丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

448. 必見“角煮”と“翠玉白菜”

2013-05-20 08:11:38 | 旅の記録

 台湾一周十都市めぐり(6)台北
 台北着後、台北市内観光です。 まずは中国歴代王朝から伝わった、約70万点の文物を収蔵する故宮博物院へ。

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 故宮博物院は中国の代表的美術館。今日、同名のものが北京と台北にありますが、もとは一つで、1925年10月10日、北京の故宮、紫禁城(しきんじょう)の後半部に設けられたのに始まります。

 清(しん)の皇帝や皇后の住居であったところで故宮の名はこれによります。絵画、書籍、陶磁器、玉器(ぎょくき)、金銀器、漆器、染織、服飾、文房具、家具、祭器など数十万点がありました。

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 故宮所蔵の文物はいわば中国民族の精神の結晶ともいうべきもので、明(みん)・清代に集められました。
1931年満州事変が起こり、戦火が北京に波及することを察した国民政府は、これらの重要美術品や書籍を約2万個に分けて梱包し、まず上海に発送、ついで南京に移しましたが、37年に戦争が南に広がったため、これをさらに四川省、貴州省など中国の奥地に疎開しました。

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 1945年8月、戦争の終結によって、これらの文物はふたたび南京に戻されましたが、やがて国共内戦の激化につれて、49年に数万点の宝物が台湾に運ばれました。

 1965年11月、台北市に故宮博物院が成立し、所蔵品の一部を展示することとなったのです。

 所蔵品中の圧巻は多数の名画で、范寛(はんかん)の『谿山(けいざん)行旅図』、趙孟(ちょうもうふ)の『鵲華(じゃくか)秋色図巻』、黄公望(こうこうぼう)の『富春山居図巻』、沈周(ちんしゅう)の『夜坐図』などがあります。

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 訪れたこの日も、中国・台湾の各地から訪れた団体客でいっぱいで、文字通り足の踏み場もないくらい。

 そんな中をガイドの朱さんいわく、「ここでは“角煮”と“翠玉白菜”は必見。これだけ観れば来た甲斐があったというもの」とのご託宣。 “翠玉白菜”は世界的に有名で故宮に来たら見逃せない収蔵品の一つです。

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 そんなわけで 最初に“角煮”を鑑賞することに。 玉石は変化に富み、野菜の彫刻やら、肉の彫刻をすることもできます。 この「肉形石」は、外見は豚の角煮そのもので、三層のばら肉となっているばかりか、皮表面の毛穴まで全てが揃っているのです。翠玉白菜とともに、本物に勝るとも劣らない名品・逸品です。

“角煮”鑑賞後 その先の人ごみの奥にあるお目当ての“翠玉白菜”を目指し 速やかに移動しました。

           清代の玉“翠玉白菜” 

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 “翠玉白菜”は、天然の翡翠と玉の混ざり具合を巧みに利用した繊細な彫刻で翠玉巧彫の最高傑作と言われています。

 玉は中国5千年の歴史の中でもずっと重要な位置を占めてきました。翠玉白菜は本来永和宮に陣列されていたものです。永和宮とは清時代の末期に瑾妃が住んでいた宮殿で、翠玉白菜は瑾妃のお嫁入りと共に永和宮へやって来ました。白菜は清廉潔白(お嬢さんの純潔)を象徴、キリギリスは子孫繁栄(多産)を象徴しています。
 ※本来白菜の上にとまっている虫は2匹のキリギリスだと思われていましたが、故宮が特別に有名な昆虫学者に鑑定依頼して研究を行った結果、一匹がキリギリス、もう一匹がイナゴだと発見されました。
https://www.bilibili.com/video/av330715008/
 この他、親子三代で彫り上げた彫刻をはじめ、絵画、書籍、陶磁器、玉器(ぎょくき)、金銀器、漆器、染織、服飾、文房具、家具、祭器などなど、1時間半をかけて観賞しました。


 
 夜は 六福客桟にて中華料理のビュッフェ夕食後、ホテルへチェックイン。

 台湾最後の夜 宿泊は「台北第一飯店」 要すれば第一ホテルです。

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 ここは名前もさることながら 一階に和食料理店、それに珈琲ショップ”ドトゥール”まであるホテル。

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 周囲を見渡しても 牛丼の”吉野家””セブンイレブン”などなど

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 一夜明けて いよいよ台湾での最終日となりました。

 5日目(最終日)の訪問先は、商売の神様が崇められていて、台湾一のにぎわいをみせる寺である行天宮です。

 行天宮(ぎょうてんぐう)は、台湾の台北市中山区に位置する関帝廟。多いときで1日に2万人以上が訪れるとされる、台北地域でも人気の高い寺院・観光地のひとつです。

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 この日も参拝?客で朝から大賑わいでした。

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 台湾の全ての町に存在する”林家椰子”のお店。
 この”林家椰子”にまつわる話も朱さんは、旅行中何度も何度もその問題点を指摘していましたね。

 摂取を止めれば、労働意欲が持続できず、続ければ壮年期に歯がボロボロになることは必至。
 労働者にとって なくてはならない エネルギー源に 覚醒剤の様な危険性があるなんて・・・・。 
 台湾の労働者はこの先 どうなっていくのでしょうか?

