1983年創刊 月刊俳句雑誌「水 煙」 その2

創刊者:高橋信之
編集発行人:高橋正子

さくら便り/2008年6月号

2008-04-12 20:24:04 | 本文
 ①松山 おおにしひろし

 二月の寒さがやっと遠のいて桜便りが聞かれるようになった。そこで、最もその話題にふさわしい、儚くも美しい、可憐な松山の桜を取り上げ「花便り」としたい。松山の桜開花は例年より若干遅れ三月下旬の末期と言われる。各地に桜の名所は数多くあるが此処松山にも結構それなりの桜の名所・旧跡が点在する。規模、その種類等に幾分の差はあってみても、花の可憐さ、そして花見る人の心に変わるものは無いと思う。

 (1)乳母桜(松山市南江戸町・大宝寺)
 市の西方の山麓にある大宝寺境内の一本桜で、国宝の本堂は鎌倉期の建立である。この桜は名古木で通称「乳母桜」(学名・エドヒガン)と呼ばれ「染井吉野」より十日ばかり早咲きだが白みの濃い極薄紅の花は本堂前の広場一杯に咲き広がり、見る人を圧倒している。この木には哀しい伝説が伝わっている。
 昔、子宝に恵まれない長者が大宝寺の本尊お薬師に願掛けし願いかなって女の子が生れた。「露」と名付け、その乳母は大切に育ててきたが、お乳が急に出なくなり仏様に御願いし回復、その御礼に長者は本堂を建てた。それが現在の大宝寺の本堂だと言う。露は美しい娘に育ったが十五歳の時重病にかかる。乳母はわが命に代えてお嬢様を助けて下さいと御薬師様に祈る。お露は元気になるが乳母は病に倒れる。彼女は御薬師様との約束ですと薬も口にせず「御薬師様に桜の木を植えて下さい」と言い残して死んでしまう。長者は言われたとおりに桜を植えたが不思議なことに桜の花の色は母乳のような色になったという伝説です。げに哀しい話しですが、この話しは明治に入りラフカディオ・ハーン(小泉八雲)によって英訳され米・英国で出版された「怪談」にも収録されている。乳色の花びらは今も変わらず美しく伝説を思わせ、人の愛の大きさを想起させてくれます。

 (2)薄墨桜(松山市下伊台町・西法寺)
 松山市から奥道後への国道を道後石手寺を過ぎて、緩い山麓に入って行くと直ぐ左に折れ、左右濃い紅色、香り高い桃の花に包まれる勝岡山麓に入っていくが、やがて,その中腹の古寺鎌倉時代創建の西法寺に着く。本尊は薬師如来坐像で矢張り同時代の作と言われる。シャガの花咲く石段を登ると本堂が見え、その前に薄墨桜の木がある。大木ではないが古木で花は染井吉野が散り始めた四月中旬が見頃である。山桜の変種で「イヨウスズミ」の学名。花は染井よりも幾分大きく径三センチほど、花弁は二十枚ほどの八重咲き、白色で僅かの紅を持ち上品、淑気に満ちた美しい花である。その花名には次のような寺の縁起が残されている。
 昔、某皇后が御病気で道後温泉に入湯せられた時、西法寺で祈祷され、程なく全快された。勅使が寺に来られ薄墨の綸旨(りんじ)に桜を添えて下賜されたと言う。以後、その桜を薄墨桜と呼んだという。花弁には浅い刻みがあり淑やかで上品な花は、つとに有名となり参拝者は後を絶たない。古代のロマンに彩られたこの桜は子孫を増やし寺内には数本が花を咲かせている。又、寺辺の山腹には染井吉野が鮮やかな妍を競い咲き満ちる。山地のこともあり、鴬等の鳥の訪問が絶えない。

