長崎滞在2日目は、まず出島を訪れました。
江戸時代の鎖国をしていた期間を通じて、日本で唯一西洋に開かれた窓として、特異な存在であった出島、まだ学生であった頃に学んだ日本史の教科書に掲載されていた扇形の埋め立て地を目にした時からずっと、私の好奇心を刺激し続けてきました。
和洋折衷風な特徴のある建物が建ち並んだ小さな島の様子は、それはとても興味深く見えたものでした。
現在では、周囲はすっかり陸地と化して、その名のとおり、海に突き出た島であった当時の姿は見る影もありませんが、その出島の姿を完全復元する事業が着手された一環として、平成に入って新たな「出島」がオープンし、復元の成った施設から順次公開をしています。
西側にある、かつての荷揚場であった水門から入場、水門から最も近い、一番船船頭部屋をまず見学しました。
長崎滞在2日目の朝、行動スタートです!
ホテル最寄の電停、五島町(ごとうまち)から路面電車に乗車します。
電車の軌道は道路中央にありますが、黄色の看板のとおり、右折する自動車といえども、右折できるまで軌道内への進入は禁じられていて、この規制は遵守されているようでした。
五島町から2つ目の電停、出島。
600m程しか離れていないので、歩こうと思えば歩ける距離ですが、せっかくなので電車で行きました(^^;
ここで下車して横断歩道を渡ってすぐの所(つまり私の立っている背後)に、出島の西側の入口である水門があります。
鎖国の時代、日本でただ一ヶ所開かれていた、西洋への窓、出島。
その出島の、昔も今も玄関口の役割を果たしている、綺麗に復元された「水門」です。
かつては、ここで船から荷揚げを行なっていたとのことです。
つまり、私の立っている場所は、海であったということですね。。。想像がつきません;
環境の著しい変化には、ただ驚くばかりです!
当時の絵等を見ると、この水門の沖合にオランダ船が停泊し、艀でオランダ船と水門とを行き来していたようです。
水門をくぐって入場すると、まず右手に見えるのが、この「ヘトル部屋」です。
水色に塗られた窓の手すりに洋風を感じる、和洋折衷の建物が、入場者を出迎えてくれます。
ヘトル部屋は現在、案内所や研修施設となっているので内部へは入らずに、外側だけを眺めるにとどめました。
「ヘトル」とは、出島で商館長に次ぐ地位(ナンバー2)だそうで、ヘトル部屋は、その地位にあった者の住居でした。
建物が建ち並ぶ、水門から続いている出島のメインストリートでしょうか。
手前右側がヘトル部屋、通りを挟んで左手前の建物が、今回じっくり見学した「一番船船頭部屋」です。
出島の建物はまだ、水門附近の出島の西半分のものしか復元されていません。
息の長い復元事業です。
出島では当時、側溝に瓦を敷いていたそうです。
こういう目立たないところでも知恵を凝らしているのが窺えて、唸らされます^^
一番船船頭部屋の1階の一画は土間になっていて、倉庫として使われていたようです。
当時の天秤と分銅、倉庫に収容されていた品々のようなものが復元されていました。
些か殺風景な1階から2階へと、少し急な階段を上がります。
それにしても、どうして昔の建物は、階段の傾斜がきついのでしょうね(-_-;
2階へ上がると、先程の倉庫と同じ建物にあるとは思えない、中々味わい深い別世界が広がっていました。
この2階は、オランダ船(一番船)の船長や、オランダ商館員の居住空間であったようです。
居室の様子が復元されていました。
畳敷き、障子に屏風…と、基本は和室ですが、箱のようなベッドがデンと…馴染みのある和洋折衷の光景だなぁ、という印象が湧いたのは、(こんなに片付いてはいませんが(^^;)和室にベッドという、今の自分の部屋とも共通するレイアウトであったことと無関係ではないでしょう。。。
どの部屋も広々としていて、窓も大きくとってあるので開放的な感じで、とても居心地が良さそうに思えました^^
元の建物を作ったのは、もちろん日本建築しか作ったことのない日本の大工さんでしょうから、建物が和風になるのは仕方ないにしても、壁紙や調度類で自分の嗜好を凝らして、見事な和洋折衷の空間が現出されていました!
ここで暮らしたい!とさえ思ってしまいましたw
部屋の広さには、溜め息が出てしまいます。
畳を数えたら、この部屋は15畳!羨ましい!!
因みに、ベッドの足許に置いてある黒い入れ物のようなもの、一体何だかお分かりでしょうか?
