日本キリスト教団 尾鷲教会ブログ

三重県尾鷲市にある、キリスト教会です。
ホーリネスの群れに属しています。
昭和21年1月26日に復興されました。

詩編32編1節

2011年01月14日 | み言葉の輝き☆

 

「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」 詩編32編1

 

人生を振り返って、罪なしと言える人はないでしょう。

一度冒してしまった罪は消えないのです。

しかし、主の前に告白するならば、一方的な神のご恩寵によって、その罪を覆ってくださり、赦されるのであります。

なんと幸いなことでしょうか。

新約の時代に生きる私たちには、もっと確実に主の十字架の贖いが約束されています。

意固地に罪を隠そうと苦しむのでなく、主に立ち還り、赦され、解放され、喜びましょう。


礼拝説教 「家族とは」

2011年01月14日 | 礼拝説教

寒い毎日が続きますが、皆さまご機嫌いかがお過ごしでしょうか。

 

2011年が始まり、早半月がたってしまいました。

新しいことを決意され、すでに始められた方もいらっしゃることでしょう。

 

このブログでは、今年から、日曜日の礼拝でのメッセージの抜粋を随時掲載していこうと思います。

また、聖書のみことばと、短い解説を、「みことばの輝き☆」のコラムで、はじめていきます。

 

本年も、どうぞよろしくお願いします。

                       

                                    尾鷲教会 牧師 鈴木恵子 

 

 

201119日  礼拝メッセージより抜粋

「家族とは」  (マルコによる福音書3章20節~35節)

 

「人」という漢字をみますと、人が支え合っているように見えます。親、兄弟、親類、知人、友人、また噂を聞きつけて来られる地域の方々など、あらゆる方々とお互いに縛り縛られあっております。特に血肉で繋がっております家族は、堅い絆で結ばれております。もし、家族から離れようとする者が現れますと、必死に引き戻そうと心を砕くものであります。

21節「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

身内とは親類縁者、友人知人で、イエス様を幼い頃よりその成長に関わって来た人たちです。イエス様は神の子でありますが、マリヤをとおして肉体をもたれた人間としてお生まれになりました。その方を肉の思いだけで理解することの虚しさがここに示されております。人々がイエス様を気が狂ったと言うのを聞いて、身内でさえも「そうかも」と思ったのです。「気が変」とは、食事をとるひまもないほどにどこの誰だかわからない者のために奉仕をされているのが、変だといっているのです。イエス様のご愛は徹底しており、余りにも純粋で、病人をしばらく待たせて食事をすることさえ、なさらなかったのです。これは、イエス様が私たちに神の国を示されているのであります。わたしたちは決して後回しにされるのではなく、キリストの愛のご支配の中に生かされていることを顕しております。

22節「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。」22節からは、身うちに代わって律法学者たちが登場してまいります。ベルゼブルとは悪霊の頭であり、サタンの別名であります。イエス様のお力が神様からのものと言ったならば、自分たちの権威はなくなってしまいます。そこで、サタンの力だと申しました。

23節以下をみますとイエス様はその律法学者たちを呼び寄せて、彼らの論法の矛盾を指摘されています。「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じようにサタンが内輪もめして争えば、立ちゆかず、滅びてしまう。」と。また27節では、盗賊が一軒の家を襲う時、はじめに最もその家で強い者を縛り上げてから家中を略奪すると譬えておられます。これは、イエス様がすでに、サタンの頭を縛り上げており、今は、その手下どもの悪霊を追い出しているのだと言われているのです。イエス様はサタンの国は滅びたと、すでに神の国のご支配がはじまっていると言われているのであります。サタンは巧妙に近づき、力を出しますが、それよりもはるかに強い聖霊のお力があることをわたしたちは確信すべきなのです。

 28節~30節「はっきり言っておく。人の子らが犯すどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。」とあります。「はっきり言っておきますよ、いいですか」と促されております。私たちはその御言葉にアーメンとお答えしましょう。先ず、罪が赦される。アーメン。神を汚す暴言でさえも、赦される。アーメン。イエス様の十字架の贖いによって、罪を犯してしまう私たちを、追いかけるように、イエス様の赦しの恵みが注がれるのです。アーメン。その通りです。

しかし、赦される恵みが確かなように、赦されない滅びの罪もたしかにあるのです。それは、聖霊を汚す罪であります。イエス様の十字架の贖いの赦しを受けていることは、聖霊のお働きにより感じることが出来ます。イエス様を救い主と告白するのも、聖霊のお力です。その聖霊を汚すならイエス様を救い主とも贖い主とも告白できないのです。故に、救われずに滅びにいたるしか道はないのです。

イエス様は、律法学者たちが、イエス様の人知をはるかに超えた癒しのお力は明らかに神様の霊の力とわかるのに、汚れた霊と偽わり、ののしったからであります。 以上がイエス様をめぐる聖霊論争でした。

 

31節以降は、イエス様の家族について語られております。

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。

私たちは肉体のもろさ、痛み、はかなさ、汚れ、それに伴っている悲しさを知るものですが、イエス様はそのような肉体にまで下っておいでになりました。それははかない人間関係にあっても、イエス様を頭とすることによって、たとえ死んでも、断ち切ることのない新しい関係を築きあげるためでした。

31節では、肉親が外に立ったと示されます。大勢の人たちがイエス様を囲んで座っていたのと対照的であります。何故、外に立っていたのか。それは、肉親の人情的な愛だけでありますので、イエス様を兄イエスと呼べても、主イエスとは呼べなかったのです。そこで、人をつかって、イエス様を呼びました。これに対するイエス様の言葉は家族にとっても、周りに座っていた人たちにも、ショッキングなお言葉でした。

33節、「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」と答えられたのです肉親の人たちの無理解に抗議されるお気持ちがこの言葉に含まれています。

34節、「周りに座っている人々を見まわして言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われました。かって、肉において関係のあった者たち以上に、ここにいるあなたがたがわたしの家族なのだと言われたのです。見まわされた一人一人は表情を輝かせてイエス様を見上げたことであります。外にたたづむ肉親には、血のつながりだけが、家族ではないと諭されました。

ここで「神の御心を行う人こそ」とあります。私たちはイエス様を信じてお従いする中でも、時に人の思いで行動してしまうものです。イエス様が言いたいことは、先ず神の御心ですが、ヨハネの6章40節にあります。「わたしの父の御心は、子を見て信じるものが、ことごとく永遠の命を得ることである」と示され、さらに、6:29節では「神がつかわされた者を信じることが、神の業である。と記されています。

端的に言うならば、神のみ心は救いであり、行うとは信じることであります。神を信じる人がイエス様の母であり兄弟姉妹だと言われているのであります。信仰による救い、罪の赦しのあるところに今日の教会が建てられているのであります。皆さまお一人お一人をイエス様が見まわされて、わたしの、兄弟、姉妹そして母と呼んでくださる幸いをかみしめたいと存じます。