グリーンズ・テイブル

ppのピアニッシモな戯言でござ~い☆

お盆に

2013-08-10 22:38:04 | 生と死


新聞や雑誌などに載った珠玉のエッセイ、コラムを抜萃して小冊子に纏めた「抜萃のつヾり七十二」(発行:(株)熊平製作所)を外出先での待ち時間に読んでいてウルッとなり、ヤバイヤバイヤバイ…


「最期の晩餐」
     八木睦美
 病名を告知された瞬間、父が肩をがっくりと落としたのを、私はいまでも鮮明に覚えている。5年前、父は六十一歳の若さでこの世を去った。銀行を定年退職して一ヶ月後に肺に癌が発見され、一年間の闘病生活を送った。その闘病生活の末期、いよいよだと悟った父は、最期は我が家で過ごしたいと言った。家族全員が集う居間に父のベッドを用意し、父を囲むようにして、家族は最期の数日間を過ごした。内臓の機能がほとんど動かなくなってしまった父は、口から食べ物を運ぶ事はできず、点滴で養分を補給していた。そんな父が、
「睦美、たまごかけごはんが食べたい」
と消え入るような声で言った。
「うん、直ぐに用意するから」
そう答え、私は台所へと駆け込んだ。私は、父の茶碗にご飯を盛りながら、父から聞いたある話を思い出していた。父が幼い頃、卵は高級品で、病気になった時以外は、滅多に口にする事ができなかったそうだ。ある日、どうしても卵が食べたかった父は仮病を使い、風邪のふりをして布団に潜り込んだところ、祖母が、たまごかけごはんを食べさせてくれたと、父は私たちに話してくれた事があった。その話を思い出した瞬間、
「今の父の病気も仮病だったら…」
その思いで、私の胸はいっぱいになった。そして、瞳の奥から涙が溢れてきた。そんな私の姿を見ていた母は、
「泣いちゃだめ。お父さんの前では絶対に」
そう言い、私の肩を優しく叩いた。
「お父さん、たまごかけごはん、持ってきたよ」
私は、できる限りの笑顔を作り、居間に戻った。私は、スプーンに一口のご飯をくすい、父の口元に持っていった。舐める程度の少しのご飯を、父は懸命に噛んでいた。
「おいしいよ」
父はそう言いながら、一筋の涙を流した。その涙を見た私たち家族は、ついに耐えきれなくなり、父に抱きついて泣いた。
「お父さん、仮病だよね?たまごかけごはんが食べたいから、病気のふりをしているんだよね?」
私は父に聞いた。
「そうだったらな…。そうだったらいいな…」
頼りない声で父はそう言った。父のこの病気が仮病であったらいい…。どうか、神様、仮病でありますように…。家族の誰もが、そう祈った。その翌日、父は静かに息をひきとった。父が、最期にたまごかけごはんを選んだのは、子供の頃、仮病を使ってたまごかけごはんを食べたように、この病気も嘘であったら…、という一筋の願いからだったかもしれない。父が他界して以来、私は、たまごかけごはんを食べなかった。父を思い出し、切なくなるからだ。父の五回目の命日、私は、たまごかけごはんを作った。箸を口に運び、ご飯を舌にのせた瞬間、目頭が熱くなってきた。私は、食べかけのたまごかけごはんを、父の仏壇にそっと供えた。
(やぎ むつみ=会社員・潮「潮エッセイ大賞 選考委員特別賞」24年10月号)

亡くなった父と重なったりして。。。
医師から治る見込みがないと家族に言い渡された後、入院生活が長くなって家に帰りたくてしょうがない父に2時間だけの帰宅許可が下り、連れ帰る。
食べ物が殆ど喉を通らない父に作ったのは卵とじうどん、少しだけ口にしてくれた。
居間から庭を眺めたりしながら住み慣れた家で過ごした最期の時は、10年前のよく晴れた夏の終わり。

画像はその庭から持ってきたアメリカ仙翁(名前を教えてくださったのはalchemillaさん)、今年も色鮮やかな咲っぷりでした。先月撮影。


明日はお墓参り。



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