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岡田有希子

2007年05月13日 | テレビ
岡田有希子(おかだゆきこ、本名は佐藤佳代[さとうかよ]、1967年8月22日 - 1986年4月8日)は日本のアイドル歌手。愛知県名古屋市熱田区出身(出生は同県一宮市)。愛称は「ユッコ」。名古屋市立向陽高等学校→堀越高校卒業。身長155cm。体重42kg。スリーサイズはB86・W58・H84。血液型はO型。所属事務所はサンミュージック。当時キャッチフレーズは「ステキの国からやってきたリトル・プリンセス」。その後「いつまでも、一緒にいてね」と変わった。

概略
中学3年生の時にオーディション番組『スター誕生!』の第85代チャンピオンになり、芸能界入りする。1984年4月21日に『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。ポスト松田聖子と評された典型的「清純派アイドル」の一人であり、その「ユッコスマイル」と呼ばれる愛らしい笑顔と控えめなキャラで人気を博し、テレビ、ラジオ、CMと引っ張り凧になる。1986年1月、カネボウのキャンペーン・ソング『くちびるNetwork』が大ヒット。そのような人気絶頂の中、所属事務所ビルから投身自殺を図った。18歳という若さと、人気アイドルの不可解な突然の死はファンや芸能界のみならず、社会に大きな衝撃を与えた。没後10数年を過ぎた2002年においても、ファン投票によって収録曲を選んだベストアルバムが発売されたり、同年リリースのBOXアルバムが3万枚以上を売り上げるなど、わずか3年間の芸能活動であったにもかかわらず、“永遠のアイドル”として今なお多くの人に慕われ、その夭折を惜しまれている稀有な存在である。


生涯

デビューする以前の出来事
1967年
8月22日正午頃、 愛知県一宮市で佐藤家の次女として誕生。体重二千グラム、体長四十七センチという小柄な赤ちゃんであった。姉の一文字をもらい、「佳代」と名づけられる。
1969年
2歳で、名古屋市熱田区に引越す。
1972年
4月 市立旗屋幼稚園に入園。姉の通っていた『YMCA体操教室』に通い出す(小学校二年生まで続けた)。
天地真理や桜田淳子のものまねをしていた。
1974年
4月に名古屋市立高蔵小学校に入学する。
1975年
2年生になり、歌の上手さを買われ合唱部に入部。ソプラノを担当。
1977年 
4年生になり、絵画教室に通う。
1979年
6年生の時、音楽劇『浦島太郎』で「乙姫」役を演ずる。
1980年
3月に同小学校を卒業をする。
4月 名古屋市立沢上中学校に入学する。一年から油絵を習い始める。河合奈保子のファンになる。
1982年
中学2年生の頃、『ホリプロタレントスカウトキャラバン』など様々なオーディションに応募するようになる。ニコンの「フレッシュギャルコンテスト」で準グランプリに選ばれる。
中学二年生の終わり頃、芸能界入りを両親に大反対される。
中学3年生の時に両親より芸能界入りをあきらめさせるために、クリアできないと思われる条件(学校のテストで成績が学年で1番になること、中部統一テストで5位以内に入ること、第一志望の高校の試験に合格すること)を提示されるが、寸暇を惜しんで猛勉強し、その3つの条件を見事クリアし、『スター誕生!』のオーディションを受けることを許される。(当時、アイドル雑誌『Dunk』に昔の成績表を公開する企画があったが、岡田の成績は5段階評価でほとんどが5であった。)
10月 『スター誕生!』の名古屋地区予選で北原佐和子の『マイボーイフレンド』を唄い「合格」。
1983年
3月30日 学校を早退してオーディションに出るなら内申書は書けないと担任から釘を刺されていたが、当日、学校を無断欠席して、名古屋から姉の付き添いで東京へ向かい、後楽園ホールで開催されていた『スター誕生!』の決勝大会に出場。中森明菜の『スローモーション』を歌い優勝。第46代チャンピオンとなる。
4月 進学校の名古屋市立向陽高等学校に入学する。
4月○日 「プロダクション二社とレコード会社二社からの指名があった」との連絡が入る。(サンミュージック、キャニオン、研音、VAP)の四社から指名された)
福田専務のスカウトで、プロダクションのサンミュージックに入りを決め(同じ『スター誕生!』出身の桜田淳子が長く所属しているなどの理由で、家族はサンミュージックを選ぶことにしたという)、レコード会社はキャニオンに決めた。

