旅の途中・・・

食と音と人の旅

カンボジアで喜び組

2011年10月05日 19時58分19秒 | 
喜び組 イン シェムリアップ
それは今年の話です。あのアンコールワットがあるシェムリアップでの事です。アー恐ろしい。ピョンヤンレストラン北朝鮮経営に行ったときの事である。
現地で絶対に口にしては行けない言葉/拉致、脱北者、等。この事をお互いに確認し合い、スタッフとレストランに入る。
「喜び組」 いました。美人さんばかりです。歌有り演奏有り、民族舞踊有り、数々のショウをご拝観いたしまして、お姐さん達の接客も良く、たいへん楽しい時間を過ごさせていただきました。そしてキムチのうまい事ったらそりゃーもー、絶品!発酵の具合が上手!舌にピリピリくる自然の恵み。焼き肉?(焼いて持ってきた!?)もまっこりも、大変美味しゅうございました。そして宴もたけなわ、スタッフの一人があの
言ってはいけない一言を言ってしまった。
   一同血が引いた!!
     「拉致」
本人も焦りまくり。もーどうしていいもんだか・・・信じられない・・・なんであんなに・・・、
たりらりらーん!なんてーこっちゃ。終わった!聞こえたのか?振り返る
わからない。もう出よう・・・ある意味泣きそう!
トイレもいけなくなった!

ピカンティレトルトスープカリィの作り方裏技編

2011年06月14日 16時30分45秒 | 
こんにちは
久々に書いています。今回はタイトル通り簡単なやり方で伝授します。といっても所詮レトルトと思われるかもしれませんが、これがなかなか・・・・です。写真をクリックしてください!

瞑想サハジマルグ1991マドラス

2010年11月06日 14時38分46秒 | 
今はチェンナイ当時はマドラスといいインドの4大都市の一つでのでき事。駅で話しかけてきた日本の女の子がいた。まぁいつものことで一緒に食事にいく事になった。その店はインドではたまにあるスタイルなんですが入り口がベジタリアンとノンベジタリアンに別れていて、店内で一つになっているという、よくわからない。形式?ノンベジなんで、当然その入り口から入る。インドカレー(別にインドつける必要ない)チキンを注文。チョイトゆるいカレーでスープカリィと行っても良いくらい。でもアジャンタのスープカレーが食いたい!で、当時スープカレーを説明するのが難しかった。日本中から旅人が来ているので、食べ物の話になったらでてきていたその土地の名産シリーズ・・・さらさらのスープでカレーなんだよねとか、あまり想像つかないようだった。札幌に行ったら食べてみてねと、なんか既に宣伝したりなんかして・・・それはさておき、その娘はどうやらヨガの団体に所属しているという。簡単な瞑想が主な修行だと聞き体験入会する事に決めた。さっそくその日の夕方アシュラムに顔をだした。マスター(グル)と聞くとなんか怪しい感じがしますよね。やはり最初は疑りの気持ちで参加。しかし何にも問題はなく、1週間通った。マスターはまるでサイ(実は少し前にチトワンで檻に入ったサイに触っていてそのパワーの凄さを観ていたんで、暴れた時の威力はまるで恐竜みたいな/恐竜知らんだろ!←つっこみ)のように熱だかなんだか体から発散しているような、ちょっと人とは何かが違う方で、頼りがいがあり気さくで、なんらかのパワーを持っている方でした。私は日本人では19番目の弟子で大体はフランス人とインド人で、かなりユルイヨガであった。宗教ではない。どうやら今は東京や名古屋にも教室があるらしい。人の為に思いを寄せる事はとてもいいことだ。共感している。この地球に一緒に生きているのだし・・・今はもうやってはいないが、(たまには瞑想するのだが・・・)ここで教えてもらたことに感謝している。マスターのお母さんにもみてもらった。マスターありがとう・・・・

