1983年創刊 月刊俳句雑誌「水 煙」 その2

創刊者:高橋信之
編集発行人:高橋正子

私の文学/高橋信之(2008年9月号)

2008-07-09 09:25:18 | 本文
高橋信之三十句

芽吹く樹へつぎつぎ心遊ばせる
春灯へ丸い口開けている湯呑
さくらさくらさくらさくらてのひらに
天ぷらがからりと五月の音をたてる
梅雨の畳に体重のせて歩く音
花火大輪団地の窓に入り切らず
涼しくて山の樹々ひそひそ語る
こおろぎ鳴く同じ地面にわが両足
秋天をひとつ誰もが頭上にもてり
晴れた日の落葉している木の匂い
十一月の薄日の影を横切った
ここでも子等笑う大晦日の湯舟
屋根雪の屋根をずり落ちつつ光る
枯れてゆく岸に空気のきれいな流れ
咲きはじむ野ばらの白よ旅衣を解く
わが影の付き来て楽し寒き日も
囀りの強き一声して去れる
梅雨の光り一本のわが万年筆
メーデーや家の柱の垂直に
 足摺岬
秋雲つぎつぎ寺の庇より離れ
ネクタイ吊るタンスの中も秋の空気
花苗買うわれに妻子のある生よ
花蜜柑インターネットの静かな夜
雪載せてものの形の明らかに
 鎌倉東慶寺
山門があり冬天のきりりと青
 東京小石川植物園
若葉の空がありその下に仲間といる
 琵琶湖
湖の冬うららかに平らかに
きしきしと鳴らして茄子を買い帰る
枯れてゆく匂いの真っ只中にいる
永き日のここはどこかと振り返る


私の文学
      高橋信之

 水煙を創刊したのは、私の文学の師である川本臥風先生のお
勧めによるもので、信之文学を育てなさい、ということであっ
た。その深くを理解することもなく、水煙創刊に踏み切ったの
だが、通巻三百号を発行するこの頃になって、ようやく理解出
来るようになり、そして、自分の文学の輪郭がはっきりとした
ものとなった。
 私の俳句には、五七五の定型とは違った、いわゆる破調とい
った句がある。
 まっすぐひび割れし円柱へ秋風
 第一句集「水煙」に収録されている句で、この句の四五五四
のリズムを京都大学の飛鷹節先生に指摘していただいた。
 秋雲つぎつぎ寺の庇より離れ
 足摺岬の金剛福寺を詠んだ句で、第二句集「硝子体」に収録
しているが、角川書店の「名句鑑賞辞典」に採り上げられ、俳
人協会理事長の宮津昭彦氏にその破調を認めていただいた。
 山門の前には太平洋がひらける。寺の庇を離れた白い雲は太
 平洋へ出て行くのであろう。視覚がのびのび働いている句で
 、八・八・三の破調も作者の感興をいきいきと伝えている。
 宮津昭彦氏の指摘にあるように、私の句が「のびのび」と、
そして「いきいき」しているならば、そのことは、その破調と
無縁ではない。
 メーデーや家の柱の垂直に
 この句は、破調ではなく、定型を守っているが、私らしい句
である。現実容認の心境句である。家の柱が垂直なのは、当た
り前だが、鴨居は水平、柱は垂直、ということで、「当たり前
」のことへの驚き、その大切さへの思いが句となった。「メー
デー」には、政治的な思いはなく、社会的な「季感」がある。
 私の句は、破調の「足摺岬」の句にしろ、現実容認の「メー
デー」の句にしろ、作者自身の心の在りどころが問題で、句の
技巧的なところは、作者の考えにはない。
 芽吹く樹へつぎつぎ心遊ばせる
 秋天をひとつ誰もが頭上にもてり
 永き日のここはどこかと振り返る
 子規の言葉に「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写
生して居ると造化の秘密が段々分って来るやうな気がする。(
病淋六尺)」がある。芭蕉に「松の事は松に習ヘ、竹の事は竹
に習ヘ(三冊子)」がある。また、時宗の祖として知られてい
る捨聖一遍上人には、「華の事は華にとヘ、紫雲の事は紫雲に
とヘ、一遍はしらず(一遍上人語録)」がある。いずれも本質
的には、同じであり、それは、結局日本人の古くからある思惟
方法と、全く同じものであると気づく。つまり、『比較思想論
』というユニークで綿密な業績をなしとげだ中村元氏が言って
いる「与えられた現実の容認」ということなのである。ただ、
何を、「与えられた現実」と認識するか、によって、大きな差
異が生じる。
 日本人の「与えられた現実の容認」は、誤解を招いてはなら
ない。自在の境地、「無法の本法」といった「自在」の境地に
つながるものなのである。
 富田溪仙は、「仙の芸術」について次のように記している
。「仙和尚は型の反対に自在がある。森羅万象が日々に新に
又日に新に生れ出て来る。ここが和尚の道力である。画であ
る。書である。詩である。歌である。俳句である。活発に地に
躍動してゐる。従って、これと云う塊が無いから、自も他もな
い。」また、自らの芸術観について、「美術家は単なる技巧家
であってはならない。深い深い宇宙観とか世界観とかができて
こそ芸術観となる。」といっている。仙とか、溪仙とかの芸
術は、その宗教的経験から出て来た宇宙観や世界観を離れては
、存在し得ないのであろう。「無法の本法」といった「自在」
の境地でもある。こういった境地の作家から生まれた俳句が生
き生きとして新鮮なのである。
 私の文学は、こういった心境を理想としている。