5月15日 サンミュージックとの正式契約のため、母と上京。相澤秀禎社長(現在は会長)のリクエストに答え、薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』と松田聖子の『秘密の花園』を歌う。
向陽高等学校でサッカー部のマネージャーを務める。
7月 一学期の終業式の日に、クラス全員で送別会をしてもらう。お別れに『セーラー服と機関銃』を唄う。
8月25日 両親と姉と高校の仲間たちに見送られ、新幹線で東京へ旅立つ。
8月、芸能界にデビューするために実家がある名古屋から東京の成城にあるプロダクションの 相澤社長宅に引越する。二階の寮の同室には同年3月にデビューした桑田靖子とデビュー前の滝里美がいた。
9月、堀越高等学校に転校。芸能コースD組で学ぶ。クラスメイトには「本田美奈子」、「南野陽子」、「長山洋子」、「倉沢淳美」、「高部知子」、「桑田靖子」、「石野陽子」、「宮崎ますみ」、「永瀬正敏」などがいた。


芸能活動開始 1983年3月~1984年2月

10月、毎日放送のラジオ番組『サトミ・ヒトミ・ユキコのなにかいいことないか子猫ちゃん』でレギュラーDJを務める。

歌手デビュー 以降 1984年3月~1984年3月
1984年
○月○日 同行取材ツアーという事務所の企画で、スポーツ新聞の芸能担当記者たちとサイパンへ行く。
3月25日 『NHKヒットステージ』で初めてのテレビ出演。
4月、東海ラジオの『奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ』でレギュラーDJを務める。
4月21日  キャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)から『ファースト・デイト』で歌手デビュー。(レコーディングには作曲者の竹内まりやが激励に現れた。)10万6千枚を売り上げ、まずまずのヒットとなる。
その後竹内まりやと尾崎亜美がシングル曲をプロデュースした。
7月18日 デビュー曲から3か月で第2弾シングル『リトルプリンセス』をリリース。9万4千枚を記録。
9月21日 第三弾の『恋はじめまして』をリリース。12万9千枚を記録。
9月30日 ファーストコンサートを行う。
当時は、1980年デビュー組の松田聖子・田原俊彦・河合奈保子・岩崎良美・柏原芳恵、翌1981年デビューの近藤真彦、さらに「花の82年組」と呼ばれた中森明菜・小泉今日子・シブがき隊・堀ちえみ・早見優・松本伊代・石川秀美等の人気アイドル達が第一線で活躍しているアイドルの激戦期であり、活発なイメージのある女性アイドルが多かった中で、有希子は控えめで優等生のイメージがあった。この年にいくつかの音楽最優秀新人賞をとったが、1985年の終わりまでは大きなヒットには恵まれなかった。しかし、新人賞レースにおいては、最有力候補であった菊池桃子がすべての賞を辞退し、同じく最有力候補であった吉川晃司も選ばれず、結果として有希子がFNS歌謡祭の最優秀新人賞に選ばれた。有希子は会場内にいた吉川晃司の女性ファンからバッシングを受けた。
12月31日 「日本レコード大賞」で「新人賞」を授賞。

1985年

1月16日 第四弾シングル『二人だけのセレモニー』をリリース。これまで最高の14万5千枚を記録。
4月17日 第五弾シングル『SUMMER BEACH』をリリース。12万1千枚を記録。
4月 『スプリング・コンサート』を開催。
7月 フジテレビ)「月曜ドラマランド」単発ドラマかぐや姫・とんで初体験!?に主演。好評を得る。
8月 東京・池袋のメトロポリタンホテルで誕生パーティーが催される。500人を超えるマスコミ、音楽関係者が集まる。
NHKの『真田太平記』に出演。
11月29日 12月2日まで過労で入院。

1986年(1月~3月)の活動時
1986年
1月29日 カネボウ化粧品の春のカネボウのキャンペーンソング『くちびるNetwork』をリリース。作詞が松田聖子、作曲・編曲が坂本龍一ということでも話題となり、23万枚(オリコン調べ)を記録する初の大ヒットとなり、チャート誌で初の1位も記録する。
3月 堀越高等学校を卒業する。
3月25日 サンミュージックで高校卒業を祝うパーテイ―が開かれる。桑田靖子、酒井法子らが参加。

自殺する1週間前以内での出来事(1986年4月1日~4月7日)

