DJ 犬タローの犬小屋ナイト「住むとこあらへんで!」

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野村訓一先生

2006年11月08日 | 知らなきゃアウト!
すごい昔のインタビューなのですが、僕のとても好きな人間の一人である野村訓一さんのインタビューがあったので、引用させていただきます。

この人のすごい所って、物や人の本質を見抜く洞察眼につきると思います。
あと、ものすごい自分に正直な人だなーと感じます。




野村訓市 《『sputnik』編集長》 インタビュー

まず、一番安い世界一周のチケットを買って、取材にでかけた
text:江坂健

 昨年、面白い雑誌が出版された。黒い表紙に『SPUTNIK/whole life catalogue』<http://www.sputnik.ac/ >と名付けられたその雑誌は、登山家のメスナーや、建築家パオロ・ソレリやマイケル・ゴズニー、ケン・キージー、ポール・スミスなど、世界中で取材された80本のインタビューが収められている。日本語と英語の両方が表記されているから、ということもあるのだが、日本の既存雑誌とは違う、何か既成の枠から解き放たれた自由さのようなものが誌面から匂い立っている。収録されたインタビューの大半をこなした野村氏は、3ヶ月の世界一周オープンチケットを買って、ヨーロッパ、アメリカと、各地でほとんどアポなしの突撃取材を敢行した、という。かっての『Whole Earth Catalogue』から着想を得た「whole life catalogue」というコンセプト。20代のトラベラーが、拾い集めた「life」とは・・。



●アポなしで、とりあえず突撃

一一まず、このプロジェクトが始まるきっかけを教えていただけますか?

 大学卒業してブラブラしてて、帰ってきて何しようかな・・と思ってて。偶然、イデーの黒崎さんに出会って、なんか一緒に面白いこと出来ないかってことで、辻堂で海の家をやることになったんです。それだったら、自分たちが遊んでたみたいな、ちゃんと夕焼けが見れて、chill out 出来て、いろんな音楽がタダで聞けて、人が集まって、雑多な感じにしたい。僕らが旅行するときいろんな人に出会うじゃないですか。で、イデーにお金を借りて、そういう場所を作ったんです。


一一何年前ですか?

 2年前です。それで、お店の名前をどうしようかってことになって、Sputnikってつけたんです。僕らは人工衛星みたいなもんだなって、ただぐるぐる回ってて。世界中に友達も出来たし。ロシア語で‘旅の道連れ’って意味らしいし。
 で、黒崎さんが、名前を気に入って。彼も、学生運動の頃に世界中をバックパックで回ってたらしくて。それで、それから、若者のユースカルチャーみたいな尖った本を作れないかってことになって。僕、英語しゃべれるし、世界中に友達多そうだからそういうのがいいってことで。黒崎さんも、昔『Whole Earth Catalogue』とかを見ていて、いいじゃないかって。それで、一番安い世界一周のチケットを買って、訳も分からず、知り合いが一番僕が多かったんで、ロンドンへ行って・・。


一一それから、アポ取りながら、ヨーロッパ、アメリカ、まわったんですか?

 いや、アポなんか取れないですから。事務所もないし、コーディネーターもいないし、僕一人だったんで。旅行中の友達が、世界中にいるじゃないですか。そいつらに、先ず連絡して。電話してアポ取ろうとしても、秘書だなんだって、取り次いでくれないんですよ。メールとファックス送ると、時間が無いから読んでない。また次の日電話すると、なくなったからもう一度送れって。これじゃダメだ、と思って。住所聞いて、リュック背負って、そこ叩きゃいいだろうって。で、行ってガーっと話すと、じゃあ、まぁ、取りあえず、広報と話せとか秘書と話せとか言うことになって。またガーっと話すと、まあ、いいんじゃないか、そういう雑誌か、本人も気に入るんじゃないかって。取材が無理でも、本人に顔合わせさせてくれとか言って。会わせてくれたらしめたもんで、ガーっと説明すると、もともと自分で始めた人達ばかりだから、俺も出だしはそうだった、みたいなことになって。


一一そんな形だったんですか・・。メスナーとか、よく会えましたね。

 大変でしたよ。どうしても連絡先がわからなかったんですけど、住んでる村の名前だけわかったんですよ(笑)。それで、イタリアの友達に連絡取って、そこの村の電話帳でメスナーって言う名前を片っ端から見てくれって頼んで。それで、どうもこれなんじゃないかっていうのに電話かけたらイタリア語しか通じなくて。イタリア語出来る友達に電話してもらって。そしたら、どうも今ブリュッセルにいると。緑の党に選出されて、議員やってるってことで。それで、今度秘書の電話番号をゲットして。やるとりしてる間に、もしブリュッセルに来るんだったら、なんとかなるかもよってことで。じゃ、俺行くわって。

●海外の友達をフルに使って

一一だいたいそういうパターンだったんですか?

