政治的なものは、あまり言及しようとは思わないが、いくらかは書いてみたい。
いわゆる、戦後体制と言われるものだが、敗戦でアメリカの意図により、宗教が否定され、日本人の人格も否定されて、機能的な経済人間ができている。これは儒学的にみれば、志もなく主体性の失われた人間ということである。これではいつも外に流される生き方でしかないので、この当たりの意識改革から変わらねばならないだろう。
先ずは、和魂洋才という言葉から入っていこう。ネットで検索してみると、日本固有の精神を失わずに、西洋からのすぐれた学問・知識を摂取し、活用すべきであるということ、、とか書いている。
この視点から戦後体制を捉えようとすれば、それはアメリカが力で押しつけた民主主義であり、かつ日本人の体質にアメリカの悪しき意図を接ぎ木してできてきたものだということ。これによって戦後の日本人が今日存在していると考えてよいのではないか。
これはひとつの文明実験、和の精神に洋の異なる性質を接ぎ木して、これが成長してどういう結果が今出ているのかという視点で見ると、日本神道の精神が公的な場で否定されているため、体質的には、意識がねじれて、現状、積極的な面よりも消極的な面、いや自虐意識が引き起こされているということである。
こういう結果ができてしまっているから、そろそろ戦後体制でつくられた古い意識は断ち切って、新しい意識が根付かねば、このままでは日本は衰退し、周辺国から植民地化されて、隷従の道に入ることになる。
儒学的に考えると、現状、アメリカの従属国であり、日本人としての主体性、志が失われている状態であるから、方向性としては、儒学的な視点を取り入れて、憲法改正、政教分離の考え方を改めて、宗教に基づいた新たな国家像をつくることから始まるでしょう。
現状、政教分離の考えを良しとしているのは、戦争を戦い抜くに当たって国家と日本神道が結びついて他宗教を排撃したことなどもあるためでしょうが、平和な宗教としての仏教を中心にまとまって左翼がつくりあげた宗教の否定的なイメージを変えていく努力は必要でしょう。
左翼思想は自虐意識と結びついているので、平和を美化して語る言動には注意しなければならない。悪の性質や人間の弱さが分かると、平和にしがみついてしまうということは、むしろ逆に戦争を引き寄せてしまうということが分かるのだ。人は善人だけではない。弱い所には、悪が侵入してくるのだ。
左翼思想が強いと、中国等の力が侵入してくる。もし、植民地化されると、日本人は奴隷のような状態に落とされてしまう。今の中国の人権抑圧をみれば、これ以上の悪しきことが起こるのは確実である。左翼思想、社会主義、共産主義などの思想が広がると、人間を隷従化してその中に人々を囲ってしまうから、気を付けなければならない。
これに対して、イエス様の愛の教え、仏教などは、それを受け入れると、各自の視野が広がり、自己拡大していくなど、全く対照的なのである。まあ、どちらを求めるかだね。人生を自由に生き生きと生きる、生き甲斐が実感として出てくる生き方を求めるか、主体性もなく知らずに奴隷化されてしまうか、、こうした違いとして結果は出てくるのである。
先ほどの和魂洋才に戻るが、既に、ここまで西洋的なものが定着してしまっているので、西洋精神の自由、平等、責任、民主主義などの良い面はそのまま生かし、仏教、儒学、日本神道などこれまでの日本人をつくってきた体質をも生かしなが、新たなる日本人像をつくらなければならない時期に来ているといえる。
例えば、自由、平等は、西洋の身分制社会という古い秩序を打破する中で、新しい人間像として出てきたものでしょう。古い鎖に繋がれた人間を白紙の状態から自由平等の人間を再構成してという考え方が大きな影響を与えているのであるが、今の日本も、ある意味、似たような混とんとしている状況にあるのかもしれない。
元々、平等とは神の創造としての人間という意味での平等であり、キリスト教からきている。これが新たな西洋の人間像、自由平等である人間として再構成されて登場し、民主主義、資本主義を動かす理性の人間が成長して、社会秩序の基礎となっている。
しかし、この西洋型の自由平等も既に行き過ぎている状態なので、儒学的な視点からいくらか修正して新たな人間像を考えることが必要でしょう。
つまりこう考えることができる。西洋の自由平等は、政治的な力と力の対決、支配する側とされる側の対立の中から出てきているので、どうしても、背景、土壌に対立的な要素を帯びている。マルクス主義の革命と暴力などはその最たるものでしょう。
こうした性質をもつ自由平等をどう修正するかというと、ここは儒学的に、平和的に考えると外側の人間関係ではなく、人間関係を通して我を磨く、人格を高める、、こうした内側の面から自由を考えるのである。切磋琢磨としての競争はあるが、力と力の対決等の要素ではなく、自分を磨く中で自由を行使する人間である。こう考えると、責任も自ずと内側から自分を律する意味での責任が出てくる。
