのことを話していないので、レーリッヒのほんの入り口として見てもらいたいと思います。英語の解説なんですよ。それで、ちあきさんに通訳をしてもらって見てもらったらどうかな、と考えているんですが、ちあきさん、どうですか?(笑)

(ちあき)先生の解説でお願いします(^^;)
(宥厳先生)みなさんが英語を分からないとおっしゃるなら僕が通訳するんですけど、ドイツ語でもフランス語でも通訳しますけど、わかるひとがひとりでもいたら、しないんです(笑)。

(幸子先生)みんなわからない。(一同笑)。

(宥厳先生)僕が通訳できるのは韓国語くらいかな…ってウソやで(笑)。そんなん大嘘です。韓国語で知っている言葉って言ったら「コマスミーダ」くらいね。
(幸子先生)「アンニョンハセヨ」違うん?!
(宥厳先生)「アンヨンハセヨ」言うたら「こんにちは」やん。「コマスミーダ」言うたら「ありがとう」や。
(一同)へ~~~。

(宥厳先生)子供の時に朝鮮人の友達がおって、悪い言葉いっぱい教えてもらった。みんな忘れてしまったけど。「アイゴチョケタ」言うのもあるんだけど、「これは困った」とか。他にもありますが、そんなん覚えなくてよろしいですけど。

 それと、もう1本の映画ですが、みなさん見たことがあるかもしれないけど大林宣彦の映画で「異人たちとの夏」といって、好きな映画の一本で、何回か見てるんですけど、それをお盆にちょうどふさわしい内だと思うので、ご覧になったていただきたいと思います。

「来月のインド舞踊~マドゥ・プリヤさんとの出会い~」
この暑い時期はすこし夜は遊ぶことにして、来月はマドゥ・プリヤさんというインド舞踊の方が奉納舞踊に来られます。この奉納舞踊は8年間連続です。毎年奉納舞踊やってるんですね。マドゥ・プリヤさんが最初にメールくれたときはドイツにおられたんですね。ドイツでインド舞踊に出会って、学んで、やがてプロになる決心をされて、その時点で僕にメールが来たんです。

なぜ来たのかとちょっと思い出してみたんですけど、東光寺でアーユルヴェーダの本部をやってたでしょ。今はもう移りましたけど。それでサンスクリットのことかなんかを質問しようと思ってメールをくれたんです、たしか? 僕に質問されてもわからないんですけど。

マドゥ・プリヤさんは、東京大学の大学院で美術史の研究かなにかされていらっしゃって、ご主人が大学の先生なんでしょうけど、夫婦でドイツへ留学されていられました。学者の人はよく外国へ行かれますね。それに一緒に行かれて向こうでマドゥ・プリヤさん、その頃はマドゥ・プリヤさんではなく海老沢さんとおっしゃいましたが、この海老沢さんが一緒にドイツへ行ったところ、インド舞踊の先生が大学にいらっしゃって、それでインド舞踊を習われたわけですね。子供の時からバレエをやっていられたらしいです。まあ、そういう舞踊の素養がおありでのことだと思いますけど、インド舞踊のプロ宣言をされた。それで、日本では小田原の満福寺というお寺で上演して、そこのホームページに紹介もされているので見てほしいというようなことがあったんですよ。たまたまその満福寺の藤原さんというお坊さんとはインドへ一緒に行ったことがあり、よく知っている方で、そこのお寺にも行ったことがあって、まあそんなご縁がわかって、マドゥ・プリヤさんも親近感を持たれて、東光寺でも是非、奉納舞踊をやらせてくれないかという話がまとまって、それで毎年来られるようになって、今年で8回目になりました。

独り芝居「がらんどうは歌う」
独り芝居「がらんどうは歌う」を、今年は止めようか、どうしようかなと迷っていたんですが、今年もチャレンジしようかという気になってきました。何故そんな気になったかというと、ひとつずつやめていくというのが年を取るということだとすれば、むしろ逆にチャレンジして、やることを増やしていくという方向に向かう方がやはり健康法の先生としてはいいんじゃないかというような気持ちになりました。

もう1回チャレンジしてみようと…もう1回じゃなくて本当は毎月どこかに呼ばれて芝居に行くようになったらセリフも忘れないし、だけど年に1回だけやろうと思ったらやっぱり1時間のセリフをきちっと頭の中に入っているわけではないので、だんだんあやしくなってきて、風呂の中でやってみたりしても、あっちが抜けてたり、こっちが抜けてたりするもんですから。まあ、セリフを飛ばしたからと言って文句を言う作者はいなんですが(笑)。私が作者ですから、まあチャレンジしてみようかな。何かちょっと趣向も考えてみてやろうかな。

