名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

「戦場に落ちる陽」 (一)

2013年05月19日 | 日記

 昭和十五年。二十代の菅原健大尉は、福島県会津55聯隊に所属する気鋭の若者である。大連で徴兵されたが、入隊前の人生を大陸で過ごした日本人孤児であった。中国古武道に優れ、満州武道大会連続優勝の記録が遺されている。陸軍の所属部隊三千三百人の大半は、ニューギニア戦線に派兵されその九割が密林で戦死したが、菅原青年は山西省の沁県(しんけん)に残り、若くして大隊副官に抜擢された。第一中隊は沁県の西二十粁(キロ)慢水村、標高一千五百米の山裾(やますそ)に位置していた。野には花が咲き乱れ、鳥の声がのどかに聴こえる。この山脈を西に越えると沁河の渓谷に入り、西進三十粁の沁源に通じていた。第二中隊の役目は、この沁源の守備である。五年の間それ程激しい砲撃も無く、時折りゲリラ戦となる戦況に慣れていった。菅原大尉は、昭和二十年八月十五日の終戦を沁県で迎えた。終戦宣言が前線に行き渡る。兵士達の胸中は様々であったが、心のどこかに安堵感が生じ、張り詰めた気持ちに穴が空いた様な虚脱感があった。

 七日後の八月二十二日未明午前四時、突如中共軍の総攻撃が開始された。帰順勧告の無い奇襲である。中共軍の兵力は、七ケ団(七ケ聯隊)推定約八千人。日本軍は、野戦病院入院患者も含めて五百名足らず。多勢に無勢で敵い様もない。血で血を洗う様な局地戦としては過去五年半の中で最大熾烈な激戦となり、彼我共に多数の死傷者を生んだ。

 沁県城の西には、天津から勃海湾に注ぐ清しょう河が滔々と流れている。東には太原に通ずる鉄路が敷設され、その向うに自然に恵まれた穏やかな山脈が続いていた。沁県の四辺は長い城壁に囲まれている。日本軍は、その中心にいた。夜明けと共に視界が明けて来る。初め菅原は、何かの見間違いだという錯覚に捉われた。大きな自然の背景を抜けて森が動いている。鋭敏になった瞼にその正体が映し出される。敵軍が、周辺の山々に蟻の群がるごとく大挙していた。戦場に於いてこの様な大軍を見る事は、初めての経験であった。大陸育ちの菅原大尉は、同胞中国人を撃つ事をためらった。だが、従軍する女達や士官の子供達まで虐殺されるという危機感から、そんな感情は消えていた。そして、砲身も裂けよとばかり聯隊砲を撃ちまくる。三日三晩、悪夢の様な戦闘が続いた。動物的感覚が人間的思考能力に取って変わった。選択枝のない闘いに没頭しながら、勝ち目は無いという確信だけ脳裡に去来し続ける。が、恐れは無かった。神聖な彼岸を垣間見ながら一睡もせず砲撃を続けたが、確然とした意識も時間の感覚も砲煙の中に消えてゆく。折りから、中国山西軍との協定で移動中の旅団主力が救援に駆け付ける。その後、中共軍は夥(おびただ)しい遺棄屍体を残して後退した。その報告を聞きながら、そんな筈はないと油断を戒める。「日本人は中国人の強かさを知らない」と思うと、ふっと気が遠くなり菅原は倒れた。闘い続ける意識だけが、体を抜け出して外界に接していた。

 日本軍の沁県での死者は、十二名だった。が、約二十粁の遠隔地にある一拠点を失った。そこでは、二十二名の兵全員が無残な戦死を遂げた。城壁の外には、数え切れない屍体が山と重なっている。夏の盛りゆえ、屍体は急速に腐敗する。一週間も経つと、その殆どが骨と汚れた軍服だけになった。辺り一面に屍臭が漂う。その数の余りの多さに、戦場掃除は遅々として進まない。大隊は十粁北方に移動を命ぜられた為、清掃中止の止むなきに至る。地区を限って交通を遮断し、旅団司令部に処置を委ねた。

 終戦告知後の攻撃ゆえに、冷酷無慈悲な行為だという非難が日本軍内部に生じた。条約違反の攻撃は、戦線各地で起きている。が、菅原大尉に取って戦時の過失という表現自体が絵空事としか思えなかった。良識ある兵士には、約束事の上に立った殺し合いの善悪是非自体を疑う本心がある。どこか前提が間違っている。敵も味方もない。人命を奪い合う行為の空しさは、闘いに参加した兵士が一番良く知っている。何ゆえに、かくも多くの犠牲者を出さねばならなかったのか。戦闘を不意に仕掛けた軍指揮者に、何等かの過失があるのだろうか。命令系統の障害から遅延が生じた可能性もある。いずれにしても、正しい戦争などあった試しがない。どの戦争に於いても、相争そう双方の軍部は国防、平和、人道を標榜したではないか。約束だと。条約がなんだ。それに違反したからと云って、一体誰が裁きを下すのだ。人の道から外れた虐殺行為は永遠に裁かれない。行為者を罰したからと云って、殺された者達の魂が浄化される訳でもない。殺戮の遠い因果を遡れば、遥か彼方の時空を辿らねばならぬ。我々には、せめてその被害を少なくする程度の抵抗しか残されていない。

 だが、その諦めに似た悟りの様な境地でさえ未だ早計と知らされた。予想もしなかったもう一つの闘いが始まったのである。

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