科学と宗教の共存

意識の覚醒を通して新たなる領域を書いてみたい。

理性から愛へと意識の拡大を9

2016-04-27 10:40:15 | 日記
政治的なものは、あまり言及しようとは思わないが、いくらかは書いてみたい。
 いわゆる、戦後体制と言われるものだが、敗戦でアメリカの意図により、宗教が否定され、日本人の人格も否定されて、機能的な経済人間ができている。これは儒学的にみれば、志もなく主体性の失われた人間ということである。これではいつも外に流される生き方でしかないので、この当たりの意識改革から変わらねばならないだろう。
 先ずは、和魂洋才という言葉から入っていこう。ネットで検索してみると、日本固有の精神を失わずに、西洋からのすぐれた学問・知識を摂取し、活用すべきであるということ、、とか書いている。
 この視点から戦後体制を捉えようとすれば、それはアメリカが力で押しつけた民主主義であり、かつ日本人の体質にアメリカの悪しき意図を接ぎ木してできてきたものだということ。これによって戦後の日本人が今日存在していると考えてよいのではないか。
 これはひとつの文明実験、和の精神に洋の異なる性質を接ぎ木して、これが成長してどういう結果が今出ているのかという視点で見ると、日本神道の精神が公的な場で否定されているため、体質的には、意識がねじれて、現状、積極的な面よりも消極的な面、いや自虐意識が引き起こされているということである。
 こういう結果ができてしまっているから、そろそろ戦後体制でつくられた古い意識は断ち切って、新しい意識が根付かねば、このままでは日本は衰退し、周辺国から植民地化されて、隷従の道に入ることになる。
 儒学的に考えると、現状、アメリカの従属国であり、日本人としての主体性、志が失われている状態であるから、方向性としては、儒学的な視点を取り入れて、憲法改正、政教分離の考え方を改めて、宗教に基づいた新たな国家像をつくることから始まるでしょう。
 現状、政教分離の考えを良しとしているのは、戦争を戦い抜くに当たって国家と日本神道が結びついて他宗教を排撃したことなどもあるためでしょうが、平和な宗教としての仏教を中心にまとまって左翼がつくりあげた宗教の否定的なイメージを変えていく努力は必要でしょう。
 左翼思想は自虐意識と結びついているので、平和を美化して語る言動には注意しなければならない。悪の性質や人間の弱さが分かると、平和にしがみついてしまうということは、むしろ逆に戦争を引き寄せてしまうということが分かるのだ。人は善人だけではない。弱い所には、悪が侵入してくるのだ。
 左翼思想が強いと、中国等の力が侵入してくる。もし、植民地化されると、日本人は奴隷のような状態に落とされてしまう。今の中国の人権抑圧をみれば、これ以上の悪しきことが起こるのは確実である。左翼思想、社会主義、共産主義などの思想が広がると、人間を隷従化してその中に人々を囲ってしまうから、気を付けなければならない。
 これに対して、イエス様の愛の教え、仏教などは、それを受け入れると、各自の視野が広がり、自己拡大していくなど、全く対照的なのである。まあ、どちらを求めるかだね。人生を自由に生き生きと生きる、生き甲斐が実感として出てくる生き方を求めるか、主体性もなく知らずに奴隷化されてしまうか、、こうした違いとして結果は出てくるのである。
 先ほどの和魂洋才に戻るが、既に、ここまで西洋的なものが定着してしまっているので、西洋精神の自由、平等、責任、民主主義などの良い面はそのまま生かし、仏教、儒学、日本神道などこれまでの日本人をつくってきた体質をも生かしなが、新たなる日本人像をつくらなければならない時期に来ているといえる。
 例えば、自由、平等は、西洋の身分制社会という古い秩序を打破する中で、新しい人間像として出てきたものでしょう。古い鎖に繋がれた人間を白紙の状態から自由平等の人間を再構成してという考え方が大きな影響を与えているのであるが、今の日本も、ある意味、似たような混とんとしている状況にあるのかもしれない。
