杜の里から

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EMへの疑問(3)~EMは「ニセ科学」か?~

2009年11月07日 | EM
EMについてあれこれ調べていますと、必ずと言っていいほど「波動」やら何やらが登場してまいります。そのためよく「EMはニセ科学」とも言われています。
ここでは本来「環境浄化活動」に焦点を絞るつもりでいましたが、やはりこの問題も避けては通れないと思い、ここで私自身の感ずる所を書いておこうと思います。

「ニセ科学」とは、【見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの】というものを指して使われている単語で、「波動」などがその代表格に上げられます。
そしてその関わりからEMも「ニセ科学」の仲間と見られている訳ですが、実は私自身としては、『商品』としてのEM自体は「ニセ科学」ではないと思っています。
EMは『数ある微生物資材の中の一つ』にしか過ぎない、というのが私の認識です。つまり普通の微生物資材であるという事です。
普通の微生物資材であるからには、それなりにうまく使えば効果は十分期待出来るものです。事実、単なる宣伝文句に躍らされずに独自の試行錯誤を繰り返し、うまくEMを使いこなしている人もおり、また、EMに限らず他の微生物資材を利用している人も多々おります。

しかしEMの問題は、この普通の微生物資材を特別なものとして扱うその姿勢(「思想」と言ってもいいかもしれません)にあります。
これは比嘉さんが、たまたま微生物同士を混ぜてみたらそれがうまく共生しているという現象を見てそこに神秘性を感じ、出来上がったEMに並々ならぬ愛情を注いでいるからと考えられます。
そしてこの愛情はまた、当時学者達から見向きもされなかったり、その効果を否定されたりした反発から来ているものかもしれません。
しかし、このEMというものは嫌気性・好気性両方の微生物がうまく共存しているというのが売り文句である訳ですが、そのような微生物資材は他にもたくさんあります(→参照)。
つまり、他の国はどうか分かりませんが、少なくとも我が国では、EMは普通の微生物資材の中の一つに過ぎないのです。
その普通のものを特別なものにしてしまっているのが比嘉さんの理論です。

メカニズム解説でも分かるように、EMは「役に立つもの、立たないもの」、「酸化、抗酸化」、「崩壊、蘇生」そして「善と悪」というように、その所作を単純な二元論で語ります。この二元論というものは実に分かりやすいものです。
そのためこれを聞いた者は、本来ならばより深く考えなければならない事についても、その考えはどんどん単純化されていきます。つまり「思考の単純化」です。
これによりやがて、うまくいったのはすべてEMのおかげと考えるようになってしまいます(心理学で言う所の「確証バイアス」ですね)。

そして、この先に待ち構えているのが「盲信」です。

そしてこの「盲信」をさらに補強するものとして、比嘉さんの「波動理論」が追い討ちをかける訳です(これとかこれ)。
「ニセ科学」とは【見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの】と紹介しましたが、こちらの解説に沿って言うならば、EMの理論は「科学を装っているもの」と言えると思います(ちなみに比嘉さんの言う重力波とはこれの事です)。

EMはその「理論」が「ニセ科学」なのです。

そして、元々「ニセ科学」ではなかったEMを「ニセ科学」にしてしまったのは、物事を単純な二元論で語る比嘉さん自身であり、そしてその影響はこのような形で現れたりしているのです。

ただここで、EM問題を取り上げる上でかねてから気になっていた事があります。
それは、EMを批判している人達もこの単純な二元論に陥っていやしないかという懸念です。
時々、
「EMは効果がないのに効果があると言っている。だからニセ科学だ。」
というような批判も見受けられます。
しかしそれは間違いです。
色々挙げられているEM効果の中には、確かに実際効果があるものもあるのです。
それをすべて一緒くたにしてただ効果の「ある」「なし」の問題として論じているのは、批判者自身「思考の単純化」に陥っていると言われても仕方がありません。
勿論効果の確認作業は重要な事ではありますが、EMを「ニセ科学」の問題として語る場合、事の本質はそこではないのです。
問題とすべきものは、人々を盲信に走らせてしまうその「背景」なのです。

これは別にEMに限った事ではありません。諸々の「ニセ科学」の問題を考えるにおいて、最も注意すべき点がこの「二元論」であると私は考えます。
ただ単純な「ある」「ない」、「善い」「悪い」、だけで論じてしまう事は、結局批判する側もニセ科学信奉者と同様の考えに陥ってしまう危険があると思うのです。
そうならないために、物事の一面ばかり捉えるのではなく様々な側面に目を向けるという事が、批判する側は尚更必要であるとつくづく感じるのです。