 (3)市内各所の桜
 以上、市内での特に由緒ある著名な桜を二つ挙げたが、他に桜名所は限りなく、市民にとっては無くてはならぬ花の散策場所として又、道後、奥道後、松山城、新しい県総合公園、石手川公園、三島神社等史蹟、公園として大きな価値を持つ桜の名所も数多い。
 先ず、松山城公園を挙げよう。公園の桜は染井吉野が主体で、修復成った天守閣を核とする広場、桜の道、は桃の木も交え遥かなる石鎚山の遠望、青くかすんだ瀬戸内海の茫々とした眺望等を組み合わせた桜の配置等天守閣とともによく調和がとられ最高の桜風景となっている。特に城郭と城門の配置は戦国の城塞技術、戦闘技術も含め桜との対比が素晴らしく関心をそそられる。全て、夫々の自然と桜、構造物との対比は最高に楽しめる。
 市街から天守までの道は、初代城主加藤嘉明からの大名行列道、武士達の登城道として今も残り利用できるが現在はケーブル、リフトが是に変わり終日運転されていて便利である。山頂と登山口には子規、虚子の師弟句碑が立っている。
 松山や秋より高き天守閣    子規(ケーブル頂上駅広場)
 遠山に日の当りたる枯野かな  虚子(ケーブル始発駅側)
又、市内を流れる石手川は堤防敷の殆どが地区に分かれ石手川公園緑地帯となっており、相当数の桜の古木が残存する。その総延長は殆ど二キロにわたり花時には万人の花見客で賑わう。特に一部地区には枝垂桜の古木が集中して保護され残存する。河心に向かい枝垂れる桜は見事というほか無い。
 この石手川を遡ると奥道後公園地帯で道後公園の桜とともに、山腹を這い登る桜樹林も見事、「花の吉野」に及びもつかぬが壮大感は十分である。奥道後山頂へはケーブルがあり山腹に広がる桜樹林を見下ろせば、その紅は華麗に過ぎる。
更に石手川を瀬戸内に向かい河口を下がっていくと一級河川・重信川と出会い、瀬戸内海に出る。河口近くからやく一キロ近くに桜並木が河口まで続く。古木も多く、桜終期の花の散り際は見事、岸辺のテトラポットの間を彷徨う花筏も中々の風情である。瀬戸内の落日を背景とした花の変化、美しさも又格別のものだ。
 忘れてならないものに県総合公園の桜がある。この公園は松山城とは全く対照的に東西に位置し、夫々の眺望もまた、桜を加え見所がある。山は全山を巡る道路も完備しており折々の桜を堪能できる。千本を越える椿苑もその季節には山を彩ってくれる。
 以上、走り書きだが、最後に思うこと、当たり前の事であるが「桜には風景がよく似合う」ということだ。人は時に花の美しさに捕らわれ勝ちだが、大きな環境の中でこその桜なのだと思う。そんな環境の中での実感としての季感を桜にも待ちたいと・・・便りを書きながら思った。
 乳母の像乳ふふませて花にいる
 乳母桜昔哀しき由緒に咲く
 春時雨子をかき抱く乳母の像
 銃眼の四角い窓に桜咲く
 薄墨の里に桃咲く桜咲く


 ②久留米 國武光雄

 浅井の一本桜(福岡県)
 福岡県久留米市は、九州の大河筑後川と緑なす耳納連山に抱かれた自然豊かな町です。ブリジストンなどを中心とした「ゴムのまち」として栄え、久留米絣や藍胎漆器などの地場産業も盛んです。また、福岡県の中核都市として商業も盛んです。さらに、農業も盛んで、米麦・野菜・果物・植木・花卉などを生産しています。そして、温暖な気候を活かした農業を背景に、久留米ラーメンなどの豊かな食文化が育まれています。
 今回ご紹介します「浅井の一本桜」は、久留米市の東部、耳納連山の北部に位置する浅井地区の山堤のほとりに一本ぽっんと立つヤマザクラです。このさくらは、昭和天皇御大典記念に植樹されたもので、樹齢は千年ですが、幹の太さや全体のボリューム感は、樹齢六百年の桜にも負けないほどの堂々たる風格があり、又花密度も高い桜です。昭和六一年には久留米市の保存樹木に指定され、市内はもとより県外からもこの桜を見に訪れる人々が年々増加しています。平成三年には台風により、枝折れなどの被害を受け枝先が枯れるなど樹勢の衰退が見られましたが、地元の人たちの献身的な復旧作業により、勢いが回復し毎年春には元気な姿を見せてくれるようになりました。
 開花は通常のソメイヨシノより1週間程度遅れ、ソメイヨシノが殆ど散ったとき、大きく広げた枝いっぱいに淡いピンクの清楚な花を咲かせます。また、シーズンにはライトアップもされて、夜間のため池に写る「逆さ桜」は息をのむ美しさです。特に、日没直後の空の青さが残っているわずか10分くらいの短い間の美しさが最高です。
 爛漫や水面に写る山桜
 花びらを重ね水面の逆桜
 ほのぼのと麓を照らす老桜