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 台湾であった現地ガイドの朱さんは、今年81歳ながら現役バリバリ。 バランスのとれた考え方の人格者。帰国後 この偶然の出会いについて考えさせられる日々が続いています。 その年齢にして妙に書生っぽく、普段は真面目な正直者、正義感が強く 実直で、そしてクールに現実を受け容れて諦観悟達。まるで昭和初期の日本人を見るようで・・・。
 
 朱さんにとって 真の幸せって いったい何なのでしょう? 死ぬまで働き続けることなのでしょうか? 本人は残り10年くらいの生きてれば良いなんて言っていましたね。 さらりと百歳を迎えそうですが・・・・。 貴方からノスタルジーにも似た何かを感じたのは何故でしょうか? 

 朱さんから「台湾の光と影」たくさん 教わりました。 とても書き切れません。
 機会があればいつの日かということでご容赦を。

 今回の旅で教わった最大の収獲は、戦前台湾で活躍した日本人 八田與一でした。

 世界に誇れる日本人が その国に居たのです。
 帰国後 調べれば調べるほど 目から鱗が落ちる思いです。

  *************  閑話休題  ***********

八田 與一(現在の字体では八田与一、はった よいち、1886年2月21日 – 1942年5月8日)は、日本の水利技術者。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる人物です。

 私が無知であっただけで、彼を台湾では知らない人はないくらいの台湾の歴史上の功労者だったのです。

 その功績は台湾の農業の歴史上 多大なものがあるのですが、YouTubeに出ている次の映像をご覧いただくのが一番解りやすい気がします。 

一度 これをクリックし、
http://www.youtube.com/
検索画面で「八田 與一」を入力後「台湾で愛された日本人、八田 與一」を選択して、その映像をしばしご覧ください。

 この他にもYouTubeには 彼に関する動画だけでも 41,700件存在しています。全てが彼の功績を賞賛する内容です。


 ともあれ八田與一は1886年、金沢市に生まれ、東大・土木工学を卒業後、24歳の時(1910年)に台湾総督府内務局土木課の技手としてつとめました。 当初は衛生工事を担当していたが、28歳からは水利事業を担当、設計工事の責任者として桃園の水利事業以降は第一人者として技師として認められ、56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くしました。

 彼は、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設(1920年着工10年を要した大規模土木事業)にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われました。

 烏山頭は大きな工事であり困難も伴い時間もかかる。働く人たちが安心していい仕事ができるために家族が一緒じゃないといけない。」と八田與一は主張しました。そして工事が始まり、家族を含め2000人にもなるひとつの街ができました。工事関係の施設はもちろんのこと、家族も住める宿舎や共同浴場、商店や娯楽施設(テニスコートや広場)、さらに学校までもが できたのです。

  また三年輪作給水法を提案・導入し、水稲、甘蔗、雑穀の三年輪作栽培で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、土地に住むすべての農民にあまねく水の恩恵を与えられるようにしました。この独創性こそが台湾の嘉南全土を救う鍵となったのです。

 嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれています。八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで台湾最大の穀倉地に変わりました。水稲の収獲は11倍にサトウキビですら数倍に、あるいは数十倍に収穫量が増加したといいます。

 嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族とともに台北に去りました。
 しかし、八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去りました。しばらくして 妻の外代樹も入水して後を追うのです。

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 八田與一(はったよいち)と妻の外代樹(とよき)の墓は花束が絶えることはありません。 お墓は、戦後地元の人々によって作られました。台湾は大理石が多く取れる島ですが、ここでは故人の国の習慣を配慮し、高雄からわざわざ花崗岩を取り寄せ、日本式のお墓を建てたのです。

          ************* ************* ***********

 空港まで見送りにきた朱さんには ただ「有難う。お世話様でした。」というしかありません。

 再见,台湾。 朱先生,谢谢。永远精神。(さようなら 台湾、さようなら朱さん、いつまでもお元気で。)

 
  やがて桃園空港を 13:10(日本時間14;10)に離陸したCX0450便は17:00前に成田空港へ着陸しました。
 復路のフライト時間は2時間45分でした。 帰宅したのが午後七時ですから台湾を出て5時間後の事でした。 

 長いようで短い不思議な体験にみちた5日間でした。とても勉強になりました。

 台湾一周十都市めぐり(了)

 
 次回は 番外「グルメ編」です。 今日も お立ち寄りいただき 有難うございました。


注)ブログ記事のうち対北および故宮博物院 については 「 Wikipedia 」 などから転載・加筆したものです。 故宮博物院内展示物の画像は公開されている故宮博物院HPから引用したものです。八田與一については「 Wikipedia 」 をはじめ関連のWEB記事などから転載・加筆したものです。 


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