 あとは、あんた変わってるわね、みたいなことになって、じゃあ、この人どうって紹介されたり。そんな感じで・・。ランキンも大変でしたけどね、アポ取れなくて。で、『Dazed & Confused』に行ったら出てきて、お前、どこの馬の骨だ、みたいなことになって。俺は忙しいんだ~(笑)みたいな。たまたま、いたんで。で、ガーっと話したら、俺らの雑誌と同じような始まりだな、お前それ一人でやってるのが、ちょっと悲惨だけどな、みたいなことになって(笑)。イケイケの人だけど、実はすごくいい人で。話が面白いかどうかは、わかんないんですけど、僕は会った時の雰囲気が凄く気に入って、あんまり嘘のない人だなと。イギリス人らしい、ひねくれたところもあるし。すごく親切で、終わった後も、写真集から何から全部送って来てくれて、写真も使っていいし、頑張れよって(笑)。


一一3ヶ月の取材旅行の間に誰をインタビューするのか、というのを選ぶのが、重要なポイントだったと思うんですが、何か選択基準はあったんですか?

 インディペンデントな人であるとか、やっていることにジャンルが関係ないとか、旅行してた人とか・・セルフ・エデュケーションな人っていうのが、すごい重要なポイントで・・。っていうのは、自分もすごい悩んでたんで(笑)。
 もれちゃった人も何人もいるんです。実際会ったんだけどインタビューする暇なかったとか。ギャロもそう。ギャロは、日本ですごい変な売られ方してたけど、あの人の経歴を見ると、バンドやってた後に、靴を作ったり洋服作ったり、画家でも有名で、それでモデルやって映画作って。結局何でもやってるから、一番みんなうらやましいところだと思うんだけど、どうやったらそんなに全部出来るんだとか思ってて。偶然、ニューヨークで会ったんですよ、インターネット・カフェで。で、声かけて、電話番号もらって、連絡は取ってたんですけど。デヴィッド・カーソンもそうですね。タイポグラフィーがすごい有名だったからとかじゃなくて、もともとサーファーで、デザイン経験ゼロで、サーファー・マガジンやってた。オフィスまでは行ったんですけど、急に出張が入っちゃって。
 3ヶ月じゃなくて、全部で6ヶ月ですけどね。もう1回行ったんで。その時に、カメラマン連れてったんですね。ヨーロッパはヨーロッパで、口説いて。痩せてる奴で、カメラが重いハッセルブラッドだったんですよ。一日、外に十何時間いるから、カメラ持ってひたすら歩くじゃないですか。オフィスがないから、一番安いインターネット・カフェを、勝手にオフィスにしてて、困るとそこ戻ってメール打ったりして。もう肩が痛い~、背負えない~、とか言ってて。じゃ、俺が持つって・・。


一一クレジットに、外国の人もたくさん入ってましたよね。あれは、翻訳でお願いしたんですか?

 テープ起こしだけが間に合わなかったんで、外人の友達に頼んだり。あとは、向こうで家に泊めてくれてた奴とか。テープ起こしまで自分でやってたら、さすがに時間がかかるんで。テープ起こしを日本人がやったら、全然ダメなんですよ。聞けないところを、自分の英語にしちゃったり。それは、困ると。だから、先ずテープを、全部英文で起こして。


一一どのぐらい刷ったんですか?

 とりあえず、2万部です。爆発的に売れる本ではないし、本屋さんは、あんまり置いてくれたがらないんですよ、大きいんで。でも、コンスタントにずっと、決まった数ぐらいが出てて・・。


一一そうすると、反応を見つつ、売れてお金が入ってきたら、また違うアクションを起こすという予定ですか。

 って言っても、これ全部完売しても、利益ゼロなんで・・。定価を思いっきり下げちゃったんですよ。買えないような金額で売るのがすごい嫌で。見てもらってなんぼだから。黒崎さんも、まあいいじゃないかってことになって。

●やりたいと思ったときに、行動する

一一取材のテーマの背景には、将来に対する迷いみたいなものをどっかでお持ちだったのかと感じましたが。

 それはもう、あります。ない方がおかしいと思うし。


一一それは、終わられた後、どうでしたか?

