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劉璋軍の武将17

2009-12-24 21:48:32 | 日記
冷苞
蜀の劉璋の部将。建安18年、劉璋と劉備の関係が悪化し、劉備の入蜀が始まる。冷苞は劉璝・張任・賢と共に涪城で劉備軍を迎え撃ったが敗れ、綿竹へ後退する。その後、冷苞は史書に登場しない。演義では、劉璋の劉備歓迎の宴で、同僚たちと共に劉璋を守ろうと剣舞を行う。劉備の入蜀が始まると、史実の涪城ではなく雒城で劉備軍を迎え撃った。まず、賢と共に城外に陣を構えたが、劉備の部将魏延に捕えられてしまう。他の部将を説得する約束で解放されたが、次は水攻めで劉備軍を攻撃しようと図る。しかし、またしても失敗し、魏延に再度捕えられ、直ちに処刑された。

劉璋軍の武将16

2009-12-23 19:24:10 | 日記
呂凱
現地の豪族であり、蜀に仕え郡の県尉を勤めていた。雍闓が主である太守の張裔を捕虜にして呉に送り、蜀漢に対して反乱を起こした。この時反乱に加わるよう誘われるが、呂凱は「裏切りは信義に悖る」と断固拒絶した。これに激怒した雍闓が永昌郡を攻めて来ると、同僚で永昌郡の府丞である王伉と共に永昌郡全域を守り抜いた。その後、諸葛亮率いる軍勢がやって来た時、「反乱の誘いを断った忠臣」として賞賛され、雲南太守・陽遷亭侯に任じられた。そして、諸葛亮の西南夷征伐に協力している。諸葛亮の死後、再び南蛮の蛮族が反乱を起こした時に殺害された。嫡子の呂祥が家督を継ぐが、彼は蜀漢が滅ぶと晋に降った。後に司馬昭から南夷校尉に任命されたという。

劉璋軍の武将15

2009-12-22 17:48:56 | 日記
劉範
父の劉焉が牧として益州へ着任した後も同母弟の劉誕と共に長安にあった。董卓によって左中郎将に任命される。董卓が殺害され、董卓の腹心であった李傕が長安を掌握すると、194年、益州牧の父劉焉、郿に駐屯していた征西将軍馬騰、涼州に在った鎮西将軍韓遂、侍中馬宇、前涼州刺史种劭﹑中郎将杜稟らと共に反旗を翻す。三月、両軍は長平観で決戦に至るが、劉範らは敗北し、劉範と种劭は戦死、馬騰、韓遂らは涼州へ敗走した。馬騰と共に長安を襲撃したが、計画が漏れて逃亡、槐里県で殺害された。弟の劉誕も捕らえられて処刑され、長安の市場で兄弟揃って晒し首になったという。この前後、劉焉と代々交流があった議郎の龐羲は、劉焉の孫達を引き連れて入蜀に成功した。息子達の死を聞いた劉焉は大いに悲しみ、その年の内に死去した。益州牧の地位は四男の劉璋が継ぐことになった。

劉璋軍の武将14

2009-12-21 18:26:12 | 日記
劉巴
荊州零陵郡蒸陽の人。父の劉祥は江夏太守を務め、長沙太守の孫堅が董卓討伐軍を起こすとこれに呼応し、去就のはっきりしなかった南陽太守の張咨の殺害にも加担した。のちに南陽の民の反乱に遭い殺害されている。才能に優れ、荊州牧の劉表の招聘がたびたびあり、若くして茂才に推挙されたが、これには応じなかった。208年、劉表が病没し、曹操が荊州に進出してくると、荊州の人士の多くが劉備に従って南下したが、劉巴は曹操の元に赴き臣従した。曹操は劉巴を掾にとりたて、長沙郡など荊州南部の三郡を平定させようとした。しかし曹操が赤壁の戦いで敗れ、その後劉備が荊州に勢力を及ぼし長沙郡ほか荊州南部にも進出すると、曹操のもとへ戻れなくなってしまう。劉巴は劉備の臣になることを嫌い、交州へ逃亡した。劉備は劉巴に逃げられたことを残念に思った。張と改姓したが、まもなく太守の士燮と不仲になったため交州を去り、益州に赴いて牧の劉璋に身を寄せた。かつて父の劉祥が劉璋の父劉焉を孝廉に推挙したという縁があったため、劉璋の厚遇を受けた。劉璋が劉備を益州に招こうとした時、黄権と共にこれに猛反対し、病気と称して引きこもった。劉備が益州を治めるようになると、劉巴は以前の罪を詫びたが、劉備は咎めなかった。諸葛亮が劉巴を賞賛し推薦したため、劉備に仕官を請われ、左将軍西曹掾となった。219年、劉備が漢中王になると尚書となり、法正が死去すると尚書令となった。劉巴は政治能力に優れており、諸葛亮らと共に蜀の法律である『蜀科』を制定した。また、『零陵先賢伝』によると、軍需品の不足を心配する劉備に劉巴は「百銭の貨幣を鋳造し諸物価を安定させ、国が管理する市を立てれば良いでしょう」と進言し、劉備がこれに従ったところ数か月で蔵が一杯になった。劉巴は嫉み疑われることをはばかり、贅沢もせず、慎み深い質素な生活をした。その一方で士大夫としての自負が強く、劉備の宿将で庶人出身の張飛が劉巴の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがに張飛はそのあと腹を立て、諸葛亮が劉巴に取りなしたが、劉巴は「大丈夫がこの世に生きて行くためには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして兵隊野郎と語り合う必要がありましょうか」と言うばかりだった。ちなみにこの話を聞いた呉の張昭が主君の孫権に対して、「主君である劉備が張飛を深く信用していることを劉巴が知らない訳がないのにそうした態度を取るのは臣下としては良くない」と非難した。それに対し孫権は「主君の顔色を見て対応を変える方が却って人物を疑われるものである」として劉巴を弁護している。劉備が皇帝に即位すると、天の神と地の神への報告文や任命書を劉巴が作成した。劉備が夷陵の戦いで呉のため大敗し成都に戻らず永安にとどまると、永安に赴いている。222年、若くして病死した。魏の陳羣が諸葛亮に劉巴の消息を手紙でたずねたところ、諸葛亮は劉巴に対して敬意を示したという。諸葛亮が奉じた李平の弾劾文に「行前監軍・征南将軍の劉巴」という同姓同名の人物が見られる。

