魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成の恋 伊藤初代の死(2)

2014-09-14 00:43:22 | 論文 川端康成
川端康成の恋 伊藤初代の死(2)

 その少女が「船頭小唄」、殊(こと)に「水藻(みずも)の花」の、潮来(いたこ)の娘船頭姿のやうな栗島すみ子に、じつにそつくりであつた。私にはさう見えた。満員の映画館で立見してゐた私は、連れの友人の手前、涙をこらへるのに懸命であつた。その少女も今は世にゐない。姪(めい)の手紙で、私はその死を知つた。

 この「水郷」の栗島すみ子のところを読んだ読者は、その20年近く前の、第1次全集「あとがき」(――のち「独影自命」)2の7の、あまりにも印象的な、あの一節を、思い出さずにはいられないだろう。
 康成は、当時の日記を引用して、去っていった伊藤初代への思慕がつのり、浅草の松竹館で栗島すみ子を見た衝撃を、次のように語っていたのであった。ここでは、37巻本全集補巻1「大正12年・13年 日記」から、直接、引用してみよう。

  大正12年1月14日
   九段より神田に徒歩にて出で、神保町近くにて、電車の回数券を石濱(金作)拾ふ。金なき折なりしかば、これに勢いを得て、浅草行きを決す。
   松竹館の前に立ち、絵看板を見て、余愕然(がくぜん)とす。「漂泊の姉妹」のフイルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。ふと、みち子、女優になりしにあらずやと思ひしくらゐなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子を思ひ、強ひて石濱を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。

 14,5歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子としか思へず、かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀恋の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを、辛うじて堪ゆ、石濱、「みち子に似てるぢやないか。」余ハツとして「さうかなあ。」と偽(いつは)りて答へたるも、後で是認す。痛く動かされて心乱る。余の傾情今もなほ変るはずなく、日夕(にっせき)(カフェ)アメリカのみち子に思ひを走らす。(中略)活動小屋を出でしばし言も発し得ず。
 
 このとき、康成は、映画の題を「漂泊の姉妹」としている。(37巻本全集補巻1の「大正12年・大正13年 日記」によれば、「漂泊の姉妹」という題名は、同年1月25日にも登場する。)
 しかしその大正12年から40数年たった今、「船頭小唄」と並べて、「漂泊の姉妹」ではなく、はっきり「水藻の花」と明記しているのだ。しかもその記憶の内容は、大正12年の日記よりも鮮明である。
 康成はこのとき初めて、あの忘れがたい映画の、ほんとうの題名を読者に明かしたのではなかろうか。
 それはともかく、康成は、10後に再会していったん幻滅したはずの伊藤初代を、今も、くっきりと記憶に刻んでいた。
 そして水郷の風光に誘い出されたように、その思い出と、その死を語ったのである。

   ――その少女も今は世にゐない。姪の手紙で、私はその死を知つた。

 この簡潔な1行が、康成の無限の思いを語っている。
 羽鳥徹哉は、「愛の体験・第3部」において、初代ののちの結婚による3男・桜井靖郎らに面接し確認したことを記している。
 それによると、伊藤初代は1951(昭和26)年2月27日、東京の深川砂町で、満45歳5ヶ月の生涯を閉じた。その3年前の脳溢血による後遺症で、足を引きずり、杖をついていたという。
 もちろん康成はその死を知るべくもなかった。「水郷」に記されているように、初代の姪の手紙によって、その数年後に事実を知ったのである。
 羽鳥はこの「姪」の名を、初代の妹伊藤まきの、次女・白田紀子(としこ)であると確定し、紀子が康成に手紙を出した経緯を書いている。

 紀子は多少の文学少女趣味で、有名作家にちょっと手紙を出してみたくなり、1955年(昭和30)年前後、14,5歳のころ出したのだという。むろん返事は来なかったというが、康成は自分の青春にあれほどの足跡をきざみつけた初代の死を黙して語らず、ようやくそれから10年ほど経った時点で、水郷の風景に託して、その死をしずかに告白したのである。

 「水郷」の文章は、単に伊藤初代の死を語っただけの文章ではない。戦争末期に鹿屋(かのや)基地に滞在して特攻機の出撃を見送った日々をも追想し、その少年航空兵の訓練場が「水郷」近くの霞ヶ浦にあったことを書きもらしてはいない。
 「今は青い真菰やよしが、秋、冬に枯れて、満目蕭条(しょうじょう)の水景色、そして水の月夜も、私は思つてみた。」と「水郷」は結ばれている。
 この文章で、しずかに伊藤初代の死を書きつづり、その冥福を祈ったとき、康成の底深い内部で、養女麻紗子の結婚についで、また一つ、生涯の節目が1段落ついたのではあるまいか。
 康成を実人生に結びつけていた強力な力がうせて、ここから康成自身の、死への足取りが早くなるのである。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