4月2日
「HEART JACK」コンサートに向けてのレッスン中でのインタビューを受ける。「春ですし、みんなで楽しい気分になれたらいいなと思います」と意気込みを語る。

4月4日
「自分の城が欲しい」という本人の希望で、デビュー当時から住んでいた成城の相沢社長宅から南青山のマンションの一室(2DK)に引越し、一人暮らしを始める。
プロダクション社内で、歌と振り付けのレッスンをする(この模様が自殺後にテレビ放映される)。
結果的に最後の番組収録となったテレビ朝日の『歌謡ドッキリ大放送』の収録(この時に『くちびるNetwork』を歌う)。番組恒例のスターへの質問コーナーで、小学生の女の子に「岡田有希子さんは痩せていて体が小さいのにどうして胸が大きいのですか?」と質問され、困った表情をする。司会者からも「(バストサイズは)いくつなの?」と質問されるが「ひとつ!(1セット体についてます、の意)」とかわし、周囲のほかのゲスト陣から「うまい!」との声がかかる等、いつもどおりの表情も見せる(この番組は自殺後の4月13日に放送され、歌の後に訃報を伝えるテロップが出た)。

4月5日
友人であり当時アイドル歌手であった南野陽子と都内某所で映画『女優フランシス』を鑑賞する。
この日に渋谷公会堂での昼夜二回の『スプリング・コンサート』を行う。超満員の中、20曲を熱唱する。この内の17曲は自分の歌を歌い、後の3曲はビートルズの『Tell Me Why』、杏里の『悲しみがとまらない』、早見優の『PASSION』をカバーした。
コンサート終了後、相沢社長の宅に引っ越しのあいさつに行く。

4月6日
14時30分開始の名古屋市民会館でのコンサートのために新幹線で東京から名古屋へ向かう。同じ車両に、当時は無名であった落語家修行時代の伊集院光が乗っており、有希子を目撃していたと言う(伊集院は「有希子さんの歌はたやすく聞くことが出来ない」と語った。)コンサート終了後、『国際ホテル』のロビーで高校時代の友人やクラブの先輩たち五人と会食。東京へ帰る前に名古屋にある実家に立ち寄る。これが家族との人生最後の対面となる。父親にマイカーで名古屋駅まで送ってもらい、20時53分の名古屋発新幹線で東京へ戻る。

4月7日
スケジュールが「OFF」のこの日の19時に渋谷の東急文化会館内にある「渋谷パンテオン」での『ロッキー4』の試写会に以前にドラマで共演した女性と共に出席。この試写会がマスコミ前での人生最後の姿となる(翌日命を絶った時の服装はこの時のままであった)。22時ごろ自宅マンションへ帰宅。溝口チーフマネージャーから電話で、翌日から収録開始予定だった主演ドラマ『家出令嬢の課外授業』(テレビ朝日)の収録が局側の都合で中止になったと知らされる。これにより翌8日も急遽OFFとなった。

自殺直前の出来事(1986年4月8日)
1986年
4月8日 午前5時20分頃、成城でタクシーを拾い、東京駅を目前にした東京都庁わきの工事現場前で降りる。
早朝、南青山にある自宅マンションの室内でガス自殺に加えリストカットによる自殺を図る。マンションの住人がガス臭に気づき、管理人が有希子の部屋を訪ね、声をかけるが、反応がないため、警視庁指令センターに110番通報し、同センターより東京消防庁赤坂消防署に連絡、これを受けて赤坂消防署レスキュー隊と救急隊が急行した。有希子は押し入れの下段でうずくまり、シクシク泣いていた。このガス自殺は未遂に終わったものの、救急車で港区の北青山病院に搬送され左手首を4針縫う等治療を受けた。所属事務所の福田時雄専務と、女性付き人の山崎結美が病院へ駆けつけたが、有希子は一言も話さず、激しく泣き続けていた。チーフマネージャー溝口伸郎は子供が入学式だったため休暇で、相澤社長は事務所近所の歯科にて歯の治療を受けていたため、病院に駆けつける事が出来なかった。担当医師が、ガス中毒反応も、後遺症もないため、入院の必要なしとしたため、所属事務所へ向かう。タクシー車内では運転手も居た事などから3人とも終始無言、有希子はすすり泣きを続けていた。12時頃にサンミュージック本社がある東京四谷の「大木戸ビル」に到着、3人は6階の社長室へ。「自殺」のことについては何も触れずにいた。福田専務の「まあ、いろいろ人生あるから、皆がついているんだから頑張ってやれよ」との励ましにうなづく。そこに事務所へ急行途中の溝口チーフマネ(相澤社長からだった説も)から電話が入ったため福田専務が隣室に移り、有希子と山崎の二人きりとなった。有希子は山崎に「ちょっとティッシュを・・・」と言ったので、山崎がティッシュを探すために有希子から目を離したわずかの隙に部屋を飛び出し、ビル内の階段で7階の上の屋上へ上がり、12時15分頃に飛び降り自殺を図る。享年18。

