鎌倉街道は信濃、越後、陸奥方面から鎌倉へ通じた道で鎌倉幕府の御家人らが鎌倉へ向かう道として発展したが、今では道路改修・圃場整備・宅地造成など様々な事業で往時の姿が残っているところは少ないそうだ。
鎌倉から上州へ向かう上道(カミミチ・カミツミチ、上の道)、下野へ向かう中道(中の道)、常陸へ向かう下道(下の道)が有名であるが、我が上州から鎌倉への上道を歩いてみることにした。『いざ! 鎌倉へ』
【神奈川県】 2023年4月6日(木)
歩行距離:南町田グランベリーパーク駅~湘南深沢駅 16.3km(累計200.7km)
行 程:前橋駅5:31===09:04湘南町屋---10:34葛原岡神社10:39----10:56化粧坂切通し11:07源氏山公園頼朝像11:10----11:13化粧坂切通し11:15---11:22岩船地蔵堂11:22----11:38寿福寺11:52---13:19白旗神社13:36---13:56鎌倉宮14:02---14:07永福寺跡14:11---14:28鎌倉宮14:28---14:49妙隆寺14:49----15:39鎌倉駅
前橋駅=大船駅(青春18切符2500円)==湘南町屋駅180円 グリーン2000円 駐車料金400円
昼食:1300円 お茶:1300円 合7,680円
【湘南町屋駅 9:05発 鎌倉市】
湘南モノレール湘南町屋駅を降りて坂道を南へ下ると間もなく
モノレールの下に「洲崎古戦場碑」(昭和31年鎌倉大青会)がある
「元弘3年(1333)、鎌倉攻めの新田義貞軍と守る北条軍が激しい戦を行った場所
敗れた北条軍は90人異常が自刃した」
鎌倉市内には、青年会が昭和31年に設置したこの様な石碑が各地にある
【梶原稲荷神社 】
梶原御霊神社と山を挟んで北側の斜面にひっそりとある
由緒を示すものは無い
【霊松山大慶寺(臨済宗円覚寺派) 9:30 1.1km】
茅葺屋根の山門が素敵だが中に入れない
【駒形神社 9:33 1.2km】
この地区に大慶寺などを修復した工匠が住んでいたので「寺分」とい地区名だそうだ
駒形神社は治承年間(1177~1181)の創建で寺分の鎮守。農業の守護神
境内にある弁財天1822年(文政5年)
【天照山東光寺(高野山真言宗) 9:40 1.4km】
永享三年(1431)創建、神仏分離までは駒形神社の別当
弘法大師像前には四国霊場88か所の砂が納められた「お砂場」がある
【梶原御霊神社 9:47 1.8km】
1190年(建久元年)、梶原景時の創建
牡丹?を加えた狛犬
青面金剛 左手に「ショケラ」と思われる
街道にはシャガが咲く
シャガはヒガンバナと同じく3倍体で実を付けない中国原産の帰化植物
日陰道などでよく見かけるが鎌倉時代頃帰化したものらしい
【葛原岡神社 10:35 4.4km】
後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕(建武の新政 1334年)に活躍した日野俊基を祀る神社
明治天皇は日野俊基の活躍を明治維新の先駆けとして評価し、葛原岡に神社を創建した明治21年(1891)
お墓が昭和2年国指定の史跡になっている
【源氏山公園源頼朝像広場 10:55 5.0km】
葛原岡神社から源氏山公園内に入り頼朝像の前で一休み
連れが持ってきたおにぎりを出したらトビに手から奪われてしまった
カラスとトビが同時に襲って来て、手にかすり傷が出来た
【化粧坂(けわいざか) 】
国指定の史跡になっている
仮粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」 (武蔵路) の出入り口に当たります。 鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333) の 新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。
『吾妻鏡』建長3年(1251) 12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上 (仮粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年 (1332) 後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群) があります。 また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、仮粧坂が交通の要衝である と同時に、 都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになっています。(鎌倉市教育委員会)
