場所にまつわる記憶と省察

時間と空間のはざまに浮き沈みする記憶をたどる旅

彰義隊無残      ブログ移動し、リニューアルしました。

2017-06-17 21:48:13 | 記憶、歴史
  三ノ輪の円通寺には彰義隊にちなんだ史跡がある。彰義隊士二百六十六名の遺骸を埋葬したとされる墳墓がそれだ。
 その関係か、ここには幕末期、上野の山の出入り門のひとつであった木戸が移築されている。それは通称、黒門と呼ばれる黒塗りの門で、時は経ているものの、今も堂々とした風格で立ちつづけている。
 上野戦争の際、この門を盾にして、彰義隊と官軍双方が戦闘を交えたといういわくのある門である。近寄ってよく見ると、門柱のあちこちに今も弾痕が生々しく残っているのが分かる。
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 上野の山の西郷さんの銅像が立つ裏手に、彰義隊士を祀る大きな慰霊碑がある。その慰霊碑は明治八年、幕臣山岡鉄舟が有志と共に建てたもので、碑の正面には「戦死之墓」の力強い文字が刻まれている。
 中学生の頃、初めてそこを訪れて、幕末のある時期、上野の山で戦争があり、沢山の人が命を失ったことを知った。辺りはいつ訪れても、どこか暗鬱な気分の漂う場所であった。 
 碑のある場所には、上野戦争の戦闘場面を描いた一枚のリアルな絵と錦絵が展示されていたことを覚えている。その絵に描かれていた戦闘場面は、子供の目にもすさまじい迫力をもって迫ってくる内容であった。
 長い時の経過を伝えるように、画紙は皺より、古色蒼然としていた。時代がかった絵の雰囲気からして、私には、その絵が、上野戦争の戦火をくぐり抜けて保存されてきた、あたかも一葉の写真のように思えたのである。それほどに写実的に描かれていたのだ。 
 黒門を前にして、鉢金をつけた髷も乱れる、稽古着に袴姿の少壮の武士が、正眼の構えで立つ一方で、長い髪を垂らした、黒ラシャのダンブクロに身をまとった異様な風体をした、形相すさまじい男が三人、それぞれ大上段の構えで、これに対している。
 前者の武士は、彰義隊士であろう。そして、後者の男たちは、いわゆる官軍の兵士らしい。四人の男の周囲は、今や、敵味方入り乱れての白兵戦のさなかである。
 かたわらには、斬られて倒れている者がいる。あたりには硝煙が立ち込め、今にも人の叫喚や苦悶の声が聞こえてきそうでさえある。絵の様子からして雨も降っているようだ。  
 絵の中に描かれている黒門のレプリカを、のちに上野の山で実際目にしたことがあった。門に近づくと、そこには弾痕が刻まれているではないか。その時、あの絵の戦闘場面が彷彿してきたことは言うまでもない。
 柱のひとつに耳を当てれば、銃声やら刀の鍔ぜり合いが聞こえてきそうであった。
 その時、刀折れ、傷つき、黒門の柱を支えにしてかろうじて立ち上がろうとする武士の姿を見たような気がした。
 すでに遠い過去になった出来事の痕跡を、改めて目にした時にわき出ずる感慨。人はその時、さまざまな想像の翼を広げて、歴史の追体験を味わうことができるのである。   
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 上野戦争の名で呼ばれたその戦いは、日本が江戸から明治という時代に大変貌とげるはざまに起きた、ひとつの小さな戦争であった。が、当時の江戸市民にとっては、大変な関心と驚愕をもって捉えられた戦いであった。
 それは、徳川三百年という長い平和な時代にあって、江戸が戦場となった唯一の戦いであったからである。
 それだけでなく、江戸市民にとって、上野の戦争を戦った彰義隊のは、江戸を、薩長の田舎侍から守ってくれる、頼りがいのある武士の集団として、ある種の共感と信頼をもって受け止められていたためである。
 神田上水の水を産湯に浴びて、乳母日傘(おんばひがさ)で人となった誇りは、武士も町民も隔たりなく、共通したものであった。
