久し振りすぎだ。
人間なんて二年もあれば変わる。
だから過去の発言には目をつむりながら、そんなこともあったなぁと自分の今を噛み締めよう。
実際、久し振りに見てもなに一つ変わらない今の自分に溜め息しか出なかったが…
さて、ベジタリアンやヴィーガンについての、私目線の話をしよう。
いきなり?
しょうがない。
他の世界とのズレをごまかして生きている私にとって、ズレた自己主張ができるのは未だにここだっただけだ。
Twitterの海に投げることも考えたが、幾分文字数が多くなる。
だから、誰も読んでいないだろうここにおいとこうと思った。
……PVみたら見に来ている人もいるようだったが、どうやってここに?
ハロー、こんにちは。
こんなぼやきでも、見てくれる人がいると思うととても嬉しい。
さてさて、つまらない嘆きを落とそうか。
あ、ちなみにここでいう菜食主義者は、環境的負荷から、動物への倫理感から菜食主義をとる人で、かつ意見を押しつけてくる人への意見だ。
肉が嫌いだからという人のことではない。
私は生き物が好きだ。
命を大切にするべきだと思っている。
植え付けられた道徳を、心の底から正しいと思っている。
動物も植物も人間も、皆等しく命がある。
その道徳を信奉している。
だからこそ、私はみんなが菜食主義者になったら嫌だなぁと思う。
私にとってそれは、生命への差別だからである。
みんなが今すぐ菜食主義者になったら?
まず、今いる家畜は廃棄処分だろう。
いくらかは動物園に入るかもしれない。
でも、すべては入りきらない。
菜食主義者の主張に家畜を育てることの環境的負荷がある。私もそれは課題だと感じているが。
だからこそ、需要がなくなった。生態系へ負荷を与えるだけの邪魔者は殺処分だ。
食べることもせず、燃やされるのかな?食べちゃ駄目だもんね。
今いる家畜全部を終生飼育なんて、無理だろう?
野外に離すなんて馬鹿げたこと言うなよ。それこそ生態系の破壊だ。
家畜は既に人間が望む自然環境からは切り離されている。
彼らは全世界に人とともに広がって、だから人の都合によって切り捨てられる。
今すぐじゃなく、段々菜食主義者が広がって、じわじわと家畜の飼育頭数が減る。
それならまだ、そこまでの虐殺は減るだろう。
でもその過程で何人の人が不幸になるだろう。経済的に追い詰められ、食べてることを責められて悪だと言われて魔女狩りが起きるんだろうな?
さて、そんな悲しい歴史を経て、緩やかにみんな菜食主義者になりました。
ですが、ある日気候変動によって野菜がいつもより育たなくなりました。
一部の国では、国民の半分しか足りなくなりました。
さて、それでも肉食はしちゃだめ?
こういう時に犠牲になるのは貧しいものからだ。
そもそも人が雑食なのはいろんな食物を食べられることに適した体だからだ。
草食のように草だけで生きていける体ではなく、かといって肉食ほど獲物をとる苦労を背負わなくていい。
せっかく何かがダメになったときに、他で生きられるように適応したのになぜにもったいないことをするのか。
そもそも、だ。
環境への負荷が問題なら、人間を減らすべきなのだ。
個体数調整でシカとかは増えたから殺しているのに、人は減らさない。
一人っ子政策もバランス悪すぎて、続かなかった。
産む数を減らして、支えなくちゃいけない層を減らす。姥捨てをやらないと、解決しない。
家畜だけを消しても、人が望む理想的な自然環境は返ってこない。
じゃあ、環境負荷は置いといて、道徳的に倫理的に肉食はだめということについて。
だったら、ライオンも否定しろよ。
私は平等主義だ。
人だけを特別扱いしてること、人と同じに扱おうとして動物を差別していることが、何よりも気にくわない。
私たちは環境の一部だ。
動物の上でも下でもない。
だからこそ、根本的に善も悪もこの世界にはなくて、ただ人間同士がよりうまく生きるためにルールがあるだけ。
他種を同種として、人と同じに扱うのであれば。
ライオンやシカに、道徳と倫理を押し付けなければ平等ではない。
そして、それは不可能だ。
私たちは同じ命だけど、違う。
それこそ世界が違う。
世界が違うものに、こちらのルールを押しつけるのは侵略行為だ。自分達を上とする、傲慢な行いだ。
多様性が素晴らしいとほざきながら、一方で同一化を勧める。
矛盾甚だしい。
哺乳類も魚も昆虫も植物も、そして人を私は平等に扱ってほしいと考えている。
だから、植物は可とする、魚は可とすると、既に選択している時点で、菜食主義者の主張に合わない。
もちろん、改善できる点はある。
家畜の飼いすぎは確かに大きな課題だし、なるべく苦痛のない飼育法などもまだまだ試行錯誤の余地がある。
でも、それは余裕がある社会だからできるのだ。
今、餓えるおそれも命を奪われる心配もなく、安全な家に住んで、選べる生活が出来ているからだ。
ライオンもシカも魚も植物も、生きることに余裕などない。
現在の人は余裕があって、だからこそ他種へ気を向けられる。
人に余裕があるから、こういうことがいえる。なんて贅沢なんだろうなと、おもって。
動物や魚や植物を愛する人は、人が上手に余裕をもって生きていける社会作りをした方がいいと思う。
自分のことで手一杯の時に、他のものなんて見られないだろ?