【東光山英勝寺(浄土宗)】
英勝寺てまえの岩窟(やぐら)に英勝寺が管理する鎮守稲荷神社がある
この場所に智岸寺という寺があったので智岸寺稲荷と呼ばれている
稲荷の隣の「やぐら」にある「阿仏尼の墓」
阿仏尼は「十六夜日記」等の紀行文日記の著者として、藤原定家の側室として、冷泉為相の母として有名
英勝寺の山門派閉まっており中に入れない
よく見ると「定休日」と書かれていた。お寺では初めて見る断り書きである
鎌倉唯一の尼寺
【八坂大神(やさかおおみかみ)】
建久3年(1192年):相馬次郎師常が自邸の守護神として勧請したことで「相馬天王」として創祀される
【亀谷山壽福金剛禅寺(臨済宗建長寺派) 11:35 6.1km】
山門前にある右端、寛文8年の庚申塔(鎌倉市指定有形文化財)
道標を兼ねており川上藤沢宿・川下八幡宮の文字が刻まれている
幼稚園の散歩コース
静かで趣のある参道
本堂は拝めない
ここが通れれば真っ直ぐ北条政子の墓に行けるが崖崩れで迂回
北条政子の墓
凝灰岩質の岩(鎌倉石?)に横穴を掘った墓「やぐら」と呼ばれている
源実朝の墓
【川喜田次郎記念館】
【鉄の井(くろがねのい)】
【昼食 地中海食堂セベリコ 12:05~12:40】
【二十五坊旧跡 】
鶴岡に仕える僧侶(供僧)の住居坊があった場所る。鎌倉時代にはこの僧侶たちは二十五人と定められ、二十五坊の名はここから起きた。明治の神仏分離令によって鶴岡八幡宮は寺院ではなくなり、二十五坊は廃絶した。
昭和39年住宅開発の計画に対して大佛次郎ら著名人や市民が反対運動を起こした。(御谷騒動/おやつそうどう)
㈶鎌倉風致保存会がこの緑地を買い取った日本初の「ナショナルトラスト運動」
このことをきっかけに昭和41年超党派の議員立法として「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)」が制定され。
いよいよ鎌倉街道上道も完歩
【鶴岡八幡宮 12:55 8.6km】
源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請し創建したのが康平6年(1063)
源頼朝が治承4年(1180)に現在地へ遷座
笑っている阿形吽形の狛犬 二の鳥居段蔓
ここが終点
【法華堂跡 13:35 10.3km】
階段登り口左手に白幡神社がある
源頼朝を埋葬した寺であったが明治の神仏分離により神社となった
源頼朝の墓
妻北条政子や息子源実朝と同じ場所ではなく執権北条義時が同じ墓所
北条義時の墓
タイトル:三浦氏が供養されているやぐら
鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏が討たれ、北条家の得宗に権力が集中する機会となった宝治元年(1247年)の宝治合戦において、北条時頼に攻められた三浦泰村以下一族276人は、源頼朝法華堂にこもり、自害したと伝えられています。
源頼朝法華堂があったとされる地とは60mほど離れていますが、ここは自害した三浦氏一族の供養が行われているやぐらです。
やぐらとは? 13~15世紀頃に造られた横穴式の墳墓のこと。鎌倉とその周辺で特に多く見られます。
(鎌倉市HP)
史跡法華堂跡(北条義時墓)の平場の北奥に石造りの鳥居と2列の石段が並んでいます。その石段の上には、左から毛利季光(もうりすえみつ)、大江広元(おおえのひろもと)、島津忠久(しまづただひさ)の三人の、近世に整備された墓所があります。(鎌倉市HP)
【荏柄天神社(えがらてんじんしゃ) 13:42 10.2km】
長治元年(1104年)創建
源頼朝が鎌倉幕府の鬼門の方向の守護社として社殿を造営
太宰府天満宮・北野天満宮とともに日本三天神とも
境内にある絵筆塚1989(平成元)年建設
漫画家横山隆一ら154人による河童のレリーフが飾られている
御神木のイチョウ
【鎌倉宮(大塔宮) 13:55 10.7km】
鳥居が白いのは何故だろう
先の葛原岡神社と同様明治2年(1869年)2月:明治天皇の勅命により創建
後醍醐天皇の息子で鎌倉幕府を倒した護良親王(もりよししんのう)を祀っている
【国指定史跡永福寺(ようふくじ) 14:09 11.2km】
・1189年(文治5年):源頼朝が、9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願
・1191年(建久3年):11月25日に本堂が完成し、落慶供養
・15世紀初頭に火災の後廃絶、2007年以降に復元が開始され基壇(基礎)と苑池が復元