終着地ロンドン

2010年10月16日 11時47分42秒 | 
いや~ネパールを出てから8ヶ月。ロンドンに着いたよ。陸海路で百数十の村町を巡りやっとたどり着いた。ほぼ目的達成。まずは友達の真理ちゃんを訪ねよう。ロンドン市内の富士レストラン(オーナーはあのサディスティックミカバンドのミカさん。後に店で息子さんと一緒のところを目撃)を目指す。いるかなぁ?何年ぶりかな?
よ~し日本食(完璧な)を食べるぞ。絶対食べる。おいおい会いに行くのかい?食べに行くのかい?
お~真理ちゃんだ。ハラ減ったよー。(まずそれかい)何?おごってくれるの?いや~~悪いな。じゃ~カツ丼!!!真理ちゃん元気だった?(カツ丼「ちなみに¥2500くらい」食べながら)真理ちゃんちに泊めてくれるの?悪いね~・・・(それから1ヶ月間居候の身になる)日がなロンドン生活。カリフォルニア米もあるし、なんでも手に入るので、何ひとつ不自由のない食生活。ただ回りが黒人街、夜は外出しちゃだめよって注意を受ける。真理ちゃんはしもちゃんというパートナーと暮らしている。しもちゃんにはソーホーのOKAMAJAZZバーによく連れて行ってもらった。お客がやはりあちら系統で、これがまたjazzを歌うのだが、上手!男同士?いちゃいちゃしているのもいる。不思議な感じ。まぁいいかっ。司会のオネーサン?は腕が隠れるくらい長い手袋?(なんか欧州ポイお上品な貴族とかがしているやつ)でこれまた長いキセルを持っている。伴奏はピアノ。楽しかったなぁ。
そしてすぐそばに真理ちゃんの友達のリチャードが住んでいるのでそこに行った。古い建物で、昔、売春宿だったという。そこには日本人の女の子が居候していて、数人?語学留学っていってますが・・・なんかユル~イ感じです。みんなでドリアンを食べた。なぜだ?こっちでは普通なのかドリアンを食すのが・・・美味しかった。クラブにも行きました。お客さん回りの感じがなんか絵になっていてワシ場違い。映画のワンシーンみたいです。
真理ちゃん家はハイデッカーで53番に乗るのです。ビックベンを横目に橋を渡り南に向かうのです。もしくは地下鉄エレファント&キャッツスルでバスに乗り換え。近所にはこれまたJAZZライヴハウスがあり近所のおじさんやなんかが夜な夜な演奏しにきている。フリーマーケットに行ったり、観光したり。街で札幌ラーメンも食べました。両替しにアメックスに行ったら柴田恭平がいて(一緒に並んでいた)私知り合いじゃないけどなんか日本人のよしみで(どんなんじゃい)挨拶しました。すると柴田さんポケットに手を突っ込んだまま軽く会釈してくれました。おお~~~柴田恭平炸裂!!かっこ良すぎる。
でもこんな生活どうなの?どうしようこれからなんて思って1ヶ月近くたちまして・・・ふっと空を見上げるとコンコルドがただただ飛んでいた。ちょっと何故か虚しくなったりして・・・閃きました。アフリカに行こう・・・・・・(この後アフリカ横断計画に・・・)   

ラマホテル/ネパール1991/1/1

2010年09月14日 17時54分45秒 | 
 多分3000mくらいだと思う。ラマホテル。ここはヒマラヤ山脈ランタン村(3500m)へ行く途中のバッティ(山小屋)。心持ち空気が薄い。トレッキングをスタートしてから3日目。はっきり言って辛い。ポーターのシェルパ、カンチャさんを雇って荷物を持ってもらっている。(寝袋等)だがド素人には大変だ。甘かった。こんなに辛いとは思わなかった。目の前をイノシシが通り過ぎたり、足を滑らすと絶対お陀仏な斜面、数百メートルある断崖の縁。あ~何という危ないトレッキングなんだ。聞いてないよ~!しかもツアー会社ではスニーカーで十分って・・・雪ありますよ~~~!朝早くから登り始めて次のバッティに着くのが夕方。昼は2時間ほど休憩。昼食はほぼ毎日大根か干しいぶりカリフラワーのカリィーで、ご飯んは標高が高くてそのまま炊けないので圧力鍋で調理。さすがにこんなに運動(トレッキング)したらお腹ぺこぺこ。大根カリィも美味しく食べられました。けどへとへと。さて後半戦のトレッキングだ!こんなのを3日間続けた。ただ夜にバッティの人やトレッカー?の人たちと踊ったり、歌ったりいろいろ面白い事もあった。そしてここラマホテルではなんと人生最高の星空を見る事ができた。やっと晴れたのだ。結局8泊9日のうち一日だけ晴れたのだった。そうそう明日ランタン村へ行くのだが、同じだけ降りなければならないのだ。村に近づくと子供たちが走ってやってくる。そして開口一番「ここ化膿してんだけど、傷に効くやつ」って・・・・そうか薬品が足りないんだここは・・・困ったことだ。とりあえず傷薬を塗ってやる。そしてじゃんけん遊びなんかして、友好を深める。で、となりでヤクがチラッとこっちをみているような気がした。「おまえは前世で私の子供だったんだよ」って????チベット密教だ!
ここらはブッタの祠がいたるところにあって、今ちょうどダライラマがウ゛ァナラシーに説教に来ていて、ここらのバッティの主人はみんなダライラマに会いに行っていて、女子供しかいない。ナンダカンダ言ってこうやって無事にいられるのは大日如来のおかげなのかな。
振り返ると良い旅だった。

ウ゛ィアナ・ドアレンテジョ(ポルトガル‘91)