劉璋軍の武将13

2009-12-19 18:10:46 | 日記
劉焉
江夏郡竟陵県の人。前漢の魯恭王・劉余の末裔に当たる。なお、劉焉の先祖は章帝の時代の元和年間に中原から江夏郡に移住したといわれる。後漢の宗室の一人という名門の血筋に加え、政治手腕に優れていたことで中郎となる。しかし、彼の学問の師であった祝恬の訃報を聞き、官職を辞し喪に服した。やがて陽城山で学問所を開いた。後に彼は賢良方正に推挙されて司徒府に招かれた。やがて洛陽の県令、南陽郡太守、冀州刺史、宗正、太常などを歴任した。霊帝の時代、黄巾の乱の影響で刺史の支配力が弱くなっているので、州牧を置くことを提案した。また、劉焉は中央の混乱を避けたいと考え、自ら願い出て益州の牧となり、漢監軍使者を兼務し、陽城侯に封ぜられた。劉焉が益州に赴任するとき、董扶や趙韙も官職を辞して劉焉に随行した。この頃、後漢の衰退に乗じて馬相ら黄巾を号する賊徒が反乱を起こし、綿竹県令の李升を殺害し、さらに雒城を陥落させ、益州刺史の郤倹を討ち取り、さらに蜀郡・犍為・広漢の三郡を蹂躙した。しかし、益州従事の賈龍は千余人の兵を率いて、この反乱を鎮圧した。次に劉焉は、賈龍らに迎えられて益州に州牧として赴任し、綿竹県を拠点とした。彼は離反した者達を手懐け迎え入れ、寛容と恩恵で住民を懐柔しながら、秘かに独立する構想を持った。すなわち、近隣の張魯や張修を漢中に派遣して、橋を切って道を遮断し、漢中太守を殺し中央と分断させ、山間の奥地である益州で密かに兵力を蓄えて独立国を築くという構想である。その一方、劉焉に反発した益州豪族らを弾圧し、王咸・李権ら十余人を殺害した。この振る舞いに、かつて劉焉を迎えた賈龍と犍為太守の任岐ら現地の豪族は憤激して反乱を起こしたため、劉焉は益州西部にいたチベット系の青羌部隊を率いてこれを鎮圧し、賈龍と任岐を処刑した。以降、劉焉は驕り高ぶり、千乗余りの豪華な馬車を作りその勢威を示した。しかし、劉焉は羌族に恩賞を与えなかったので、それが原因で激怒した羌族が綿竹付近に侵攻することとなった。その頃、子の劉範・劉誕・劉璋は長安におり、献帝に仕えていた。しかし、193年に馬騰と韓遂は劉焉・劉範父子と手を組び、実力者・李傕がいる長安を襲撃したが敗北し、馬騰は17歳になる子の馬超と韓遂らと共に涼州に逃亡した。 だが、激怒した李傕は逃亡中の劉範を追撃し槐里でこれを殺害し、弟の劉誕は処刑された。三弟の劉璋は辛うじて蜀に逃げてくる事ができたようである。また、劉範の部下であった議郎・龐義は、先祖代々劉焉の家に仕えていたので、亡き劉範の子を伴って入蜀し、そのまま劉焉に仕えることになる。翌194年夏、落雷によって居城としていた綿竹が焼失してしまったために、劉焉はさらに奥地の成都に遷らざるを得なくなった。しかし劉焉は、長男の劉範や次男の劉誕が殺害されたこと、さらに愛する三男の劉瑁が病死したことなど、相次ぐ不幸が重ったため、その心痛から背中に悪性腫瘍を患い同年に死去してしまった。四男の劉璋が後を継ぐが、張魯の漢中での独立や東州兵と益州豪族との摩擦などによって、益州は混乱することになる。