上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

日光道中21次を歩く 6日目(徳次郎宿~鉢石宿)終着

2024年02月22日 | 街道を歩く




【6日目 下野國】 令和6年(2024)2月16日(金)晴
 宇都宮駅西口バス停6:20==6:55一里塚バス停7:00--8:15上小池の一里--9:20水無の一里塚--10:30七本桜の一里塚--11:05今市宿本陣跡---11:35瀬川の一里塚--13:10いろは食堂13:40--14:00鉢石宿本陣跡---14:30神橋--14:50東武日光駅15:09==15:18下今市15:21==15:52栃木16:13==17:40前橋
(宇都宮駅西口~一里塚:830円関東自動車 東武日光~栃木:東武610+840特急料金 栃木~前橋:JR1342円)
徳次郎宿~鉢石宿:宿場間距離26.3km 歩行距離26.8km 宿場間距離の歩行距離比較累積(166.8/147.7=1.13)



【18徳次郎宿 石那田の一里塚 7:00出立  下野國】

宿は朝食付きだったが遅くなるので食べずに一番のバスで石那田の一里塚へ


今日も朝から上天気



男体山・大真名子・女峰など日光の山々が良く見える
今年は雪が少ない



国道119号線(日光街道線)の車道脇の一段上がった所が歩道
馬力神の石塔がある
神道系の馬頭観音だがこの地方は馬頭観音より馬力神の方が多い



石那田堰跡
街道を少し北に入った用水路脇に二宮金次郎像や石祠、記念碑等がある
嘉永五年(1852)二宮尊徳の指導で堰が築かれ、上中下徳次郎、西根、田中、門前に用水を引いた




石那田八坂神社御仮屋
京都の八坂神社祇園祭の流れをくみ、夏の疫病退散を祈願して7月下旬に1週間かけて行われます。
八坂神社は本殿と仮殿の2か所あり、祭典は神社本殿から御神体を神輿に乗せて「お仮屋」(八坂神社仮殿、日光街道沿い)に移す「下遷宮」から始まります。1週間、お仮屋でお守りをして最終日に御神体を本殿に帰還させる「上遷宮」で締めくくりとなります(岡坪自治会ホームページ)



朝日を浴びる馬頭観音



金精大明神



中央は青面金剛 左右のものはよくわからない



車道から一段上がった歩道を進む





お願い地蔵 享保十五年(1730)
自身の体の悪い所と地蔵の同じところに赤い布を付け、お願いすると御利益がある
祠の前には十九夜念仏供養塔、廿三夜供養塔、庚申供養塔等がある



新渡(にわたり)神社
国道を挟んで手前に御神燈がある



上小池の一里塚 日本橋より三十一里目 (8:15 石那田の一里塚から4.9km)
左側のコンモリしたところ



宇都宮市から日光市へ



庭先の馬力神


反対側に六十六部供養塔



大沢分岐 ここを国道を外れ右へ




杉並木寄進碑
徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた武州川越藩主松平正綱が東照宮に寄進した、碑は日光神領との境界にあるところから境石と呼ばれた。



【19大沢宿着 下野國 (8:50 石那田の一里塚から7.1km) 】

並木の外側に歩道は無く杉並木中央を歩く
車道部分が低くなり両サイドの杉林部分が高くなって切通しのようになっている
これは昔、横から不意に襲われないための仕掛けだったらしい


一時杉並木が途切れる
杉にはたっぷり花が付いているようだ



八坂神社



同じ杉並木でも特別保護地域と普通地域がある


大沢の四本杉


国道119号(日光街道)はバイパスを造りながら杉並木の中を交通止めにしている様だ
ここは舗装されているが車の侵入は出来ない



第三接合井




水無の一里塚(大沢の一里塚) 日本橋より三十二里目 (9:20 石那田の一里塚から9.2km)






山伏千手院跡 日光山の里山伏
如意輪観音像十九夜塔や男女双体道祖神等の石仏石塔が多数ある



馬頭観音
杉並木は車が通れるところと通れないとろが交互に現れる



未舗装の旧道は雰囲気がある



男体山が近くに見えゴールも近い
杉並木の無いところは歩道の無い狭い道で危険を感じる





浄土宗の盛朝山来迎寺
境内には十九夜塔などの供養塔・五輪塔が刻まれた墓石などがある



桜杉 杉の割れ目に山桜が生えて合体した




七本桜の一里塚(北塚)江戸日本橋より三十三里 (10:35 石那田の一里塚から13.7km)
北塚は特別史跡、塚木の杉は特別天然記念物
空洞には大人が4人入れることから 「並木ホテル」 と呼ばれている