 元々、平等とは神の創造としての人間という意味での平等であり、キリスト教からきている。これが新たな西洋の人間像、自由平等である人間として再構成されて登場し、民主主義、資本主義を動かす理性の人間が成長して、社会秩序の基礎となっている。
 しかし、この西洋型の自由平等も既に行き過ぎている状態なので、儒学的な視点からいくらか修正して新たな人間像を考えることが必要でしょう。
 つまりこう考えることができる。西洋の自由平等は、政治的な力と力の対決、支配する側とされる側の対立の中から出てきているので、どうしても、背景、土壌に対立的な要素を帯びている。マルクス主義の革命と暴力などはその最たるものでしょう。
 こうした性質をもつ自由平等をどう修正するかというと、ここは儒学的に、平和的に考えると外側の人間関係ではなく、人間関係を通して我を磨く、人格を高める、、こうした内側の面から自由を考えるのである。切磋琢磨としての競争はあるが、力と力の対決等の要素ではなく、自分を磨く中で自由を行使する人間である。こう考えると、責任も自ずと内側から自分を律する意味での責任が出てくる。
 外側に向かう力や自己主張で責任を押し付ける行き方を矯めて、各自の内面を充実させて出てくるものがあるので、内面を律する責任と自己主張のバランスを考えて行動する人間をつくることでしょうか。
 現状は何か起こると、責任の押し付け合いとなる。あるいはだれも責任が取れない。希薄化しているともいえる。自分が悪いと素直に謝ると、責任は全部取らされてしまうので、それはできないとなる。裁判沙汰を考えると、そうなってくる。
 昔は、交通事故を起こすと、相手に菓子折りをもって謝罪したりもした。それで沈んだ気持ちも晴れてくるし、水に流して心のわだかまりも取れたりした。
 しかし、今は、それができないでしょう。心の問題で取り扱うのではなく、理性の問題、外側の基準で取り扱うので、変わってしまったのである。まあ、どちらがいいのか、ストレートに言い合って白黒つけるのがいいのか、、どちらも一長一短があるから、ほどよさがどのあたのか、、。こうなると、西洋の理性の論理、裁判的な白黒決着タイプがいいのか。これが日本人に体質的に合うのかどうか。白黒決着よりも和解が多いらしいから、この辺は日本的な面がまだあるのでしょうね。
 最大の課題は、現行憲法の政教分離の規定でしょうか。もうこれは、いつまでもこれにしがみついていてもだめでしょう。宗教を否定して小さな人間になってしまうのではなく、宗教を勉強して、良いと思われるものはどしどし取り入れて、生活を充実していく、学校の勉強と宗教を上手に結びつけていくと、新しい発見が出てくる、それもいつも意識していると、いつも新たな発見が出てくるようになったりする。
 宗教の中に人間を幸福にし、社会を発展させる力、知恵、推進力があると気づかねばならないということです。
 宗教が正しく理解できれば、充実した人生、生き甲斐、視野の拡大、新しい発見、感動が出てくる。しかし現状、左翼思想により宗教のイメージが汚されてしまっているので、宗教嫌いが定着して、心が曇らされている状態にあるといえる。
 宗教を政治から切り離すのではなく、肯定して受け入れることから真なるものが出てくる。真の宗教は人を幸せにする。いろいろの宗教があり、おかしなものも宗教と語ったりしているので、区別がつかないためよく分からないとなり、迷うところはある。良い宗教と誤っているものとの区別が付かないから結局は否定してしまうのでしょう。そういう眼、善悪を見分ける眼を持つことも必要でしょう。
 戦後体制でつくられたひずみのある意識、唯物的・無神論的にものごとを考える行き方から抜けて、自分自身の中に新しい意識をつくらなければならない時がきているということです。
 