 みんなDIY、Do It Youself、ってよく言ってたんですけど、日本でいうDIYっていうよりは、もっと地に足の着いたDIYをやっていて。
 自分が何が出来るのかなって・・。何の経験もないし、興味あるものは多いけど絞り切れなくて。俺には出来ないってことが多くて。本作るって言って、飛行機のチケット買っちゃったし、やるしかないからやって・・。ちっちゃいとこから始めて、終わってみたら結局、一応形になったから、DIYっていうのはこういうものかなぁって。
 日本にいると、どうしても知識武装してしまうっていうか、興味持った人のインタビュー読んだり、勧めた本読んだりしていくうちに、自分がすごい力不足だって痛感するんですよ。
 でも、やりたいと思ったときに、人におだてられたりしたら、結構出来ちまうもんなんじゃないかと。で、作品さえ出来れば、ある程度みんな評価してくれるわけですよ。面白い、面白くないにしろ、よくやった、出来たじゃないかって。そうすると、勉強すれば、次作るモノっていうのは、もっとよくなるから、みんなそんな感じで始まると思うんですよ。
 こうやって僕も出来たから、みんなにやれっていうと、お前は、旅行してて行動力があったし、英語がしゃべれるから出来るんだよってふうに、言われるわけですよ。だけど、そんなことは無いはずで。やる前は、ただのプーだし。
 もちろん、他の人が同じように、本が出来るかっていうのは、わかんないですけど。音楽でやった方が100倍通じる人もいるし。それをなんとか探して行かなきゃいけないんですよ。ポジティブに考えていけば、いいんではないかなと。


一一これをきっかけに次には、どういう活動をされようとしてるんですか?

 旅行したり、いろんなことした人達が、なんとか集まって生きていけるすべはないかなと。1ヶ月なり旅行に行けたり、それがちゃんとフィードバック出来るような、コミューンみたいなものを作りたいなって思っていて。コミューンて言っても、閉鎖的で郊外にあるようなのじゃなく。
 例えば、作品が少ないから、仕事取りにくくても、会社名義にしておけば、会社としてはこういうことしてます、その中で僕は洋服をやってますとか、着実にみんな好きなことを出来て。海外から来た友達がこういうのをやりたい、じゃあ、音楽やってる奴がいたら、一緒に組んでこういうのやって、出したらどうかとか・・。そういう、プラットフォームを、すごく作りたいなと思っていて。


一一今、おいくつですか。

 27です。


一一ネットベンチャーの若い起業家の人達にも会うんですけど、やっぱり今、就職が厳しいから、いかにしてサバイバルしなきゃいけないかっていうのが、シリアスな問題だと思うんですよ。やはり、そこが始まりですか?

 そうですね。僕、SFC行ってたんですけど。僕は、メールもろくに覚えずに卒業しちゃったんで(笑)。だけど、SFCがバークレーみたいになったらいいなと思っていて、途中から、学校の子となるたけ会うようにして。 日本ていうのは社会的に地位があって、発言力のある人っていうのは、固まるじゃないですか。だけど、僕とか僕の下ぐらいの子達から、慶応出てるけど、変なテクノのレーベルやる奴とか、ゲーム作る奴とか、そういうのが沢山出てくるんじゃないですか。そういうのが、30、40になった時に、もうちょっとリベラルになるんじゃないかなって。


●東京に、世界中の人が集う場所をつくる

一一野村さんの場合、日本以外、東京以外に住むという選択肢もあるわけですよね。友達もいらっしゃるし、海外の方が、もしかしたら、食べられるかもしれないですよね?

 そうですよね。別に変な海外志向とかないし。ニューヨークへ行くと、僕は、ニューヨーカーみたいな日本人、多いじゃないですか(笑)。別に日本にこだわってるわけでも、外国にこだわってるわけでもない。じゃ、なんで東京に住むのかっていったら、まあ、生まれ育ったのは東京だっていうのと、僕、田舎ないですから。あと、もし、逆に東京でなんか出来たら、絶対どこ行っても出来るだろうし。


一一というと、東京が一番大変?

 東京が一番大変だと思いますよ。建前あるし、コネとかないとダメそうなとことかもあるし。ホントの新しいことやってる人って、結構逆輸入の人が多くありません?海外で評価されて初めて、日本ですごいっていうのがあるし。家賃は高いし、やっぱり右習えっていうか、流行りもなにもそういう感じだし・・。マイナス面は、沢山あるけど、だけど・・