2010年09月12日 19時06分10秒 | 
何もないわけではないが平和なのんびりした街。ちょういと立ち寄った街。ガイドブックにも載ってない。(当時)スペインに抜ける途中下車。泊まるところがあるのかどうかも解らず。まぁ行ってみよう。
なんかホント田舎だなぁ・・・白い円錐形の屋根やなんかは雰囲気ありますね。
夕方だったんでちょいと散歩して商店の上の宿に帰ると、店の前でギターを弾いている若人を発見。早速近寄って行き、「ちょっとワシにも弾かせろ。」ギターを貸してもらいブルースを歌った。I’d rather drink muddy water ・・・久々で、しかも弾きにくか~。でも盛り上がった、こんなもんで大受けするなんて。ニールヤングも彼らは知っていたりなんかして、いい感じ。最後はハグハグありがとうモードでさよならした。こんなたわいのないことなんだけど、音楽は凄い!と思った。見ず知らずの彼らと出会い一つになった瞬間。たぶんもう会う事は無いだろう。若人と店の人に感謝。そーいえば店の軒先でやっていたんだけど、お客誰も来なかったなぁ。・・・・

タベルナでナニ食べた?

2010年09月07日 18時24分57秒 | 
東方飯店にたどり着いた。ここはアテネ.トルコのチャシュメからキオス島経由フェリーで入国。トルコの食も決して嫌いではない。ただまだ羊系が続いていたのでそろそろ限界が入っていた。トルコパンもヨーグルトもオイシイ。羊のミートソーススパゲティも食べられた。でもそういうんじゃないんだな。羊の世界?ローカルバスもにおい系羊の世界。パンに羊の脂を塗ってまで食べる世界。そうそうイスタンブールにはきっと日本食でも何でもあるんだ。麺だってあるんだ。トルコは世界三大料理なのだ。でも今回は珍しく食欲に勝った。でも普通はイスタンブールはずさないでしょう。本当にどうしてもエーゲ海からギリシャに入りたかったんでしょうか。あの青いエーゲ海の真珠、真っ白な建物、猫が昼寝、(こんなイメージで、だから?ってとこなのに・・・)でも実際は夜の運行でキオス島以外ほかの島には寄らず、ただただ寝ていました。しかも寝過ごしました。アテネ港に着いて掃除のおばさんがウロウロしてその気配で起床。こんなんでいいのか?緩すぎやしないか?と思いながらフェリーを降りて地下鉄に向かう。安宿を見つけ街に繰り出す。目指すは東洋的飲食店。ん~~~韓国料理!!ユッケジャン美味しい!韓国冷麺美味しい!イラン/テヘランの乾いたすし(まぐろ)以来だ!そういえばアテネではタベルナでナニ食べたっけ?思い出せない・・・・

アンジュナババレストラン

2010年09月03日 13時37分17秒 | 
18年ぶりのババのマスターはワシの事を覚えていた。ワシは懐かしくて懐かしくて・・・グッときてしまいました。ここはアンジュナビーチ。初めてゴアに来たときちょうどこのババレストランの裏手の教会の近くに宿をとったのである。ただそこはシャワーなし水は井戸からバケツを放り込んで引き上げるタイプの宿(そんなタイプの宿なんてあるわけないとおもわれるかもしれませんが・・・)だったので大変でした。照明は裸電球一個その周りにはヤモリ付き.トイレはフィールドトイレットだったので星空を見上げながらがの用足しはいいものです、が・・・・・・けっこう当時(91年)はこのタイプの宿がありました。まだあるのかな?隣に滞在しているスイス人はこれが良いんだって言ってたけどワシは1週間後にはそこを出てカラングートの方に引っ越しました。(だって髪洗うのも大変なんですもん・・・)
引っ越してからも(長期滞在中、結局合わせて8ヶ月ほど滞在)ババレストランは通い続けていました。日本人が集まりちょっとした村状態で(ワシは村民にはならなかった)長くそこに居住ついている長老的存在の方がおりました。(なんかちょっといっちゃっているカンジなんで)それでもいろんな日本人がやってくるので面白い日々でした。ここでは書ける事とそうじゃない事がありますが書ける事を書きますが(当たり前か?)かけない事の方がかなり面白いんだが(いやいやくだらないだけかな?)次の話は比べると面白くない方なんですけど・・・・縁があった岡山大学の学生。ワシの友達と友達だった。それはトリバンドラムコウ゛ァラムビーチで出の会いでした。なぜか相撲世界大会(旅人級)を主催しいた。でもこれはビーチバレーボール世界大会(ビーチバレーではありません6人制)の腹いせではないかと思う。このバレーボール日本チームはアメリカとかヨーロッパチームに弱くて負けてばかりだった。ワシも参加したとき南印度方面を似たようなルートで回っていたアメリカ人と対戦する事になり惨敗。くやしい。ならば相撲ならってんで考えたんでしょうけど無理がないかい?彼は完全に相撲体型。ほぼ全勝でしょう。外人に教えるところから始めたのか?
ちなみに榎木孝明がそこにいました。バレー大会はでたんでしょうかねぇ?印度好きだったんですかね。
で、ワシ札幌なんですなどと話しているうちに利尻島の集会があってという話になったときワシの友達もその集まりに出ているよってことになり、なんと友達だったという。世界は狭い?この彼はゴアパーティが大好きで、いつも外人には負けられないと日本人魂を全開でした。なんかいつも顔とかに傷がついていたり血だらけになっているのはなぜ?パーティの次の日自分は無事でここに存在しているぞ~というアピール(本人曰く。)で着ていた衣服を(洗濯済み)長い竿にくくりつけ天高くなびかせるのであった。でもやつらといったいどんな戦いをしているんだろう?変なやつ・・・
しかしなんと一年後ワシが日本に帰国する少し前にバンコクでまた会ってしまったのである。心持ち大人になってたようななってないような・・・・日本的礼儀正しさを醸し出していた。
こんな奴らが(もっと危ないのがいっぱい)集まっていたババレストランは最高だ!・・・
うちのスタッフの後藤(一緒に旅した北大生)も世話になりました。このことはまた後程。ババマスターありがとう!イラストは91年当時アンジュナビーチ。浅野哲哉氏直筆のコピー。

