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フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

ゲオルグ・ショルティ - シカゴ妄想 (IV)

2005-04-03 17:31:28 | 自由人
(Solti on Solti 続き)

Chicago の章を読見直してみた。まずトランペットの名手 Adolph Herseth の名前が目に入る。éminence grise として出ている。彼の名前は、オーケストラでトランペットをやっていた学生時代を懐かしさとともに呼び起こしてくれた。フィラデルフィア、シカゴ、クリーブランドのブラスセクションによる当時名盤といわれたジョバンニ・ガブリエリ (Giovanni Gabrieli) のレコードを通して知ることになったのだ。素晴らしい演奏で、その甘さと張りのある響きの先には無限の未来が広がっているように感じたものだ。今アマゾンにある抜粋を聞きながら書いているところ。

トランペットといえば、フィラデルフィアのトップとも居酒屋に行ったことがあるし、ニューヨークフィルのトップをやっていた Vacchiano さんとも呑みに出たことを思い出す。

ショルティが行った当時(1969年)のシカゴの街は「眠れる森の美女」という感じであったという。しかし翌年に、John Hancock Center が建ち、以後次々にビルが聳えて行ったようだ。シカゴ饗(CSO)も同様で、着任時はモラルも低くどうなるかという感じであったらしい。最初は3年契約終了後別のところに行こうと考えていたようだが、終わってみれば22年にわたるCSOとの共同作業。愛着もひとしおだろう。

CSOの歴代指揮者の懐かしい名前が出てくる。アルツール・ロジンスキー (Artur Rodzinski)ラファエル・クーベリック (Rafael Kubelik)フリッツ・ライナー (Fritz Reiner)ジャン・マルティノン (Jean Martinon)。この中ではライナーが長かったらしいが、困ったことにしょっちゅう首切りをやっていたらしい。ショルイティが来た時には、団員が解雇を恐れていたらしい。やがて団員との信頼関係も確固たるものになり、彼が去る時には世界一のアンサンブルと自負できるところまで仕上げてしまった。

しかしシカゴに対する彼の思いは、どこか距離があるようだ。中に入っていくというよりは遠くから眺めているといった風情である。22年のほとんどをホテル暮らしで通し、住むことは一度もなく、公演が終わるとすぐにヨーロッパに戻るという関係だったようだ。それは死亡記事にも触れられている。

20年以上前に、彼のCSOをカーネギーホールで一度だけ聞いたような記憶があるが、確実ではない。ロリン・マゼールのクリーブランド饗だったかもしれない。近い将来、CSOをまた聞いてみたいものである。

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ゲオルグ・ショルティ - シカゴ妄想 (III)

2005-03-30 00:10:39 | 自由人
Solti on Solti (続き)

彼のサイトを覗いてみると、冒頭に次の言葉が飛び出した。

«My life is the clearest proof that if you have talent, determination and luck, you will make it in the end : NEVER GIVE UP. » 

勇気付けられる言葉である。しかし、成功の条件に「才能」を入れているところがいかにもショルティらしく(変な謙遜はない)、「運・鈍・根」とは似ているが非。彼の指揮に見られる執拗さ « ténacité » 、激動の人生などを思い起こさせる言葉でもある。幾つになっても、自らに厳しく向き合い努力を積み重ね、激しく生きてきたことは、この本を読むとよくわかる。音楽家は生涯現役が可能なので、ある意味羨ましくも思う。

彼の見たシカゴは、次回以降になりそうだ。

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ゲオルグ・ショルティ - シカゴ妄想 (II)

2005-03-29 00:10:42 | 自由人

Solti on Solti (続き)

それから、2度目の奥さんになる Valerie との劇的な出会いがある。当時、スイスで一緒になり 20 年余り連れ添った Heidi と別居中であったが、ニューヨークのビジネスウーマンとの短い出会いの後、ロンドンでその出来事は起こった(テレビでは 2 人がこのドラマを再現していたように思う)。

A few months later, in September 1964, Valerie Pitts, a young journalist and television personality, came to the Savoy to interview me for the BBC. As usual, I was a little behind schedule, and I had to shout, from the shower, “Wait a moment, I’m not dressed.” I eventually came to the door, in my bathrobe and asked Valerie to help me find my socks, which I had mislaid. I think we both fell in love within minutes. After the interview, I invited her to lunch, and a passionate love affair began. We very soon decided that we wanted to liver together, but we were both married. Understandably, the situation created great difficulties not only with her husband but also with her parents, who at the time did not approve of her love affair with a man twenty-five years her senior – nearly their age – and still, technically, married. She wanted to end everything, but I would not let her go; I pursued her ruthlessly.

…..Valerie and I married on 11 November 1967―Armistice Day.