車両進入禁止だが「国道119号」車道の標識は残されている



杉並木の間を東武日光線の高架が横切っている



杉並木を横切る小倉歩道橋

ここまで来て、大沢宿には本陣跡など無かったことに気づく
大沢宿は度重なる火災で祝跡は無くなってしまったようだ



【20今市宿着 下野國 (10:50 石那田の一里塚から15.2km) 】


日光道中(左)と日光例幣使街道(右)との合流(追分)
日光例幣使は毎年、徳川家康の命日に朝廷から派遣され金の御幣を東照宮に奉献した。
一行は中山道倉賀野宿から日光例幣使道に入り、今市で日光道中に合流した。
今市宿の江戸(東)口で木戸があった




追分にある追分地蔵
二十三夜塔もあり「オサンヤサマ」と呼ばれ二十三夜に女子会も開かれた



道の駅手前に「二宮尊徳の墓」がある報徳二宮神社
今市が終焉の地となった二宮尊徳を祀って、明治31年(1898)に創建された



高橋本陣跡(参考1) (11:05 石那田の一里塚から15.7km)
鹿沼相互信金あたり、何の表示もなく不明



会津西街道
標柱の側面には会津若松まで二十八里、神橋まで二里と書かれている



今市宿脇本陣跡
「今市宿市緑ひろば」の看板があるが閉鎖されている



「日光市ふくろうの森手塚登久夫石彫館」
手塚登久夫氏は昭和13年に当市に生まれ、東京藝術大学で彫刻を学び、東京藝術大学の教授、名誉教授として後進の指導にも携わってきました。
建物は手塚登久夫氏の生家



瀧尾神社 今市総鎮守
天応二年(782)勝道上人が日光二荒山(男体山)上に二荒山大神を祀ると同時に創建された



杉並木公園内にある朝鮮通信使今市客館跡碑
江戸幕府に最初の朝鮮通信使が来日して400年になるのを記念して、平成19年(2007)に建てられた
寛永十三年(1636)幕府は一万両の費用をかけて朝鮮通信使の宿泊用の館を建てた
朝鮮通信使は室町時代の正長元年(1428)に初来日しここに宿泊し、日光東照宮の参拝した



高龗(たかお)神社



地蔵尊や寛保三年(1743)建立の十九夜供養塔等




瀬川の一里塚 江戸日本橋より三十四目 (11:36 石那田の一里塚から17.0km)
道路側に表示がないので見逃してしまう



杉並木公園内に移築古民家が二棟ある
旧江連(えずれ)家住宅は天保元年(1830)の建築で、南小倉村の世襲名主江連家の住宅
もう一軒は慶応元年(1865)二宮尊徳の日光神領農村復興に伴って建築された報徳仕法農家住宅



「日光杉並木オーナー制度」
並木杉を1本につき1千万円でオーナーになる制度で、現在のオーナー契約本数 565本(R5.3.31現在)






大日如来
境内には十九夜塔、不動明王、庚申塔、寒念仏供養塔等がある
*寒念仏とは、とても寒い季節に30日にわたって行われた修行で、明け方の一番寒い時間に山野に出て、ただひたすらに念仏を唱えるというものです。 もともとは僧侶の修行としては主なもののひとつでしたが、やがて仏教を信仰する在家信者の間でも広く行われるようになりました。(コトバンク)



七本杉跡 七本の杉の根幹が癒着し一株になった杉の切株
屋久杉を思い出させるほどの大きさを感じる切株




砲弾打込杉
戊辰戦役の激戦地で、杉の幹に官軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡を残している
杉が生長して何処が傷跡か解らない



大正三年四月と書かれた代々馬力神
荷役などに使われた牛馬の慰霊のため数多くあるのだろう




薬師堂
前に大きな石の釣鐘が置かれている
「石でも釣鐘とはこれ如何に」?、石でも鐘の音が出るのだろうか?



