8月1日、「明治大学リバティアカデミー」で、「水からの伝言(以下「水伝」)」著者の江本勝氏とEM開発者の比嘉照夫氏を招き、「ガイア、この水と微生物の共鳴する世界」と題した講座が開催される告知がなされました。
この講座について、多分大半は批判と思われる様々な意見が大学側に寄せられた事により、8月8日、明治大学リバティアカデミーではこの講座開催を中止する事を正式に決定しました(前回ブログ)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/21/e59567202ab49456aca7c31dec060ad8.jpg)
しかしながらくだんのサイトを見てみますと、8月10日現在、そこにはまだ【中止】の文字はなく、さすがに前回あった「水からの伝言」の本の写真はなくなっていますが、その他の内容は8月1日のものと何ら変わりありません。
(8月1日)
(8月10日) ![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/71/c49b9b375a655d526365694017fa140b_s.jpg)
いつまでここをこのままにしておくのか気になりますが、それよりも気になるのはこの中止のお知らせの文言です(強調は引用者)。
それが再度の検討で中止になったとただ言われただけでは、「水伝」や「EM菌」などを知らない人にとっては、なぜ突然これが中止になったのか分からないと思われます。
小学校の道徳授業の現場で、「水からの伝言」がまるで科学的事実であるが如く扱われ、それが「ニセ科学」問題として取り上げられてから、すでにかなりの年月が流れました。
それにもかかわらず、こともあろうに大学の場で「水伝」や「EM菌」を肯定する様な講義が行われようとしていた訳です。
大学側は、この講座内容のどこを問題として中止の判断を下したのか、そもそも初めになぜこの様な講座を開催しようとしたのか等、その経緯の詳細を明らかにすべきだと私は思います。
リバティアカデミー長挨拶の中で須田努氏は、
「大学とは研究・教育の場であると同時に、社会に開かれた啓蒙の場ともなっていたのです。」
とも述べています。
それならば尚更の事、これをただこのままやり過ごすのではなく、一つの問題提起としての自己反省・自己批判の場を提供すべきであり、またそうする事こそが、「学問の府」たる大学が真に行うべき啓蒙活動ではないのかと考えます。
この問題をこのままにしておく事は、ニセ科学の蔓延に対する大学側の敗北を意味していると私は思うのです。
この講座について、多分大半は批判と思われる様々な意見が大学側に寄せられた事により、8月8日、明治大学リバティアカデミーではこの講座開催を中止する事を正式に決定しました(前回ブログ)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/21/e59567202ab49456aca7c31dec060ad8.jpg)
しかしながらくだんのサイトを見てみますと、8月10日現在、そこにはまだ【中止】の文字はなく、さすがに前回あった「水からの伝言」の本の写真はなくなっていますが、その他の内容は8月1日のものと何ら変わりありません。
(8月1日)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/a2/a49ebedd5e9488b3190de3c21a24478e_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/71/c49b9b375a655d526365694017fa140b_s.jpg)
いつまでここをこのままにしておくのか気になりますが、それよりも気になるのはこの中止のお知らせの文言です(強調は引用者)。
講座内容を再度慎重に検討をした結果,開講しないことになりましたので,お知らせいたします。そもそもこの講座の開催を決めたのは大学側であり、その時はこの講座内容は別に問題ないと思っていた訳です。
それが再度の検討で中止になったとただ言われただけでは、「水伝」や「EM菌」などを知らない人にとっては、なぜ突然これが中止になったのか分からないと思われます。
小学校の道徳授業の現場で、「水からの伝言」がまるで科学的事実であるが如く扱われ、それが「ニセ科学」問題として取り上げられてから、すでにかなりの年月が流れました。
それにもかかわらず、こともあろうに大学の場で「水伝」や「EM菌」を肯定する様な講義が行われようとしていた訳です。
大学側は、この講座内容のどこを問題として中止の判断を下したのか、そもそも初めになぜこの様な講座を開催しようとしたのか等、その経緯の詳細を明らかにすべきだと私は思います。
リバティアカデミー長挨拶の中で須田努氏は、
「大学とは研究・教育の場であると同時に、社会に開かれた啓蒙の場ともなっていたのです。」
とも述べています。
それならば尚更の事、これをただこのままやり過ごすのではなく、一つの問題提起としての自己反省・自己批判の場を提供すべきであり、またそうする事こそが、「学問の府」たる大学が真に行うべき啓蒙活動ではないのかと考えます。
この問題をこのままにしておく事は、ニセ科学の蔓延に対する大学側の敗北を意味していると私は思うのです。