作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 ボクの8月15日 】

2011-08-16 10:50:55 | 02 華麗な生活

一日遅れになったが、ボクの昭和20年8月15日の
想い出を書いておく。

旧満州国奉天駅の駅前広場には、早朝から大連方面
に南下する列車
の座席を求める人々が群れていて、
その長い列の中に小五のボクもいた。傍らには4歳の
弟が居たが、両親は居なかった。親族とか親しい人も
誰も
居なかった。

暑い日であった。持参した水筒の水がすぐに汗になり
水筒はカラになる。
ボクは弟の身体がいつまで炎天下
に耐えるかを気にしていた。

何千人の単位で駅前広場に集まっていた人々の間
から、正午に天皇陛下
の玉音放送があることを知ら
された。広場にも取りつけられたマイクを通じ、
初めて
聞く陛下のお言葉は、ザーザー、ギーギーの雑音で
良く聴きとれず、
周囲の大人たちの間から、二つの
対立する意見が聞こえていた。

耐え難きを耐えろと仰ったから戦争は継続だ。
その声に反発するように、
日本は戦争に負けたんだと
する声があり、時間の経過とともに敗戦説が
支配的に
なっていった。

ボク等兄弟に行くべき場所はなかった。
直前の8月9日未明にソ連が日本に宣戦布告して、
満州との国境を
越えてソ連軍の侵入があった。
新京にも開戦以来初めての空爆が
あった。

40歳になった父が軍隊に徴兵されたのは、その年の
6月の
ことであった。弟は病の連続で、殆ど家に居らず
病院に居る方が
多かった。
ボクの学校も夏休みに入っていた。母は父が出征した
家に
留まることを嫌がり、病弱の弟のために一家を
挙げて近くにあった
赤十字病院に入院を決めた。

36歳の母にも、小さな
悩みがあったらしかった。
首筋にしこりがあるのを長年気にしていたのだった。
入院当日の8月1日に「簡単な手術で、すぐに終わり
ます」筈だった母は、
その手術が失敗して出血多量
で、ボクの目の前で息を引き取ってしまった。
結果としてソ連軍進入の8日前のことになる。

ソ連軍と睨みあう最前線に配置された父には連絡が
取れなかった。
母の葬儀は隣近所の人々や、父の
会社の関係者の手によって行なわれ、
遺骨となって
小さな箱に詰められてしまった。

それからの数日をどうやって
過ごしたのかの記憶が
飛んでいる。
9日早朝の初めて体験する空爆の
時は、学校で教え
られていたように、弟と二人で押入れに入り耐えていた。
玄関のベルが鳴り、出てみると見慣れぬ髭面の兵隊
が立っていた。
それが父だった。
8月9日のことだったから、既に日ソの最前線は戦闘
状態
になっている。そんな部隊に配属されていた父が
何故目の前に立っている
のだろう。

1日に死去した母の死の報が父の部隊に知らされた
のが8日の
正午過ぎで、中隊長命令で、その日の間
に新京への一時帰宅命令が出た
のだとは後になって
知ったこと。
大急ぎで髭を剃り落とした父は、すぐに外出
し、その
翌日にかけて、北朝鮮に向う疎開列車の座席を二名
分抑えてきた
と得意げに言った。

何で北朝鮮なんだよ。ここ新京こそが関東軍の司令部
がある全満州で最も安全な場所じゃないか。
まず病身の弟をどうするんだ。
夕方になれば発熱し、毎日下痢に悩んでいる弟の
下着や、半パンなども
自宅に居てこそ、タンスの引き
出しの中に替えの用意がある。

ボクの抵抗に、父は軍隊生活で更に鍛えた腕で殴る
ことで答えを出し、
黙ってトランクとボストンバッグに
ボク等の替え着などを詰め込みはじめた。

そして11日の朝早く、ボク等は屠所に引かれる子牛
の思いで、新京駅へ
連れて行かれ北朝鮮行きの列車
に乗せられてしまった。
こうなったら仕方がない。ボクにはその列車が無事に
北朝鮮の鎮南浦まで
行き着くとは思えなかった。
「奉天で降りてやろう」と意を固めていた。

そんな事情があって、ボク等兄弟は天皇の玉音放送
を奉天駅頭で聴いたのだった。



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