震災関連ブログ(牡鹿半島・石巻)

非公開にしていましたが震災10年に際し一部投稿のみ公開設定に変更しています。

6/10 石巻・牡鹿半島(牧浜)

2011年06月29日 | 日記
牧浜の寺に小網倉で亡くなったおじさんに線香をあげに行った。


小積浜から牧浜へ向かう道は聞いていた以上に悪路であった。
道中、「畳」で補修されている箇所もある。
牧浜にはボランティアのキャンプらしき設備もあった。

寺に行くと10体の骨壺が並んでいた。
こういう光景だとは当然覚悟の上だったが
いざ目の前にすると言葉を失う。

思えばおじさんは昨秋小積浜に行ったときに、
ふらっと車で立ち寄り、僕がつくったカレーをもって帰ったっけ。
(でも、車なのに、どうみてもどこかで一杯ひっかけた後にしか見えなかったなあ)
そのあと僕の祖母の葬式の時は受付もしてくれたなあ

といろいろと思い出しながら手を合わせた。

おそらく見つかることはないと半ばあきらめていたら
3月下旬に山に打ち上げられていたのを発見され
着ていた警備会社の制服で名前がなんとかわかった。
4月に行ったときはおじさんの姉は制服を丁寧に洗っていた。
「でも完全にきれいにはならないんだよね」と。
その後仮土葬され、津波から一か月たって火葬。
おじさんが墓にやっと入れるのは4か月たった7月の中旬の予定です。

結局、近い親戚で亡くなったのはこのおじさんだけであった。
父は「●●(おじさんの名前)が代表で逝ったんだよ」と。

6/10 石巻・牡鹿半島(小積浜の写真)

2011年06月28日 | 日記
6/10時点の小積浜の写真をおさめておきました。


茶色く枯れつつある樹木。


塀しか残っていないが、僕が子供のころこの家に住んでいた子とよく夏休み遊んでいた。


道路を挟んで反対側にはその家の屋根だけが転がっている。


その後、象徴的に乗り上がっていた矢本の台船は、後日撤去されたそうです。
(7/18修正;父が昨日現地で確認したところまだ残っていたそうです。)
津波は写真の電柱くらいまでの高さだったとのこと。


野々浜へ向かう道端にはまだどこのものかもわからない船がある。


我々は祖父の船が流された場所を確認に。野々浜よりの一番奥までもっていかれていた。
この写真の先には海岸線があるんですが、写真では確認できないくらいの距離。
岸からおよそ4~500mといったところか。
震災直後に船外機は盗まれたが、船自体は新山浜にお住いの方がアワビ漁で使いたいとのことで、差し上げた。
そのまま放置していれば、ゴミとしてスクラップされるところだったが
第二の人生が決まってホッとしている。

3ヶ月経って様々なボランティアの方がきて、
4月と比べると、だいぶ瓦礫は少なくなったように見えます。


お知らせです

2011年06月24日 | 日記
さきほど現地と連絡をとったところ

震災から105日目

昨日、小積浜区第一避難所に水道が通りました!!

パチパチ!小積浜の一部はすでに開通していましたが、
昨日おかげさまで避難所の電気・ガス・水道とライフラインが整備されました。
牡鹿の中でも比較的遅めだったのではないかと思いますが
県道2号沿いで懸命に復旧工事をされている
水道関係の方の姿を目に焼き付けていました。

まだ支線となる住宅では水は通っていないところもあるかと思います。
ご努力に敬意を表したいと思います。

ちなみに、
一名、70過ぎのおばあちゃんが避難中なんですが
6月上旬に赴いた際は
20リットルの水のタンクを毎日持ち運んだ結果、
完全に腰がやられていました。さすがに高齢者にとっては酷なはずなんで
これで少しは痛みから解放されるのではないかとホッとしております。

聞けば土曜からお風呂も洗濯機も解禁と・・・

電気のない世界・水道のない世界はひと晩ふた晩なら新鮮ですが
100日以上も続くことは、誰かのサポートがない限り精神的に続かないと感じていました。
これも、ご支援いただいている皆様のおかげです。
避難所の者たちにかわりまして、お礼申し上げます。

6/10 石巻・牡鹿半島(小積浜)

2011年06月22日 | 日記
6/10 早朝の小積浜の様子。
何事もなかったかのように鳥の囀りが聞こえてきます。
浜の全景を解説していますが、津波の高さは
映像に映っている電信柱と同じくらいの高さだったそうです。