その余裕作りの過程で他種への負担を減らせるように、自分たちが望む理想の生態系や環境を残せるように、手を加えていく。
人間みんなが幸せになれば、余裕があれば、取り組めることはある。
私はそう思う。
だから、同種全体のことが見えてなく、他種を差別するようにみえる主張は苦手だ。
肉はおいしい。
私は誰かを犠牲にしている。
でも、そもそも命なんてそんなものだ。
この行為に罪があるならば、遊びで鳥を殺したネコに同じ罰を与えてください。
ネコと私で背負う罪が違うというならば、どうか私を特別扱いしないでください。
私が罰せられるなら、それは万物に当てはまる絶対ではなく、人が作ったルールで人が裁くものなのです。
今日の雑談はここまで。
多種多彩な世界があったから、今がある。
私の世界はこんなだよ。
あなたの世界もあなたのままでいいと思うよ。
人間なんて二年もあれば変わる。
だから過去の発言には目をつむりながら、そんなこともあったなぁと自分の今を噛み締めよう。
実際、久し振りに見てもなに一つ変わらない今の自分に溜め息しか出なかったが…
さて、ベジタリアンやヴィーガンについての、私目線の話をしよう。
いきなり?
しょうがない。
他の世界とのズレをごまかして生きている私にとって、ズレた自己主張ができるのは未だにここだっただけだ。
Twitterの海に投げることも考えたが、幾分文字数が多くなる。
だから、誰も読んでいないだろうここにおいとこうと思った。
……PVみたら見に来ている人もいるようだったが、どうやってここに?
ハロー、こんにちは。
こんなぼやきでも、見てくれる人がいると思うととても嬉しい。
さてさて、つまらない嘆きを落とそうか。
あ、ちなみにここでいう菜食主義者は、環境的負荷から、動物への倫理感から菜食主義をとる人で、かつ意見を押しつけてくる人への意見だ。
肉が嫌いだからという人のことではない。
私は生き物が好きだ。
命を大切にするべきだと思っている。
植え付けられた道徳を、心の底から正しいと思っている。
動物も植物も人間も、皆等しく命がある。
その道徳を信奉している。
だからこそ、私はみんなが菜食主義者になったら嫌だなぁと思う。
私にとってそれは、生命への差別だからである。
みんなが今すぐ菜食主義者になったら?
まず、今いる家畜は廃棄処分だろう。
いくらかは動物園に入るかもしれない。
でも、すべては入りきらない。
菜食主義者の主張に家畜を育てることの環境的負荷がある。私もそれは課題だと感じているが。
だからこそ、需要がなくなった。生態系へ負荷を与えるだけの邪魔者は殺処分だ。
食べることもせず、燃やされるのかな?食べちゃ駄目だもんね。
今いる家畜全部を終生飼育なんて、無理だろう?