(ヒント?!:この建物、どこを探してもトイレが見当たりません…)
復元された部屋を見ていると、オランダ本国や植民地ジャワから遠く離れた長崎の地で、自らの生活様式を保ちながら異国情緒をも楽しんだであろう、当時のオランダ人たちの姿勢が感じられました。
また、和洋折衷というものは、今日においても私達日本人の生活に根を下ろしているので、こうした光景を身近に、そして親しみをもって眺められることを再認識しました。
再び1階へと下りてきました。
先程の倉庫に隣接して、広い畳敷きの部屋がありました。
商談や会合等に使われたのでしょうか。
メインストリートとは反対側の、北側に出てみました。
出島の北側は、現在は中島川と呼ばれる川によって対岸と隔てられています。
左に見えている対岸の建物の辺りから、かつては出島と長崎の街とを結ぶ唯一の橋が架かっていました。
この橋も、将来復元される予定です。
また、この北側は明治になってからの中島川の流路の工事で、18m程削られてしまいました。
この削られた部分も復元されるとのことで、出島の完全復元に賭ける長崎市の意気込みを感じます。
このように、徐々にではありますが着実にかつての姿を取り戻しつつある出島を、しばらく散策します。
江戸時代の鎖国をしていた期間を通じて、日本で唯一西洋に開かれた窓として、特異な存在であった出島、まだ学生であった頃に学んだ日本史の教科書に掲載されていた扇形の埋め立て地を目にした時からずっと、私の好奇心を刺激し続けてきました。
和洋折衷風な特徴のある建物が建ち並んだ小さな島の様子は、それはとても興味深く見えたものでした。
現在では、周囲はすっかり陸地と化して、その名のとおり、海に突き出た島であった当時の姿は見る影もありませんが、その出島の姿を完全復元する事業が着手された一環として、平成に入って新たな「出島」がオープンし、復元の成った施設から順次公開をしています。
西側にある、かつての荷揚場であった水門から入場、水門から最も近い、一番船船頭部屋をまず見学しました。
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長崎滞在2日目の朝、行動スタートです!
ホテル最寄の電停、五島町(ごとうまち)から路面電車に乗車します。
電車の軌道は道路中央にありますが、黄色の看板のとおり、右折する自動車といえども、右折できるまで軌道内への進入は禁じられていて、この規制は遵守されているようでした。
五島町から2つ目の電停、出島。
600m程しか離れていないので、歩こうと思えば歩ける距離ですが、せっかくなので電車で行きました(^^;
ここで下車して横断歩道を渡ってすぐの所(つまり私の立っている背後)に、出島の西側の入口である水門があります。
鎖国の時代、日本でただ一ヶ所開かれていた、西洋への窓、出島。
その出島の、昔も今も玄関口の役割を果たしている、綺麗に復元された「水門」です。
かつては、ここで船から荷揚げを行なっていたとのことです。
つまり、私の立っている場所は、海であったということですね。。。想像がつきません;
環境の著しい変化には、ただ驚くばかりです!
当時の絵等を見ると、この水門の沖合にオランダ船が停泊し、艀でオランダ船と水門とを行き来していたようです。
水門をくぐって入場すると、まず右手に見えるのが、この「ヘトル部屋」です。
水色に塗られた窓の手すりに洋風を感じる、和洋折衷の建物が、入場者を出迎えてくれます。
ヘトル部屋は現在、案内所や研修施設となっているので内部へは入らずに、外側だけを眺めるにとどめました。
「ヘトル」とは、出島で商館長に次ぐ地位(ナンバー2)だそうで、ヘトル部屋は、その地位にあった者の住居でした。
建物が建ち並ぶ、水門から続いている出島のメインストリートでしょうか。
手前右側がヘトル部屋、通りを挟んで左手前の建物が、今回じっくり見学した「一番船船頭部屋」です。
出島の建物はまだ、水門附近の出島の西半分のものしか復元されていません。
息の長い復元事業です。
出島では当時、側溝に瓦を敷いていたそうです。
こういう目立たないところでも知恵を凝らしているのが窺えて、唸らされます^^
一番船船頭部屋の1階の一画は土間になっていて、倉庫として使われていたようです。
当時の天秤と分銅、倉庫に収容されていた品々のようなものが復元されていました。
些か殺風景な1階から2階へと、少し急な階段を上がります。
それにしても、どうして昔の建物は、階段の傾斜がきついのでしょうね(-_-;
2階へ上がると、先程の倉庫と同じ建物にあるとは思えない、中々味わい深い別世界が広がっていました。
この2階は、オランダ船(一番船)の船長や、オランダ商館員の居住空間であったようです。
居室の様子が復元されていました。
畳敷き、障子に屏風…と、基本は和室ですが、箱のようなベッドがデンと…馴染みのある和洋折衷の光景だなぁ、という印象が湧いたのは、(こんなに片付いてはいませんが(^^;)和室にベッドという、今の自分の部屋とも共通するレイアウトであったことと無関係ではないでしょう。。。
どの部屋も広々としていて、窓も大きくとってあるので開放的な感じで、とても居心地が良さそうに思えました^^
元の建物を作ったのは、もちろん日本建築しか作ったことのない日本の大工さんでしょうから、建物が和風になるのは仕方ないにしても、壁紙や調度類で自分の嗜好を凝らして、見事な和洋折衷の空間が現出されていました!