 ③滋賀長浜 まえかわをとじ

 私の吟行地・豊公園の桜
 長浜の春は一月半ばに始まる盆梅展で幕があき、二月に入ると大通寺(長浜御坊)の馬酔木の展覧会が始まる。同時に長浜城の裏の湖岸に広がる梅園の約千本の梅が咲き出し一挙に春めいてくる。今年も、大通寺での馬酔木展は既に二月から始まってをり(四月十九日まで)、琵琶湖の小白鳥も第一陣が三月十七日に北へ旅立った。
  軋む縁馬酔木の鉢を一列に    をとじ
  方丈は雪の伊吹峰借景に     をとじ
  馬酔木展庫裏にも人の気配して  をとじ
 四月になれば豊公園の桜が見ごろを迎え、長浜曳山祭りへと続き、湖北も春本番となるのである。今回は、右のような近江・長浜の桜についてお伝えする事とした。今回長浜を取り上げたのは、長浜が私の故里であり、子供の頃から慣れ親しんだ遊び場である。同時に今は私の句作り上のフイールドであり、油絵の素材探しの場でもあるからに他ならない。今でも月に一~二度は長浜を訪ねている。
  近江路の子供歌舞伎や春深し   をとじ
  花冷えや曳山傾ぎ軋みけり    をとじ

 (1)近江・長浜と長浜城
 名神高速道路米原ジャンクションを経由し北陸道の長浜インターで一般国道に出れば、そこはもう長浜市街である。約十分で今回目的の豊公園に着く。(JRならば北陸線「長浜」下車徒歩十分で豊公園に着く。)羽柴秀吉が、はじめて城持の大名に出世し、秀吉が居城として築城したのが長浜城である。この辺の事情はNHK大河ドラマ「功名が辻」でも詳しく出て来るので割愛するが、その後長浜は、城下町として、又廃城後は門前町として湖北の文化の中心として発達してきた。この長浜城は一六一五年に廃城となったが、昭和五八年に模擬城として再興された。その際その本丸跡を再々整備されたのが現豊公園である。尚お城は、外観はお城であるが内部は「歴史博物館」である。

 (2)豊公園の桜
 豊公園は前述の通り長浜城の本丸跡を中心に整備された緑豊かな総合公園である。長浜城主だった豊太閤・豊臣秀吉公にちなんで「豊公園」と名づけられた。 長浜城歴史博物館をはじめ、音楽が流れる洋風庭園や噴水、児童公園、サル園、シカ園、プールやテニスコートも整備されている。およそ、九百本のソメイヨシノや山桜が植えられ、日本さくら名所百選に選ばれている。又、前述の通り、お城の裏手の湖岸には約千本の紅白の梅があり、琵琶湖に浮かぶ水鳥と共に三春を彩る風情がある。豊公園内の小高い場所に小さな祠と、「おかねさんの碑」がある。長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられている。天正二年、長浜城が築かれることになった折。強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれた。若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものである。
 著莪分けてたどる祠の小さける  をとじ
 花が終わり万緑の季節となっても、この公園は訪れる人の絶えない憩いの公園だと思われている。
 葉桜となりて城垣高きかな    をとじ
 噴水のやみて天守のはっきりと  をとじ