 慶応四年(一八六八)四月に入ると、徳川直参の旗本、御家人を中心とする旧幕臣、佐幕派の諸藩の浪士らは、徳川幕府の最後の抵抗集団として、東叡山寛永寺のある上野の山内に立て籠もった。聖域であるその地を根城にして、薩長の、今は官軍となった軍勢に一矢を報いるがために。
 そもそも彰義隊がそこに本拠を置いた表向きの理由は、寛永寺にある将軍家の宗廟を守ることと、その管領である輪王寺宮能久親王(後の北白川宮)の警護のためであった。
 輪王寺宮は、出自が宮家であり、朝廷に血縁のある宮を擁して立ち上がれば、官軍も攻撃しにくかろうという読みである。また、上野台に官軍の目を集め、そのうちに援軍を待つ作戦でもあった。
 さらに、寛永寺のある上野の山には、沢山の塔頭が散在していて、深い森に包まれた地は事を構えるには絶好であるという判断があったと思える。
 旗本天野八郎を中心に、その名も、彰義隊と命名された千名にものぼる武士団。彼らは十五隊に分けられ、それぞれの配置についた。そして、本営を今の動物園がある寒松寺に置いた。
 が、その出で立ちはと言えば、意気は盛んであったが、どことなく時代錯誤の風が、その身繕いに感じられた。
 小具足に身を固め、陣羽織、義経袴姿で、長い槍を持って馳せ参じた者さえいた。彰義隊に銃火器がなかったわけではない。先込めの砲ではあったが、大砲は確かにあった。
 だが、戦国時代以来、本格的戦闘というものを経験することなく過ごしてきた武士階級にとって、実戦への備えは、ほとんどなきに等しいものだった。
 とはいえ、江戸市民は、戦争が始まれば、彰義隊が華々しく戦ってくれると本気で思っていた。
 いよいよ戦いが始まるという噂が広がると、武士はもとより町人までが、大八車を借りだし、郊外へ避難を始めた。江戸の町は上を下への大騒ぎとなった。
 そうしたなか、五月十四日、いよいよ下谷一帯に避難命令が出された。
 そして、翌十五日の六ツ半、今の七時頃を期して、ついに戦闘の火ぶたが切って落とされたのである。
 その日は朝から沛然たる雨が降りつけていたという。彰義隊のほとんどの者は刀剣を携えての戦いであった。ところが、実際は、火器の戦いであった。 
 大村益次郎を総指揮者とする二万の官軍は、まず遠方からアームストロング砲を放っての攻撃を開始。さらに、接近戦では、銃による攻撃であった。白兵戦ができたのは、官軍側の大砲や銃による攻撃でほとんど戦闘能力を失ったあとのことであった。
 刀剣を使っての戦闘を想定していた彰義隊は、なすすべもなく、戦い半ばにして、あえなく壊滅していったのである。戦いは半日と続かなかった。単なる士気の昂揚だけでは戦えない近代戦の実態を知らされた戦争であった。
 この戦いは、そもそも勝ち負けが初めから明白な戦闘であった。彰義隊は、江戸を薩長から守ろうとするために戦いに立ち上がったわけではなかった。 
 戦いの意義は、彰義隊の名が語っているように、それは徳川直参の武士の大義を示すための決起であったのである。
 従って、士気の高さのわりに壊滅も早かった。義のために立ち上がったということが示せれば、それで所期の目的は達成されたと考えたのである。建前で行動する封建武士の最後の姿であった。
 本当のところは、西国の田舎侍に屈服するのを潔しとしない、江戸っ子武士の矜持が駆り立てた戦いだったのである。
 当時すでに、政治の大勢は決していたのである。慶応四年はそういう年であった。
 彰義隊が決起した時の状況を言えば、西郷吉之助と勝海舟との会談で、江戸攻撃が中止され、その結果、有栖川宮に率いられた東征軍がすでに江戸に無血入城していたのである。これに先立ち、前将軍、徳川慶喜はすでに江戸を退き、水戸に蟄居していた。
 上野の戦争はあっけなく終わり、翌々月の七月十七日、江戸は東京と改称、明治となった。