この日は
朝から墓地に赴き
墓石の移動。バールを使って3人がかりで。
Before

After


その後、避難所周りの掃除(≒家の庭の掃除とも言うが・・・)

次に昨秋亡くなった祖母の衣服を整理し箪笥一つを
石巻市街で被災した親戚宅へ移動する準備。
ついでに他の箪笥の衣服も整理して
避難者の方んお衣服も入れてもらうことにし
もっと広く使っていただけるようにしてみた。

今日で百か日

2011年06月18日 | 日記
生き残った被災者にとっても
100日というのは大きな節目と捉えていることが
今回の訪問でよくわかった。

石巻市ではいまだ2770名の方が行方不明とのことである。
魂が安らかなることを祈ってやみません。

6/9 石巻・牡鹿半島(鮎川浜)

2011年06月18日 | 日記
前回は鮎川の街中には入らなかったが今回は車を流してみた。


昨年買い物したコンビニも無残な姿であった。


他の浜と比べ規模が大きいので鉄筋なども残っているが
土地勘のある私であっても、どこを通っているのかピンとこない風景であった。





道端では、背広を着て杖を突いてあるく老人。
縁のある家の前なのか頭をかかえて呆然とする女性。
他に歩いている人を見かけない・・・町の規模が大きいだけに
まさにゴーストタウンかと見まがうばかりである。



鮎川ではボランティアらしき10数名のグループが活動していた。
牡鹿半島に入って、この日唯一みかけたボランティアの方であった。
震災から3か月。
平日のボランティアが減ってしまったという話を聞いていたが
それを実感した。





鮎川から石巻へ向かう道には「SEE YOU AGAIN」と。

6/9 石巻・牡鹿半島(給分浜・小渕浜・十八成浜)

2011年06月17日 | 日記
給分浜・小渕浜を通過。
漁業としては比較的活発な土地柄であったためか
地元の方が浜で復旧作業にあたられていた。


小渕浜のココストアはすでに営業を再開していた。
おそらく旧牡鹿町地区では唯一といってよい食料品店になっているのではないか
品揃えもちゃんと充実しており頼もしい限りであった。

ちなみに小積浜で避難していた親戚の話で
震災直後、突如自衛隊のヘリが小積浜に降りてきたとのこと。
よくよく話をきくと
「小渕浜」に要請があったのだが間違えて
「小積浜」に来てしまったとのことで
結局、「すみません、小渕浜まで案内してもらえませんか?」
とその親戚がヘリに同乗し小渕浜までナビ役を買ってでたとのことだ。

十八成浜を通過。海岸の松はすでに枯れ始めている。





6/9 石巻・牡鹿半島(小網倉浜・清水田・大原浜)

2011年06月16日 | 日記

小網倉浜も光景に変化はない。

道路わきにうちあがっていた大きな生簀の船は海上へ移送されていた。

清水田の親戚宅でも物資をおろす。
ここは、被災後自衛隊のヘリで強制的に内陸へ避難するも
比較的高台にある集落につき
被災後1週間で自らの意思で清水田へもどってきたとのことであった。


大原浜にて親戚宅へ物資を降ろす。

現在、大原浜には20世帯がいるとのこと。
道すがら小学校低学年とおぼしき少女が瓦礫の重なる道でボールをついて一人で歩いていた。
他の地区から避難してきた子らしいが
みていて涙がでそうになる光景だった。

大原浜では食料品の配給があり、個人からの支援物資を含め
仕分けを当番制で行っているとのことだが
この日は「おにぎりとパン」のみだったとのことだ。

個人で物資支援をお考えの方は20世帯を一つの目安にお願いいたします。

また、温泉旅行などの支援もあるそうである。
抽選制になるが、なにぶん2泊3日が多いため
魅力的なツアーもあり大変感謝しているとのことだが
被災中で3日家を空けるのは難しいので申し込める状況にはないとのことであった

客船でディナーを食べて一泊して翌朝帰るというツアーがあったとのことで
それには私の親戚は参加したとのことだ。

なお、先日は金華山で地震にあった某放送局の方が
炊き出しのボランティアにみえられたとのこと。
鮎川方面から石巻市街に山伝いに歩いてくると大原に降りてくるので
ここでもらったオニギリが忘れられず
感謝の気持ちでいらしたとのことであった。


6/9 石巻・牡鹿半島(小積浜)