ここで暮らしたい!とさえ思ってしまいましたw
部屋の広さには、溜め息が出てしまいます。
畳を数えたら、この部屋は15畳!羨ましい!!
因みに、ベッドの足許に置いてある黒い入れ物のようなもの、一体何だかお分かりでしょうか?
(ヒント?!:この建物、どこを探してもトイレが見当たりません…)
復元された部屋を見ていると、オランダ本国や植民地ジャワから遠く離れた長崎の地で、自らの生活様式を保ちながら異国情緒をも楽しんだであろう、当時のオランダ人たちの姿勢が感じられました。
また、和洋折衷というものは、今日においても私達日本人の生活に根を下ろしているので、こうした光景を身近に、そして親しみをもって眺められることを再認識しました。
再び1階へと下りてきました。
先程の倉庫に隣接して、広い畳敷きの部屋がありました。
商談や会合等に使われたのでしょうか。
メインストリートとは反対側の、北側に出てみました。
出島の北側は、現在は中島川と呼ばれる川によって対岸と隔てられています。
左に見えている対岸の建物の辺りから、かつては出島と長崎の街とを結ぶ唯一の橋が架かっていました。
この橋も、将来復元される予定です。
また、この北側は明治になってからの中島川の流路の工事で、18m程削られてしまいました。
この削られた部分も復元されるとのことで、出島の完全復元に賭ける長崎市の意気込みを感じます。
このように、徐々にではありますが着実にかつての姿を取り戻しつつある出島を、しばらく散策します。
和洋折衷は下手をすると、滑稽な感じになってしまいますが、一番船船頭部屋は自然な雰囲気ですね。
私もこんなに広々と明るい空間に住みたい!と思いました。
年齢を重ねるごとに広い縁側のある純和風な平屋建ての家に住みたくなる度が高くなってきている気がします。
出島の完全復元楽しみですね。水門も立派に復元されていてその前の部分が昔は海だったとは本当に想像もできませんね。
リンクした出島のサイト、分かり易い文章で内容も充実していますよね^^
それにしても、陸地のすぐ傍とはいえ、江戸初期には既に海を埋立てられる水準に達していた、当時の土木技術のレベルに驚かされます!
こうした土地の造成をとっても、同じ人間のすること、距離は離れていても、考え方は通じるものがあるのですね。
出島の建物群は、日本人には受容れられ易そうな、居心地良さそうな、見事な和洋折衷でした。
ミスマッチが過ぎると、却ってしっくりくるものですねw
和室に洋風の調度類というのは、今日でもかなりそのような生活様式を採っている方々はかなり多いでしょうし、馴染んでいるからでしょうか、広さは段違いながら、妙に親近感の持てる空間でしたw
土地を贅沢に占有する純和風家屋…今日では究極の贅沢ですよね…私も住んでみたいものです(^^;
出島がかつての島の姿を取り戻した暁には、是非また訪れてみるつもりです!
昔の地図と今の地図を見比べてみたいです。
広々とした空間だからベッドが小さく見えるのかもしれませんが、大きなオランダ人は足がはみ出てしまいそう(笑)
当時のオランダ人が、この広い空間でどんな風に時間を過ごしていたのかが気になります。
日本語も話せなければ、ネットも電話もない。
暇を持て余してしまいそうだと思ってしまうのが現代人の悲しいところですね。
戦前の都市部の地図等を見ても、港湾部の地形が現在と全く違っていることもしばしばで、私も昔の地図の復刻版等を購入して見比べたりするのが、結構好きだったりします(^^;
最初に見た箱のようなベッドは、明らかに小さかったです…本当にオランダ人用のベッドなのか、かなり疑問です;
隔離状態の出島で、一見退屈しそうですが、そこはビジネス、幕府の役人との折衝や、貿易上の商談等、限られた滞在期間でそれなりにやることがあったのではないかと、想像します。
遊女の出入りもあったようです。