それで、私の一番下の弟が、ギターを長年やってまして、クラシックギターを。若い時はギターを教えたり、楽団にも入ってやっていたりしたんですが、今は一人でクラシックギターをやっています。僕が「がらんどうは歌う」を書いたときは、彼のギターの音色が頭にあって、そのギターの音を頭の中で聞きながら一気に書いた芝居ですね。そんなこともあるので、音楽をやってもらって、芝居にチャレンジしようかなと思っています。どうなるやらわかりませんけど。

楽健八句地蔵経の由来 「楽健寺の御本尊との出会い」
レジュメを見てください。ここに書いてあるのは楽健法のお経なんです。楽健法経というお経の本が別にありますが、この「楽健八句地蔵経」というのは、お地蔵さんの短いお経です。お地蔵さんは日本で一番たくさんある仏さんだと思います。日本中の至る所にある。ところが、このお地蔵さんの簡潔で短いお経がないんですね。地蔵経という長いお経があるのを知ってますが、経本で見たことがあるんですけど読んだことはないですね。
実際、地蔵経を唱える人はあまりいないんじゃないかと思います。聞いたことはないです。

それで、私のところの楽健寺のほうですね、今は庵主さん(幸子先生)が守ってられるんですけど(笑)。その庵主さん、髪の毛伸ばしてますけどね。
(幸子先生)いや、カツラです。(一同爆笑)。

(宥厳先生)それで、実は楽健寺というお寺を作ったときに、まずお寺を作ったら御本尊が必要じゃないですか。それで、その時、たまたま今から40年も前になりますが、当時、千葉県に住んでいた詩人の、えーっと。名前が出てこない。痴呆症が始まってますから(笑)。それであんまり芝居したくないんですね。「あ、忘れた!」と最初からセリフが出てこなかったらどうしよう、とかね。

 千葉県に住んでいる「日本未来派」という同じ同人雑誌に詩を書いている詩人がおりましてね。あ、末繁博一さんといいます。この人が私に「山内さん、お地蔵さんを一体、石のちいさなお地蔵さんを持っているんですけど、もらってくれませんか。」と電話がかかってきたんです。「あなたは出家されたとうかがいましたが、私がもっているより、あなたがお祀りしてくださったほうが、お地蔵さんが喜ばれます」

 それで、それはどういう因縁の仏さんでしょうかとお伺いしたら、昭和7年に銀座で百体の佐渡の石仏を集めてきて展示即売会をしたことがあったらしいです。その時に来られた、と言うんです。その即売会を企画したのが、焼き物で有名な河井寛次郎氏で、彼が佐渡から百体の石仏を集めてきて、銀座のギャラリーで展示即売会をしたって言うんです。 河井寛次郎記念館

佐渡の海岸べりをぐるりと回っているとあちらこちらに洞窟みたいなところがあって、波に洗われているような海岸ギリギリのところとか、風のきついところにたくさん洞穴がありまして、そこにたくさんの石仏が祀られている。そういうところからパクってきたんですね、きっと。それを銀座のギャラリーの即売会で売っていたんですね。

そういう因縁で、そのお地蔵さんを頂いたんです。郵便小包で送ってくれました。小さいんですよ、手のひらにのるくらい。それが目鼻立ちもはっきりしないの。もちろんお地蔵さまには見えるんだけど。波と風で風化してつるつるになったような石仏なんです。それで、まあ折角頂いた仏さんですので、そういう因縁もありますし。河井寛二郎さんの作品は美術館でしか見たことはないですが、日本の民芸に貢献した彼の仕事には興味があって注目していた人です。

末繁博一さんが送ってくれた小包には、昭和7年のその当時、河井寛二郎が開いた石仏の展覧会の新聞記事のコピーまでいれてありました。それで楽健寺のご本尊としてお祀りしたわけです。ところが、このお地蔵様は一人でよう立っとらんの。机に立てると後ろにコロンと転ぶんです。「うしろころがりこぶし」みたいな(笑)。起き上がらないんです。何故かと言うと、お尻の方が後ろが斜めに低くなっていて前がちょっと上がっとるんです。だから、お尻の方に割りばしでも敷いてやると、立っているというような、そういう不安定な石仏だったんです。まあ、だけど座布団かなんかちょっと敷いて、置物を置いてごまかして楽健寺の御本尊ということにしたんですね。