鎌倉PRESS
鎌倉駅近くの蔵を利用したカフェで鎌倉街道上道完歩を祝して帰路に就いた
鎌倉街道上道、高崎から鎌倉まで最短で140km程ですが
神社仏閣や旧跡などに寄り、日帰りの最寄りの駅までの距離など含め200km余りの行程となりました
天気が良ければ日帰り6日、1泊2日1回の8日間で完歩出来そうでしたが雨の影響で9日かかりました
鎌倉街道は幕府の御家人らが鎌倉へ向かう道として拓かれ発展しましたが
歩いた鎌倉街道上道は鎌倉幕府を滅亡させた上州の新田義貞の鎌倉攻めの道でもありました
旧鎌倉街道は近年の開発等により失われたものが多いと思っていましたが
江戸期の五街道整備による衰退、明治維新の神仏分離で失われた寺院なども多いことが判りました
歴史に疎いた街道沿いに残る史跡や解説版など充分理解することが出来ませんでしたが
ブログを書く歴史の勉強をすることができましたが
深く理解し覚えるまで至らなかった気がします
記憶することが苦手なので参考にしたことはできるだけ書き留めるようにしていますが
どこに書いたのかすら忘れてしまう今日この頃です
今回9日間の旅の大部分に付き合ってくれ知識の補給をしてくれたN君にも感謝しながら
次の旅の準備を進めたいと思います
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
地図
次の資料を参考にしています
・鎌倉街道を歩く(保存と活用のいま) 高橋光幸著 さきたま出版会:鎌倉街道上道の案内書
・旧鎌倉街道探索の旅 Ⅰ 上道・山ノ道編 芳賀善次郎著 さきたま出版会:鎌倉街道のバイブル
・五街道の旅:五街道はじめ脇往還・歴史街道など地図付きで詳しいホームページ
・道・鎌倉街道探索日記:埼玉県内の鎌倉街道を地図と写真で詳しく解説
・ 「隠居の思ひつ記」:迷道院高崎(めいどいんたかさき)さんの軽快で詳細なブログ
・上野国交替実録帳を読む(千年前の県政白書) 前澤和之著 みやま文庫:群馬を知る事典みやま文庫から
・熊谷デジタルミュージアム:熊谷市立江南文化財センターのホームページで石塔石仏など紹介
・鎌倉PRESS:鎌倉の神社仏閣・史跡など悉皆掲載
・新もういちど読む山川日本史(今と昔、歴史はこんなに変わった!):高校時代を思い出す歴史の山川出版の本
・まなれきドットコム:歴史をやさしく解説する「もぐたろう」さんのブログ
・『ウィキペディア(Wikipedia)』
鎌倉から上州へ向かう上道(カミミチ・カミツミチ、上の道)、下野へ向かう中道(中の道)、常陸へ向かう下道(下の道)が有名であるが、我が上州から鎌倉への上道を歩いてみることにした。『いざ! 鎌倉へ』
【神奈川県】 2023年4月6日(木)
歩行距離:南町田グランベリーパーク駅~湘南深沢駅 16.3km(累計200.7km)
行 程:前橋駅5:31===09:04湘南町屋---10:34葛原岡神社10:39----10:56化粧坂切通し11:07源氏山公園頼朝像11:10----11:13化粧坂切通し11:15---11:22岩船地蔵堂11:22----11:38寿福寺11:52---13:19白旗神社13:36---13:56鎌倉宮14:02---14:07永福寺跡14:11---14:28鎌倉宮14:28---14:49妙隆寺14:49----15:39鎌倉駅
前橋駅=大船駅(青春18切符2500円)==湘南町屋駅180円 グリーン2000円 駐車料金400円
昼食:1300円 お茶:1300円 合7,680円
【湘南町屋駅 9:05発 鎌倉市】
湘南モノレール湘南町屋駅を降りて坂道を南へ下ると間もなく
モノレールの下に「洲崎古戦場碑」(昭和31年鎌倉大青会)がある
「元弘3年(1333)、鎌倉攻めの新田義貞軍と守る北条軍が激しい戦を行った場所
敗れた北条軍は90人異常が自刃した」
鎌倉市内には、青年会が昭和31年に設置したこの様な石碑が各地にある
【梶原稲荷神社 】
梶原御霊神社と山を挟んで北側の斜面にひっそりとある
由緒を示すものは無い
【霊松山大慶寺(臨済宗円覚寺派) 9:30 1.1km】
茅葺屋根の山門が素敵だが中に入れない
【駒形神社 9:33 1.2km】
この地区に大慶寺などを修復した工匠が住んでいたので「寺分」とい地区名だそうだ
駒形神社は治承年間(1177~1181)の創建で寺分の鎮守。農業の守護神
境内にある弁財天1822年(文政5年)
【天照山東光寺(高野山真言宗) 9:40 1.4km】
永享三年(1431)創建、神仏分離までは駒形神社の別当
弘法大師像前には四国霊場88か所の砂が納められた「お砂場」がある