最近の比嘉さんの発言を見ていますと、その内容はますますエスカレートしているように見えます。
まるで比嘉さんが、EMが「ニセ科学」と言われた事に対し、それをただ効果の「ある」「なし」だけの問題と捉え、そして効果を否定した者を「敵」とみなし、彼らを打ちのめすがためにただひたすらEMの成功事例を宣伝し続けているかのような印象を受けます。

私には、比嘉さんはもう完全に「敵」「味方」の単純な二元論の虜になっているようにしか見えないのです。


19 コメント

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納得 (さつき)
2009-11-07 23:43:06
>ただここで、EM問題を取り上げる上でかねてから気になっていた事があります。
>それは、EMを批判している人達もこの単純な二元論に陥っていやしないかという懸念です。

核心にせまる話題になってきた感があります。
批判すべきポイントはどこか、ということですね。
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中々難しいです (OSATO)
2009-11-08 01:04:28
いらっしゃいませ、さつきさん。

>批判すべきポイント

EMの難しさはまさにそこですね。
そのポイントを見誤ると、批判ではなく単なる非難となってしまうだけで、批判する側される側双方にとって得るものは何もなくなってしまいます。
実は昔、僕自身もこの二元論に陥ってしまった時期があり、その時の苦い経験から今回の忠告を書かせてもらいました。
デリケートな問題も孕んでいるので、これからどう展開させていくかは未だ試行錯誤中です。
ただ、EM問題には様々な側面があるので、一概にすべて否定するという事は避けなくてはと思っています。
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お邪魔します (TAKESAN)
2009-11-08 18:21:32
今晩は。

ブクマタワーは、見にくくて把握もし辛いですね。すみません。

えっと、指摘した部分についてです。
▼引   用▼
「EMは効果がないのに効果があると言っている。だからニセ科学だ。」
▲引用終わり▲
ここですね。

こういう言明の場合、「効果」という語がありますので、必ずその「対象」が考えられますよね。つまり、「何に」という視点です。
ですので、実際的には、その言明が「単に」発せられる事自体が、多分考えにくいと思います。

シチュエーションとしては、

EMって、
 ・河川の浄化出来るんだって?
 ・ガンに効くんだって?
 ・プール掃除にいいんだって?
等のものがあるのだろうと思います。ですから、「EMが○○に効果がある、という主張はニセ科学である」という言明は、まず対象を明らかにした文脈以外では出てこない表現だろうな、と。
従って、「しかしそれは間違いです。」の部分に異議を差し挟んだ次第です。文脈や対象が明らかで無いと、それは間違いだという判断自体出来ないのでは、という意でした。

ブクマの上(メタ)の方で書いたのは、言明が
「EMはニセ科学である」式のものであれば、それは間違いと言えるだろうな、という事でした。
ある実体を指すような概念について直接ニセ科学と言うためには、その対象自体が未発見である、等の理由が必要ですので、そうでは無いEMに対する評としては間違っているだろうな、と。
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単純化の怖さ (OSATO)
2009-11-08 23:16:54
いらっしゃいませ、TAKESANさん。

>「EMはニセ科学である」式のもの

ええ、この手の批判を指したつもりでした。
いつもニセ科学に言明している方達では少ないんですが、そうではない人達が書いているBlogや2ch・質問箱の回答等の場ではちょくちょくこのような形での議論や説明が見受けられるんですよ。
また、一つの効果(例えばガンとか)が否定されたからといって、EMの効果全てを否定するような言説なども実際に見受けられます。
ですから、そのような見方は批判者自体二元論に陥ってしまっている状態で、このような形での批判は間違っているという事です。