その不安定だということがいつも頭の中に気になっていたんです。ところが、その後1年か2年経ったある時、いろいろご恩のある河野芳夫さんという絵描きさんが旅行に誘ってくれました。

河野芳夫さんとのご縁は、私が22歳くらいのときに大阪で劇団「月光会」という新劇の劇団に入りましてね。そこで芝居の勉強を始めたときに、ちょうど私が初めて役をもらって出演したのが、三好十郎作「廃墟」という芝居でした。それは、終戦直後のことが書かれた芝居でした。その中の「清水八郎」という青年の役をもらって初舞台を踏むことになりました。その青年はクエジェリンという南方の島へ学徒動員で兵隊に取られて、そこで名誉の負傷をして右腕を失って、左手一本の青年として日本に帰ってきたんですね。

それで大学の教授のところへその青年が訪れて、それでそこで短い出演時間であまりセリフもないのですが、自分の大学の恩師に会いに行きます。その恩師が舞台の真中に作られた、畳の部屋なんですね設定が。昭和21頃ですから。それで、その畳をめくって、昔、防空壕を畳の下に作っていましたから、その畳の下から顔を出して「おお、君かね。」というようなことで「どこに行ってきたんだね。」と言われて「クエゼリンです。」と言うようにいろいろ話しているうちに、いろんな登場人物が現れて、その先生とやり取りしているうちに、その清水八郎という純朴な青年が先生の間抜けさ加減に驚いて、最後のセリフが「先生はバカです!」と言って失礼してしまうというのが、僕の役でした。

その芝居を大阪の中之島中央公会の3階のホールでやったんですけど、その時に「絵と詩と音楽とそして演劇の集い」というような企画で、「極」という絵画のグループと一緒にやりました。絵画の人たちはホールの壁に作品を並べて、僕たちはホールの真中に舞台を作って、ぐるりからお客さんが見るという。そこで前衛音楽というようなことをやっていた宝塚の作曲家、高井良純という作曲家とも出会いました。



 高井良純http://www5d.biglobe.ne.jp/~amon/takairyakureki.html 
 浜田知章http://www.coal-sack.com/04/04_05_01.html 
 
 詩の分野からは「山河」主宰の詩人、浜田知章が参加されました。
 “絵と詩と音楽とそして演劇の集い” そういう企画で芝居をやったんですね。その時に私は舞台作りの裏方ですね。俳優もするんですけど、裏方で色んな道具を作ったり、舞台を設営したりするときに、私はもともと指物の職人ですから非常にテキパキと仕事を片づけていくんです。舞台の模型もこしらえてきて、それも展示して見せるということもやっていました。その仕事ぶりを見ててびっくりした絵描きさんがいたんです。「山内くんというのはスゴイ人だな。」と言うようなことで、それが河野芳夫という絵描きだったんですね。その後、その河野芳夫さんが何かと目をかけてくれて、それで長いお付き合いが、河野さんが亡くなるまで続きました。

 この河野さんがそのお地蔵さんが来た後、しばらくしてから、一緒に日本海の方へ旅行に行かんか、と言うお誘いをうけて、家内と河野さんと3人で、私が車を運転していきました。私が免許を取ったのは昭和41年くらいですから、45年くらいのことじゃないかと思います。その頃に河野さんと一緒にずーっと丹波を通りぬけて、餘部(あまるべ)の鉄橋のある、あちらの方へずっと走って行ってたんですよ。走っていく途中に川縁をずっと走って行くコースがかなりあって、川の土手の上が国道になっているところを走ってたんですけど、ある場所に来たとき突然、ピカッとぼくの頭のなかが光ったんです。

 それで、ちょっとここで下りますからと、河原に下りていって、それで何となく導かれるように歩いていって、河原を探して「あ、これや!」とパッとぼくが手に取った石があったんですね。その石がちょっと前がとんがったような船の形をしていて、そして、その石の上にお地蔵さんをポンと置いたら、ぴったり合うような気がする石だったんです。お地蔵さんがそこへ行けって言ったんですね。

 それで、持って帰ったら、まさにすり合わせて作ったように、大きさといい、その傾斜具合と言い、後ろに倒れないようにぴったりなんです。お地蔵さんと同じ種類の石でした。(一同、え~~~)。それがそこにあったんです。だからそれが、蓮台みたいなもんですね。まあ、自然石ですが、お地蔵さんもどちらもツルンとした感じなんですけど、いまも楽健寺のご本尊として、お祀りしているわけです。それが楽健寺のご本尊の由来なんです。