一一そのだけど・・ってとこを聞きたいんですけど(笑)。

 ホントの意味での住み易さとか、自分がもしやりたいことが決まってたら、たぶん僕、ロンドンとか行ったらやりやすいかもしれないし、友達も同じぐらいいる。例えば、僕がライターになりたいんだったら、ロンドンの雑誌で世界中に伝えた方が面白いかもしれない。
 でも東京で、プラットフォームを作りたい。外国の友達とか日本に来たとき、こっちに住めるようにビザ出してやって。で、僕らも飽きたら、どっか行けばいいし。それが、判を押したように、ニューヨークとかロンドンとかパリとかじゃなくて。本書くんだったら、田舎、タイとか行けばいいし。 やっぱ、嫌じゃないですか。日本のここがダメだよって言い合うのは。じゃあヨーロッパとかアメリカみたいににすればいいのかっていったら、絶対そんなことないんですよ。あんなのは、またすごく偏った価値観だし。
 やっぱり自分が生まれた所は、面白ければいいなと思うんだけど・・面白くないところも多い。ニューヨークやロンドンみたいに、これから東京が経済の中心になるとは、もうまったく思ってなくて。あまりにもインフラが遅いと思うし。今に香港とかシンガポールに移るんだろうと思うんですけど。だったら、文化都市でいいじゃないかと。人がおもしろけりゃ、やっぱり人って来るじゃないですか。いくら、株式市場がシンガポールにあろうが、貨物のターミナルのハブが香港にあろうが、そんなもんじゃないと思う。


一一フラットにいろんなものが見えているという感じがするんですが、それはやはり旅行での経験が大きいですか? きっかけとか、ターニングポイントみたいなものが、あったんですか?

 ええ。流行のモノ大好きで、流行る前のものをやるのもすごく好きだったし・・。だから、中学の時は、アメリカしか見えない、スケボーとかBMXやって。高校の時は、飲んで遊んでた。楽しいんだけど、すごく空虚な気もして。で、俺って何なんだろうって思って、旅行を始めて。高校の時、アメリカ一人で行ったり。大学は全然合わなくて。インド行って、ちょうどいいパーティー始まったりして、いい仲間が世界中にできて。そうすると今まで、買ってた洋服なんてどうでもよくなっちゃって。
 で、70年代みたいなことが起こるに違いないと思ってたんですけど、やっぱりそんなこと起きなくて、ただのインドでやるクラブのパーティーみたいな。あと、制約が多いですからね。自由なのに、自由になるために。そういうの、だんだんおかしいなと思いはじめて。
 考えてみれば、俺はヒッピーでもなんでもないし、俺が好きなことっていうのは、いろいろあって、そういう70年代的なものっていうのは、たぶん一番好きなんだけど、それだけじゃない。じゃあ、自分が一番好きだったモノはなんだろうって思ったら、雑多なところで、価値観が決まってないのが価値観の中で、自由に組み合わせられるっていうのが、一番いいんじゃないかって。遊びに行くんでも、何かが流行りだす時が、いちばん面白いですよね。クラブに行くんでも。みんな、いろんな格好の人が来るじゃないですか。だけど、しばらくすると、みんな服装も似てきて、常連さんが生まれて、ああなったら、もうおしまいだなって(笑)。
 だから、昔の運動っていうのもそうだったと思うんですよ。ビートも、ウォーホルのファクトリーも、ヒッピーも。あれは、いろんな人が集まって、てんやわんややってる時に、いろんなものが生まれたんだけど、その後、固定化した時っていうのは、もう死んだ時で。


一一とりあえず、これからのご活動っていうのは、さっきおっしゃってた、場所みたいなものを・・

 ええ、作ったりしたいし、まあ、いろんなことをやっていきたい。僕は、人を集めて、組織立てるっていうんじゃないけど、そういうのをやりつつ、まだ、自分は何が一番向いてるのか探せたらいいなと思うけど。


一一その辺で、焦りみたいなものはないですか?

 ありますよ。一生どうやって食っていこうかなとか、やっぱり思う。だけど、そんなこと考えててもしょうがないなっていうのが、まず第一。先どうしようっていうのは、悪魔のささやきだと思ってるんですよ(笑)。だから、焦る日もあるし、焦んない日もある。それは、機嫌がいい日と悪い日みたいなもので・・。
 どんなに売れてる人でも、やっぱり絶対あると思うんですよ。自分のコアみたいな所が薄れてきてるんじゃないかってことを、取り戻せないことについて焦ることもあるだろうし、時間がないっていうあがきみたいなもので焦る人もいるだろうし。でも、それに呑まれちゃいけないんだろうから、どっかで折り合いつけてやっていけたらいいなと・・。
 今日は、ちなみに天気がいいんで、これっぽっちも焦ってないですね(笑)。
(2001年2月20日収録)

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1 コメント

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なんで東京に住む事こだわるのだろう (タカヨシ)
2009-08-26 01:47:28
いい思い出があるから、東京に住みたい
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