Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

危険な「空気」

2006年05月04日 | Weblog
1943年6月27日

不思議なのは「空気」であり、「勢い」である。

(「暗黒日記」/ 清沢洌〔きよし〕・著)

------------------------------------

高橋哲哉: 「暗黒日記」は、太平洋戦争中に、治安維持法による言論弾圧でおおやけにはほとんど書けなくなっていた清沢が、戦後に戦争の歴史を書く資料にと、つけていた日記です。これが昨今の日本の風潮を考えるときにすごく参考になる。当時と現在と、似ているところが多すぎて怖くなるくらいです。

たとえば1943年6月27日の日記には、「不思議なのは『空気』であり、『勢い』である」と書かれています。「米国にもそうした『勢い』があるが、日本のものは特に統一的である。この勢いが危険である。あらゆる誤謬がこのために(=「勢い」のために)侵されるおそれがある」と。

もう緒戦のころの優位が跡形もなく消え去って、敗戦色濃厚になっていたころですが、「国民精神総動員」だ、「総力戦」だといって、軍のためにあらゆるものが供出させられていた。滝沢の信州の田舎が書いてあるのだけれど、レコードとか本とか、あるいは仏壇の灯明なども鉄にするからだせとか、あらゆるものが供出させられる。反対する者は村八分だというんですね。

その「空気」と「勢い」が危険だという指摘は、2001年の9・11事件以後にアメリカで、そして2002年の9・17(日長首脳会談)以後に日本で起きた事態に、ものすごく当てはまるとぼくは思う。アメリカも一気に、一色に染まっていったでしょう。「愛国主義的」な「国民感情」なるものが盛り上がって、被害者の家族ですら戦争に反対すると「反米的」、「非国民」扱いされるという「空気」が支配的になってしまった。

しかし日本のものは特に統一的で危険だ、それが原因で「あらゆる誤謬」が侵されうると清沢は言っている。いま日本を支配している「空気」も、当時の空気に非常に近いのではないか。

強者の論理(勝ち上がったものが「官軍」、また「標準」、負ければ自己責任、のルール)に居直る者がいて、その強者によって切り捨てられようとしている弱い立場に留められている人たちが、弱い立場のゆえに日常的に直面する不満や不安を解消するために、そのために強い言葉や強い国家、強いリーダーシップを求めて小泉純一郎首相を支持したり、石原都知事を支持したり、そういう本末転倒した構図ができつつあるような気がする。これは明らかにファシズムの構図でしょう。



斉藤貴男: そこがいちばん怖い。権力者が無理を押してやっているのでは決してないのですよね。ぼく自身もジャーナリズムにおける、ふつうのパターンとして権力による不正を追求するでしょ。それで東京大学の藤原帰一さん(「デモクラシーの帝国」の著者)ノンフィクションの大先輩である吉田司さんに幾度も指摘されているのですが、「それだけじゃないだろう、要は強いものを求める大衆の側がいるんだよ」と。


(「平和と平等をあきらめない」/ 高橋哲哉×斉藤貴男・対談)より。

---------------------

エホバの証人の社会でも同じ構図はありました。長老や組織の側の露骨な不公正を見ても、それを見てみぬ振りでやり過ごし、むしろ積極的に彼らを支持し、協力する成員が圧倒的に多いのです。JWIC の投稿に、彼らを「国防婦人会」の熱心な女性に例えたものもありました。会衆における自分の立場や評判が栄光あるものであったり、自分の人生の歴史がその集団内で築かれていたりすると、もう後戻りできなくなるようです。正確に言うと、後戻りできないのではなく、後戻りしたくない、のですが。またゼロからやり直す勇気がないのです。だから、そうなってしまわないうちに、まだ始まりの段階で気づいて方向転換を図るほうが有利なのです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