ヴェネツィア本島から船で一時間ほどの潟のなかに、トルチェッロという名の小さな島がある。すぐ手前のブラーノ島が、鮮やかに塗り分けられた家々とヴェネツィアレースで多くの観光客を集めているにもかかわらず、そこから船でわずか5分のその島を訪れる人は多くはない。
冬ならなおさら。灰色の空とくすんだ暗緑色の海の間に溶ける潟の向こうの島には、わだかまるような時間の流れしか感じられず――まるで遊園地のように可愛らしいブラーノの家を見た目には、トルチェッロ島の影は寂しすぎるのかもしれない。
船着き場から伸びる道はたった一本。運河沿いに島の奥へと続いて行く。
同じ船から降りた何人かは、いつの間にか視界からいなくなって。猫だけが遠くから、通り過ぎるわたしをじっと窺う。口笛を吹くと迷惑そうに背中を向け、友達になる気はないらしい。それでもすぐ逃げられるように身構えながら、かなり近づくまで動かないのは、餌を持っているのではないかと期待してのことか。
小さな島の小さな運河は、運河というより単なる掘。流れは微かで、時が止まったようなこの島には相応しい。小さな家。小さな橋。場違いに洒落たレストランも一、二軒あるけれど、季節外れの今は客の影もない。静かだ。静かで寂しい。ここが昔この地方の中心都市で、万を超える人々が住んでいたことは伝説の類としか思えない。
その頃の唯一の名残りはサンタマリア・アッスンタ聖堂――わたしが目的とする場所だ。当時の繁栄を示して、島とは不釣り合いに大きなバジリカ式の聖堂は、ブラーノ島からもその姿を望むことが出来る。聖堂と塔と。起伏のない島のランドマーク。島に着いたら、船着き場から聖堂まで、その塔を目指して歩けばいい。
聖堂内に踏み入れた足が止まる。目が見る前に、その場所の空気が何かを感じさせる。ここにあるのは何か。わずかに狼狽えて周囲を見回す目に映るのは、黄金の中空に浮かんだ青い聖母。
聖母は最初から圧倒的に迫って来るわけではない。至聖所は、そのモザイクが作られたという12世紀よりはずいぶん時代が下った頃の板絵に視線を遮られ、入口からはストレートには見渡せない。それでも黄金の鈍い輝きに誘われて足は自然にそちらへ近づく。意志ではない、誘われるように足が動く。
聖母は黄金の天に浮かぶ。深い藍色の衣をまとって。細身の優美な姿は、しかし果敢なさや弱さとは無縁だ。若く美しく凛とした世界の母。しっかりと幼子イエスを抱き、足を踏みしめて立つ。全ての人が彼女の前に頭を垂れ、守護を祈り、賛美する。ここにいるのは全世界を統べる宇宙の聖母。
わたしは祈りを呟いていた。一生に一つの願いをこの聖母に――願うに足る確かさを感じさせる。
きっと願いはかなう。
水が低い場所へと流れ、木が光の方向へ枝を伸ばすのと同じように自然にそう思えた。信じる努力でも熟考の結果でもない。“真に然り”という心で祈ることが出来る。信じる時の安らぎは、宗教者ではないわたしが初めて感じたものだった。
いつまでもいたいけれどそういうわけにもいかない。入口に人の気配がしたのを機会に帰り支度を始める。名残り惜しく堂内を見まわせば、天井は船底を思わせる木組み。海がここまで来ている。そう思いながら聖堂を出る。もう来ることはないかもしれない。急ぐ旅行で立ち寄るには遠い島だから。
だがこの聖母はきっといつまでもわたしの傍にいてくれる。島を出て、地球の反対側に戻ってもきっと。
来た道を船着き場でゆっくりと帰る。出来る限りのことを覚えておくために、辺りを見回しながら。どんなに遠く離れても、二度と来ることがなくても、この場所が世界にあると思うだけで幸せになれる土地がある。トルチェッロ島はそんな場所の一つ。心にまた小さな明かりが灯る。
冬ならなおさら。灰色の空とくすんだ暗緑色の海の間に溶ける潟の向こうの島には、わだかまるような時間の流れしか感じられず――まるで遊園地のように可愛らしいブラーノの家を見た目には、トルチェッロ島の影は寂しすぎるのかもしれない。
船着き場から伸びる道はたった一本。運河沿いに島の奥へと続いて行く。
同じ船から降りた何人かは、いつの間にか視界からいなくなって。猫だけが遠くから、通り過ぎるわたしをじっと窺う。口笛を吹くと迷惑そうに背中を向け、友達になる気はないらしい。それでもすぐ逃げられるように身構えながら、かなり近づくまで動かないのは、餌を持っているのではないかと期待してのことか。
小さな島の小さな運河は、運河というより単なる掘。流れは微かで、時が止まったようなこの島には相応しい。小さな家。小さな橋。場違いに洒落たレストランも一、二軒あるけれど、季節外れの今は客の影もない。静かだ。静かで寂しい。ここが昔この地方の中心都市で、万を超える人々が住んでいたことは伝説の類としか思えない。
その頃の唯一の名残りはサンタマリア・アッスンタ聖堂――わたしが目的とする場所だ。当時の繁栄を示して、島とは不釣り合いに大きなバジリカ式の聖堂は、ブラーノ島からもその姿を望むことが出来る。聖堂と塔と。起伏のない島のランドマーク。島に着いたら、船着き場から聖堂まで、その塔を目指して歩けばいい。
聖堂内に踏み入れた足が止まる。目が見る前に、その場所の空気が何かを感じさせる。ここにあるのは何か。わずかに狼狽えて周囲を見回す目に映るのは、黄金の中空に浮かんだ青い聖母。
聖母は最初から圧倒的に迫って来るわけではない。至聖所は、そのモザイクが作られたという12世紀よりはずいぶん時代が下った頃の板絵に視線を遮られ、入口からはストレートには見渡せない。それでも黄金の鈍い輝きに誘われて足は自然にそちらへ近づく。意志ではない、誘われるように足が動く。
聖母は黄金の天に浮かぶ。深い藍色の衣をまとって。細身の優美な姿は、しかし果敢なさや弱さとは無縁だ。若く美しく凛とした世界の母。しっかりと幼子イエスを抱き、足を踏みしめて立つ。全ての人が彼女の前に頭を垂れ、守護を祈り、賛美する。ここにいるのは全世界を統べる宇宙の聖母。
わたしは祈りを呟いていた。一生に一つの願いをこの聖母に――願うに足る確かさを感じさせる。
きっと願いはかなう。
水が低い場所へと流れ、木が光の方向へ枝を伸ばすのと同じように自然にそう思えた。信じる努力でも熟考の結果でもない。“真に然り”という心で祈ることが出来る。信じる時の安らぎは、宗教者ではないわたしが初めて感じたものだった。
いつまでもいたいけれどそういうわけにもいかない。入口に人の気配がしたのを機会に帰り支度を始める。名残り惜しく堂内を見まわせば、天井は船底を思わせる木組み。海がここまで来ている。そう思いながら聖堂を出る。もう来ることはないかもしれない。急ぐ旅行で立ち寄るには遠い島だから。
だがこの聖母はきっといつまでもわたしの傍にいてくれる。島を出て、地球の反対側に戻ってもきっと。
来た道を船着き場でゆっくりと帰る。出来る限りのことを覚えておくために、辺りを見回しながら。どんなに遠く離れても、二度と来ることがなくても、この場所が世界にあると思うだけで幸せになれる土地がある。トルチェッロ島はそんな場所の一つ。心にまた小さな明かりが灯る。