外側に向かう力や自己主張で責任を押し付ける行き方を矯めて、各自の内面を充実させて出てくるものがあるので、内面を律する責任と自己主張のバランスを考えて行動する人間をつくることでしょうか。
現状は何か起こると、責任の押し付け合いとなる。あるいはだれも責任が取れない。希薄化しているともいえる。自分が悪いと素直に謝ると、責任は全部取らされてしまうので、それはできないとなる。裁判沙汰を考えると、そうなってくる。
昔は、交通事故を起こすと、相手に菓子折りをもって謝罪したりもした。それで沈んだ気持ちも晴れてくるし、水に流して心のわだかまりも取れたりした。
しかし、今は、それができないでしょう。心の問題で取り扱うのではなく、理性の問題、外側の基準で取り扱うので、変わってしまったのである。まあ、どちらがいいのか、ストレートに言い合って白黒つけるのがいいのか、、どちらも一長一短があるから、ほどよさがどのあたのか、、。こうなると、西洋の理性の論理、裁判的な白黒決着タイプがいいのか。これが日本人に体質的に合うのかどうか。白黒決着よりも和解が多いらしいから、この辺は日本的な面がまだあるのでしょうね。
最大の課題は、現行憲法の政教分離の規定でしょうか。もうこれは、いつまでもこれにしがみついていてもだめでしょう。宗教を否定して小さな人間になってしまうのではなく、宗教を勉強して、良いと思われるものはどしどし取り入れて、生活を充実していく、学校の勉強と宗教を上手に結びつけていくと、新しい発見が出てくる、それもいつも意識していると、いつも新たな発見が出てくるようになったりする。
宗教の中に人間を幸福にし、社会を発展させる力、知恵、推進力があると気づかねばならないということです。
宗教が正しく理解できれば、充実した人生、生き甲斐、視野の拡大、新しい発見、感動が出てくる。しかし現状、左翼思想により宗教のイメージが汚されてしまっているので、宗教嫌いが定着して、心が曇らされている状態にあるといえる。
宗教を政治から切り離すのではなく、肯定して受け入れることから真なるものが出てくる。真の宗教は人を幸せにする。いろいろの宗教があり、おかしなものも宗教と語ったりしているので、区別がつかないためよく分からないとなり、迷うところはある。良い宗教と誤っているものとの区別が付かないから結局は否定してしまうのでしょう。そういう眼、善悪を見分ける眼を持つことも必要でしょう。
戦後体制でつくられたひずみのある意識、唯物的・無神論的にものごとを考える行き方から抜けて、自分自身の中に新しい意識をつくらなければならない時がきているということです。
いわゆる、戦後体制と言われるものだが、敗戦でアメリカの意図により、宗教が否定され、日本人の人格も否定されて、機能的な経済人間ができている。これは儒学的にみれば、志もなく主体性の失われた人間ということである。これではいつも外に流される生き方でしかないので、この当たりの意識改革から変わらねばならないだろう。
先ずは、和魂洋才という言葉から入っていこう。ネットで検索してみると、日本固有の精神を失わずに、西洋からのすぐれた学問・知識を摂取し、活用すべきであるということ、、とか書いている。
この視点から戦後体制を捉えようとすれば、それはアメリカが力で押しつけた民主主義であり、かつ日本人の体質にアメリカの悪しき意図を接ぎ木してできてきたものだということ。これによって戦後の日本人が今日存在していると考えてよいのではないか。
これはひとつの文明実験、和の精神に洋の異なる性質を接ぎ木して、これが成長してどういう結果が今出ているのかという視点で見ると、日本神道の精神が公的な場で否定されているため、体質的には、意識がねじれて、現状、積極的な面よりも消極的な面、いや自虐意識が引き起こされているということである。
こういう結果ができてしまっているから、そろそろ戦後体制でつくられた古い意識は断ち切って、新しい意識が根付かねば、このままでは日本は衰退し、周辺国から植民地化されて、隷従の道に入ることになる。
儒学的に考えると、現状、アメリカの従属国であり、日本人としての主体性、志が失われている状態であるから、方向性としては、儒学的な視点を取り入れて、憲法改正、政教分離の考え方を改めて、宗教に基づいた新たな国家像をつくることから始まるでしょう。
現状、政教分離の考えを良しとしているのは、戦争を戦い抜くに当たって国家と日本神道が結びついて他宗教を排撃したことなどもあるためでしょうが、平和な宗教としての仏教を中心にまとまって左翼がつくりあげた宗教の否定的なイメージを変えていく努力は必要でしょう。
左翼思想は自虐意識と結びついているので、平和を美化して語る言動には注意しなければならない。悪の性質や人間の弱さが分かると、平和にしがみついてしまうということは、むしろ逆に戦争を引き寄せてしまうということが分かるのだ。人は善人だけではない。弱い所には、悪が侵入してくるのだ。