EMは支持・不支持が両極端なんですね。
その元となるのが「効く」「効かない」で、それだけ議論が単純化されやすく、ここにその怖さがあると感じています。
ですからこれは、自分自身に対する戒めでもあります。
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ニセ科学問題の本質 (HIGASHI)
2010-02-24 23:13:31
ニセ科学と言われている物の怖さは、「疑問を人々の心から奪う」ということに尽きると考えるようになりました。問題は二元論的な判断のにあるのではなく「人の心の傾向と弱点」ではないでしょうか。こう考えてぞっとしたのです。かつて私たちは、強烈なニセ科学の前に屈し、命まで喜んで差し出した時代があったという事実。反論したくても出来なくなる状況は知らず知らずの内に社会に蔓延し、ついには・・・「物資は有限でも精神力は無限であります(東条)」「神風が吹き神国を守る」「死んで英霊になる」etc.・・・あの太平洋戦争は国を挙げてのニセ科学の嵐が巻き起こった時代だった。反論疑問さえ持つことを許されない暗黒の時代を思い起こせば「自分の思考を投げ捨てるこわさ」が分かると思われるのです。「ニセ科学」の問題は、人々の心の傾向や、社会の病理の立場でまさに語られるべきだと考えます。
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ニセ科学は社会への反動形成 (HIGASHI)
2010-02-24 23:47:43
連続投稿すみません。
EM・波動信奉者に共通しているのは、「現代的な冷たい価値観への科学らしさを用いた精一杯の反論」といえると思います。これらを信奉している人に多いのは、過度な自然愛好家が多く、いわゆるナチュラリストと称される人々に多い。さらに深く観察すると、世間一般の価値観からかなり疎外感を常に持ち、日ごろから、社会に内向的に不満を持つ傾向があるとおもわれる。ここで一つの著書を紹介します。もう絶版ですが、古書で手に入ると思いますのでご一読を。ニセ科学に走りやすい人の傾向を端的に著していると考えています。なぜ、ニセ科学へ走るのか、メカニズムの端緒がつかめるのではないでしょうか・・・。私は、ニセ科学の問題は、この著書のようなアプローチも必要であると考えています。ただし、この本はニセ科学批判を書いたものではないことを申し上げておきます。

無神経な人に傷つけられない88の方法 - 岩月謙司
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Re:ニセ科学問題の本質 (OSATO)
2010-02-25 02:00:13
いらっしゃいませ HIGASHIさん、初めまして。

>ニセ科学と言われている物の怖さは、「疑問を人々の心から奪う」ということに尽きると考えるようになりました。

僕も基本的にはそのように考えています。その事から導かれる結果として、下記エントリーでは「人を無防備にしてしまうもの」と表しました。↓
http://blog.goo.ne.jp/osato512/e/a94523f55dbd5ff275fd83574237eac1

>「ニセ科学」の問題は、人々の心の傾向や、社会の病理の立場でまさに語られるべきだと考えます。

仰る通りだと思います。
ただ僕自身はこの問題に向き合った時、そのテーマの大きさと深さに圧倒され、自分では中々うまくまとめる事が出来ません。そもそもこれこそ単純に語れるものではないと思っております。
このテーマについては僕の巡回先である pooh さんのブログ「Chromeplated Rat」で色々語られており、僕も様々な示唆をいただいております。ぜひ一度足をお運びになってみて下さい。↓
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/

また、次の投稿についてですが、

>世間一般の価値観からかなり疎外感を常に持ち、日ごろから、社会に内向的に不満を持つ傾向があるとおもわれる。

この「疎外感」という言葉には僕は違和感を覚えます。
確かに中にはそのような人もいるでしょうが、これは全体の中の一部であって決してこの一言で語れるものではないと僕は思いますし、逆にこのような決め付けは危険でもあると感じます。
「ニセ科学」問題を突き詰めればどうしても人の心理にまで及んでしまうのですが、それを語り始めればとても語りつくせるものではなく、僕はいつも途方に暮れてしまうのです。
「ニセ科学」問題は本当に奥が深く、まただからこそ罪深いものでもあると思うのです。

ご紹介いただいた本はこのような内容なのですね。↓
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/8029/b_16.html
確かに「ニセ科学」へ走りやすい人の傾向の一端は伺えるかもしれませんね。後ほど探してみます。ご紹介ありがとうございました。


