柳川市内の三柱神社さんが藩祖の立花宗茂公にちなんだ
面白いお守りをつくられたとの新聞記事。
なんと、就職活動のお守り、です。
なんで、そんなものをという理由は以下の説明をご一読下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三柱神社
文政九年(1826年)創建で藩祖立花宗茂公と夫人の千代姫及び
岳父戸次道雪公の三神を祀り社名もこれに起因している。
戸次道雪、立花宗茂共々戦上手で負け知らず!
だからか、勝負を掛ける時、願を懸けに訪れる人が多く
「勝守」を大事に持って帰られる。
慶長五年(1600年)宗茂は西軍として臨んだ関ヶ原の戦は
直接参戦することが叶わないまま敗戦。柳川へ帰るが
改易となり一族郎党失職し浪人となった。約六年の就職活動に
より慶長11年(1606年)二代将軍徳川秀忠は宗茂を「大番頭役」として
江戸城警備の役目につけた。
再就職を果たした宗茂は慶長19年(1614年)大阪冬の陣、
元和元年(1615年)の大阪夏の陣において徳川方として戦い、
その論功行賞として元和六年(1620年)柳川藩12万石の城主として
一族郎党共々復活した。蘇った。実に関ヶ原の戦から20年後のことで
あった。関ヶ原の戦以来島原の乱頃までの日本は歴史上一番の
就職難の時代、そんな時代に宗茂は再就職を果たし、かつての家来を
引き連れて柳川へ戻って来た。
今は17世紀前半の宗茂の時代に匹敵する就職難の時、三柱神社を訪れる
人は多い。そして「成就」、「蘇」のお守りを求める方も多く見られる。
宗茂やその一族郎党にあやかってほしいと神官も毎日祈っているようだ。
只、関ヶ原の合戦の折一人柳川で留守を預かり護った千代は改易の
2年後の慶長七年(1602年)熊本県玉名郡長洲町で亡くなり(享年35才)、
夫と一緒に柳川へ帰ることは出来なかった。
三柱神社は立花宗茂公、千代姫、戸次道雪公を祀っている。
面白いお守りをつくられたとの新聞記事。
なんと、就職活動のお守り、です。
なんで、そんなものをという理由は以下の説明をご一読下さい。
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三柱神社
文政九年(1826年)創建で藩祖立花宗茂公と夫人の千代姫及び
岳父戸次道雪公の三神を祀り社名もこれに起因している。
戸次道雪、立花宗茂共々戦上手で負け知らず!
だからか、勝負を掛ける時、願を懸けに訪れる人が多く
「勝守」を大事に持って帰られる。
慶長五年(1600年)宗茂は西軍として臨んだ関ヶ原の戦は
直接参戦することが叶わないまま敗戦。柳川へ帰るが
改易となり一族郎党失職し浪人となった。約六年の就職活動に
より慶長11年(1606年)二代将軍徳川秀忠は宗茂を「大番頭役」として
江戸城警備の役目につけた。
再就職を果たした宗茂は慶長19年(1614年)大阪冬の陣、
元和元年(1615年)の大阪夏の陣において徳川方として戦い、
その論功行賞として元和六年(1620年)柳川藩12万石の城主として
一族郎党共々復活した。蘇った。実に関ヶ原の戦から20年後のことで
あった。関ヶ原の戦以来島原の乱頃までの日本は歴史上一番の
就職難の時代、そんな時代に宗茂は再就職を果たし、かつての家来を
引き連れて柳川へ戻って来た。
今は17世紀前半の宗茂の時代に匹敵する就職難の時、三柱神社を訪れる
人は多い。そして「成就」、「蘇」のお守りを求める方も多く見られる。
宗茂やその一族郎党にあやかってほしいと神官も毎日祈っているようだ。
只、関ヶ原の合戦の折一人柳川で留守を預かり護った千代は改易の
2年後の慶長七年(1602年)熊本県玉名郡長洲町で亡くなり(享年35才)、
夫と一緒に柳川へ帰ることは出来なかった。
三柱神社は立花宗茂公、千代姫、戸次道雪公を祀っている。