マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

東武皇帝はご存じですか?

2013年06月23日 06時05分10秒 | 世界の支配者の研究
以前に、一番最初に日本を支配した縄文王朝はオロチョンとかツングースと呼ばれるバイカル湖周辺から南下した民族だったと書いた。彼らは黒曜石の交易を得意とする今でいうなら武器商人だった。十三湊を拠点としたが、首都は仙台だったという。この部族と紀元前5000年には日本にもやってきたと言われるドルイド部族とは侵入経路が違い、今のところそのあたりの確証は得られていない。S氏に聞いたら?いやいや、自分で調べることは自分でやらなくっちゃね・・・。

このことを頭に入れ、先日お勉強した久邇宮家に話を戻す。
日朝合同朝廷のやんごとなき血流の話の続きである。まずは、私がコメント欄に書いた内容をもう一度下に記します。

「久邇宮朝彦親王  伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮。奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。嘉永5年(1852年)、青蓮院門跡門主の座に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。後には天台座主にも就く。公家社会に隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務めるなどした。かつて天台座主を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られる。

梨本宮守正王  久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。このため、実際には3代目であるが、公式には守正王が2代目とされている。

李 方子(り まさこ)、1901年(明治34年)11月4日 - 1989年4月30日)は、日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃。

梨本伊都子 1882年(明治15年)2月2日、駐イタリア特命全権公使・鍋島直大の次女としてローマで生まれた。母は広橋胤保の五女・榮子。

東伏見慈洽(じごう、1910年5月16日 - )は、日本の僧侶。旧華族、旧皇族。今上天皇の叔父に当たる。
久邇宮邦彦王の第3王子、旧名邦英王(くにひでおう)。夫人は伯爵亀井茲常の二女保子。
1943年(昭和18年)に京都の青蓮院門跡の門主となって法名を慈洽と称し、長らく門主の地位にあった。
1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)まで京都市と京都府仏教会・京都市仏教会とが深刻な対立抗争を繰り広げ、ついには多くの寺院の拝観停止や行政訴訟の提起にまでいたった、いわゆる「古都税問題」では、仏教会の理事長あるいは会長として反対運動の先頭に立った。
また、青蓮院が属する天台宗の主要寺院が住職の世襲を認めていないのに対し、青蓮院門主の地位を子息に譲ることを強く望んで天台宗教団と鋭く対立し、一時は教団離脱をほのめかして教団に圧力をかけ、ついに世襲を認めさせた事件も起こしている。その結果として2004年(平成16年)2月に青蓮院の執事長であった次男の慈晃に門主の地位を譲った。現在は、京都仏教会会長・青蓮院門跡名誉門主である。2010年(平成22年)5月16日、100歳を迎えた。現在、今上天皇の叔父・叔母にあたる昭和天皇・香淳皇后の兄弟姉妹の中で存命しているのは自身と三笠宮崇仁親王のみとなる。

香淳皇后 良子  久邇宮邦彦王の第一女子。母は12代薩摩藩主公爵島津忠義七女俔子(ちかこ)。祖父・久邇宮朝彦親王は男子9人を儲けており、東久邇宮稔彦王は叔父の一人である。また、五女・島津貴子の夫島津久永は母方の従弟に当たる。」

さて、今日問題にしたいのはこの久邇宮の親である伏見宮邦家の弟9王子である。簡単にWIKIでおさらいしよう。
北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、1847年4月1日(弘化4年2月16日) - 1895年(明治28年)10月28日は、幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人。

伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幼名は満宮(みつのみや)。嘉永元年(1848)青蓮院宮御相続、安政5年(1858)輪王寺りんのうじ宮御相続、公現こうげん法親王(俗名能久よしひさ)と称せられ、上野寛永寺の門跡もんぜきとなられる。
最後の輪王寺宮(りんのうじの みや)として知られる。慶応3年(1867年)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、同月慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。院号は「鎮護王院宮」、歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いののち、公現入道親王は幕府の依頼を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ね、新政府に前将軍徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行う。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁親王に一蹴された。その後、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その敗北により東北に逃避、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された(一説には俗名(諱)を「陸運(むつとき)」としたという)。

問題は奥羽越列藩同盟の盟主と言われているが、実は東武皇帝として即位していた。しかもその同盟の中心は仙台だった。
当時、ニューヨーク・タイムズの記事の書き出しはこうである。(逸見英夫氏訳)
 「日本の政治でもっとも重要なニュースは、新しいミカドの擁立である。これは日本の北部における内乱、あるいは将軍家の内紛によってもたらされた。新しいミカドは大兄宮(おおえのみや)といい、高僧のひとりである。この動きによって、いまや日本にはふたりのミカドが存在する事態になった。従来のミカドは依然として南部で権力を保持している」

要は、日本はこの時点で東西(南北なのかな?)分断したのである。
まあ、天海(天台宗)まで話を戻すときりがないが、寛永寺と日光に、いざとなったら徳川家が天皇を擁立できる「玉」が用意されていたということ。

