私は青年部時代「日興上人は、常に日蓮大聖人のおそばに仕えていた」と習っていたが、じつはそうでもないようである。
大白蓮華2014年12月号に掲載されている「法華証明抄」の解説には、以下のような一文がある。
『本抄を認められる3日前には、弟子に代筆させて、時光へのお見舞いの書状を送られています』
その書状は創価学会版の「日蓮大聖人御書全集」には収録されていないが、「平成新編日蓮大聖人御書」と「平成新修日蓮聖人遺文集」には収録されており、それぞれ《伯耆公御房消息》《伯耆房御消息》と名付けられている。
内容を要約すると、薬王品の28文字を記したものを同封し、これは日蓮の母が病で命を落としそうになった時に服して命を長らえたものなので、焼いた灰を浄水に溶いて重病の南条時光に服用させるように伝言したものである。
今月の大白蓮華に掲載されていた御書講義にも書かれているが、この伯耆房とは日興のことであり、この書状を代筆したのは六老僧の一人、日朗である。つまり、当時病を得ていた日蓮は、日朗に代筆させて日興に手紙を送ったという事になる。
これが何を意味するかというと、少なくとも法華証明抄執筆時に日蓮の近くにいたのは日朗であり、手紙を出して指示を伝えるような距離にいたのは日興であったという事である。
また、この法華証明抄は弘安5年述作とされているが、同じ日興宛の「伯耆殿等御返事」は弘安2年10月、今月の御書講義である「異体同心事」は文永~建治年間と推定されていて、この間にあたる8~10年間、日興は基本的に駿河・富士方面にいたと考えてよいと思われる。
ご存知の方には今更な話かもしれないが、誰かのいう事を鵜呑みにすることは意外と危険なのだと改めて認識した次第である。