こんにちは
少しの間、ブログをお休みしてしまいました
その間覗いてくださった皆様、すいません
私事ですが・・・
5月25日に実家の祖母が亡くなりました
83歳でした
おばあちゃん子だった私
おばあちゃんがいなくなってしまい、悲しくて寂しくて仕方ありません・・・
おばあちゃんのことを思い出しては涙・・・涙です・・・
共働きで忙しい両親に代わり、孫である姉や私の面倒を見てくれたのがおばあちゃんでした
家事や田んぼ・畑をやりながら、孫の面倒も見て、本当に毎日大変だったと思います
それでも、文句も言わず大変さを顔にも出さずもくもくと働く、働き者のおばあちゃんでした
約10年程前に顕微鏡的多発血管炎という特定疾患(難病)を発病
治療法の確立していない病気で、当時診断してくれた病院の先生に1年後の生存率が30%だと聞かされた時は
ショックで頭の中が真っ白になりました
なんでおばあちゃんが・・・そんな難しい病気に・・・
それでも、いい病院・いい先生に診てもらえたお陰で難病をかかえながらも約10年元気でいることが出来ました
入院したり、体調を崩して急遽病院に駆け込むことも多々ありましたが、寛解して調子がいい時は通院間隔を
長くすることが出来たり、3~4年入院せず過ごせた期間もありました
病気の影響や強い薬の影響で常に倦怠感や体の痛みがあったり、体も思うように動かなくて歩くのも大変だったと
思うのですが、痛いだの辛いだの決して言わない我慢強いおばあちゃんでした
先月下旬に腹痛を訴え、検査したところ腸に穴が開いているということで緊急手術を受けたのですが、その後
合併症を起こし・・・
集中治療室でずっと治療を受けていましたが、5月25日に帰らぬ人となってしまいました
術後、呼吸が安定しなかったおばあちゃんはずっと呼吸器をつけていたのですが、呼吸器が気管の奥まで入って
いる為、話すことも食べたり飲んだりすることも出来ませんでした
きっと言いたいこともあっただろうし、何か飲んだり食べたりもしたかっただろうなぁと思うと不憫でなりません
呼吸器が入っていることで気管の痛みもあったようですし、術後の痛みや体力消費でかなり辛かったと思います
それでも最後まで辛いとも苦しいとも一言も泣き言も文句も言いませんでした(会話は出来ませんでしたが、
ほんの少し指で宙に文字を書いたり、紙に字を書いて意思を伝えることが出来ました)
本当に我慢強い人で、人に迷惑をかけることを嫌がり、常に自分のことよりも他の人を気にかけて、我儘も文句も
言わない優しくて強い人でした
集中治療室に入っている間、どうにか集中治療室から出られるくらいまで回復してくれないか、それかせめて
呼吸器が外れるくらいまで回復してくれないか、と祈る毎日でしたが回復することなく亡くなってしまいました
おばあちゃんとまだまだいっぱい話したいこともあったし、おばあちゃんに好きな食べ物を食べてもらいたいと
回復したらやりたいことをあれこれ考えていたのですが、何も出来ないままお別れとなってしまいました
おばあちゃんにずっと面倒をかけていっぱいお世話になったのに、ろくに恩返し出来ないまま、おばあちゃん孝行
出来ないままお別れになってしまい、悔やむ気持ちでいっぱいです
おばあちゃんの好きなお花、たくさん買ってあげれば良かったなぁ
お買い物ももっといっぱい連れて行ってあげれば良かった
美味しい食べ物も色々食べさせてあげたかった
私の作るお菓子、下手なのにいつも「美味しい」と食べてくれて・・・今も下手だけど色々食べてもらいたかった
服とか靴とか・・・誕生日とかにあげても「いだましい(勿体ない)」と言ってなかなか使ってくれなかったけど
いだましいと思わないくらいもっと色々あげれば良かったなぁ
おばあちゃんとのおしゃべりも、いっぱいいっぱいしておけば良かった
小さい頃からずっとお世話になった感謝の気持ちもいっぱい伝えておけば良かった
おばあちゃんのこと、大好きだとちゃんと伝えておけば良かった
色んなことを思っても、今更で・・・後悔してばかりです
親孝行したい時に親は無しといいますが、おばあちゃん孝行も一緒だなぁと悔やむ日々です
おばあちゃんにお線香を上げて「おばあちゃん、ダメな孫でごめんね。たくさんありがとう」と祈っていますが
おばあちゃんに少しでも届いているのでしょうか・・・
届いていたらいいなぁ・・・
今日は初七日
おばあちゃんが冥土で最初の裁判を受ける日です
信仰心のほとんどない私ですが、おばあちゃんが良い裁きを受けられるように祈りたいと思います
おばあちゃん、好きだったモンブランお供えしたから、裁判終わったら食べてね!!!
