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『縦横無尽の知的冒険』著者、永井俊哉氏に聞く

2005年02月04日 | Weblog
永井俊哉 ながいとしや
97年 以降、学問の本当の楽しさを一般の人に伝えようと、インターネット上で著作活動 を開始し、読者とのインタラクティブな対話を続けている。分野を横断的に駆け巡る注目の作家。

1965年 京都生まれ。88年大阪大学文学部哲学科卒業。90年東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了。94年一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。JMF第4回日本マルチメディア大賞他、4つの受賞論文がある。『縦横無尽の知的冒険』(プレスプラン刊)の著者

著者、永井俊哉氏に聞く   聞き手 プレスプラン木村浩一郎
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木村:当社から刊行の『縦横無尽の知的冒険』では、「専門の垣根を越えて」という副題をつけることを希望されましたね。相互に関係をもたない「タコツボ型」の学問形態については古くから批判はあるわけですが、永井さんにとって、メルマガやこの書籍などで展開されているように様々な分野のテーマに首を突っ込んだ発表をするというのは、なにか、そういう現状に対する挑戦的な、あるいは実験的な意味合いもあったのですか?
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永井:大学は、タテワリによる専門分化、上意下達のピラミッド型組織構造、煩瑣な手続きに拘泥する形式主義や文献実証主義など、近代官僚制の特徴を持っていて、自由な知的冒険を行うようなところではありません。

官僚的に専門化された研究・教育システムでは、《狭いけれども深い専門的研究》と各専門から上澄みをすくって集めて一般大衆の頭に叩き込む《広いけれども浅い教養教育》の二つの可能性しかありません。しかし、これでは学問はつまらなくなってしまいます。学問の醍醐味を味わおうとするならば、《広くて深い哲学的洞察》が必要です。

《広くて深い》というのは贅沢な組み合わせだと思うかもしれませんが、正確に言えば《広いから深い》のです。超領野的に研究を行うということは、学問を深めるための手段であって目的ではありません。

学問の進歩に貢献する上で最も重要なことは、独創性ですが、伝統的な専門で伝統的な教育を受けると、伝統的な物の見方しかできなくなります。しかし、一度異質な分野を漂浪して、元へ戻ってみると、以前は見えなかったものが見えてきます。そこで得た新しいアイデアを携えて別の分野に行ってみると、その分野の専門家には見えなかったものを新たに発見することができます。

このように、いろいろな分野を行ったり来たりしているうちに、新しい知の体系が出来上がってきます。そして、それが本当の意味での、世界観としての哲学だと思います。

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木村:永井さんは、阪大の文学部哲学科を卒業され、東大の大学院で倫理学、一橋大学の大学院では社会学を専攻され、博士課程まで進学しているんですけれども、大学の方に残って研究しなかったのはなぜなのですか?
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永井:私は、研究職を手に入れるために、自分をアカデミズムに適応させようと努力しました。そうすることでわかったのは、アカデミズムが官僚的であるのに対して、私は非官僚的な人間で、順化は不可能ということです。

もともと、大組織の忠実な部品となるよりは、流浪の芸術家のような人生に憧れていましたから、現在のような生き方を選んだことは後悔していません。むしろ、もっと早くアカデミズムと決別していた方が良かったかなと思っているぐらいです。

高校時代、私が最も興味を持った科目は、小論文でした。学校で教わる勉強は、答えを覚えるだけのつまらないものが多いのですが、小論文には、答えがありません。生徒の創意工夫が評価される唯一の科目です。ただ、当時は、今と違って、小論文を課す大学はほとんどありませんでした。私が、大阪大学を受験したのは、父と同じ大学に行きたかったからではなくて、入試に占める小論文(作文)の比重が大きかったからです。

高校生だった頃、小論文の勉強のために小林秀雄氏や中村雄二郎氏の評論とかを読んだのですが、底が浅くて、物足りなかったので、大学では、本格的に哲学を勉強し、独創的な思想家になろうと思いました。ところが、今でもそうですが、日本の大学の哲学科は、専ら哲学史の文献学的研究を行い、哲学そのものをすることはありません。特に若手研究者の哲学などは、全く相手にされません。

