別れの言葉が切りだされた。
予感が無い訳ではなかった。
今夜の彼女はいつもより少し陽気で、何かを怖れるように会話を止めどなく流した。
流行りのカフェに30分も並んだこと。
妹がお気に入りのスカートを無断で借用した上に、ひっかけて台無しにしたこと。
最近読んだ本のこと。
思い立ってランニングのウェアを買いに行ったけれど、まだ始めていないこと。
お酒の勢いも手伝って、コロコロと笑いながら、普段は話さないような日常の些細なことも語り続けていた。
そんな陽気な彼女にだんだん違和感を感じ始めた時、ふと笑顔を閉じ、彼女は目を伏せて言った。
「そろそろお店を出ようか。ちょっと歩きたいな。」
店を出ると2月の冷たい風が二人を通り抜けた。
声をかけても曖昧な返事で、それまでの上機嫌が嘘のように、思いつめるような表情でゆっくりと宛てもなく歩いた。
冬の澄んだ空気と二人の間に訪れた静寂が突き刺さるように心を貫く。
どれほど経っただろう。
街の喧騒から少し外れた公園に入り、奥のベンチに座ろうと彼女の瞳が告げた。
周りには誰も居なかった。
空には満月が輝き、並んで座る二人を照らしているだけだった。
彼女は着けていた手袋を外し、徐ろに俺の両手を取り自分の頬と手でそっと包んだ。
「小さい頃から手が温かかったからね。こんな寒い日は、友達がぬくもりを取りによく手を繋いできたよ。その度に背中に何度も寒さが走ったこと、いまでもよく覚えてる。」
そう言いながら、彼女の確かに温かな手が俺の冷えた手を温めていた。そして同時にぬくもりを取り戻した俺の手が次第に彼女の冷たい頬を温めた。
「始めからこうやっていれば、どちらかだけが寒くなることもなかったのにね。」
「ごめん。」
咄嗟に出た言葉だった。
彼女に無理をさせていたのは俺だ。わかっていてどうにも出来なかった、いやそれも言い訳で、どうにもしてこなかったのも俺の責任だった。
「ずるい。謝らないでよ。」
「・・・ごめん。」
大きな目からこぼれた一筋の涙で手が濡れていく。
しばらくして深く息を吸い込んだ後、手を離して彼女がつぶやいた。
「もう別れましょう。」
別れは、彼女から切りだされた。
嫌だ、別れたくないなどと言える立場ではない。彼女に寂しい思いをさせて、悩ませてきたのは他でもない自分なのだから。
だけど、彼女に対する気持ちは決して嘘ではない。
もう少し傍にいてほしい。もう一度やり直せないか。
身勝手だとわかっている。けれども、彼女だって想いは俺と一緒じゃなかったのか。
そう問いかけそうになった時、彼女は立ち上がり背を向けたまま言った。
「月が…綺麗ね。月の明かりは綺麗ね。」
彼女の声は震えていた。
全身全霊で語ったその言葉は、ただ愛していると告げていた。
「もう別れましょう。」
背を向けたまま、二度繰り返された別れにもう何も抗えなくなっていた。
「ごめん。ありがとう。」
それが、最後にようやく言えた言葉だった。
後ろから彼女をしばらく抱きしめると、その場を去って行った。
満月の夜に二人の面影だけを残して。