理性から愛へと意識の拡大を8

2016-04-26 08:29:33 | 日記
 前回、分かりやすいと思われる五つの関係、<我、もの><我、人><我、神>(我、心)(我、愛)を考えてあれこれ書いてきたが、ただ、これだと、マイナス領域が出てこないので、日本の現状を理解しようとすれば、五つの関係では不十分である。
 波動として考えると、これらの関係はプラスの波動、、各自の認識が深まるにつれて、視野が広がり、自己拡大していく性質をもっている。ただ、<我、もの>の領域はどちらかというと、プラスマイナスどちらにも転ぶ可能性が大きい。つまり、科学の発展が人間の幸福につながる面と悪用されて不幸を生む面があるので、エネルギー的には、プラスマイナスゼロに近いと言えばよいのかもしれない。
 ということで、五つの関係はプラスマイナスゼロからプラスの波動の世界を整理したものと考えることができる。それではマイナス波動とは何かとなる。
 これはずばりマルクス主義である。マルクス主義が経済的弱者の視点と結びついて、あるいはそれを利用し踏み台にしているところがあるし、平等が行き過ぎて結果平等の考えが定着していることである。取りあえず、六つ目は<我、平等>の関係として記号で書くことにする。平等であることを重視する考え方とでも言えばよいか。
 平等を重視すると何が出てくるか、、ということである。民主主義の根幹には自由と平等があるが、このふたつは相反する性質、即ち、自由であれば格差が起きてくるから平等でなくなってくると考え、格差を是正しようとする。これが進めば、結果平等、自由の制限と進んで、やがて発展は止まり、衰退して貧しさの平等になっていく。これはやはり避けなければならないので、自由と平等の兼ね合いはどうすべきか。これには仏教の中道、儒教の程よさがどこにあるかといった視点でコントロールすべきものとなってくる。
 考え方としては、基本的に自由であることを前提にして、格差はどの程度まで許すべきか、そしてこれに国家はどこまで介入すべきなのかということである。今の政府は野党と変わらず社会主義化してきているのでね、、。
 日本の現状は、マイナス波動が全体を覆っていて、神のご意志が現れる環境になっていない。この意味では、<我、平等>の関係から出てくるマイナス環境のみならず、経済的、科学的にも停滞している。否、崩壊の道を進んでいるとさえ感じている。
 この原因を考えると、第二次大戦の敗戦、東京裁判、宗教否定、、ここに行き着く。日本は悪い国であるというレッテルを張られて、それを素直に受け入れて今も自虐意識に陥っている。これを左翼思想が率先して広げてきたから、今は中国や韓国がこれを世界に増幅して広げているため、未だ立ち直れていないのである。
 日本は自信を喪失している状態なのだ。これは国民が宗教否定しているからだ。それ故、まず宗教を肯定して、憲法にある政教分離規定を止めて、宗教を政治の中に肯定的に受け入れるかたちに改めなければならない。ここにはアメリカの隠れた意図(日本軍は強すぎたので、復讐を恐れて、日本を骨抜きにしなければならないと考え、宗教を政治の場から追放したのである。)があり、今もってマインドコントロールされていると言える。
 単純化すると、第二次世界大戦での敗戦、東京裁判とそこに隠されたアメリカの意図、宗教否定、日本悪玉論、左翼思想の広がり、教育の左翼化、自虐意識の定着、中国、韓国の悪しき意図、、と増殖している。
 憲法にある政教分離規定の考えも大きく影響していて、国民の意識にマイナスの影響を与えている。一般的に考えると、政教分離の考えは、性悪説の民族に合うのではないか。政治と宗教が一体化していると国と国の戦争も宗教と宗教の戦争となり、戦いがいつまでも終わらない。だから、政治から宗教を切り離すと、宗教抜きに経済的な利害の関係での話し合いとなり、その分解決の方法にも幅が出てくるというものだ。日本の場合は、もともと祭政一致の国であるから、政教分離の考え方が体質に合わず、結果として捻じれた考え方をつくりだしてしまい、今の日本をおかしくしてしまっているといえる。
 今では、左翼が率先してつくりだしてきた自虐意識も国民の間に定着して、絶対平和の考え方、平和を唱えていれば、平和は続くと思い込んでいる。これはもう心が委縮してしまっている状態だ。
 何故なら、絶対平和の考えも悪の性質を知れば誤りであると分かるのだ。悪は人の弱い所を見つけては入り込んでくるものだ。平和にしがみ付いている意識は、悪からみると、弱点なのである。騙されないためには、悪を知ることも必要なのだ。
 悪を知らず、周りはみんな善人だと思い込んでいるせいか、振り込め詐欺などは減らないどころか、増えている。
 また、人間は誘惑には弱いのだ。だとすれば悪を助長しないように考えることも必要なのだ。つまり、国際的にも似たようなところがあって、相手国に誘惑を起こさせないよう戦争の抑止のための軍備は必要なのだ。

 マイナス波動の領域をあれこれ書いてみたが、今の日本は正に内憂外患そのもの、滅びの崖っぷちにある状況だと言える。日本の神々が天変地異等を起こして警告しているのもこのためである。
 マイナス波動に覆われている今の日本をプラス波動に転換するにはどうすればよいのか。今年は選挙があるが、野党は自虐的であり、与党も左翼化してきている。自民党もすでに耐用年数が過ぎていて、この現状を直視したくないのか、できないのか。
 教育も政治もどれもそうだが、これまでの古い意識のままでは、日本は立ち直れない。宗教を肯定して、宗教と結びついた教育や政治を考える人が出て来て、危機的な状況の中で大転換をする以外に道はないと思う。
 プラス波動とマイナス波動がこれだけ違うのだと書くつもりで始めたが、マイナス波動に覆われている日本を感じているうちに、追い詰められている日本を書かざるを得なくなってしまった。
 人間を性善説だけで考えると分からないことも多く、反対に性悪説で考えると、なるほどと分かることも多いのであるが、マイナス波動の領域はあまり波動を合わせたくないので、はしょって書いてしまった。 

理性から愛へと意識の拡大を7

2016-04-22 14:39:12 | 日記
 世界の思想、宗教などを読んでみて、何か理解する基準のようなものはないか、考えているうちに、<我、もの><我、人><我、神>(我、心)(我、愛)の関係で考えると、分かりやすいのではないかということで、これに基づいて、いろいろと書いてきた。
 これらの関係を以下に再度単純化して書いてみる。
 <我、もの>学校教育を通して理性が発達するが、ものに囚われた意識の世界ができあがる。
 <我、人>人間関係を通して人格を磨く領域である。
 <我、神>神と共に生きることを通して神の智慧、力などが示される。

