奥崎謙三 神軍戦線異状なし

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第一章 少年時代

2008-02-06 15:12:38 | 奥崎謙三物語
大正九年二月一日、奥崎謙三は兵庫県明石市大蔵町にて、小学校教諭の母・和賀、裕福な農家の息子の父・俊三郎の間に生を受けた。小学校低学年では、いじめられっこだったが、高学年に進むにつれて誰にもいじめられなく、成績は上位だった。
奥崎の少年時代であった昭和初期における日本経済は、第一次大戦後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた。株の暴落により都市部では多くの会社が倒産し失業者があふれ、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増し、生活できなくなり大陸へ活路を見いだす人々が増加していた。
そんな中、小学校教師の母と裕福な庄屋の出であると父とで構成される奥崎家も、例に漏れず不況のため家計が苦しくなり、父親は自分を含めた家族六人を養うことができず、妹は他家に養女に出し、母親と姉は大阪で住み込みで働くことになった。母親恋しい奥崎少年は、明石から徒歩で母親の住み込み先を訪問する。生活苦であろうか、母親はスグに奥崎少年に新聞売りをさせ、その後に、うどんを一杯食べさせた後、薬局に丁稚奉公に出させるのであった。体よく「一杯の素うどん」で売られたのだ。しかし、奥崎の両親が冷酷であったと言うことではない。幼少の頃、奥崎は気管系の疾病を患っていて、一家の全財産をはたいて酸素吸入器を買い与えたエピソードがある。一家が生きていくためには、どうしようもない選択を迫られる場面があるのだ。奥崎の少年時代は母の愛を知らずに育ったとも言えるが、昭和初期はそんな困窮していた時代であったので、珍しい話でもなかったのかも知れない。

小学校を卒業後、口入れ屋の世話で木綿問屋の丁稚奉公を皮切りに、神戸・芦屋・西宮等の定員として働く。そして、一八歳になろうとする頃から、貨物船の見習い水夫として働くが、船内で上役の水夫に大怪我を負わせる事件を起こす。理由は泥棒呼ばわりされたことがきっかけである。奥崎が年少であったことと、上役の水夫の日頃の素行が良くなかったことも幸いして、不問となるが、この事件は奥崎にとって「悪い奴は殺しても構わない」という思想を正当化させる契機になったとも言える。その後、神戸に帰り、戦後奥崎にとって生業ともなった、バッテリー商にて住み込みで働き始めた。