【梶原御霊神社 9:47 1.8km】
1190年(建久元年)、梶原景時の創建
牡丹?を加えた狛犬
青面金剛 左手に「ショケラ」と思われる
街道にはシャガが咲く
シャガはヒガンバナと同じく3倍体で実を付けない中国原産の帰化植物
日陰道などでよく見かけるが鎌倉時代頃帰化したものらしい
【葛原岡神社 10:35 4.4km】
後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕(建武の新政 1334年)に活躍した日野俊基を祀る神社
明治天皇は日野俊基の活躍を明治維新の先駆けとして評価し、葛原岡に神社を創建した明治21年(1891)
お墓が昭和2年国指定の史跡になっている
【源氏山公園源頼朝像広場 10:55 5.0km】
葛原岡神社から源氏山公園内に入り頼朝像の前で一休み
連れが持ってきたおにぎりを出したらトビに手から奪われてしまった
カラスとトビが同時に襲って来て、手にかすり傷が出来た
【化粧坂(けわいざか) 】
国指定の史跡になっている
仮粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」 (武蔵路) の出入り口に当たります。 鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333) の 新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。
『吾妻鏡』建長3年(1251) 12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上 (仮粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年 (1332) 後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群) があります。 また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、仮粧坂が交通の要衝である と同時に、 都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになっています。(鎌倉市教育委員会)
【東光山英勝寺(浄土宗)】
英勝寺てまえの岩窟(やぐら)に英勝寺が管理する鎮守稲荷神社がある
この場所に智岸寺という寺があったので智岸寺稲荷と呼ばれている
稲荷の隣の「やぐら」にある「阿仏尼の墓」
阿仏尼は「十六夜日記」等の紀行文日記の著者として、藤原定家の側室として、冷泉為相の母として有名
英勝寺の山門派閉まっており中に入れない
よく見ると「定休日」と書かれていた。お寺では初めて見る断り書きである
鎌倉唯一の尼寺
【八坂大神(やさかおおみかみ)】
建久3年(1192年):相馬次郎師常が自邸の守護神として勧請したことで「相馬天王」として創祀される
【亀谷山壽福金剛禅寺(臨済宗建長寺派) 11:35 6.1km】
山門前にある右端、寛文8年の庚申塔(鎌倉市指定有形文化財)
道標を兼ねており川上藤沢宿・川下八幡宮の文字が刻まれている
幼稚園の散歩コース
静かで趣のある参道
本堂は拝めない
ここが通れれば真っ直ぐ北条政子の墓に行けるが崖崩れで迂回
北条政子の墓
凝灰岩質の岩(鎌倉石?)に横穴を掘った墓「やぐら」と呼ばれている
源実朝の墓
【川喜田次郎記念館】
【鉄の井(くろがねのい)】
【昼食 地中海食堂セベリコ 12:05~12:40】
【二十五坊旧跡 】
鶴岡に仕える僧侶(供僧)の住居坊があった場所る。鎌倉時代にはこの僧侶たちは二十五人と定められ、二十五坊の名はここから起きた。明治の神仏分離令によって鶴岡八幡宮は寺院ではなくなり、二十五坊は廃絶した。
昭和39年住宅開発の計画に対して大佛次郎ら著名人や市民が反対運動を起こした。(御谷騒動/おやつそうどう)
㈶鎌倉風致保存会がこの緑地を買い取った日本初の「ナショナルトラスト運動」
このことをきっかけに昭和41年超党派の議員立法として「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)」が制定され。
いよいよ鎌倉街道上道も完歩
【鶴岡八幡宮 12:55 8.6km】
源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請し創建したのが康平6年(1063)
源頼朝が治承4年(1180)に現在地へ遷座
笑っている阿形吽形の狛犬 二の鳥居段蔓
ここが終点
【法華堂跡 13:35 10.3km】