※私の気持ちをぐだぐだと書いた記事なので、コメント欄は閉じさせていただきます。
少しの間、ブログをお休みしてしまいました
その間覗いてくださった皆様、すいません
私事ですが・・・
5月25日に実家の祖母が亡くなりました
83歳でした
おばあちゃん子だった私
おばあちゃんがいなくなってしまい、悲しくて寂しくて仕方ありません・・・
おばあちゃんのことを思い出しては涙・・・涙です・・・
共働きで忙しい両親に代わり、孫である姉や私の面倒を見てくれたのがおばあちゃんでした
家事や田んぼ・畑をやりながら、孫の面倒も見て、本当に毎日大変だったと思います
それでも、文句も言わず大変さを顔にも出さずもくもくと働く、働き者のおばあちゃんでした
約10年程前に顕微鏡的多発血管炎という特定疾患(難病)を発病
治療法の確立していない病気で、当時診断してくれた病院の先生に1年後の生存率が30%だと聞かされた時は
ショックで頭の中が真っ白になりました
なんでおばあちゃんが・・・そんな難しい病気に・・・
それでも、いい病院・いい先生に診てもらえたお陰で難病をかかえながらも約10年元気でいることが出来ました
入院したり、体調を崩して急遽病院に駆け込むことも多々ありましたが、寛解して調子がいい時は通院間隔を
長くすることが出来たり、3~4年入院せず過ごせた期間もありました
病気の影響や強い薬の影響で常に倦怠感や体の痛みがあったり、体も思うように動かなくて歩くのも大変だったと
思うのですが、痛いだの辛いだの決して言わない我慢強いおばあちゃんでした
先月下旬に腹痛を訴え、検査したところ腸に穴が開いているということで緊急手術を受けたのですが、その後
合併症を起こし・・・
集中治療室でずっと治療を受けていましたが、5月25日に帰らぬ人となってしまいました
術後、呼吸が安定しなかったおばあちゃんはずっと呼吸器をつけていたのですが、呼吸器が気管の奥まで入って
いる為、話すことも食べたり飲んだりすることも出来ませんでした
きっと言いたいこともあっただろうし、何か飲んだり食べたりもしたかっただろうなぁと思うと不憫でなりません
呼吸器が入っていることで気管の痛みもあったようですし、術後の痛みや体力消費でかなり辛かったと思います
それでも最後まで辛いとも苦しいとも一言も泣き言も文句も言いませんでした(会話は出来ませんでしたが、
ほんの少し指で宙に文字を書いたり、紙に字を書いて意思を伝えることが出来ました)
本当に我慢強い人で、人に迷惑をかけることを嫌がり、常に自分のことよりも他の人を気にかけて、我儘も文句も
言わない優しくて強い人でした
集中治療室に入っている間、どうにか集中治療室から出られるくらいまで回復してくれないか、それかせめて
呼吸器が外れるくらいまで回復してくれないか、と祈る毎日でしたが回復することなく亡くなってしまいました
おばあちゃんとまだまだいっぱい話したいこともあったし、おばあちゃんに好きな食べ物を食べてもらいたいと
回復したらやりたいことをあれこれ考えていたのですが、何も出来ないままお別れとなってしまいました
おばあちゃんにずっと面倒をかけていっぱいお世話になったのに、ろくに恩返し出来ないまま、おばあちゃん孝行
出来ないままお別れになってしまい、悔やむ気持ちでいっぱいです
おばあちゃんの好きなお花、たくさん買ってあげれば良かったなぁ
お買い物ももっといっぱい連れて行ってあげれば良かった
美味しい食べ物も色々食べさせてあげたかった
私の作るお菓子、下手なのにいつも「美味しい」と食べてくれて・・・今も下手だけど色々食べてもらいたかった
服とか靴とか・・・誕生日とかにあげても「いだましい(勿体ない)」と言ってなかなか使ってくれなかったけど
いだましいと思わないくらいもっと色々あげれば良かったなぁ
おばあちゃんとのおしゃべりも、いっぱいいっぱいしておけば良かった
小さい頃からずっとお世話になった感謝の気持ちもいっぱい伝えておけば良かった
おばあちゃんのこと、大好きだとちゃんと伝えておけば良かった
色んなことを思っても、今更で・・・後悔してばかりです
親孝行したい時に親は無しといいますが、おばあちゃん孝行も一緒だなぁと悔やむ日々です
おばあちゃんにお線香を上げて「おばあちゃん、ダメな孫でごめんね。たくさんありがとう」と祈っていますが
おばあちゃんに少しでも届いているのでしょうか・・・
届いていたらいいなぁ・・・
今日は初七日
おばあちゃんが冥土で最初の裁判を受ける日です
信仰心のほとんどない私ですが、おばあちゃんが良い裁きを受けられるように祈りたいと思います
おばあちゃん、好きだったモンブランお供えしたから、裁判終わったら食べてね!!!
※私の気持ちをぐだぐだと書いた記事なので、コメント欄は閉じさせていただきます。