 (我、心)仏教で語る心の世界であり、色心不二、三界唯心などの認識が示される。
 (我、愛)世界は愛であり、愛が多様な形に自己顕現している世界などが示される。

 <>の関係は我と対象、あるいは我と神など、、の関係を分離の意識で捉えている。これに対して、()の関係は我と心、愛についての関係を分離ではなく、一体型の意識として理解しなければ開かれてくることは難しいと思われるので、敢えて二種類の関係で現わしている。
 上記の関係はどれも領域は広く深いので、最初の入り方、理解の仕方として単純化して書いている。ここから理解が深まるにつれて、各領域は広がって行くし、繋がってくると考えてよいと思う。
 例えば、<我、もの>の関係から出てくる、客観的、分析的理解、そして科学的な考えが広がり、物質の背後に神の智慧、力を意識する人が出てきても、それはおかしくはないし、その方が科学の発達にとって好ましいものでしょう。
 また、<>()の中にある我、考える主体であるが、例えば<我、もの>の我と(我、心)の我では異なってくる。<>の我は固定的で変わらない存在を意識しているが、()の我は可変的で、認識が深まるにつれて意識、心が自己拡大し始めるために、我と心、我と愛の関係を固定化して考えることはできなくなる。
 <>の関係は粒子性、固定静止型の意識で考えているが、()の関係は波動性であり、我は愛の中に、あるいは心の中に包まれて自己拡大していく性質が出てくる。
 その他、
 儒学を<我、人>の関係で捉えているが、例えば、老荘思想となると、<我、自然>の関係で考えると分かりやすいかも知れない。西洋の人権、自由、責任等の領域は、<我、もの>と<我、人>の中間的な位置づけで考えると分かりやすいかも知れない。あまり広げてもどうかと思うので、この辺で止める。
 
 以上の関係とここから出てくる領域が整理されると、ものごとが分かりやすくなってくる。
 ここで話は飛ぶが、先日、熊本県で大地震が発生した。日本は地震が多い国であるから、地震の活動期にでも入っているのであろう程度の意識であるとすれば、これではまずい。昔から、宗教的にも天変地異は神からの警告として現れるものであり、これを無視していることになるからだ。神戸の大地震、東北の大地震等あちこちで頻繁に起きているが、神の警告が無視され続けている。
 それで無視されてしまう原因はどこにあるかを考えてみたい。結論から言えば、<我、もの>の関係からつくられる領域に意識、心が縛られてしまい、その中に閉じてしまっているからである。同じことをいつも繰り返していると、そのことが固定化、マンネリ化してその中に意識が囚われ、抜けることが難しくなるのである。ものの思考、目に見える思考に縛られて、見えないものを受け入れることができなくなる、考えることができなくなるためである。
 例えば、水素と酸素が反応すると、水ができるし、それを化学では化学反応式で理解する。この理解は、対象を外側から見て理解しているのであり、これを内側から観ると、そこには、創造の智慧、神の創造している智慧の活動があり、これによって反応が起きていると理解することが大切なのである。
 花の種子で考えると、種を植えると、やがて発芽して成長し花が咲く。この成長の過程にも同様に神のご意志、創造の智慧が常に働いているのであり、これによって花開くと理解するのである。
 種子の中に完成品が青写真として備わっていて、神の智慧、力、信念により、それは発芽して成長し、やがて咲出るのである。この考え方は重要であり、これが内側の理解というものである。
 結局、学校で学ぶ理性による理解というものは、外側から見て理性にとって分かるようにつくられている理解であり、これだけでは偏っている理解ということである。
 これが(我、愛)の認識が深まると、内側の理解が広がってくるのであり、いつも内側からものを見ることを心掛けると、そうした内側の領域がいろいろと出てくることとなるのである。
 この視点で天変地異を考えると、そこに神のご意志があるということも素直に受け入れることは可能となる。結局、今この日本という国では、人間の理解、心が神のご意志から離れてしまっていることに天変地異の起きる原因があると言える。日本の神のご意志が現れることができる環境をつくることが各自の努めであろう。
 地震が起きると、専門家がテレビ等で、今回の地震の特徴は直下型で浅いので、、などと外側から見ての説明をする。また、今後の防災対策とかボランティア活動などこれまでの教訓がいろいろと生かされてきているが、神のご意志に気づくことには至らず地震が落ち着くと大体そこで思考も停止してしまう。この繰り返しなので、これだと、人々が気づくまで天変地異は起こるし、規模も大きくなっていくだろう。