 まあ、それでお地蔵さんを拝むのに地蔵経というのはちょっと、町に経本になって売っているようなものではないんですね。何か本見たらちゃんとあるんですけどね。だけど、手軽にお地蔵さんを拝むお経がないということを知りました。観音様は短いお経があるんです。延命十句観音経というのが。

 延命十句観音経も有名なお経で般若心経は長すぎて覚えられない人でも、延命十句観音経だったら覚えやすい。それで、まあ妙法蓮華経の中に入っている観音経もあるんですけど、この延命十句観音経のような短いお地蔵さんのお経あってもいいんじゃないかというので、それもそのお地蔵の台座ができた。家へ帰ってきて仏さんを拝んでいる内に、なんかピカッと急に頭の中にこのお経が出てきたんです。
 それで、それをパッと書き留めたのがこのレジュメなんです。

 これはつまり楽健法の「楽健八句地蔵経」という名前で、一瞬にして作ったお経ですので、今から見たらちょっと変なとこもないこともないんですけど、まあまあこんなもんかなと思って。ちょっと読んでみましょう。

レジュメ~~~楽健八句地蔵経を楽しむ 山内 宥厳~~~

本 文       読 み 方

楽健八句地蔵経  らっけんはっくじぞうきょう
南無地蔵尊    なーむーじぞうそん
足裏抜業     そくりーばつごう
心身佛界     しんしんぶっかい
一心同佛     いっしんどうぶつ
現世楽健     げんぜーらっけん
華開楽土     かーかいらくど ー
楽々楽々     らくらくらくらく
萬民笑顔     ばんみんしょうがん

  ☆ 意 味
 楽健八句地蔵経
 地蔵尊菩薩に帰依したてまつり
 身もこころも御仏に託し
 御仏と一体となって
 楽健法を行ずれば
 足からの光にみたされて
 たちまち因縁深き病気やカルマの苦しみから解放され
 この世はすこやかで楽しい花開く極楽浄土となり
 ゆうゆうらくらくと生きられて
 みんなにこにこ毎日を過ごせるようになります。

 この楽健八句地蔵経というのは、30年以上前のことですが、楽健寺のご本尊の小さな石仏の地蔵尊の前で般若心経を読経していたときに、日本でもっとも数の多い仏さまはお地蔵さんだろうかなどという思いが頭をよぎり、観音さまには延命十句観音経という短いお経があるのに、地蔵経という短いのがあればいいなあ、などと考えていると、心経の途中で頭にスパークがぴかりと発生して、この八句地蔵経ができました。