哲学概論の講義の冒頭で、教授が「哲学というものは、一握りの天才がやるものだ。天才でもないのに哲学をするなどという生意気な真似をするな。もっと学問に畏れを抱け」というようなことを言っていたのを思い出します。「勝手に凡人扱いするな」と言い返したい思いでしたが、秀才を認めても、天才を認めないのが官僚組織というものでしょう。

私が、大学生の頃、岩崎武雄先生と廣松渉先生の本を読んで感銘を受けました。前者は、大思想家であっても、その矛盾を理論的に批判する姿勢という点で、後者は、独創的な自説を超領野的に展開する力量という点で、私には、模範となりました。お二人とも東京大学の教授をしていた方だったので、大学院は、東京大学を選ぼうと思いました。あの当時、東京大学出身の哲学研究者は、日本の哲学界で最も生産的な仕事をしていました。

岩崎先生は既に故人となられていましたが、廣松先生は現役の教授でした。ただ、廣松先生は理系大学院の所属で、文学部出身の私には入学できそうになかったので、比較的入学が簡単な倫理学専攻に入学しました。

倫理学専攻といえば、大庭健先生や熊野純彦先生といった廣松先生の高弟を輩出したところですが、いざ入ってみると、私のイメージとはかけ離れたところで、周囲ともうまくいかなくなり、博士課程に進学できなくなってしまいました。

廣松先生からは、哲学科の修士課程に入学し直すことを勧められたのですが、入学してもまた博士課程に進学できなくなるのではないかと思って、一橋大学の博士課程に編入学することにしました。一流と呼ばれる大学では、博士課程の学生を外部から取ることはないのですが、一橋大学は、例外的に外部に門戸を開いていました。

もともとカントを行為論的に解釈するなど社会哲学的な方向を目指していましたから、一橋大学で社会学の勉強をすることは渡りに舟でした。私は、ここで、ルーマンの研究を行い、その後のシステム論の方向を打ち出しました。

学問的には、実りが多かったものの、人間関係という点では、ここでもまた失敗しました。私は、わがままだったために、教授からは毛虫のように嫌われていました。就職するには、教授の推薦書が必要なのですが、推薦書を持っていっても書いてもらえないし、博士論文を書いても審査を拒否されるというわけで、研究職への就職は絶望的になりました。

私がインターネットの存在を知ったのは、ちょうどその頃でした。それまで、アカデミズムのあり方に違和感を持ちながらも、大学や学会以外に、研究発表の場はないと考えていたために、なかなか大学を離れる気にはなりませんでした。ウェブ出版という可能性を知って、初めて、大学を去ろうという気になりました。

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木村:僕は、永井さんのメルマガのファンだったので、あえて永井さんがWeb上でのみ作品を発表していることは知っていたわけですけれども、それではもったいないという理由で、二年前に、当時、名古屋にいた永井さんに会いに行き、ぜひとも紙媒体である書籍という形態で出版させて欲しいと頼んだのを思い出します。実は、僕は、今でも、WebにはWebのメリットがあり書籍には書籍のメリットがあると考えますし、Webやその他の電子的媒体がいかに進化しても、そういうものと書籍の形態は、共存あるいは棲み分けができ、生き残ると考えたいのですが、そのあたり永井さんの考えはどうですか?
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永井:電子書籍の専用端末はさっぱり売れていませんが、携帯で電子書籍を読むことは今後流行すると思います。実際、携帯向けの電子書籍の売り上げは、出版不況に逆行する形で急速に増えています。

ちょうどメールマガジンが、メーラーという多くの人がどのみち使わなければならないアプリケーションに便乗することで流行したように、電子書籍は、携帯という多くの人がどのみち持ち運びしなければならない端末に便乗することで流行するでしょう。