教えてGOOから引用すると、この奥州越列藩同盟の顛末は・・・・「会津と米沢の両藩が同盟を結んだのでは、東北諸藩は力量的に仲間に加わるのが常道です。
そこへ、仙台藩が世良修蔵の事件により、会津の味方に付くという決定打が加わり、奥羽列藩同盟が出来ました。その後、越後の諸藩も加わり「奥羽越列藩同盟」となります。
仙台藩はその後、倒幕軍に加わり会津に出兵しましたが、現実的には両藩対峙したことが何度かありましたが、仙台藩士は形だけの戦闘をし、本気で会津と一戦を交えたことはありませんでした。三春藩は倒幕軍の力にはかなわないとみると、早々に二本松藩に出兵しています。
こうしてみると、「強いものには巻かれろ」という図式が見えてきます。
それにしても、寝返ることがなんとも簡単なことか・・・。」

明治以降、伏見宮から 梨本宮家、山階宮家、久邇宮家、華頂宮家、小松宮家、北白川宮家、東伏見宮家、賀陽宮家、朝香宮家、竹田宮家、東久邇宮家を輩出していることを考えると、明治維新の意義とは何だったのかは簡単ではないなと思うのである。

さてもう少し追及してゆきたいところだが、ROMUJINさんのコメントから別のお仕事が入った為、この件に関してはまたの機会にということで・・・。

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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
支倉 (みんみん)
2013-06-25 10:12:44
こんにちは、先週、NHK?をみてましたら、
支倉常長展開催の話でした。
スペインにゆかりが深いという事でスペイン取材。
中に、10名程度のスペイン人登場、全て名前の最後にハポン。支倉常長団体の子孫だそうです。不思議な感じでした。
だって、顔はスペイン人だから。
仙台の謎が解けたような。。。
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みんみんさんへ (mayo)
2013-06-25 19:02:20
歴史とは支配者が作るもの。つまり、都合の悪いことは隠される。しかし、伊達家がイエズス会と濃厚な付き合いがあったことはあっち側にとっては隠す必要はなかったわけですね。いわば公然だったと。
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フランシスコ会 (matama)
2013-06-27 10:27:08
はじめまして。いつも興味深く記事を読ませていただいています。

コメントの返信で「伊達家がイエズス会と濃厚な付き合いがあったこと」とあります。

そこで確認なのですが、伊達家が当時かかわっていた修道会とは「イエズス会」ではなく、ソテロ宣教師の率いる「フランシスコ会」と記憶していますが、いかがでしょうか。
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matamaさんへ (mayo)
2013-06-27 14:48:55
フランシスコ会の話は調べてみますが、私の理解ではもっと以前からっていうか、古代からその流れの部族だったと考えています。仙台ですから、要は縄文時代からそっちの流れだったのでは。
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蝦夷共和国 (hana)
2013-07-03 21:36:52
実はここのエントリーがずっと気になっていたのですが、東武皇帝は知りませんでした。
検索していて蝦夷共和国というのも初めて知り、共和国旗が北海道章のベースになっているというのも知りました。
“明治維新 出来レース”等で検索してみると榎本武揚という人物も「ムムム…」な感じです。

東征中止を聞き入れてもらえなかったというのは、なにやらアテルイと母礼の斬首を思い出しました。

渡来系の冷血さというのは(大陸を渡ってくる間に培われたのだと思いますが)凄いものがあると思います。
地祇系の天皇はあまり力が無いのでしょうね(T_T)
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また勘違いで… (hana)
2013-07-04 14:31:47
地祇はシオニストになったので支配者であることに変わりないから(何度も説明されているのにすみません…一番危険なんでしたね)力があるない云々ではないですね(2012.10.28 日本を支配する渡来人)

こちらで秦氏を巡るフィールドワーク風に写真入りで解説ありです(勝手に貼って良いのかいつも悩みますが)

真の支配者 秦氏 *ttp://usui.moo.jp/diary/animeISE2.html



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hanaさんへ (mayo)
2013-07-04 15:57:07
東武皇帝を取り上げたのは、この親にぶら下がる家系で日本の皇族全体が成立していることを示したかったからです。
日本が南北に分断される恐れはあったわけで、双方にどんな密約がなされたのか?などの謎はつきませんね。勉強すべき課題はいくらでもあります。
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やっぱしやめときますわ(^^;;; (ume)
2013-07-04 17:59:01
安心してってのは外しているとは思うけど。
シャレになんない感じだし。(ww
昭和が終わる時より
ごたごたが表に出て来てるのが、
イヤな感じですわ。(^^;;;
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梅干しさんへ (mayo)
2013-07-04 19:27:13
あのね、日本語には主語と述語というのがあるでしょ。
何を安心したっちゅーの?
相変わらず・・・なにが言いたいのか・・・・?
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あらら(^^; (ume)
2013-07-04 20:06:49
失礼しました。(あせ
コメントする場所をまちがえましただ(^^;;

なんか、自給自足さまのところに書き込むと、
シャレですまなくなりそうなんで、やめときますです。(いや管理人さんが、じゃなくて誰がみてるかわからないちゅうー意味だす!^^;;;根拠はマッタクないけど。)
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