29才から女手ひとつで私を育てくれた母でした。
4年前の胃癌手術以来
ペースメーカー装着,
2015年1月08日:右足冠動脈および下肢動脈:形成術(カテーテル治療)
2015年2月13日:左足下肢動脈硬化症(カテーテル治療/札幌時計台記念病院副院長:北の名医 浦沢一史Dr)
等数々の治療も乗り越え、大学病院の諸先生方の『もう大丈夫、すべて治療は終了!』と嬉しいお言葉を頂いて退院。
ミラクル母さんとして今年3/25、88才のお誕生日を迎えました。
そして…
お誕生日には元気だった母、たった1か月の4/23に・・・・・
町内やお寺サンの役員等々を務め、出しゃばっていると嫌われているのではないかと心配だった母。
4/23に召されるまでの2ヵ月、帯状疱疹や血行不良により足の痛みを訴え(足首から指先まで黒紫に変色してました)
振り絞るように「痛いよ~痛いよ~」どれほど痛かったかと思うと胸が締め付けられる思いです。
何とか痛みだけは取り除いてあげたいと必死でホームの看護師長さんに、お願いしましたが叶う事なく耐えながら逝った母。
痛みに耐えながら薄れゆく意識の中で癌治療中の私の体を心配し「早く帰ってゆっくり休みなさい」
と言って手を握ってくれた母。
そして。。。
今までは私が母に頬ずりして来たのに、骨と皮だけになった細い腕を懸命に挙げて
私の首をしっかりつかんで自分の頬に私の頬をくっつけてそのまま暫くじっとしていました。
母の温もりを感じながら、お別れなのかな。。。。。と
私が幼かった頃からお寺再建に貢献させて頂いたそうで
ご住職から法名に院語(通常は頂けないそうです)を頂き驚きました。
通夜、葬儀には現役を退いて久しい88才の母には余りある参列を頂き
死後、自宅を訪ねて下さる方々から初めて沢山の方に愛され「優しく抱きしめてくれました。色々教えて頂いた」
と聞いて私の知らない母に出会いました。私には全く見せなかった母の顔。
素敵な生きざまを見せてくれた母に感謝。
更に納棺の時には折に触れて着ていたお気に入りの絞りの着物を着せてあげました。
その時、住職から「私が使っていたものです」と言って
思いがけず袈裟を着物の上に載せて頂いて、ご住職に導かれて逝った事と思います。
今年70になる私。
70年にわたり母と二人で生きて来た私には思い出が多すぎて寂しさ、悲しさ。
我慢強い母が「痛いよ~痛いよ~」と言ったのは余程痛かったのだろう!!!
毎日あの声を聞きながら何もしてあげられない自分が辛すぎて、
今私に出来る事は・・・
何度も何度も病院に行かせてほしいとお願いするも叶わず・・・
24時間眠らせてあげる事・・・それも叶わず。
母に「ごめんね。ごめんね。」すると母は
「私はここに居たら誰かが助けてくれるから幸せだよ」
「それよりあんたの方が家に帰ったら一人だから心配
早く帰ってゆっくり寝なさい」と・・・痛みに耐えながら私を心配する母でした。
最後には痛いよ~の声も力尽きたのか薄れて行った。
あの声は生涯忘れる事は無いでしょう!
今でもあの時、病院に行かせてくれたら延命は出来なくても
せめて痛みだけでも取り除いて穏やかに逝かれたのではと・・・
介護施設とは何なんでしょうか・・・
未だに答えが見つかりません・
でも唯一の幸せは70歳になるまで母と暮らせた事です。
感謝と労いで送り出してあげたい。お疲れ様でした。
とっても可愛い88才のおばあちゃんでした。
痛かったね。辛かったね。でも、もう全て解放されて楽になったね。
沢山の愛をありがとう💓
皆さん!長い間、大変お世話になり有難うございました。