左翼思想が強いと、中国等の力が侵入してくる。もし、植民地化されると、日本人は奴隷のような状態に落とされてしまう。今の中国の人権抑圧をみれば、これ以上の悪しきことが起こるのは確実である。左翼思想、社会主義、共産主義などの思想が広がると、人間を隷従化してその中に人々を囲ってしまうから、気を付けなければならない。
これに対して、イエス様の愛の教え、仏教などは、それを受け入れると、各自の視野が広がり、自己拡大していくなど、全く対照的なのである。まあ、どちらを求めるかだね。人生を自由に生き生きと生きる、生き甲斐が実感として出てくる生き方を求めるか、主体性もなく知らずに奴隷化されてしまうか、、こうした違いとして結果は出てくるのである。
先ほどの和魂洋才に戻るが、既に、ここまで西洋的なものが定着してしまっているので、西洋精神の自由、平等、責任、民主主義などの良い面はそのまま生かし、仏教、儒学、日本神道などこれまでの日本人をつくってきた体質をも生かしなが、新たなる日本人像をつくらなければならない時期に来ているといえる。
例えば、自由、平等は、西洋の身分制社会という古い秩序を打破する中で、新しい人間像として出てきたものでしょう。古い鎖に繋がれた人間を白紙の状態から自由平等の人間を再構成してという考え方が大きな影響を与えているのであるが、今の日本も、ある意味、似たような混とんとしている状況にあるのかもしれない。
元々、平等とは神の創造としての人間という意味での平等であり、キリスト教からきている。これが新たな西洋の人間像、自由平等である人間として再構成されて登場し、民主主義、資本主義を動かす理性の人間が成長して、社会秩序の基礎となっている。
しかし、この西洋型の自由平等も既に行き過ぎている状態なので、儒学的な視点からいくらか修正して新たな人間像を考えることが必要でしょう。
つまりこう考えることができる。西洋の自由平等は、政治的な力と力の対決、支配する側とされる側の対立の中から出てきているので、どうしても、背景、土壌に対立的な要素を帯びている。マルクス主義の革命と暴力などはその最たるものでしょう。
こうした性質をもつ自由平等をどう修正するかというと、ここは儒学的に、平和的に考えると外側の人間関係ではなく、人間関係を通して我を磨く、人格を高める、、こうした内側の面から自由を考えるのである。切磋琢磨としての競争はあるが、力と力の対決等の要素ではなく、自分を磨く中で自由を行使する人間である。こう考えると、責任も自ずと内側から自分を律する意味での責任が出てくる。
外側に向かう力や自己主張で責任を押し付ける行き方を矯めて、各自の内面を充実させて出てくるものがあるので、内面を律する責任と自己主張のバランスを考えて行動する人間をつくることでしょうか。
現状は何か起こると、責任の押し付け合いとなる。あるいはだれも責任が取れない。希薄化しているともいえる。自分が悪いと素直に謝ると、責任は全部取らされてしまうので、それはできないとなる。裁判沙汰を考えると、そうなってくる。
昔は、交通事故を起こすと、相手に菓子折りをもって謝罪したりもした。それで沈んだ気持ちも晴れてくるし、水に流して心のわだかまりも取れたりした。
しかし、今は、それができないでしょう。心の問題で取り扱うのではなく、理性の問題、外側の基準で取り扱うので、変わってしまったのである。まあ、どちらがいいのか、ストレートに言い合って白黒つけるのがいいのか、、どちらも一長一短があるから、ほどよさがどのあたのか、、。こうなると、西洋の理性の論理、裁判的な白黒決着タイプがいいのか。これが日本人に体質的に合うのかどうか。白黒決着よりも和解が多いらしいから、この辺は日本的な面がまだあるのでしょうね。
最大の課題は、現行憲法の政教分離の規定でしょうか。もうこれは、いつまでもこれにしがみついていてもだめでしょう。宗教を否定して小さな人間になってしまうのではなく、宗教を勉強して、良いと思われるものはどしどし取り入れて、生活を充実していく、学校の勉強と宗教を上手に結びつけていくと、新しい発見が出てくる、それもいつも意識していると、いつも新たな発見が出てくるようになったりする。
宗教の中に人間を幸福にし、社会を発展させる力、知恵、推進力があると気づかねばならないということです。
宗教が正しく理解できれば、充実した人生、生き甲斐、視野の拡大、新しい発見、感動が出てくる。しかし現状、左翼思想により宗教のイメージが汚されてしまっているので、宗教嫌いが定着して、心が曇らされている状態にあるといえる。
宗教を政治から切り離すのではなく、肯定して受け入れることから真なるものが出てくる。真の宗教は人を幸せにする。いろいろの宗教があり、おかしなものも宗教と語ったりしているので、区別がつかないためよく分からないとなり、迷うところはある。良い宗教と誤っているものとの区別が付かないから結局は否定してしまうのでしょう。そういう眼、善悪を見分ける眼を持つことも必要でしょう。
戦後体制でつくられたひずみのある意識、唯物的・無神論的にものごとを考える行き方から抜けて、自分自身の中に新しい意識をつくらなければならない時がきているということです。