貴社は今後ウェッブにも力を入れるとのことですが、出版社の場合、携帯向けコンテンツに力を入れたほうが、ビジネスとして成功するような気がします。

ところで、私は、昔、ネット出版が普及すれば、中抜きが進んで、出版社は不要になるのではないかと思ったことがありましたが、最近はそうではないと考えるようになっています。

現在、私はサイトのコンテンツを Movable Type を使って、ブログとして再発行しているのですが、その際、W3Cの勧告に従って、XHTML1.1に従ってソースコードを書き換えることにしました。これは大変な作業で、毎日少しずつやってはいるものの、半年経ってもまだ完成しません。

まもなく発表される予定のXHTML2.0では、さらに多くのタグ要素が廃止されそうで、ブラウザがXHTML2.0に準拠するようになると、またコードの書き換えをしなければなりません。まことに面倒なことです。

さらに、著者が生きている間は、こうしたメンテナンスを数年に一度することもできなくはないのですが、死亡すれば、その人の作品は、やがて誰も読むことができなってしまいます。

紙の本の場合、図書館に寄贈したり、カプセルに入れて地中に埋めておけば、100年後、200年後であっても読むことができます。無名の高齢者が、自分の存在を歴史に残そうと、「自分史」を自費出版する場合、紙媒体で出版するということは正しい選択です。同時代の人は、家族や友人を除けば、誰も読まないでしょうが、100年か200年経てば、歴史研究者が興味を示すかもしれません。

紙の本と比べた電子書籍の欠陥の多くは、技術革新によって克服できますが、デバイスへの依存性が高いがゆえの保存性の悪さという欠点は、むしろデバイスの技術革新が進めば進むほど、コンテンツがそれに追いつくことができなくなるので、顕在化してきます。

ニュースとか時事評論のような書き捨て型のコンテンツの場合、保存の問題は起きません。メルマガやブログにこのタイプのものが多いのは、合理的なことです。これに対して、10年後、20年後も読まれることを前提に書かれたコンテンツは、個人出版に適していません。

コードの書き換えのような作業は、素人が個別的にやるよりも、出版社の専門家が、自動化したプログラムで一斉にやった方が効率がよい。作家は作品を作ることに専念し、出版社はそれをその時代の規格に合うように編集し、販売するというのが理想的な分業です。

ただ、コンテンツを保持し続けることに、一定のコストがかかる以上、すべてのコンテンツの保存を出版社が引き受けるというわけにはいきません。出版社からすれば、無名人の自分史とか、全く売れないけれども、将来評価されるかもしれない小説とかは、出版コストの前払いが可能な紙の本としてしか出すことができません。

結論をまとめると、企画出版は電子書籍に向いていて、自費出版は紙の本に向いているということです。これに対して、書き捨て型のコンテンツは、出版社が媒介する必要はなく、個人がネットで無料で提供し、広告で収入を得るという方法で十分です。

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木村:Webや本書に掲載されているような短編のコラムでは、どうしても論点に対する十分な説明、根拠の提示、証明などができない側面があると思います。永井さんご自身の、集大成としての作品を発表される予定はありますか? 
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私は、システム論はそれ自体システマティックでなければならないという信念を持っています。まさに、ヘーゲルが言うように、真理は全体なのです。メルマガやブログで書いている断片的なメモは、あくまでも研究の中間報告として書いている備忘録であって、私の最終的な考えを示すものではありません。

では、いつ集大成するのかということになりますが、このタイミングを決めるのは難しいことです。研究というものは、すればするほど新たな課題に出会うもので、なかなか「ここでまとめよう」という気にはならないものです。

岩崎武雄先生は『哲学体系』という本で、廣松渉先生は『存在と意味』という本で、自分の理論の体系化を試みたわけですが、お二方とも業半ばにして逝ってしまいました。私も、自分の仕事を完成するまで生きていられるかどうかわかりませんが、いつかは、自分のシステム論研究をまとめたいと思っています。