 ⑤さいたま 大山 凉

 (1)玉蔵院の枝垂桜 
 さいたま市内には玉蔵院の枝垂桜、円乗院の千代桜、円蔵院のシダレサクラが親しまれています。レッズの街という真っ赤なイルミネーションの耀く浦和駅西口から徒歩五分、繁華街の旧中仙道から西へ入った一角に名刹「玉蔵院」があります。江戸時代には板橋宿、蕨宿、そして浦和宿へと、中山道を旅する入り口の「焼米(やきごめ)坂」(江戸時代に米を籾のまま炒って殻を取ったものを売る茶店があったそうです)を上り、浦和宿に入ると右手に調(つき)神社があります。この神社は鳥居が無く、狛兎が置かれているという変わった神社です。其処から中山道を北へ五、六分の所にある玉蔵院は、弘法大師によって開かれたと伝えられている真言宗の寺です。平安時代の創建とされ、地蔵信仰の寺として長い歴史を持っています。江戸時代、関東の十大仏教学問所のひとつに数えられた名刹です。毎年八月二十三日に行われる施餓鬼は関東三大施餓鬼の一つに称されています。   
 桜咲く巡る自然は律儀なり
 山門の古千社札に桜東風
 白い大石と白砂を配した石庭と本堂の前の庭にある枝垂桜の古木は、浦和の桜の開花を示す桜といわれています。隣に建つ地蔵堂の前には早春を告げる紅白一対の梅が見事な姿を見せてくれていました。近くには県庁、市庁舎、図書館、ホテル、デパート、オフイス、レッズ・オフィシャルショップなど市の中心街としての賑わいを見せています。私の生家はここから五、六の所にあり、玉蔵院は子供の頃からの遊び場の一つ、周りには幼馴染が何人も住んでいました。花祭り、盆踊り、施餓鬼、朝顔市、植木市など今も市民の憩いの場所になっています。浦和っ子の私にとってはこのお寺様と調神社、別所沼は、当時から見ればすっかり様変わりをして整備がされていますが、物心ついたの頃からの懐かしい思い出が沢山に残っているところです。
  懐かしき想い出映し桜咲く 
  枝垂れ桜陰踏みくぐる寺の門
  青空より枝垂れて落ちる花の滝
 今年は、この暖かさで一気に開花して、幽玄な姿を見せてくれています。古木ですので沢山の支柱に支えられ、たった一本のそんな大きな樹でもないのに、その存在感は大きく、たおやかに咲く風情には心惹かれます。満開の頃は人で混み合いますので、少し時間を早めて出かけてみたのですが、あっという間に狭い境内は混み合い始めました。
  風に舞う桜花に心泳がせて
  肩に触る枝垂れ桜の風やわら
  老いてなおしなやかなる枝垂桜
 しなやかに揺れる薄紅色の枝垂桜は優しく見る人の心を和ませ、華やぎを与えてくれます。「綺麗ですね」「今が見ごろですね」などとささやく声、ため息が聞こえ、シャッターの音も弾んでいます。母子連れ、年配のご夫婦、車椅子に乗られた方、昼休みの背広姿の人たちの笑顔もさくら色に耀いています。夜はライトアップがされ、昼間とは違った幽玄な、少し妖艶な姿も見セてくれることでしょう。染井吉野のも前庭に鐘楼と欅古木を囲んで咲き、又枝垂れ桜とは違った風情を楽しませてくれています。  
 漆黒の天より枝垂る桜かな
 夜の闇刹那に散り初む枝垂桜

 (2)円乗院の千代桜
 埼京線・与野本町駅から七、八分の旧与野市に位置する「円乗院」は鎌倉幕府の武将・畠山重忠が創建したものを慶長の時代に当地へ移建した名刹です。文永二年(一八六二)焼失。慶応3年(一八六七)再建に着手、その時用いた杉の大柱は、今なお健在です。この柱は、当時境内の「地蔵杉」の大木から採ったものであり、一本の木から実に六十七本もの柱材が採れたという話です。山門の右側にある高さ三十mの多宝塔は、弘法大師一一五〇年御遠忌記念事業としてこの大塔を建立(昭和五六年五月一七日落慶)され、日本で三番目の大きさだそうです。
 本堂の右側にある高さ六mの「円乗院の千代桜」は樹齢二六〇年、全長十一mにもなる見事な枝垂れ桜で、市の天然記念物に指定されています。境内には牡丹園もあり毎年四月下旬には牡丹祭りが行われます。枝垂れ桜が青空をさえぎるように咲き、地につくほどに枝垂れ、染井吉野より少し赤みがある沢山の花を咲かせ、風に揺れる姿はとても艶な状景です。ここも街中にありますので、満開の頃には沢山の人で賑わいます。
 青空をさえぎり枝垂る桜かな
 さいたま市内には、あちらこちらに桜の名所があります。大宮公園は県内屈指の桜の名所で、「日本桜名所百選」のひとつに数えられています。染井吉野を中心に八重桜、山桜、彼岸桜など約千二百本の桜の花が花雲のように空を蔽い、沢山の花見客で賑わいます。与野公園の桜と薔薇園、荒川べりの鴨川桜堤は全長二キロの長い桜並木です。のんびりと土手に寛ぎながら桜を眺めるのも素敵です。別所沼のほとりで観る桜、調神社の桜古木の重厚な桜など、満開の桜が市内のあちらこちらに展開され、春を満喫させてくれます。 今年は桜の開花が早く、少し散り始めた枝垂れ桜と満開の染井吉野が美しく、まさに春爛漫の光景を見せてくれています。   
 桜舞う土手に寝転び空真青
 花雲に蔽われ空は余白なし
 はらはらと音無く桜散りにけり


