電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「結晶性知能」とは何か?

2005-01-12 09:54:07 | 自然・風物・科学
 脳は20歳くらいをピークにあとは次第に衰えていくというのがこれまでの考えだった。しかし、高齢になればなるほど発達する知能がある。「豊富な経験や知識にもとづいた判断力とか思考力、あるいは統率力といった高度な知能」である。これを、「結晶性知能」という。英語でCrystalized Intelligenceという。知能指数IQを含めて、ほとんどの知的能力(これらをまとめて「流動性知能」という)が20歳ごろピークにして年齢とともに衰えるのに、なぜこの「結晶性知能」は発達するのだろうか? 澤口俊之著『あぶない脳』(ちくま新書/2004.10.10発行)が面白い説明をしていた。
 澤口さんは、この本の中では、脳の説明に、「至近要因」という言葉と「究極要因」という言葉を使う。「至近要因」とは、構造とかメカニズムということだ。また、「究極要因」とは、進化的な意味ということだ。「結晶性知能」が高齢になればなるほど伸びる「至近要因」について、澤口さんは次のように説明する。

 脳のニューロン(神経細胞)は年齢とともに減少する。だから、高齢になるほど伸びる知能があるというのは確かに不思議なことだ。しかし、「脳力」はニューロンの数だけで決まるのではない。このニューロンやそれらがつくる神経回路の発達の程度が重要である。数が少なくても豊かな神経回路はつくれる。数だけが問題だとすれば、赤ん坊が最も高い脳力をもつことになってしまう(新生児の脳には成人の六倍ものニューロンがある)。高齢になるほど神経回路が豊かになることによって、優れた脳力をもちうるし、それは十分にありうることなのだ。(『あぶない脳』p209・210)

 実際、最近の研究で、大脳皮質が高齢になってから大きくなることがあることが分かったそうだ。人間の認知能力の中枢である「前頭連合野」も大きくなることがあるそうだ。適切な訓練をすれば、神経回路が複雑化するのだという。それだけでなく、海馬では、成人でもニューロンは増加するという。海馬は、知識や経験を記憶する役割を担っている。こうしたことから、「齢を重ねるうちに増える知識と経験(記憶)を海馬を介してきちんと脳内に蓄積し、そして、前頭連合野によってそれらを活用する努力を怠らなければ、結晶性知能用の神経回路は高齢になっても豊かに発達」するという。

 ちなみに、そうした脳力を伸ばす上で重要なことは、高齢になっても勉学や趣味に励むとか、社会関係(性関係を含む)を豊かにし続けるといった、「さもありなん」といった努力・営為だけではない。こうしたことが必要なことは言を俟たないが、実は、もっと簡単な方法がある。「エアロビクス」、つまり、有酸素運動である。ウォーキングなどに代表される「適度な有酸素運動」が老いた脳の認知能力(とくに前頭連合野の脳力!)を高めることが実証され、例のNature誌に掲載された。(同上・p211)

 このことについては、心療内科医の姫野友美医師が夕刊フジブログの「年をとっても脳細胞は増える 」で「年をとっても脳細胞を増やす基本五カ条!」ということを語っているぐらいだから、おそらく本当だろうと私も思う。ところで、それでは、自分の優秀な遺伝子を残し増やすことが生物の基本的な目的だと考えた場合、高齢になればなるほど伸びる知能があるのなぜだろうかというのが次の問題だ。
 
 だから、自分の子どもが生殖年齢に達するまではともあれ、その後は体力にしろ脳力にしろ、衰えてしかるべきだ。具体的には四〇歳くらいからは衰えて一向にかまわない。私見では、「死」もこの文脈にある。そこそこの年齢になったら死んだ方が、結局は自分の遺伝子を残す確率が高まるからだ(いつまでも生きていたら資源を無用に使ったりして、子どもたちに迷惑がかかりかねないではないか)。(同上・p212)
 
 しかし、それなのに、何故、「結晶性知能」はあるのだろうか。「結晶性知能」とは、「家族や地域社会、企業、国などの組織の維持や発展にとってなくてはならなぬ高度な知能」であり、その知能を伸ばせる親がいれば、その子どもたちに有利であるというのがどうもその目的であるらしいという。
 
 知能・能力に関しても生活史に応じて発達・衰退する。幼少期に伸びる(伸ばすべき)知能もあれば、思春期に伸びる脳力もある。さらに言えば、その時々に「生きる目的」がある。たとえば思春期には性関係に関する脳力を伸ばし、来るべき生殖行動と子育てに備えるという目的をもつのだ。もちろん、基本的かつ究極的な目的は「自分の遺伝子を残す」ということだが、生活史のその時々において、そのいわば「サブ目的」のようなものが自ずとある。(同上・p214)
 
 「結晶性知能」が存在することの目的もいわば「サブ目的」の一つであり、高齢者の存在の目的なのだと澤口さんは考える。私も、思わず納得してしまった。
 
 結晶性知能をできる限り伸ばして「社会」に貢献すること──それが四〇歳(具体的な年齢はともあれ)以降になってするべきことであり、その時期で生きる「目的」なのだ。
 「老いる脳」というのは、なんとなく「あぶない脳」のように思われがちだ。しかし、老いてゆく脳の中にこそ、人類の長い歴史、そして、その歴史によって生み出された「生きる目的」が隠されているのである。(同上・p215)
 
 澤口さんは、私より10歳ほど若い研究者だ。今ちょうど、40代の半ばにさしかかったところだ。ある意味では、自分の生きる目的の宣言なのかもしれない。もちろん高齢というのが何歳頃までのことなのかは不明だが、元気である限り、生きる目的があるのはいいことだ。私は、幸か不幸かまだ、子育て途上だし、老いるのは早すぎるのだが、脳の発達段階では、「結晶性知能」を伸ばすべく努力すべき年齢になっている。頑張ってみよう!
 
 最近、人生が長くなり、「人生8掛けの時代(今の80歳は、昔の人の64歳という意味)」と言われるようになったが、それは幼稚になったというだけではなく、豊かになり医療が進歩した結果なのだと思うが、それ故にこそ、こうした「結晶性知能」を磨く必要があると思う。そうでない人が、いわば澤口さんが言うところの「あぶない脳」のままで、リーダーになってもらっては、人類にとって大変迷惑になるだけだ。そんなような状態にだんだんなりつつあるような気がするのは、私だけだろうか。
コメント (2)
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