死後の出来事

自殺直後の出来事(1986年4月8日)
遺体は警察の手で12時40分、四谷警察署に運ばれた。検視の結果、自殺と確認された為、司法解剖は行われなかった。
午後1時30分、「大木戸ビル」六階の会議室で相沢秀禎社長、福田時雄専務、溝口伸郎マネージャーの三人が記者会見。

自殺の原因
岡田有希子の自殺原因については複数存在するが、いずれも噂であり、正確な原因は現在も不明である。

遺書めいた物に名前が記されていたとされる俳優、峰岸徹に失恋説
この件について自殺当日夜、仕事先のTBS別館にて峰岸が記者に囲まれ急遽会見。「正直ものすごいショックです」「僕はアニキのつもりだったが、彼女にはそれ以上のプラスアルファがあったのかも知れない」とコメント。
報道陣から、"愛されているという事に対して男として責任はお持ちでしたか?"との問いに「もしそういうこと(有希子が峰岸に対して愛情があった)だったとしたら責任は有ると思います」と神妙な面持ちでコメントしたが、それ以上の詳しいことは現在に至るまで明確には答えていない。1984年に離婚し、当時は独身であったが、この年四月に結婚予定の婚約者がいたとされる。
2005年に相澤秀禎元社長(現在は会長)が、1986年4月7日深夜から4月8日夜明け頃、成城付近でタクシーを拾った有希子の行動の一部を『日刊ゲンダイ』にてコメント。成城にある"その男性"の自宅を見つめて夜明けまで過ごしたとしている。
また、週刊誌やパソコン通信上などで、俳優の神田正輝との恋の噂も出ていたため、当時中堅俳優に過ぎなかった峰岸が神田の身代わりになったとも言われた。
恋仲であると一部で噂された神田正輝の子を妊娠していた説
遺稿集『愛をください』(朝日出版社 1988年)において有希子の母が、有希子が自殺する2日前に名古屋の実家に立ち寄った際に 生理用品を買っていたのを目撃したと語り、妊娠説を否定。
前日の4月7日にサーキットで事故死したレーシングドライバー・萩原光の後を追った説。二人の間に面識が有ったかは不明。
有希子の自殺の10日前に、『スケバン刑事』で女優としても活動し、1986年5月にアイドル歌手としてデビューする予定だった遠藤康子(当時17歳)がビルから投身自殺したことに影響された説。(遠藤が所属プロダクションから、付き合っていた男性との交際を止めるように言われたとの説がある(当時の『週刊平凡』に男性のインタビュー記事あり)。訃報を聞いた有希子は胸を痛めていたという。自殺後のプロダクションの記者会見で、遠藤の事件の影響があったかとの記者の質問に、福田専務は「立場が違うと思いますね」と関連性を否定した。

有希子の表情の変化・兆候
事務所スタッフら、身近にいた人間の多くは「特に変わった様子は無かった」と発言。前日夜に電話で会話した溝口マネージャーも「声は明るかった」。2日前に会った家族らは「後から考えてみると…」と思う程度の変化しか表面上には出ていなかった。 しかし出演していたテレビの録画を後日よく観察して見た人々からは、1985年最後のシングルだった『LoveFair』を歌っているテレビ出演時までと違い、1986年1月以降『くちびるNetwork』を歌っているテレビ出演時になると、表情はにこやかにしているものの、振り付けを殆んどしないで耳に手を当てたまま歌っている事があったり、有希子本人がデビュー時から出たいと発言していた『ザ・ベストテン』への出演時ですら、歌っている時の目のまばたきが異様に少なく、表情が動かないなど、それまでの自然な明るい表情から比較すると異変が現れていたのでは?とする向きもある。