階段登り口左手に白幡神社がある
源頼朝を埋葬した寺であったが明治の神仏分離により神社となった
源頼朝の墓
妻北条政子や息子源実朝と同じ場所ではなく執権北条義時が同じ墓所
北条義時の墓
タイトル:三浦氏が供養されているやぐら
鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏が討たれ、北条家の得宗に権力が集中する機会となった宝治元年(1247年)の宝治合戦において、北条時頼に攻められた三浦泰村以下一族276人は、源頼朝法華堂にこもり、自害したと伝えられています。
源頼朝法華堂があったとされる地とは60mほど離れていますが、ここは自害した三浦氏一族の供養が行われているやぐらです。
やぐらとは? 13~15世紀頃に造られた横穴式の墳墓のこと。鎌倉とその周辺で特に多く見られます。
(鎌倉市HP)
史跡法華堂跡(北条義時墓)の平場の北奥に石造りの鳥居と2列の石段が並んでいます。その石段の上には、左から毛利季光(もうりすえみつ)、大江広元(おおえのひろもと)、島津忠久(しまづただひさ)の三人の、近世に整備された墓所があります。(鎌倉市HP)
【荏柄天神社(えがらてんじんしゃ) 13:42 10.2km】
長治元年(1104年)創建
源頼朝が鎌倉幕府の鬼門の方向の守護社として社殿を造営
太宰府天満宮・北野天満宮とともに日本三天神とも
境内にある絵筆塚1989(平成元)年建設
漫画家横山隆一ら154人による河童のレリーフが飾られている
御神木のイチョウ
【鎌倉宮(大塔宮) 13:55 10.7km】
鳥居が白いのは何故だろう
先の葛原岡神社と同様明治2年(1869年)2月:明治天皇の勅命により創建
後醍醐天皇の息子で鎌倉幕府を倒した護良親王(もりよししんのう)を祀っている
【国指定史跡永福寺(ようふくじ) 14:09 11.2km】
・1189年(文治5年):源頼朝が、9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願
・1191年(建久3年):11月25日に本堂が完成し、落慶供養
・15世紀初頭に火災の後廃絶、2007年以降に復元が開始され基壇(基礎)と苑池が復元
鎌倉PRESS
鎌倉駅近くの蔵を利用したカフェで鎌倉街道上道完歩を祝して帰路に就いた
鎌倉街道上道、高崎から鎌倉まで最短で140km程ですが
神社仏閣や旧跡などに寄り、日帰りの最寄りの駅までの距離など含め200km余りの行程となりました
天気が良ければ日帰り6日、1泊2日1回の8日間で完歩出来そうでしたが雨の影響で9日かかりました
鎌倉街道は幕府の御家人らが鎌倉へ向かう道として拓かれ発展しましたが
歩いた鎌倉街道上道は鎌倉幕府を滅亡させた上州の新田義貞の鎌倉攻めの道でもありました
旧鎌倉街道は近年の開発等により失われたものが多いと思っていましたが
江戸期の五街道整備による衰退、明治維新の神仏分離で失われた寺院なども多いことが判りました
歴史に疎いた街道沿いに残る史跡や解説版など充分理解することが出来ませんでしたが
ブログを書く歴史の勉強をすることができましたが
深く理解し覚えるまで至らなかった気がします
記憶することが苦手なので参考にしたことはできるだけ書き留めるようにしていますが
どこに書いたのかすら忘れてしまう今日この頃です
今回9日間の旅の大部分に付き合ってくれ知識の補給をしてくれたN君にも感謝しながら
次の旅の準備を進めたいと思います
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
地図
次の資料を参考にしています
・鎌倉街道を歩く(保存と活用のいま) 高橋光幸著 さきたま出版会:鎌倉街道上道の案内書
・旧鎌倉街道探索の旅 Ⅰ 上道・山ノ道編 芳賀善次郎著 さきたま出版会:鎌倉街道のバイブル
・五街道の旅:五街道はじめ脇往還・歴史街道など地図付きで詳しいホームページ
・道・鎌倉街道探索日記:埼玉県内の鎌倉街道を地図と写真で詳しく解説
・ 「隠居の思ひつ記」:迷道院高崎(めいどいんたかさき)さんの軽快で詳細なブログ
・上野国交替実録帳を読む(千年前の県政白書) 前澤和之著 みやま文庫:群馬を知る事典みやま文庫から
・熊谷デジタルミュージアム:熊谷市立江南文化財センターのホームページで石塔石仏など紹介
・鎌倉PRESS:鎌倉の神社仏閣・史跡など悉皆掲載
・新もういちど読む山川日本史(今と昔、歴史はこんなに変わった!):高校時代を思い出す歴史の山川出版の本
・まなれきドットコム:歴史をやさしく解説する「もぐたろう」さんのブログ
・『ウィキペディア(Wikipedia)』