(数か月後の1964年9月、若きジャーナリストでテレビ・パーソナリティのヴァレリー・ピッツがBBCの私のインタビューのためにサヴォイ劇場まで来た。いつものように私は少し時間に追われていて、シャワーから「少し待ってください。服を着ていないので」と叫ばなければならなかった。そして浴衣のままドアまで行き、ヴァレリーにどこかに置き忘れた私の靴下を探すようにお願いした。二人ともすぐに恋に落ちた私は思っている。インタビューの後、私は彼女を昼食に誘い、情熱的な情事が始まった。すぐに一緒に住みたいと思うようになったが、二人とも結婚していたのだ。当然のことながら、彼女の夫だけではなく、彼女の両親にも大きな問題を齎すことになった。当時、彼女の両親は彼らと同年代の25歳も年上の男との実際には結婚しているような情事は認められないものであった。彼女はすべてを終わらせたいと望んでいたが、私は彼女を離したくなかったので執拗に追うことになった。・・・ヴァレリーと私は1967年11月11日、第一次世界大戦休戦記念日に結婚した)

彼が55歳の時のことである。

次に、1970年ロイヤルオペラとのドイツ・ツアーの最中に起こった忘れられない出来事。

… while the company was in Berlin, Valerie gave birth to a baby girl, and I made a special trip back to London to see Gabrielle a few minutes after she was born. At the age of fifty-seven I had become a father, and when I held the baby in my hands I felt I was looking into my mother’s eyes again. Three years later, a second daughter, Claudia, was born. The existence of these two dear creatures, who came into my life when I was old enough to be a grandfather, altered me profoundly, I cannot be grateful enough to Valerie and to my God for giving me so much joy with these two wonderful girls.

(・・・ベルリンで公演している時にヴァレリーは女の児を産んだ。私は生れてすぐのガブリエルを見るためロンドンに特別に戻った。57歳にして私は父親になったのだ。私がその赤ん坊を抱いた時、再び私の母の目を覗くように感じた。3年後、二人目の娘クローディアが生れた。もうお爺さんでもおかしくない老齢になって私の人生に現れたこの二つの愛しい存在は私を深く変えることになった。二人の素晴らしい女の子によってこのような悦びを私に齎してくれたヴァレリーと私の神にはどんなに感謝してもし尽くすことはできない)

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ゲオルグ・ショルティ - シカゴ妄想 (I)

2005-03-27 08:24:42 | 自由人

これまで何度か読み直した本の中に、ゲオルグ・ショルティ Sir Georg Solti (1912-1997)  の85歳を記念して出された « Solti on Solti : a memoir » (Vintage, 1998) がある。この本が出されてすぐに亡くなっている(自身の人生にある意味付けをしたところだったのではないだろうか)。読むきっかけは、彼がまだ存命中、劇的な放浪の人生を振り返るテレビ番組を見て感動したからだろう。この番組のもとになった本で、音楽界の噂話がふんだんに盛り込まれているので、興味を失うことなく読み進むことができた。今回再び思い出したのは、最近の「シカゴ妄想」のせいである。彼が世界一流のオーケストラに育て上げたシカゴ響でどんなことがあったのか、シカゴにどんな思いを持っていたのかなどを確認したくなったためだろう。

シカゴの前に、心揺さぶられる父親との別れのシーンから。

 On 15 August 1919, at the age of twenty-six, I said goodbye to my mother and sister, picked up a little suitcase containing a pair of shoes, some clean shirts and underpants, and my Harris Tweed suit from London, and with my father took the train to Budapest’s Western Railroad Station. My father was the mildest, sweetest man imaginable. He had never scolded me or denied me anything. I was the light of his life, and he cared more about me than about anything else in the world, just as I now feel about my own daughters. I loved him, too, but was not as devoted to him as he was to me. (I now understand, as a parent, that children can never love their parents as much as their parents love them.)

(1919年8月15日、26歳の時、私の母親と妹に別れを告げ、靴、きれいなシャツ、下着、それにロンドンのハリス・ツイードの背広が入った小さなスーツケースを持ち、父親と一緒に汽車に乗りブダペストの西駅へ向かった。私の父親は非常に穏やかで優しい人だった。一度も私を怒ったことはないし、私のやりたいようにやらせてくれた。私は彼の人生の光で、私が自分の娘に感じているように世界のどんなものより私を大切にしてくれた。私も父を愛していたが、彼が私に対したものには及ばなかった [今、一人の親になってわかることだが、親が子供を愛するほどには子供は親を決して愛せないものである]。)

When we got to the station, we stood on the platform, chatting, as the train arrived. Just as I was about to climb aboard, my father began to cry. I was very embarrassed. “Why are you crying?” I asked him. “Look, can’t you see I’m only taking this one little suitcase? I’m coming back in ten days’ time!” But it was as if he knew with certainty we would be parted forever.

(駅に着いてホームに立って話していた時、汽車が入ってきた。私が乗り込もうとした丁度その時、父親が泣き始めた。私は本当に困ってしまって、父親に聞いた。「どうして泣いているの?この小さなスーツケースを持って行くだけなのがわからないの?あと10日くらいで帰ってくるから」 しかし、父親はもう永久に離れ離れになってしまうことを確信しているようだった。)

The sight of his tears and the harsh tones of my voice have haunted me ever since. I have never forgiven myself for my abruptness. I was never to see him again.

(父親の涙と私が激しい調子で父親に対したことが私の心から離れない。私のつっけんどんな態度を許すことはなかった。父親にはもう二度と会うことはなかった。)

コメント (2)
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