origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

『歴史を問う 1神話と歴史の間で』(岩波書店)

2008-05-24 21:15:50 | Weblog
『歴史を問う』というシリーズものの論文集の第1巻。今回のテーマは「神話」であり、国内外の神話と歴史に関して論じられている。
「神話と歴史の間で」
元々口語によって語られるものだった神話が次第に書き言葉となっていき、それが「歴史」と接近する。著者は「中世神話」という概念を提唱し、『愚菅抄』や『神皇正統記』を論じる。鎌倉時代、仏教者たちは自分が末法の世にいるのだと考えていた。救いがもたらされることのない末法の世。その中でどのようにして宗教的な救いを人々に与えることができるか。その問いに対する一つの回答が親鸞の浄土真宗であったと言える。慈円の『愚管抄』もそのような時代に書かれた書物であり、彼の仏教的な歴史観が投影されている。慈円の道理の概念や末法思想はあくまでも彼の主観によるものだということに留意すべきである。そこには歴史を客観的に語ろうとする意識はあまりない。
一私人の立場から書かれた『愚管抄』と南朝の正当性の証明のために一公人としての立場から書かれた『神皇正統記』は結構違う。
「歴史と信仰」
20世紀を代表する聖書学者ルドルフ・ブルトマンと神学者カール・バルトは共に歴史主義的な聖書学に抗った。歴史を追及すればイエスの真の姿に会うことができるという19世紀後半以降の聖書学の潮流に従わなかった。しかし、ブルトマンとバルトは決して似ていない。バルトは歴史に抗いそのキルケゴールから影響を受けた神学によって真理に近づこうとしたのに対して、ブルトマンは歴史学から距離を置きつつも歴史の中に真理を見出そうとした。ブルトマンはまず「史的イエス」に関して、ほとんど何も確実なことはわからないということを認める。その上で、新約聖書を非神話化し、実存的なイエスの像を求めていくのである。聖書には幾つもの神話があり、それらの神話を解体していくことが必要だとブルトマンは考えた(「神話」こそを重視したノースロップ・フライとは対照的に)。そして神話を取り払ったときに残る核こそが、信仰の対象となるべきものだとした。彼はルター流の信仰義認説の立場を取っており、神話を取り払ったときに立ち現れる聖書の本質を信仰の対象としたのである。しかし、本当に信仰すべき聖書の本質と神話は峻別できるものなのだろうか。その疑問を呈したのが、ブルトマンから影響を受けた哲学者ポール・リクールであった。
個人的にはルター派に共感を覚えていることもあって、ブルトマンの神学はなるほどなあと思わされるところが多かった。もし現代において信仰が成立するならば、それは神話に抗うことによってのみなのではないか。
「神話の引用と再話 グノーシス主義の創作神話」
グノーシス主義における二元論的な傾向や歴史否定の傾向について。グノーシスが歴史には何の超越的な価値はない、などという考えをもっていたのだということは初めて知った。歴史の超越的な価値を重んじるユダヤ・キリスト教のネガとなるべき歴史観がグノーシスには存在している。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。