M16

2010年08月31日 16時21分16秒 | 
実は、と言っても隠している訳ではないのですが、M16小口径自動小銃(アメリカ製、ベトナム戦争で使用してたやつ。)をある意味乱射しました。と言っても計30発なんですけど。セブ島のとあるガン試射ショップでのことです。強すぎます、砕けます、反動もけっこうあり、音も大きいです、重いです、戦争用です。かなりの本気度です。
これで小口径ですか・・・映画では観じとれない手応えがありました。重いです。小柄な人にも用に改良したにもかかわらずかなり体力も必要です。あの密林の中をこれを持って戦っていたんです。ヤラレルカヤルカです。ゲリラ攻撃です。毎日恐ろしさでおかしくなりそうです。でもこれくらいの強力さは必要です。自分を守る為にも。
土手の土が砕かれ標的には当たらずも(最初から狙っちゃいなかった、ちまちま撃つつもりなし)M16と一体化した.ものの1、2秒で終わった。実は10発ずつしか撃たしてもらえへんかったんどす。(決まりだそうで、不満)最初RPG-7はないのかなんてばかなことをたずねたんだがそれはないってーいうんで仕方ないからM16はと聞くとOKサイン。いっそう戦争の重さや強さを観じたひと時でした。武器メーカーも撃つと友好的になる銃を作ってほしいものだ。ドラえもん以外無理か。

エルサレム’91

2010年07月23日 18時45分29秒 | 
アフリカ横断を終えて、ヨルダンのアカバに着いてペトラ、アンマン経由でエルサレムに入った。宿は旧市街の中、パレスチナ人地区。この国の難しい問題はひとまず置いておきます。まずはウ゛ィアドロローサからゴルゴダの丘まで歩いてみる。十字架を背負い(背負ったつもりで)ゆっくりと。途中ウ゛ェロニカが汗を拭くようにヴェールを差し出してくれた。ゴルゴダの丘まではけっこう時間がかかる。しかも勾配もある。凄い体力だ。無理だ。
十字架のあったところは祠になっていて信者の人たちが額をつけてお祈りをしていく。私も敬意と感謝の気持ちで額をつけた。ここまで無事に旅を続けさせてもらってありがとう・・・
奇跡の人か・・・2000年も前の事・・・で今世界はどうなっている、91年湾岸戦争のすぐ後にここにきている。街はマシンガンを持った兵士が要所要所で警戒している。バスに乗れば女の子の兵士がマシンガンを持ってつり革につかまっている。ユダヤ人の乗るバスとパレスチナ人の乗るバスが別々の会社なのだ。日本人はどちらのバスにも乗れる。旅の中で最も来たかったエルサレム、お土産のTシャツに「アメリカよ心配すんなイスラエルがついている」というジョークがプリントされていた。ある意味ジョークでなかったりして。憎しみの連鎖、アンマンの空港でパレスチナ人のおじさんが絶対に許さないと言っていた。力を込めて熱く・・・なんか悲しくて力が抜けた。まだ続くのか・・・・・ものすごく深い世界がここにはある事を知ったのは日本に帰ってきてからである。嘆きの壁に世界が平和になりますようにと願いを書いた紙を挟めてきた事がむなしくなった。何の力にもならない・・・・ただ世界を眺める自分・・・