おが の 冗談本気

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第210話 「嗚呼・・懐かしのジャパメタ、その3」

2005年09月21日 20時03分53秒 | Weblog


この「懐かしのジャパメタ」はなんかシリーズ化してきましたねぇ。という事で今回は第3弾ラウドネスです。久しぶりにラウドネスを聴いてしまいました。何年ぶりでしょう。私にとってのラウドネスは中学、高校時代のフェイバリット・バンドでありギターの高崎晃は私にとってのギターヒーローでありました。今回聴いたのラウドネスにとって5枚目のアルバムとなる「サンダー・イン・ジ・イースト」です。それではラウドネスについてちょいと書いてみましょうか。

学生時代にギターの高崎晃とドラムの樋口宗孝は出会う。そしてレイジーを結成。コンテストにてディープパープルのバーンを演奏しレコード会社の目に止まる。レイジーはメジャーデビューするがメンバーの意向とは裏腹にアイドルブループに仕立てられてしまう。「赤頭巾ちゃんご用心」がスマッシュヒットするが高崎と樋口は本格的なヘヴィメタルorハードロック(以下HM/HR)を志しレイジーは解散。ちなみにレイジーのボーカルは現在アニメの主題歌で活躍している影山ヒロノブである。

80年ボーカルに二井原実、ベースに山下昌良を迎えラウドネスを結成。81年「誕生前夜」でメジャーデビュー。高崎晃のスーパーテクニックに当時の業界は度肝を抜かれたという。82年アルバム「戦慄の奇跡」リリース、83年アルバム「魔界典章」リリース、84年アルバム「撃剣霊化」リリース。この時点でラウドネスは日本のHM/HRのトップに立つ。そしてヨーロッパ・ツアーも成功させいよいよアメリカを視野に入れる。

そしてついにラウドネスはアメリカのメジャーレーベル、アトランティックと契約。記者会見は赤坂プリンスホテルにて行われ長期の7年契約したと発表された。当時の日本の音楽業界はHM/HRの地位が低くセールスにも限界があった。しかしラウドネスの全米進出は日本の音楽業界の話題になった。

そしてラウドネスにとっては5枚目のアルバム、全米進出第1弾「THUNDER IN THE EAST」をリリース。プロデューサーはオジーオズボーンを手がけたマックス・ノーマンである。当時のアメリカのチャートはHM/HR勢が賑わしていた。ヴァン・ヘイレンの「JUMP」はビルボードの連続1位を獲得、モトリークルーの「スモーキン・イン・ザ・ボーイズルーム」、ラットの「ラウンド・アンド・ラウンド」、デフレパードの「ヒステリア」などがビルボードにランクインしていた。まさにHM/HRは当時のレコード会社から見ると金のなる木だったのである。

しかしここからラウドネスの戦いが始まる。プロデューサーのマックス・ノーマンとの確執、モトリクルーとの全米ツアーは使用ステージや機材に制限がかけられた。スペシャル・ゲストとは名ばかりで実際はモトリークルーのオープニング・アクト扱いであった。アルバム「THUNDER IN THE EAST」のセールスはビルボードの70位代であった。しかしMR.BIGのポール・ギルバートがそうであったようにラウドネスの影響を受けたアメリカのミュージシャンは確実にいたのである。

なんか長々と書きましたが・・私が初めて聴いたラウドネスは「THUNDER IN THE EAST」だったのですよ。そこから色んなアルバムを聴いていったんですね。「THUNDER IN THE EAST」以降は「SHADOWS OF WAR(LIGHTNING STRIKES )」、「HURRICANE EYES」、「JEALOUSY」までですね聴いたのは。その後は私はパンクに目覚めましてHM/HRは一切聴かなくなりました。ラウドネスもその辺からメンバーチェンジするようになっていったんですね。

今もラウドネスは活動してるんですよ。しかもオリジナルメンバーで。しかし今のラウドネスの音楽性は当時とはまったく違うものになってしまいましたね。私はやはり昔のラウドネスのほうが好きだなぁ。でもまた私がHM/HRに戻るという気持ちは全然無くてやはり懐かしさですね。数年ぶりに聴いてみて懐かしかったですよ。学生時代の私のフェイバリットですからね。私が初めて行ったライブは青森市体育館のラウドネスだったもんね。ここから私の全てが始まったんですよ。  

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