 これを唱えながら一音一踏みで楽健法を楽しんでみましょう。
 写経してお送りください。病気平癒のご祈願が叶います。
(参考)http://www.asahi-net.or.jp/~BE5Y-YMNU/tkjd37.html  
~~~ レジュメここまで ~~~

(宥厳先生)おかしいですか?(笑)こういうお経です。字を見たらわかりやすいんですけどね。
 八句地蔵経と言うことで8つの言葉でね。「足裏抜業」足の裏で業を抜くという、楽健法にひっかけて楽健寺のお地蔵さんですので、それで足の裏で楽健法をやって業を抜くというようなことをしていって、そうしていると「心身佛界 一心同佛」身も心も仏様と一体になって、それでこの世は楽しく健やかな所になって楽土に花が開く。ああ、楽しいな、楽々楽々、みんな楽しいな、ほんで「萬民笑顔」みんなニコニコ、そういうお経です。

いいお経でしょ?(笑) 自画自賛しとくんです、こんなときは。(一同笑)。これは、すごい!とか言うて。これを漢字だけ書いて犬鳴山にいるときあるおばあちゃんにあげたら、これを丁寧に写経してたくさん持ってきてくれたりして。だから、お経というのは、どんなお経でも誰かがどっかで書いたものですから、私が書いたからと言って有り難みが少ないというものでは決してございませんので(笑)、みなさんもひとつ楽しいお経ですから覚えてね、時々楽健法をしながら唱えて頂きたいと思います。

このお経だとか、「おんとんばざらこく」という息災のマントラ(真言)、息災咒(そくさいしゅ)とも言いますが、そういうのも覚えられて地蔵経と一緒に楽しまれたらいいかと思います。

楽健法するときに何にもなしで人の体を何も思わずに、タッタッタッと踏んどったら、早くなりすぎたり、また力を入れすぎたりしますし、それで、色々教えてきて分かってくることは、楽健法をしながら要するに踏んだらいいんだからと言うレベルで踏んでいる人が結構多いんですね。

私はそんなに機械的に決して踏んでいるわけではなくて、いつも足の裏がものを考えています。相手から来るメッセージというものを足で踏みながらいつも考え、受け取っている。だから、ひと踏みひと踏みが自分にとっては意味を持っているという踏み方なんです。機械的に踏まない。でもたいていのひとは、まず機械的に踏むんですよね。ものを考えない人ほどそういう踏み方をしますね。

踏むと言うことは善いことなんだけど、足が感じ取るものを、あるリズムに乗せて、こういう言葉に乗せて行うというのは僕はとても善いことだなと思います。だから、儀礼的なあるいはお祀りするときの作法ですね、そういう作法があるのはいいことなんです。ここでみなさん「子丑寅卯…」とやるでしょ?あれも無縁の他人が見ると、何か「子丑寅卯…」と指折り数えたりして、バカみたいだなあと思うかも知れない。

普通のひとはね、何があるんだとかね、首をひねる。だけど、道教にそういうものが伝わってきて、それを知ってやりつづけていると、やらないよりはやってることに奥の深さがあるものです。

それから神社にお参りしたりすると、まずまず二拝、二回お辞儀してね、それから二拍手。それから一拝して、それでまた一拍手。それで一礼してというような儀礼的な作法をよくやるでしょ?こういう拝み方の基本だとかいうようなことが、一種の生活習慣として代々伝わっている。そういうのを人間にとっての、ギリシャ語で言う“エイトス”というように、生活習慣みたいなもの、習慣になったものです。決まりといってもいい。作法を知っているから、大切にすることがなにかわかる。知らなければ不作法なんです。だから、英語なんかではこれは“ritual(リチュアル・儀式)”なんて言い方するんですよ。

例えば、本堂に入ったときに、右足から入るとか、左足から入るとか、どっちから入るかということが大変重要な問題なんです。高野山で行をしたりすると必ず本堂に右足から入ります。それを逆にしたりするのはとんでもないことなんです。右から入るか左から入るか、くだらんことのようですけど、それを守るこころが保たれることが大事なんですね。

家の中を歩いていていても、敷居は絶対に踏まないということは昔から厳しく言われて、敷居なんか踏むとすごく怒られたもんですね。敷居をなぜ踏んだらいかんのか、というと繰り返し繰り返し敷居を踏んでると、早く敷居が傷むんだ、これは。必ず。重みで(笑)。だから、そういうことを教えることによって家も長持ちするし、何かそういうタブーというか聖域みたいなものが自分の中にあるっていうことは大事なことなんですね。

そいうことを全く捨ててしまって、持たないで、要するに日本人は戦後60年あまり、のほほんと生きてきたんです。だから、何かを敬うということがなくなってきた。神様の前に行ったら、そりゃ子どもにもちょっと手を合わすくらいのことを教えるかもしれないけど、目上の人を敬うということはないじゃないですか。だから、学校の先生のことも、子どもはみんな自分と平等だと思って、尊敬とかはしないのです。


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6 コメント

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いつも、ありがとうございます。 (まぁ兄)
2008-08-06 13:54:54
きょうは、午前6時頃から草刈をして、水風呂に入って、ハンモックでゆうげん先生オススメの「生物と無生物のあいだ」を読んでいたところです。
ブログ、楽しみにしています。
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まぁ兄さんへ (記録者)
2008-08-06 13:57:21
素敵な環境ですね。宥厳先生から教わることはなにもかもが深いですね。
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おつかれさま (ちゃくら)
2008-08-07 18:28:28
はやかったですね
おまけ 私も行きたかったなぁ
昨日は 会社の健康診断でした
バリウム検査は にげました
毎回 お疲れ様です
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ちゃくらさんへ (記録者)
2008-08-07 21:24:39
コメントありがとう!荒神様は初めてお参りしましたが楽しかったです。おみくじは大吉、神域で蛇の抜け殻を発見!いいことありそう!!
気軽に健康診断受けてしまったのね!バリウム!!!
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Unknown (ちゃくら)
2008-08-08 12:38:48
健康診断は 会社の決まりなのです
だから、バリウムだけ 逃げました
まぁ 毎年ひっかっかっていますが
気にしてないですからね~
そうすると 次の年になんで再検査にこないって怒られたりするけど、、、
そこの病院で健康診断すると 全員引っかかります こわいこわい 病院です
  
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ちゃくらさんへ (記録者)
2008-08-08 15:21:52
こわいこわい。呪われた病院や。必ずって言うのが不思議ですね!医者に頼らず死ぬまで元気に生きていたいものです。
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