怒涛の新人公演が終わって、何が待っているかというと原稿の〆切だ。
舞踊のソロ部門と群舞部門の奨励賞というやつの選考委員を引き受けたので、
日本フラメンコ協会から依頼された選評がある。
その前に、恒例になりつつある
アクースティカの新人公演応援團のレビューもあって、
特にこちらは、舞踊の出場組全部についてそれぞれ書かねばならず、
ずんごく大変なのであります。
なんで大変かは、読んでいただけばわかります。
ぜひ読んでくださいませ。
(アクースティカは数日中に全文掲載になるらしいです)
(協会の選評はおそらく今月中旬かしら?)
なので、舞踊部門についてはほとんど書きたいことを書いてしまった。
あと、ちょっと書いておきたいなと思うのは、カンテのことだ。
今年はカンテ部門の奨励賞は授賞が見送られた。
選考会でどんな意見が出たのかは、
私は別室で舞踊部門の選考をしていた最中だったため、
ほとんどわからない。
けれども、私自身は、今年のカンテ部門は昨年よりも楽しく聴けた。
賞に値するかどうかはともかく、
出場者のレベルが底上げされてきた感じはするのだ。
もちろんこれは、日本のカンテの層やレベルが、
舞踊やギターに比べてまだまだだという前提に立ってのことだけれども。
少なくとも、ポップスみたいに唄っている人は、
ほとんどいなかったんじゃないかしら。
フラメンコは、カンテもギターも舞踊も、
ポップスともロックともジャズとも、クラシックともモダンダンスとも違う。
今はジャンル間のボーダーレス化が進み、いろんな試みが行われてはいるけれども、
フラメンコ自体をよく体にしみこませた人でなければ、
(そういう人でも難しいことではあると思うが)
ボーダーレスなことをやっても、表面的な面白みしか伝わらない。
いや、それさえも伝わらない場合も多いんだけど。
でも、私も含めて若い世代は(!)、「フラメンコ」と名がつくものに出会ったとき、
すでにその「フラメンコ」がボーダーレスな状態だったんじゃなかろうか。
私が「フラメンコ」らしきものに出会ったのは20代のとき(30年近く前!)だが、
それはパコ・デ・ルシアを含むスーパーギタートリオのLP、
「フライディ・イン・サンフランシスコ」で、いうなればフュージョン系のギターだった。
このLPでパコのギターに惚れ込んだ私は、彼の過去のレコードや新作を聴きあさり、
たしか「シロッコ」ぐらいまではパコばかり聴いていた。
だから、34歳でフラメンコ舞踊を習うまで、
私にとっては「フラメンコ=パコのギター≒音楽」だったのだ。
わわっ。
あれから、もう18年もたとうとしてるぢゃないですかっ!
……それはともかく、もろもろをすっとばすと、
今、私にとってのフラメンコは何かっていうと、カンテなんですね。
ギターも、もちろん舞踊も大好きだけど、
結局のところ、“フラメンコのしるし”が最もストレートに感じられるのは、
カンテ――しかも、どちらかといえばプーロな、古いタイプの唄なんです。
しかし、最初から古い唄を聴くのが好きだったわけではもちろんない。
だって、おじーさんたちの唄って、何言ってるかわからないし、
ギターも単純だし、どこが面白いのかさっぱりで。
でも、不思議なことに、ずっと聴き続けていたら、
ある日、ほんとに突然、唄やギターが胸の中に飛び込んできて、
ポロポロと涙がこぼれるという体験を、何度もするようになった。
ほとんどはカンテだ。
マヌエル・アグヘータ、アウレリオ・セジェス、ランカピーノ……
最近は、もっと古いところで、
ニーニョ・デ・グロリアのファンダンギージョにやられて、
もうね、死ぬかと思った。
こんなの生で聴いたら、ほんとに死んでもいいぐらいに震えた。
で、今日なんだけどね、アクースティカに注文して届いた2枚のCDを聴いてたわけです。
最初に聴いたのは、大好きな
ラ・マカニータの「ソロ・ポル・エソ」。
これ、アクースティカの紹介にあるように、
「現代的なモダン・アレンジの曲と、アレンジなしの伝統的なカンテ・プーロの曲」が、
入れ子状態に構成してある。
マカニータは好きだから、どっちもいいと思うけど、
やっぱり、プーロな曲のほうをじっくり聴きたいと思っちゃう。
7年前の彼女の前作も、同じような感じの構成だったけど、
初めて聴いたときはモダン・アレンジのほうが気に入って、
かなり長いこと、口ずさんでいたと思う。
今でもナナで時々聴いてるけど、
次第にプーロなほうがもっと聴きたくなってきて、出番は少なめ。
前作と新作のプーロなのだけ、自分で編集しちゃおっかな。
で、今日、次に聴いたのが、
サンティアゴ・ドンダイの「モロンゴ」。
いやー、いきなりギター無しのソレア、シギリージャ、いいですね!
だみだ、すっかり聴き入ってしまって、仕事が手につかず。
聴き終わったら、なんだかもっと古いのが聴きたくなって、
おじーさんたちのアンソロジー、
「アルカラ・デ・グアダイーラ・エン・ラ・イストリアル・フラメンコ」を聴き、
相変わらず何言ってるかわかんないフアン・タレガの声に、
「すげー!」なんて一人叫んで喜んでいる日曜の昼下がり。
ふむ。
つまり、何が言いたいのかってぇと、
フラメンコって、よさがわかるまでに時間がかかるんじゃないかなってこと。
「素人にもわからなければ、本物じゃない」という理屈は一理あるけど、
「本物にたくさん出会っていなければ、本物のよさはわからない」と思うのです。
私なんかは勉強のつもりじゃなく、ただ好きなものだけ聴いてるけど、
おそらく、新人公演に出るようなカンテ好きな人々は、
たくさん聴いてるんだろうなと想像してるわけ。
でも、それで“耳が拓かれて”、違いがわかるようになって、
“フラメンコのしるし”が唄ににじみ出てくるようになるまでには、
おそらく、相当に長い時間が必要だろうなと。
そんなわけだから、唄う人も聴く人も、
短期間でどうこうしようと焦らずに、
ここはひとつ、長いスパンでカンテと付き合っていきましょうよ。
なんてこと、いま思ってる。
【本日の反省】
本日のタイトルは、演劇のmy師匠、竹内敏晴の名著『ことばが劈(ひら)かれるとき』(思想の科学社 1975年/ちくま文庫 1988年)からパクリました。師匠、ごめんなさーい!