2011年06月15日 | 日記

小積浜につづく崩落した道路は補修工事が進んでいる。
話を聞くと、小積浜につづく水道の工事とのことであった。
ここが補修されないと、小積浜の水道が開通しない。
3か月たってもなお、この浜は基礎的ライフラインが復旧していないのである。




現在小積浜では被災を免れた5世帯の民家にわかれて避難生活を送っている。
港湾土木関係の知人に聞くと小積浜地区には海上の瓦礫撤去が6/13の週を目途に開始されるとのことだった。
すでに津波を被った樹木は葉が赤茶色に変色し枯れ始めている。


ただし、地上の瓦礫はまだまだ・・・
材木店の方が個人で重機を持ち出して片付けているようにみうけられたが
本格的な瓦礫撤去はまだすすんでいない。



6/9 石巻・牡鹿半島(桃浦・侍浜・荻浜)

2011年06月14日 | 日記
県道2号線で一路鮎川に向かう。
今回、驚いたことの一つが
鮎川に向かう道は、4月の時よりも更に酷くなっていることだ。
もちろん行政において補修は懸命にされていると思うが
前回の訪問時の大きな段差などとは別に
新たな細かい亀裂や段差が多くなってきている、
これから梅雨のシーズンが非常に心配な状況と感じた。
現地に入る方は特に夜間の運転には十分注意してください。


桃浦を通過するも、前回訪問時とくらべ瓦礫がまとめられている様子がうかがえたが、
余計に海が近くに感じすべてが破壊されたことを目の当たりにすることとなる。
これが前回訪問から2ヵ月経ったあとかと思うとなんともやるせない気持ちになった。





侍浜の父の知人宅に立ち寄る。心ばかりだが果物を渡す。
侍浜は牡蠣むき場があり、よく亡くなった祖母が牡蠣むきに通っていた。
小さいお子さんがいらっしゃるので、私にも1歳の娘がいることを告げると
「お二人目のお子さんができる頃にはまた牡蠣が用意できるかも・・・」と。
半島内では比較的急な坂にある集落であるため、壊滅的な被害は免れている。



荻浜を通過。自衛隊が瓦礫撤去にあたっており、
以前と比べると瓦礫が整理されているようだった。

6/9 石巻(渡波)

2011年06月13日 | 日記
渡波の親戚宅で物資を渡し、
同じ渡波地区の塩富町にある父の知人宅に向かった。


とにかく写真でみてのとおり海面が近い。干潮に近い時間帯だが海面スレスレであった。
同宅はたまたま少し高い位置にあったため、酷い浸水は免れているが
土地のかさあげなどの影響で別の地域へ、満潮時に海水がまわってくるとのことであった。


近隣には仮設住宅がすでに完成していた。

ちなみに渡波のイオンは通常営業に近いかたちまで復旧しており、
金銭的・自家用車的に被災の無い方は買い物ができる環境であった。

6/9 石巻(中里・駅前・女川街道)

2011年06月13日 | 日記
6月9日から11日にかけて、ふたたび石巻に行ってまいりました。
これから順を追って状況を記載していきます。
何分、本業も忙しく、1歳の子がいるので
なかなか文章を書く時間もないのですが
極力早目のアップに努めてまいりますので
あたたかいご支援をお願いいたします。

6月9日の6時半に東京発。
仙台南部道路経由で長町ICで下り
親戚と待ち合わせし物資を手渡し後
石巻市内に向かいました。


まずは石巻駅の北部の中里にある親戚の家に赴き果物などを手渡しする。
この地区は海岸線からは直線距離で3km程度離れているが
川づたいに津波が押し寄せ結局1m以上浸水した。
4月の来訪時は同じ市内にいる被災を免れた親戚宅から冷蔵庫やテレビを移したが
今回聞くに、箪笥も津波でやられており、衣料品の収納がコオリ1つある状況であったため
小積浜の避難所になっている自宅から箪笥を帰りに運ぶ手筈とした。

つづいて、駅前を通って渡波に方面に向かった。


石巻駅前は一見被災の程度はさほどでもないように見受けられるが
商店街はまだまだ爪痕深い状況である。
道すがらボランティアの方々への感謝のメッセージをいたるところでみかけた。


橋を渡って


女川街道を渡波方面に。がれきの撤去はある程度進んでいる印象だがまだまだ多い。
被災した店舗は総じてほぼ手つかずの状態である。


鹿妻のヨークベニマルには他店への無料送迎バスがとまっていた。


ホーマックに書かれている人探しの案内も生々しい。


街道沿いの新居と思われる新しい民家も手つかずである。