自殺後の世間の騒動
青少年の連鎖的な後追い自殺が直後に発生した為、国内年間の自殺者数が前年度よりも急上昇、「有希子シンドローム」と称され、当時の国会でも取り上げられる程の社会問題にまで発展した。また当時の総理府の「青少年の自殺問題に関する懇話会」が報道機関に対し「人命を尊重した理念で(報道は)行われるべきである」との声明を発表し、日本自殺予防学会では新聞、テレビ、雑誌各社に報道の自制を求める緊急の要望書が出される事態にまでなった。こうした事態を重く見た報道機関の中で自殺報道を自粛する動きが出た。当時テレビ朝日系で放送されていた「ニュースステーション」ではキャスターの久米宏が番組の終わりに、「連鎖反応を起こす心配があるので、今日は自殺の報道を控えました」と発言、また女優で冒険家の和泉雅子が「あなた自身の“北極点”を持って!」と、更には有希子の事務所先輩で“兄貴分”の森田健作が『おはようナイスデイ』で組まれた自殺防止特集で、早まらないよう呼びかけた事がこれを物語っている。
有希子の自殺から2日後の1986年4月10日、TBS系『ザ・ベストテン』(生放送)のエンディングで、黒柳徹子が落胆したファンを慰め、後追い自殺を戒めるコメントを出した。同日出演していた中森明菜や南野陽子そして荻野目洋子らも岡田の突然の訃報に涙した。いつもの『ザ・ベストテン』のエンディングの曲ではなく、『くちびるNetwork』をバックに流し、過去に出演した時の岡田有希子のコメント映像を放送しながら番組のエンドロールが流れ、この日の放送は終了した。6日後の4月13日に放送されたテレビ東京系『ヤンヤン歌うスタジオ』でも、司会のあのねのねがオープニングで有希子の夭折を惜しむコメントを述べ(通常の形式ではなく調整室で撮影)、デスクに立てられた遺影に献花した。
有希子が自殺した直後の写真映像が週刊誌『Emma』(1986年5月10日号)に公開され、その週刊誌の表紙にはドラマ『禁じられたマリコ』内での峰岸徹との2ショットが掲載され、中には有希子の人生を描いた写真や当時卒業したがばかりの堀越高等学校の卒業アルバム内の記念写真、そして有希子が描いた絵画などが掲載された。別のコーナーでは無名時代の山口智子・麻木久仁子・鈴木保奈美のグラビアが掲載されていた。

葬儀での出来事
有希子が自殺した翌日の4月9日夜、所属事務所の近くにある新宿区四谷の大宗寺でファン達のための通夜が営まれた。告別式は、通夜の翌日4月10日に堀越高校近くにある中野区の宝仙寺で社葬として行われた。告別式が終わった後、遺体は新宿区の落合斎場で荼毘に付された。その翌日4月11日、遺骨は故郷の名古屋に戻り、名古屋市中区の東本願寺名古屋別院でも告別式が行われた。東京での告別式は、所属プロダクション社長、相澤秀禎が、「お金はいくらかかってもいい」と言った程の盛大なものであった。葬儀には、遺族をはじめ、所属プロダクション相澤秀禎社長、プロダクションの大先輩である森田健作、桜田淳子、その他芸能関係者や『ザ・ベストテン』で共演した黒柳徹子、中森明菜、竹内まりやに加え、プライベートでも親しかった南野陽子に荻野目洋子、さらに吉川晃司と舘ひろしらが参列した。このとき、吉川と舘はサングラスを掛けたまま参列したため、ダン池田は著書『これでいいのか芸能界』の中で、2人がサングラスを掛けていた事を批判した。


遺書
現在もサンミュージック本社内の金庫の中に保管されている。 内容はごく近い血縁関係の遺族しか見ていないと言われ、所属していたサンミュージックプロダクションの相澤秀禎社長ですら、見ていたか否かは定かではない。遺書の中には自殺のきっかけとなったといわれるMの名前が書かれていると言う説がある。

関連サイト
http://www14.plala.or.jp/aimasho/

http://www.alles.or.jp/~rouge/

http://www001.upp.so-net.ne.jp/kindan-hm/o-yukiko.html


岡田有希子とは僕が新入社員で歌番組のフロアディレクターをしていた時、一度だけ会っている。スタジオの隅で座っていた岡田有希子が巨乳だったのが印象的。ファンの人には失礼なことを書いてしまった・・・それにしても亡くなって20年以上の歳月を経ているのに、「岡田有希子関連のサイト」の多さにビックリ。YouTubeにも動画がほり込まれていた。

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