 ⑥秋田 丸山草子

 男鹿市役所の裏に、桜の名所となっている小高い泉台児童公園がある。その公園の中に鯨学校の記念碑が建っている。鯨学校の由来は、明治二十二年に海岸に鯨数百頭が打ち上げられたことに始まる。住民はこれを捕獲し、このうち五十頭を地域住民に配分し、残りを売却して、海を見下ろす高台に二五八平方メートルの学校を新築した。以来(現船川第一小学校)鯨学校とよばれた。そして記念樹として校舎の周りに桜を植えたのだろう。教育熱に燃えた先人たちの熱い思いが偲ばれる。四月九日の今、この桜はまだ二分咲き位であるが、まもなく満開となり市民の目を楽しませることだろう。
 北国の春は桃、梅、桜が時を同じくして一斉に咲き始める。青い海を見下ろす老木は今年も華やかに咲くことだろう。


 ⑦横浜 高橋正子
  
 三月三十日、三時ごろ、金蔵寺の桜を見に出かけた。桜は、寺の屋根に覆いかぶさるように咲き、境内を埋め尽くす感である。参道の入り口に「桜大門」と書かれた大きな石柱がある。そこより三十メートルほどが桜並木。桜並木が尽きると、五メートルほどの道路を渡って山門に入る。山門の入り口右手に樫の古木、左手に芽吹いたばかりの銀杏。山門を入ると、満開の桜である。寺の大屋根も隠すほど。しばらくは、上ばかり見て歩く。一ひら、二ひら、枝を離れる花びらもある。左手少し奥へ入っていくと、六地蔵があり、また少し奥には、密教派らしい派手な彩色の二階建ての弁天堂がある。中央が門となって階段があり、階段をあがリ抜けると、稲荷神社がある。さらに山道となった石段を進むと日吉権現が祀られてある。そこからずっと山道となり、山頂にも小さな堂がある。その山道伝いにも木々にまじり桜がある。山頂は、下草が刈られて広場になり、足下には菫、そして桜と桃が満開である。
 見下ろして桜のいろの上にいる
 花ひとひら上へ上へと散りはじむ
 寺の山一帯は、緑の保存地区となっていて、少ないながらも、季節季節の植物が楽しめるように植えられている。次は躑躅、次は紫陽花、というふう。山頂にお花見をする一家族があった。たらの芽も見つけた。山頂より下りると、あっという間に夕陽が射して来たので、寺を後にした。
 花の寺夕べの板戸を閉める音
 そして思ったが、一体境内には何本の桜があったか。満開の桜は雲のようなかたまりであった。今日十日にまた、桜の本数と樹齢を確かめに、雨の中を境内へ出かけた。桜は、花が散り、花蘂と開きはじめた葉の色が、みずみずしく目に映った。境内に入り、桜の木を数える。五本である。いや、幼稚園の運動場であったところに一本、裏手に廻ると庫裏のところに一本。すぐ上の山にも桜が見える。結局何本と言えば言いのだろう。樹齢を書いたものもない。しのつく雨に、寺はしんと静まりかえって、「ごめんください。」と玄関の戸を開けて、樹齢を尋ねるのも野暮である。直径五十センチから、七十センチの樹たちであるとしておこう。
 金蔵寺は天台宗の古刹で、梵鐘は、家康・秀忠父子による寄進という。