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 当時、上野の山には、徳川家の菩提寺であった寛永寺寺を中心に末寺が三十六坊あり、ふだんは、用のない人は、そこに出入りできなかった。
 三十万坪の広さをもつ山を取り囲むように、東西南北八カ所に門が設けられ、出入りを取り締まっていた。
 黒門もそのひとつで、それは上野広小路口にあった。いわば、そこが上野山内への正面口であり、それを潜った広い通りを黒門通りと呼んだ。また、黒門から南には御成道が通じていた。
 御成道は寛永寺に参拝する将軍が通る道で、黒門に並んで将軍専用の御成門が立っていた。 そして、黒門の脇には番所が置かれていて、あたりは鬱蒼たる樹木が覆っていた。
 実は、黒門にはもうひとつ、新黒門というのが今の山下口の方にあった。そこから西郷さんの立つ山王台に通じていた。もちろん、当時は西郷さんの銅像はなかったが。 
 開戦時、黒門周辺には、彰義隊によって古畳や土嚢が幾重にも積み上げられていた。そこが激突地点になるということが、あらかじめ予測されていたためである。
上野戦争を描いた錦絵を見ると、この黒門を境にして、激戦が繰り広げられる様子が詳細に描かれている。
 彰義隊士の服装が前近代を表しているとすれば、官軍兵士の服装は近代そのものである。刀と銃の対比にみる武器の相違も鮮明に描かれている。
 上野戦争のおり、官軍は今の松坂屋前辺りに砲列を並べ、その主力は広小路方面から攻めてきた。そして、黒門の先にあった寛永寺の仁王門跡にあたる御橋との間は白兵戦の戦場になった。 
 ちなみに、御橋と言うのは不忍池から流れ出る忍川に架かる橋で、将軍専用の橋であった。
 黒門に今も残る弾痕は、広小路方向から撃った銃弾の跡なのであろう。事情を知らない人が見たら、それはあたかも、虫が食った跡のように見える。 
 例の写真のような絵は、円通寺にある黒門の位置関係から判断して、ちょうど、黒門の内側での戦闘を描いているように思える。
 となれば、彰義隊の防備が破られて、今や、黒門の内側での肉弾戦という状況が描かれていることになる。
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 戦い敗れて敗走した彰義隊士は、その後どうしたのだろうか。
 彼らは黒門口の戦いに敗れると、上野の山の奥に入りこみ、それから台地下の日暮里、三河島方面に逃げのびた。そこには官軍の姿はなかった。
 官軍はあらかじめ逃げ口をつくっておいたのである。そこを抜ければ、最終的には川越や水戸へ出られるという配慮があった。
 この戦いで戦死した彰義隊士の数は、実際のところよくつかめていない。三百人近い人が死んだともいう。
 戦いの後、上野山内のあちこちには骸が放置されたままになっていた。後日、それらはまとめて、現在の彰義隊慰霊碑の立つ地で火葬に付され、その一部が円通寺に埋葬されたのである。
 それについては、伝聞があり、神田旅籠町で飾職問屋を営んでいた三河屋幸三郎という商人が、義侠心を働かせて、円通寺の住職に埋葬を依頼したのだ、という。その際、記念碑も建てられたというのである。現在見る墓がそれであろう。さらに、明治四十年になってから黒門が現在地に移されたのである。
 ところで彰義隊士の墓は、このほかに蔵前の西福寺(蔵前四丁目一六-一六)という寺にもある。ここにある墓には、彰義隊士百三十二人の死骸が埋葬されていると言われる。
 伝聞によれば、芝の増上寺に祀ろうとしたところ断られたため、増上寺の末寺であるこの寺に密葬したという。大きな墓碑の表面に「南無阿弥陀仏」、台石に「供養塔」と刻まれている。西福寺が増上寺の末寺であるところをみると、徳川家にゆかりのある寺なのだろう。その証拠にここには家康の側室だった於竹の方の墓がある。


ニコライ堂の鐘

2017-06-17 19:43:40 | 記憶、歴史