野外に離すなんて馬鹿げたこと言うなよ。それこそ生態系の破壊だ。
家畜は既に人間が望む自然環境からは切り離されている。
彼らは全世界に人とともに広がって、だから人の都合によって切り捨てられる。
今すぐじゃなく、段々菜食主義者が広がって、じわじわと家畜の飼育頭数が減る。
それならまだ、そこまでの虐殺は減るだろう。
でもその過程で何人の人が不幸になるだろう。経済的に追い詰められ、食べてることを責められて悪だと言われて魔女狩りが起きるんだろうな?
さて、そんな悲しい歴史を経て、緩やかにみんな菜食主義者になりました。
ですが、ある日気候変動によって野菜がいつもより育たなくなりました。
一部の国では、国民の半分しか足りなくなりました。
さて、それでも肉食はしちゃだめ?
こういう時に犠牲になるのは貧しいものからだ。
そもそも人が雑食なのはいろんな食物を食べられることに適した体だからだ。
草食のように草だけで生きていける体ではなく、かといって肉食ほど獲物をとる苦労を背負わなくていい。
せっかく何かがダメになったときに、他で生きられるように適応したのになぜにもったいないことをするのか。
そもそも、だ。
環境への負荷が問題なら、人間を減らすべきなのだ。
個体数調整でシカとかは増えたから殺しているのに、人は減らさない。
一人っ子政策もバランス悪すぎて、続かなかった。
産む数を減らして、支えなくちゃいけない層を減らす。姥捨てをやらないと、解決しない。
家畜だけを消しても、人が望む理想的な自然環境は返ってこない。
じゃあ、環境負荷は置いといて、道徳的に倫理的に肉食はだめということについて。
だったら、ライオンも否定しろよ。
私は平等主義だ。
人だけを特別扱いしてること、人と同じに扱おうとして動物を差別していることが、何よりも気にくわない。
私たちは環境の一部だ。
動物の上でも下でもない。
だからこそ、根本的に善も悪もこの世界にはなくて、ただ人間同士がよりうまく生きるためにルールがあるだけ。
他種を同種として、人と同じに扱うのであれば。
ライオンやシカに、道徳と倫理を押し付けなければ平等ではない。
そして、それは不可能だ。
私たちは同じ命だけど、違う。
それこそ世界が違う。
世界が違うものに、こちらのルールを押しつけるのは侵略行為だ。自分達を上とする、傲慢な行いだ。
多様性が素晴らしいとほざきながら、一方で同一化を勧める。
矛盾甚だしい。
哺乳類も魚も昆虫も植物も、そして人を私は平等に扱ってほしいと考えている。
だから、植物は可とする、魚は可とすると、既に選択している時点で、菜食主義者の主張に合わない。
もちろん、改善できる点はある。
家畜の飼いすぎは確かに大きな課題だし、なるべく苦痛のない飼育法などもまだまだ試行錯誤の余地がある。
でも、それは余裕がある社会だからできるのだ。
今、餓えるおそれも命を奪われる心配もなく、安全な家に住んで、選べる生活が出来ているからだ。
ライオンもシカも魚も植物も、生きることに余裕などない。
現在の人は余裕があって、だからこそ他種へ気を向けられる。
人に余裕があるから、こういうことがいえる。なんて贅沢なんだろうなと、おもって。
動物や魚や植物を愛する人は、人が上手に余裕をもって生きていける社会作りをした方がいいと思う。
自分のことで手一杯の時に、他のものなんて見られないだろ?
その余裕作りの過程で他種への負担を減らせるように、自分たちが望む理想の生態系や環境を残せるように、手を加えていく。
人間みんなが幸せになれば、余裕があれば、取り組めることはある。
私はそう思う。
だから、同種全体のことが見えてなく、他種を差別するようにみえる主張は苦手だ。
肉はおいしい。
私は誰かを犠牲にしている。
でも、そもそも命なんてそんなものだ。
この行為に罪があるならば、遊びで鳥を殺したネコに同じ罰を与えてください。
ネコと私で背負う罪が違うというならば、どうか私を特別扱いしないでください。
私が罰せられるなら、それは万物に当てはまる絶対ではなく、人が作ったルールで人が裁くものなのです。
今日の雑談はここまで。
多種多彩な世界があったから、今がある。
私の世界はこんなだよ。
あなたの世界もあなたのままでいいと思うよ。