ピュア・インスピレーション

人類の新しい旅立ちを目指して、洗脳の殻を破り、宇宙の法則に近づくため純粋な直感を育てましょう!

思へばこの世は常の住み家にあらず;草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし;目覚めよ日本人!

2014年09月05日 00時15分15秒 | 日本
「金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天[1][2]のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」との「敦盛 (幸若舞) ウィキペディア」より。

この敦盛 (幸若舞) は織田信長が好んで舞った唄です。
桶狭間の出陣の時や本能寺の変の最後の時に舞ったとされています。
信長が舞ったのは約500年前ですが、この詩が作られたのは(作者と製作年は不詳)約800年前であると思われます。
そして表題にした「思へばこの世は常の住み家にあらず;草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし」
思えばこの世は常の住み家でなく非常に怪しいものであると詩っています。
「スピリチュアル情報」で伝えている、「この世は幻想である」と全く同じことを詩っていますし、この世は常の住み家では無いと断じています。

そして、「人間五十年、化天[1][2]のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」の「化天」とは・・・

「「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされる。
「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。
信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になる。」

とのことです。
このことも、先代以前の人類は数百年の寿命があったとか伝えられている「スピリチュアル情報」とも一致します。

ただ、この一節、「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」だけは、この度の肉体を伴った次元上昇を伝える「スピリチュアル情報」とは異なるようです。

この詩は作者と製作年は不詳となっていますが、節回しなどは別として、詩そのものは源氏方の熊谷直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節となっているので、熊谷直実の詩であるようです。
今から約800年前のことです。
熊谷直実が出家し、仏教を学び自身の人生の経験と後悔の想いから、この人生のはかなさをうたったものである様です。

それを信長が理解し好んで重要な時に舞っていたようです。
織田信長は当時の乱世にあって、農民の併用でなく専属の軍隊を組織したり、鉄砲隊を大規模に組織し前面に配置した戦略を取るなど、当時としては最も効果的な軍隊を編成した戦略家であると思います。
それを各大名がまねたため、当時の日本は世界最大の鉄砲所有国(世界の約半分の所有)であったようです。
そのため、イエズス会のフランシスコ・ザビエルはスペイン・ポルトガル王やローマ教皇にあてた手紙で、日本を武力で侵略するのは難しいので、当面、キリスト教の布教により進出する方が良いのではと伝えていたそうです。

そして、このキリスト教およびスペイン・ポルトガルの目論見は豊臣秀吉による「バテレン追放令」や徳川家康、家光による「鎖国政策」により打ち砕かれたのは史実の通りです。
そして日本は統合された平和な江戸時代に入ります。
江戸時代が平和であったことは、伝播町の牢屋敷に二十数年間、一人の投獄者もいなかったということからも推し量れますし、庶民の銭湯が男女混浴であったこと、そして江戸末期に西欧の人々がそのことを知って日本人の徳の高さに驚嘆したことを伝記などに書き残していることからも明らかです。
その平和な江戸時代がアメリカの四隻の黒船により破られ、イギリスの工作により明治維新が起こされます。
そして、富国強兵策により西欧の文化・文明を取り入れ国民が一丸となってまい進しますが、ソ連のスターリン、アメリカのルーズベルトの二人のユダヤ人の罠により第二次世界大戦に見事に誘導され敗戦します。
その敗戦の4年後1949年8月15日に、キリスト・カトリック教会が世界中から信者を日本に呼び寄せ、また、フランシスコ・ザビエルの右腕(ローマ・ジェズ教会に安置されていた)を日本に持ち込み、ザビエルの日本上陸400年後に、これでやっと日本を手に入れたとバカ騒ぎをしたそうです。

ちなみに、イエズス会が設立されたのが1534年8月15日、フランシコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが1549年8月15日、日本の終戦の日が1945年8月15日、日本とドイツが金融で多大な損害を被ったニクソンショック(ドルショック)が1971年8月15日です。
前の2つの8月15日は聖母マリアの被昇天のお祝いの日に無理やり合わせたものと思われますが、後の2つの8月15日は偶然でしょうか。
8月15日は聖母マリアの被昇天の日(生きたままの肉体と魂が昇天した)とされるカトリックのお祝いの日です。
これらのことは、旧ブログ(美しい地球と伴に)で書いたことです。