 お茶の水界隈にあるランドマークといえば、まず、駿河台の台地上にあるニコライ堂をあげることができよう。駿河台下からJRお茶の水駅へ向かうゆったりした坂道を上って行くと、左手に緑色がかったドームを目にする。周囲の近代的な建物の間からひっそりと姿を覗かせている円屋根。そのさまは、東京の猥雑な町並みに絶妙に溶けあって気品ある美しさをたたえている。
 ニコライ堂の正式の名は、「日本ハリスト正正教会教団東京復活大聖堂」という。ニコライ堂の名で呼ばれているのは、この寺院の初代主教がニコライというミンスク生まれのロシア人であったためである。
 建物の建立は明治24(1891)年。設計はロシア人美術家シチュルポフ、英国人コンドルがそれを修正し完成させたものだ。
 コンドルはロンドンで設計を学び、明治10年来日、その後東京に建築事務所を開設、日本の洋風建築に多大な影響を与えた人物だ。彼の作品にはこのほかにも、今は痕跡すらないが鹿鳴館がある。
 ニコライ堂に近づいて見ると分かるが、建物は煉瓦造りで、シンボルの中央ドームは高さ38m、正面はギリシア十字形をしたビザンチン様式からなる。この正堂のわきに尖頭状の鐘楼がそえられている。
 狭い敷地にこぢんまりと立つ建物ではあるが、じつに存在感がある。
 聖堂内に足を踏み入れると、中央奥に聖壇がしつらえてあるのが目にとまる。聖壇は真ん中に宝座、その左右に祭壇が配置されていて、異国臭と厳粛さに満ちあふれている。
 聖壇の左右には聖画(イコン)が分厚い煉瓦積みの壁に掲げられている。そして、鉄のサッシがはめ込まれた窓からは外の明かりが流れこみ、聖堂内に光と影の絶妙な空間をつくりだしている。
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 僧侶の頭を彷彿とさせる円屋根をもつニコライ堂を眺めていると、思いは、はるか北の国に馳せる。
 それはロシアの大地である。若い頃、仕事で冬のモスクワを訪れたことがあった。真っ白な銀世界を背景にして見た、幾つかのロシア正教会の異国情緒あふれるたたずまいが、今でも脳裏に焼きついている。
 それはまた、感銘深く心に刻まれたロシア映画の幾つかの場面とも結びついて、より一層、神秘的な建造物として私の記憶にこびりついている。
 銀世界のなかに佇む聖堂のイメージとしては、もうひとつ、函館のハリストス正教会を忘れることができない。
 あれはちょうど数年前の雪の降りしきる二月のことだった。雪の世界にひたりたいという思いに駆られて、わざわざ函館を訪れたことがあった。 
幾つもの坂を登ったり、下ったりしながら、町の中を地図も持たずに歩き回った。それはまさしく、あてもないさ迷いであった。 
 それだけに、予期せぬところで、ハリストス正教会に出会った時は、雪の中に楚々と立つ、気品あふれる貴夫人にでも出会った思いがして、一瞬はっとさせられた。 
 深く積もった雪を踏みしめながら、建物の全体が視野におさめられる場所を探し、そこに立って、まじまじと眺め見たものである。     
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 幕末の一時期、函館のハリストス正教会の建つ地にロシアの領事館が置かれていたことがある。
そして、その領事館付きの伝道師として赴任したのがニコライ大主教であった。万延2(1861)年のことである。
 当時、日本は開国か攘夷かで、国論が二分していた。
 幕府は、開国やむなしの考えで、安政元年(1854)日米和親条約を結び、次いで、ロシアとも日露和親条約を締結。それによって函館、下田、長崎の開港を認めたのである。函館にロシアの領事館が置かれたのも、そうした変動の時代であった。
 その後、ニコライは日本全国を北から伝道を開始し、東京のお茶の水に拠点を築いた。それがニコライ堂であった。
 ちなみに、函館のロシア領事館跡にハリストス正教会が建てられたのは大正5(1916)年。お茶の水のニコライ堂が造られてから25年後のことである。時あたかも、ロシア革命の前の年であった。