あ、あと大戦中の出来事については「ニセ科学」の言葉を拡大解釈し過ぎていると感じます。これは別なフレーズで論じた方が良いかもしれません。
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飛躍が過ぎたようで・・・ (HIGASHI)
2010-02-25 11:53:02
そうですね。・・・いきなり戦中のことを論ずるには飛躍が過ぎたかもしれません。また「疎外感」という言葉も決め付け過ぎたと思います。
 私自身は、このニセ科学の問題は表層で科学・非科学を論ずるだけでは解決しないと考えています。非科学性を論じても、それを楽しむだけとか揶揄する傾向だけが見受けられることが多いですね・・・。おっしゃるとおり、「ニセ科学」問題は本当に奥が深く、また、だからこそ罪深い。不安に駆られる人間がいて、それを餌に食い物にする商売や人間がいる。
それは、「苦しむ人の心を科学らしさでもてあそぶ」ことなのでしょうね。私は、この問題には、自然科学者だけではなく、同時に臨床心理の専門家もかまないと駄目だと考えます。同じく、人に心がある限り、雨後の竹の子のように、この問題は永劫に起こり続けるでしょうから、そういう解決を担えるシステムが確立することを祈っています。
もうしおくれましたが、私は、引きこもりや不登校のかたのサポートも行っています。
お返事有難うございました。
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環境協議会において (岡山県人)
2010-03-09 13:55:31
初めて投稿します。現在倉敷市児島で環境衛生協議会というところで市のボランティアをしております。皆様のご意見大変興味深く、また参考にさせていただきました。今地元ではかつて他の地区がそうであったように、環境衛生のトップがEMをばらまき、その浸透たるやすごいものがあります。しかし問題に気付いたごく少数の有志が立ち上がり、河川の浄化、ため池の水質改善、プールの藻の除去作用の3点に絞り市や県を交えた公開実験を行うことになりそうです。ニセ科学かそうでないか、効く効かないか、善か悪かの二元論についての問題視などいろいろ参考になりましたが、地元小学校の環境教育にまで入り込みその方たちが「川が汚れたらEM微生物をまけばいい」という乱暴な授業を行うのだけは断じておかしいと思います。無防備な子どもたちに間違ったことを教えているのをやめさせるのも私たち親の責任かと思い動いています。まあそこにある思いは先程からおっしゃられている二元論なのですが・・・いろんな意見を参考にしたくて投稿しました。
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実験における注意点 (OSATO)
2010-03-10 00:37:51
いらっしゃいませ岡山県人さん、初めまして。

公開実験については興味があります。この模様などどこかに公開していただけるとありがたいと思います。
ただこのような実験というのは、その時の気候や周りの自然条件によって左右されやすいものであり、厳密な意味での実験というのは難しいというのが現状です。
よくため池などでは、春先に投下して秋頃に綺麗なったから効果ありとする報告がなされる事がありますが、秋や冬など寒くなる季節では別に何もしなくても綺麗になります。
ですから、実際に効果を確認する場合はEMを投下した時としない時双方を季節毎に追っていく必要があり、検証にはかなりの期間を要します。
河川となるともっと複雑で、実験期間中に周りで他の公共事業などが行われていたりすると、そちらの効果も考慮しなければなりません。ですから実験には環境の専門家や大学の研究者との協力も不可欠となります。
実際そこまでやって初めてEMの効果というものが実証されるのですが、そうしている所はほとんどありませんね(と言うより、僕は見た事がありません)。

ただプールでの使用についてはそれなりの効果は認められると想像出来ますが、これは別にEMに限らず「えひめAI」でも同様の効果があります。(参考 ↓)
http://ehimeai12.exblog.jp/8151026/
http://blog.goo.ne.jp/osato512/e/b1d3ddfc379a0415b940b806602193b2
ここで大事な事は、プールというのは自然の環境ではなく、あくまで「大きな風呂桶」であるという事です。
その事を念頭に置き、その効果のメカニズムを考察してみるという視点を持ってやっていただければと思います。

問題はやはり環境教育でしょうね。
>「川が汚れたらEM微生物をまけばいい」という乱暴な授業
とありますが、プール掃除やトイレ掃除などで効果があったからと言って、それがそのまま河川浄化活動へ流れていってしまって、EMを「魔法の薬」のように扱ってしまう姿は確かに問題があると思います。
学校によっては、ただEMの使い方を教えるだけで環境教育としてしまっている所がありますが、このような授業は確かに生徒達に誤った認識を持たせるだけであると言えますね。この事についてはいずれ取り上げる予定でおります。

重要なのは、EMは効果がある事もあればない事もある。その見極めでしょうね。


あと、岡山県人さんはこちらにコメントなさった「岡山県良識人」さんでしょうか? ↓
http://islandrunner.way-nifty.com/blog/2009/04/em-7cde.html#comment-40368621
ちょっと気になったのですが、一面的な視点からの評価はくれぐれもご注意下さい。
EMの一番の問題は「盲信」というものですから。
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