何が言いたいのかと言いますと、この敦盛を歌ったのが約800年前です。
この詩はこの世の幻想、そして達観したとも思える生き様を表しています。
織田信長もしかりです。
そして、今、私たちはこのことを「スピリチュアル情報」として同じように学んでいます。
それでは、日本人はこの800年間精神的に進歩したのでしょうか?
進歩どころか、精神的に退化したのでは?
と思われるからです。

比較的平和であった江戸時代までは精神的に進歩していたのかもしれません。
しかし、明治維新以降の西洋の模倣により文明は確かに進歩したのでしょうが、精神的にはどうでしょう、すでに退化が進みつつあったのではないでしょうか。
そして、1945年8月15日の敗戦、GHQの占領政策、8000冊の焚書による歴史の隠ぺいと偏向、情報の検閲、マスコミの偏向、押しつけ憲法、洗脳等々により、意図的に日本人の精神を退化させる方向に押し流がされてきたものと思います。
そして、ほとんどの日本人は、その意図的な政策や流れに気づかず「洗脳」された情報が常識的なものであるという既成概念に縛られてきたのではないでしょうか。

朝日新聞が30年間意図的に流してきた「従軍慰安婦の問題」は、それが事実無根の誤りであることを最近認めましたが、日本と日本人の信頼にとって多大な不名誉と損害を与えたことに対しての謝罪が一切なく、そのことを池上氏が指摘するコラムを書くと、そのコラムを不掲載にする始末です。
何と厚顔無恥な態度なのでしょうか。
この「従軍慰安婦の問題」は、単なる謝罪で済む問題ではありません。
なにしろ30年間意図的に何の根拠もないウソの情報を検証することなく国内外にあたかも事実であるように流してきたのですから、日本と日本人を貶める工作以外のなにものでもありません。
朝日新聞は日本国と国民に対しその損害を賠償するべきであり、名誉回復のあらゆる努力を行った後、当然廃刊にするべきでしょう。
それが当たり前の償いだと思いますが・・・

まあ、朝日新聞の裏にはアメリカの存在がチラホラしますし、戦前、戦中の国民世論の誘導、戦争を煽ってきたその背景になにがあるか、うさんくさい存在があったものと思われ、その罪もうやむやなままです。
しかし、その朝日新聞を最近までリベラルな報道機関として知的職業の諸氏が信奉してきたのですから、なにをかいわんやということでしょう。
そして、マスコミは朝日新聞に限らず、その存在自体が世論誘導機関であるものです。

私が小学校低学年の時に東京からの転校生と下校途中に話したことですが、その転校生は「僕の家にはテレビが無い、そしてテレビを見てはいけないと言われている」、「僕の曾祖父は明治の偉いさんだった」ということを私が大人になって思い出しましたが、その転校生の苗字は「木戸」でした。
ですから、その「木戸」君の曾祖父である明治の偉いさんとは「木戸孝允(桂小五郎)」であったと思います。
そして、「木戸孝允」は、新聞は世論誘導の道具になると明確に理解していたそうです。
ですから「木戸家」の家訓で「世論誘導の機関であるマスコミの情報を信用するべからず」とでも言い伝えていたのでしょう。
このことから、ごく一部の本当の裏を知っている知識層を除き、一般の国民は未だにマスコミの存在の意味を理解していません。
このように、残念ながら、日本人は近年、知的にも精神的にも江戸時代より著しく退化しているものと思われます。

旧ブログで「日本人よりロシア人の方がずっと賢い」と言う記事を書いたことが有りますが、このように日本人の知的、精神的に退化した責任の大半はマスコミに在るのは明らかですが、それを見抜けない国民の知的レベルのことも知る必要があると思います。
しかし、そのマスコミを攻めたところでその体質は変わらないものと思います。
それが従来の世界の仕組みであり、マスコミはその仕組みにどっぷりとつかっているのですから抜け出すのは容易ではないでしょう。

ですから、私たち日本人は、日本人だけでなく世界の人々は、その世界の仕組みに気づき、その仕組みを私たちの日常から排除するようにしていくことが必要なのではと思います。

もちろん、このことは皆さんに伝えようとしていることではありません。
既に、皆さんはこのことをよく理解しているからこそ、新しい世界を築くために「スピリチュアル情報」を学び、その糸口を見つけようとしている方々ですから、釈迦に説法と言うことになります。
このことは、皆さんに続く次の方々に早く気付いて欲しいと思っているので、あえて、このブログで伝えているのです。