左の細い杉並木から来て国道119号線(日光街道線)に出る
この先に歩道は無く道路の脇を歩くので、車が身近を走り注意が必要


分岐にある日光杉並木街道の解説版
〇国の特別史跡と特別天然記念物の二重指定は我が国唯一
〇日光街道・例幣使街道・会津西街道の延長は30kmを越え「世界で最も長い並木道」としてギネス認定



常夜燈 寛政三年(1791)建立、生岡山王と刻まれた日枝神社の常夜燈


常夜燈の脇を走るJR日光線の線路の向こうにも石碑がある
線路には進入禁止の立て看板があるが石碑に向かう階段は線路を渡らなければ登れない



戊辰戦争の戦死した幕府軍の墓がある墓地



生岡神社の参道口 JR日光線によって通行不可



道幅が狭く先が見えないカーブはスピードを揚げてくる車に注意が必要



宝殿三叉路 JR日光線のガードの向こうに男体山
ここを右へ進む



麻疹地蔵




いろは食堂 (13:10 石那田の一里塚から21.7km)
杉並木の途切れたところにひっそりとしたところに食堂があった
杉並木沿いに食堂は少ないのでためらわずに入った
タンメン750円・餃子350円、麺は極細で美味しかった




【21鉢石宿着 下野國 (13:45 石那田の一里塚から22.6km) 】




東武日光駅


JR日光駅



整備された日光市街



「元祖ゆばそば魚要」が御宮御菓子屋本陣兼帯跡(参考1)
今年閉店した、本陣等を示す表示は無い



老舗綿半(わたはん) 創業天明七年(1787)練羊羹の店 
日光山輪王寺御用



ゆば料理のさん・フィールド 高野本陣跡(参考1)(14:15 石那田の一里塚から24.4km)
この奥が本陣跡らしいが案内板等も無く不明




鉢石(はついし)
地表に突き出した岩盤が鉢を伏せた形に似ていることから鉢石といい、これが鉢石(はついし)の地名由来
日光を開山した勝道上人がこの石に托鉢用の鉢を置いて休息したという
日光街道から路地に入るが入口を示す表示は無くルートファインディングが必要なほど



鉢石山観音寺
弘仁11年(820)、弘法大師による開基と伝えられ、寛永4年(1627)に天海大僧正から 「鉢石山無量寿院観音寺」 の山号を賜り天台宗に改宗した



日光物産商会
明治38年日光金谷ホテルの土産店として創業、建物は国の登録文化財


付近には2基の大きな銅像がある



天海大僧正(慈眼大師)銅像
天海上人は比叡山で天台宗の奥義を極め日光山の貫主となり、家康亡き後は久能山から遺骨を日光に移し東照宮の創建に尽くした




板垣退助像
総督府参謀の板垣は日光廟に立て籠もった大鳥圭介等の旧幕府軍を説得し、日光山内を兵火から守った







神橋 ゴール (14:30 石那田の一里塚から25.1km)






日光道中は江戸から日光へ関東平野を南から北へ縦断するので峠は無く平坦
宇都宮・鉢石間を除いて鉄道が並走していて体力に合わせて起点終点が自在に変えられる
距離も短く街道歩き入門としては最適(宇都宮・鉢石間もバスが最少でも昼間は一時間に1本はある)
しかし、鎌倉街道上道と中山道(中間点まで)を歩いただけですが面白味は少ないように感じました
日光道中は平坦で山道が無く道路改修や地域開発などがより進んでいるからでしょうか

写真には映らないように撮ったですが日光市街は外国人観光客等で大変な賑わいでした
道路は改修され古い店舗は建て替えられるか閉店しており新しい街並みになっていました
街は整備途中なのでしょうが日光道中(本陣・立場・問屋場など)を示す表示や案内は少ない
むしろ無くなってきているようにも感じられました
日光は徳川時代以来日光道中の宿場として栄えてきて今も東照宮などの観光で賑わっている
日本橋から日光(鉢石)まで歩き
市町村や市民団体により日光道中(日光街道)を歴史遺産としの扱いに大きな差があるように思えました

とはいえ、街道歩きは面白い
山旅と街道歩きの優先順位に悩む今日この頃でもあります

 ↓そんな訳で 押していただくとたすかります





 地図


*参考
参考1:「ちゃんと歩ける日光街道」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡・中山道歩き旅GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
参考6:(一社)宇都宮コンベンション協会 https://www.utsunomiya-cvb.org/tourist_data/11711.html

*用 語
【距 離】1間≒1.818m 1町=60間≒109m 1里=36町≒3.927km
【日光街道or日光道中】
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は主要五街道(東海道・中仙道・甲州海道・奥州海道・日光海道)の整備に着手。正徳6年(1761)幕府道中奉行は5街道の名称を統一。中仙道は東山道の中筋の道なので「仙」を「山」に「海道」は海端を通らない甲州・奥州・日光は「道中」に変更した。明治新政府は「道中」を「街道」と改名。
【問屋場】
問屋場(とんやば・といやば)は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(参考5)
【立場(たてば)】
五街道等で次の宿場町が遠い場合はその途中に、また、峠のような難所がある場合はその難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。
【月待塔】
月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事で
【桝形(ますがた)】
 宿場町の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの


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