日常のいろは歌

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不思議な魅力の高杉晋作

2017-03-06 21:39:55 | 歴史
▼高杉晋作の本を1冊読み終わりました。
幕末を代表する志士ではあるけど、結局何がその魅力なのか、知ってるようで曖昧だったので、生い立ちからじっくり追ってみようと思ったのが動機です。

▼高杉晋作は大政奉還の半年前に亡くなっており、明治新政府の国家体制作りにそこまで影響を与えていません。
薩長盟約も賛成だったようですが、あまり薩摩藩を重要視していた訳ではないみたいで、関心は薄い。
京都にいた時間もあまり多くなく、京都での激動の政局にそこまで関与してはいません。

▼では何がすごいのか、当時の時代背景から人間関係、置かれた環境などを考慮してもっと深く考える必要があります。
ただ現時点で思うことは、功山寺挙兵から藩内内戦への勝利、藩論の転換、ここが晋作の決定的にすごいところです。
功山寺挙兵、自らが初代総管の奇兵隊を始め諸隊幹部は決起反対の姿勢で晋作について来ず、有志のわずか数十人での決起でした。
しかし、晋作が具体的行動を起こし、数々の成功を収めていくにつれ諸隊も晋作につくようになり、それが藩内内戦の勝利に繋がりました。

▼最初の功山寺挙兵はあのタイミングでなければ成功しなかっただろうし、さらに晋作でなければ成し遂げられなかったでしょう。
あのまま誰も動かなければ長州藩の藩論は変わることなく、少なくとも四境戦争には敗北を喫していたでしょう。戦わずに頭を下げ、領地替えがあったかもしれません。
仮に晋作以外の誰かがその後決起しても、1年遅れれば動乱の幕末では他藩に遅れを取り、存在感が薄れていたのは間違いありません。
こう考えていくと、高杉晋作の果てしない行動力は、確かに日本を変えたのです。

▼読んだ本に晋作の行動の根っこが分かるエピソードがありました。
功山寺挙兵の後、藩の俗論派(保守派)と晋作らの正義派(武備恭順派)がぶつかった大田・絵堂の戦いの時です。
井上馨は晋作の同志として共に藩の本隊と戦っていましたが、実はその反逆行為に真剣に悩み、もし世子公(次期藩主)が俗論派の側から出馬すれば、馬前で諫言して切腹するしかないと進軍をためらっていました。
ここで晋作は迷うことなくこう言ったのです。

▼非常時に議論に明け暮れ、書物の勉強に熱中し、いたずらに理屈をこねるのは大馬鹿者であり、かえって「不忠不義」となる。「口舌之忠義」でなく、「実地之忠義」を尽くすのは今この時をおいてない。世子公の出馬が本当ならば、これをむしろ絶好の機会として受け止め、周囲に従う兵士をすべて打ち倒して、世子公を我が陣営に主君として迎え入れれば宜しいではないか。


▼まさに晋作の行動原理を表していますね。
口舌の徒となるのではなく、行動の人たらんとする。
正しいと信じることは行動に移してこそ、忠義となり、後からでも理解して付いてきてくれるが必ずいる。
吉田松陰先生の影響も見て取れます。

▼個人的には、もっと現実的に行動して実利を上げていった桂小五郎、大久保利通、広沢真臣、西郷隆盛らが幕末のキーパーソンだと思います。
それでも、他の追随を許さない高杉晋作の天才的な行動力は、志士の中でも不思議な魅力を放っています。
もっといい面も悪い面も含めて、高杉晋作のことが知りたくなってしまいました。
あぁ、すでに立派なファンになっちゃった…


東行4日目!!!! 鎮魂の場所

2017-03-06 01:02:26 | 旅行

▼東行の旅と銘打ち、京都、滋賀、神戸、呉と行って、最後の場所、広島市です。
この日は昼から広島市内で仕事予定。
本当は呉から朝すぐに広島市内に向かう予定でしたが、あまりにも前日大和ミュージアムがよかったので、もうしばらく来ることができないし、午前中もう1回大和ミュージアム行くことにしました。前日に5時間見たはずなのに、物足りない…
そう思って行ってみると
( ̄◇ ̄;)
まさかの、閉館日。そういや、火曜日は閉館って旅行前に調べてたのに…
諦めてそのままの足で広島市に向かいました。

▼広島市に行った際、少しでも時間があれば必ず寄る場所があります。
今回もわずかな時間を利用して訪れました。
それは国立広島原爆死没者追悼平和祈念館内にある、映像視聴施設です。
1人用のパソコンがあり、そこで被爆者の体験談を収録した映像や被爆体験記、写真、映像を視聴することができます。
今調べると、ここ以外にもホームページから視聴可能なようですね。

▼今回行ってびっくりしたのが、外国の方が3人このパソコンを見ていたことです。
衝撃からなのか、引きつった顔をしていました。体験記を英語で見ていたようです。
今までこの場所で外国の方を見たことなかったので、こういう形で世界中の多くの方に、何があったのか知ってもらえることをとても嬉しく思います。

▼今回は2人の体験談を視聴しました。当時陸軍の軍医だった方と、宣教師として広島市内に住んでいたドイツ人の方です。2人ともかなり前に収録された内容でした。
軍医の方は何日も寝ずにひたすら何千人もの人々を治療した様子、ドイツ人の方も教会でできる限り収容した被害者への救助活動の様子を語っておられ、当時どんな立場の方でさえ、被爆者に心を寄せ、できる限りのことをしようとしたその姿が痛いほど伝わりました。

▼この施設は平和記念公園内にありますので、原爆ドームもいつものように訪れました。
この日は快晴も相まって、いつもより熱の色を反映して赤みがかった、そんな印象がありました。

▼原爆ドームのそばには、ボランティアガイドと称して、おばちゃんと若者の男性が立っていました。
怪しいと思ったら案の定、若者は政治とかに興味なさそうな若者のグループを捕まえ、自虐史観に染まった典型的な加害者日本の話、被爆した朝鮮人の話、在日朝鮮人の権利、核廃絶に対する日本の立場を非難したりと、鎮魂の場として全く相応しくない政治的な話を聞かせているのです。
おばちゃんも核に関する署名活動に勤しんでいます。
平和記念公園の場をなんだと思ってるんでしょうか。

▼変な政治活動に結びつけるのではなくて、ただただ被爆した全ての方に対して鎮魂の祈りを捧げる、平和記念公園はそうした場として永遠に私たちの手で残していくべきだろうと思います。
僕もこの姿勢を忘れてはならない、改めて気づかせてくれたボランティアガイドの存在にある意味感謝です。