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木村:永井さんの『エントロピーの理論』の中で「ファルスなしで子供は育つのか」というテーマのコラムがありました。僕は、現実の殺人事件を題材としたこの作品は、もっと掘り下げないと不十分と考え、『縦横無尽の知的冒険』に掲載することに強く反対したので、この本には収録しなかったのですが、とても印象深い内容でした。そこで聞いてみたいのですが、ファルスという概念を通じて、何らかの男性原理(もしくはそれに変わる強さ)が、現代社会においてますます重要と考えるのでしょうか。また、ジェンダーフリーを唱えるフェミニズムなどが、仮に女性の地位向上などに役立ったとしても、一方で、教育という側面では、弊害もあるというふうに考えるのでしょうか? また、永井さんは、「日本人はなぜ幼児的なのか」のコラムの終わりに、「日本人はもっと大人にならなければならない。大人になれといっても、それは母権社会から父権社会へ移行しろということではない。父権社会の次の段階に移行すべきだということである」と結んでいますね。では、永井さんのいう父権社会の次の段階とは、例えば、どのような社会を指すのでしょうか? 
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「ファルスなしで子供は育つのか」で書いたとおり、「私は、古い父権政治の復活を主張しているわけではない」。ファルスとは、欠如のシニフィアンであり、欠けているがゆえに欲望の対象となる自我理想です。もっと平たく言うと、男の子であれ、女の子であれ、子供が「将来ああいう人になりたい」と憧れる模範がファルスであり、それは必ずしも自分の父親である必要もないし、男である必要もありません。だからフェミニズムは関係がありません。

「ファルスなしで子供は育つのか」で問題にしたのは、子供たちを権力的抑圧から解放し、「自由に伸び伸びと」育てようとする全共闘世代的な教育方法です。全共闘世代は偶像破壊はしたけれども、破壊した偶像に代わる新しい偶像を作りませんでした。しかし、果たして、子供は、崇拝できる偶像なしに育つでしょうか。

戦前の日本では、強制的な偶像崇拝が行われ、戦後の日本では、強制的な偶像破壊が行われました。右翼的教育と左翼的教育は、一見対立するようでいて、個人の自由を認めないという点で、同一地平上にあります。私は、選択の自由に基づく多様な偶像崇拝が子供の教育に必要だと考えています。なぜなら、子供は、身近なところに模範を見つけ、その模範と自己同一しようと努力することで成長するからです。

平等主義教育によって模範が見えないようにして、ゆとりの教育によって努力を不要にすることで、夢と理想を持たない無気力な若者が増えました。夢とか理想は、抽象的な言葉で語っても、憧れの対象にはなりません。夢と理想を体現する具体的な模範が身近なところになければなりません。それをどこに求めるかは、個人の選択に任せるべきでしょう。日本人だからという理由で「民族の英雄」を崇拝させるというようなことはするべきではありません。

「日本人はもっと大人にならなければならない」というのは、日本人は、もっと個人として主体的に選択する能力を持つべきだということです。母権社会と父権社会の後に来る時代とは、人類が、この意味で大人になる時代です。

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ありがとうございました。


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3 コメント

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永井氏とのやりとり (うげげっ)
2017-12-07 21:45:12
永井氏と「卑弥呼の墓」についてやりとりしましたが、途中でバカバカしくなって打ち切りました。

やりとりは以下

https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/#cite_note-34


知識が浅く、自分の思い込みを絶対だと考え、自己正当化するために幼稚なウソは恥しらずにもつく人間です。

こんな幼稚なアホが書いた文章を出版するところがあるとはね。


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Unknown ()
2023-07-21 07:41:08
リンクにとんでみたら分かった
わざわざここにコメントつけに来た氏が、ネガティブな印象を永井氏につけたくてアンチコメしてるだけだった。
考えてみればそりゃそうだ。少しでも噂を信じた自分がバカだったよ。
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神はサイコロ遊びをする (ああいえばこういう熱力学)
2024-04-08 15:52:41
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム、人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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