以前の記事に書きましたが、日本は世界五大陸の雛形であり、日本人の江戸時代までの庶民の精神性は五次元意識に最も近い意識を持っていたと思われるので、その精神性を早く取戻しさらに成長させて五次元意識に備えて欲しいと思っています。
早く「洗脳」から抜け出してもらいたいと願っています。
そして、現代の日本人は世界の人々を精神的に先導するその役目を担っているのではと思っています。
いくつもの「スピリチュアル情報」で次元上昇が間もなくであることを伝えています。
この9月9日だと伝えているものもあります。
気づけよ日本人!
目覚めよ日本人!






参考記事





「ウィキペディア」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E7%9B%9B_(%E5%B9%B8%E8%8B%A5%E8%88%9E)


敦盛 (幸若舞)




「敦盛」(あつもり)は、幸若舞の演目のひとつ。作者と製作年は不詳。



目次 [非表示]
1 あらすじ
2 史実
3 織田信長と「敦盛」 3.1 関連作品

4 現代における「敦盛」
5 関連項目
6 注
7 外部リンク


あらすじ[編集]

1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめる。
平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。
敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす。
退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられない。
敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいた。

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑む。
敦盛はこれに受けあわなかったが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫した。
多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じた。
しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。
名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知る。
直実の同じく16歳の子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらった。
これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。
合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになる。

史実[編集]

熊谷直実の父・熊谷直貞は平盛方の子で熊谷家の養子となったという家系で、直実は源氏方の武将ではあるものの、坂東平氏の血を引く流れである。
このことが、当演目に深みを与えている。

なお、直実の嫡男直家の戦死は脚色であり、実際には家督を継いで53歳で死去している。
これは当時の平均寿命を全うしたといえる年齢である。

織田信長と「敦盛」[編集]

直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、



「思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天[1][2]のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」



という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで演じたと伝えられている。 「人間(じんかん、又は、にんげん)五十年」は、人の世の意。
「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされる。
「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。
信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になる。

特に、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長は、まず「敦盛」のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという『信長公記』の伝記がある。



此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。
人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。
-『信長公記』


関連作品[編集]
敦盛2011 (信長と蘭丸) -『戦国鍋TV』における、信長(村井良大)と蘭丸(鈴木拡樹)のデュエット曲。敦盛の一部が歌詞に織り込まれている。
敦盛2013 (信長と蘭丸) -『戦国鍋TV』における、信長(村井良大)と蘭丸(鈴木拡樹)のデュエット曲。敦盛の一部が歌詞に織り込まれている。

現代における「敦盛」[編集]

全国で唯一福岡県みやま市瀬高町大江所在の幸若舞保存会が、1787年(天明7年)ごろ山本四郎左衛門の大頭流として伝わって以来の口伝継承を保存している。

一般的に実際の演舞を伴わない演目内容のみの口承伝承であるため、近代以降幸若舞が舞われることは極めて稀になってからは、節回しや詳細な振り付けが不明となっているが、同会では、平家物語を題材としたものを中心に伝承している42曲の台本のうち、「日本記」、「浜出」、「安宅」、「高舘」、「夜討曽我」など8曲について、節回しを再現してきた。

同会の演じる幸若舞は毎年1月20日に大江天満神社の幸若舞堂にて奉納演舞される慣しとなっており、1976年(昭和51年)に重要無形民俗文化財に指定されている。

「敦盛」の節回しについても、第27代幸若舞家元の江崎恒隆、第30代家元兼幸若舞保存会会長の松尾正巳らの手によって、2005年(平成17年)より大量の歴史資料検証による再現作業が重ねられ2007年(平成19年)7月に復元が完了し、2008年(平成20年)1月20日の大江天満神社奉納演舞の際、松尾が主役である太夫(たゆう)、江崎が鼓方(つづみがた)を務めて復元披露され、同曲の節回しに関して全国から問合せが集まるようになった。

なお敦盛の動画は、地元のアマチュアカメラマンによって撮られた2009年(平成21年)の舞が、約2分15秒に編集されてYouTubeに紹介されている。
さらに2009年2月に幸若舞保存会による公演が京都で行われ、安宅とともに上演された。その時の記録がCD、およびDVDとして、京都市立芸術大学の日本伝統音楽研究センターより刊行されている。





転載終了



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