玖波 大歳神社

神社の豆知識

通夜と通夜祭

2022-07-01 12:17:15 | 日記

通夜と通夜祭
 私は、通夜と通夜祭を分けて考え、帰幽報告祭によって両者は分けるべきだと思う。帰幽報告祭を行うまでは、呼吸の停止をもって直ちに死とはみなさず、蘇生しないことを確認したあと、帰幽報告祭を行うことによって喪に入ったと考えるべきだと思う。つまり、通夜までは、明らかに死が確認できたとしても、① 大規模な墳墓の整備のために、② 天下の凶事によって国を不安定にしないため、③ やむにやまれぬ理由があって死の穢れに触れていない状態でいるため、④ 別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、且つ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認するためなど、相当の理由がある場合に行われてきた殯と同じと考え、帰幽報告祭を行った後に行う通夜祭は葬送の儀の一部であると考えるべきだと思う。
 現代において、神葬祭でない場合は、医師によって死亡が確認され、死亡届を提出し、死体埋火葬許可証を受けた時点で殯は終えていると考え、神棚等に白い神で覆う等の作業を行う時間を設けるためには、喪に入るのは死亡届を提出した時点からと考えるのが相当ではないでしょうか。
 通夜祭も殯と考えている方々が多数居られますが、火葬の時代で且つ五十日祭に納骨する昨今、墳墓の整備はほぼ理由にならないし、死に譲りが原則になっていれば、天下の凶事もあり得ないし、今時は遺体の腐敗・白骨化を待つのは耐えられないと思いますし、況してや、生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行うこともできる人は少ないと思います。通夜祭と殯を行う理由との共通点はどこでしょうか。
 また、山崎暗斎が「生勧請」を行い生きている間に霊璽を作り、垂下霊社に祀っていたことを考えると、いつ遷霊の儀を行っても問題は無いと思います。 通夜祭を行った後に時間を空け真夜中に遷霊の儀を行うのとは異なり、通夜祭と殯を同一視しながら、一連の流れで通夜祭に引き続き遷霊の儀を行うケースが増えているのは何故なのでしょうか。通夜祭と殯を同一視しせず、 帰幽報告祭を行った後は、遷霊祭と通夜祭の順序は地域に受け入れられやすい次第で行うべきだと思います。
現代における殯を考えるとき、皇室について見ておく必要があります。仮に今後皇室も火葬を取り入れた場合、安置場所は殯宮と称するけれども、殯といえるのでしょうか。
 通常の葬儀では、火葬し、帰家祭で葬儀を終え、その後十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭を行い、五十日祭で納骨を行い、人によっては大々的にお別れ会を行う場合があることと比較すると、殯宮祗候(殯宮移御の儀・殯宮日供の儀(毎日行われる)・殯宮移御後一日祭の儀・殯宮拝礼の儀・殯宮二十日の儀・殯宮三十日の儀・殯宮四十日の儀・斂葬前殯宮拝礼の儀・斂葬当日殯宮祭の儀)大喪の礼と重なる部分が多くなるのではないでしょうか。

参照
 神道事典では、殯について、
「「あがりJ 「あらき」ともよむ。人 の死後、遺骸を正室や寺院または特別に設けられた所(喪屋・殯宮 〔あがりのみや・あらきのみや・ひんきゅう〕) に安置し、葬送するまでの期閒に行う儀礼をいう。今日でいうお通夜にあたる。古代では呼吸の停止をもって直ちに死とはみなされず、蘇生しないことを確認したあと、喪に入ったとされる。またその間は生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行った。それが中世以後になると、もっばら読経供養に変わるが、魂呼びの儀礼は今日なお慣習として残っているところもある。一方天皇の殯宮儀礼は 六世紀頃より唐の殯の影響を受けて、遊部の奉仕による儀礼とともに、誄(しのびごと)の奏上や諡を奉るなどの大陸にならった儀礼が行われるようになった。長期間にわたることもあり、天武天皇の殯の場合は二年余にわたったことが「 日本書紀」に記されている。 西岡和彦 」とあり、

 ウィキペディアでは、
「日本の古文書にみる殯
『古事記』、『日本書紀』では殯、『万葉集』では大殯とされ、貴人を殯にした記録や、それを連想させる記録が散見されるが、具体的な方法などは記録されていない。
『日本書紀』においては、一書の九でイザナギがイザナミの腐乱した遺骸を見た際「伊弉諾尊欲見其妹 乃到殯斂之處」の殯斂や天稚彦(あめわかひこ)の殯「便造喪屋而殯之」(一書の一「而於天作喪屋殯哭之」)、巻8の仲哀天皇の死後にその遺体を武内宿禰による海路に穴門を通って豊浦宮におけるもの「竊收天皇之屍 付武内宿禰 以從海路遷穴門 而殯于豐浦宮 爲无火殯斂无火殯斂 此謂褒那之阿餓利」があり、その後数代して欽明天皇(欽明天皇三十二年四月十五日(五百七十一年五月二十四日)死去)三十二年五月に河内古市に殯し、秋八月に新羅の未叱子失消が殯に哀悼した「五月 殯于河内古市 秋八月丙子朔 新羅遣弔使 未叱子失消等 奉哀於殯 是月 未叱子失消等罷 九月 葬于檜隈阪合陵」と記述される。なおこのときは一年に満たない殯である。

 平安中期の貴族藤原行成の日記『権記』寛弘元年(千四年)三月十三日の条に、村上天皇の皇子女の殯処に関する記述があり、「此くのごとき処、皆、荒る」とあるところから、村上天皇の御代後の平安中期頃に殯を行う対象者の範囲や規模が縮小したと推察される。

 隋書に記録された殯
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷倭國」には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外庶人卜日而 及葬置屍船上陸地牽之」とあり、また、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 高麗」(高句麗)には、死者は屋内に於て殯し、三年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内 經三年 擇吉日而葬 居父母及夫之喪 服皆三年 兄弟三月 初終哭泣 葬則鼓舞作樂以送之 埋訖 悉取死者生時服玩車馬置於墓側 會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は三年間殯にしたことがうかがえる。

なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だったとも考えられる。」とある。

 如在之儀については、
「平安時代には、生前の譲位が慣例となり、天皇が在位のまま崩じることは天下の凶事だった。後一条天皇の崩御の際は、「如在之儀」が行われた。

一一世紀前半以降、在位中の天皇が没しても、「如在之儀」を用いることにより、しばらくの間その死は隠蔽され、死後しばらくしてから皇位と無関係な貴族等と同じように、追善供養を充分に行うことのできる太上天皇の死として扱われるようになる。六・七世紀の大王の肉体の死が、直ちに大王の死として認められたのとは異なり、天皇は天皇という地位にある限り、その肉体の死を認められることがなくなったのである。この制度の成立によって、天皇はその地位が極端に重視されるようになり、地位の連続性が強調されるようになる。このような現象は、それまでの天皇が即自的に神聖性を確保していたため、死んでも天皇として扱われていたものが、個人的・人間的な要素が消滅して権威化し、仏教や三種の神器など外部から権威付けを行わなければならなくなったためにおきた現象と考えられる。」とあり、

 病体については、
山崎暗斎の逝去に際しては、門人大山為起・出雲路信直・梨木祐之等が死の穢れに触れていない状態でいるために「病体」とみなして、垂下霊社の霊璽を下御霊神社の末社猿田彦神社の相殿に移しています。また葬送の儀に携わると死の穢れに触れてしまうので本務社の奉仕のある門人は参列を断りました。この時代、みなしを使う反面、死の汚れを非常に忌み嫌っていたことが窺えます。